第一章 第一話
ING 第一章 第一話
少年は夢を見た。雨がパラパラと降り続けるなか、母と一緒に古びたアパートに出向いて、とある部屋を訪ねた。部屋からはスポーツ刈りで、少し強面の男が出てきた。
母は一生懸命謝り続けた。涙を流しながら、何度も何度も謝り続けた。男は怒ることもしなければ、泣くこともなかった。ただその謝罪を一通り聞いた後、静かにドアを閉めた。男は終始、無気力だった。
少年は事態をうまく飲み込めず、母に「どうしたの?」と聞いた。母は唇を強く噛みしめながら、少年の顔を冷たくねめつけた。
× × × × ×
「玲央……おら、起きな。」
玲央と呼ばれた少年は目を覚ました。四時間目、数学の授業の途中で寝てしまっていたらしい。
「駿輝……」
「ったく、得意な科目は勉強しなくてもいいってか? 大した自信だな。」
「勉強しなくていい訳じゃないけど。……暑いな。」
教室には陽の光が燦々《さんさん》と降り注ぎ、カーテンはタッセルを巻かれフックに留められていたハズだが、誰かがカーテンを閉めたらしい。春を過ぎたので暑くなってしまうのは仕方がない。
玲央も制服のシャツがほんのりと汗ばんでいた。生徒の保護者達も少々高い施設利用料も払っているのに、学校の教師達は「まだ大丈夫だろ。」と、エアコンを使わせてはくれないのだ。
「まあ、とりあえず購買に行こうぜ。俺の親、今日弁当作り損ねたんだよ。」
「いつも作ってくれるだけありがたいさ。」
駿輝と呼ばれた少年は地雷を踏んだ気がして、唐突に話題を変えた。
「今日はコロッケパンがあるからな。あれについてくるサルサソースがうめぇんだ。」
「ホントにコロッケパン好きだね。」
「コロッケパンは250円だが、俺は500円払ってお釣りなし。という条件でも買うな。ここに来るパンの中でも傑作だよ。」
二人はコロッケパンから始まり、今日はなんのパンを買うか、そしてお互いに何を買うかを当て合っていた。
玲央は全体的に細身で色白。顔は程よく整っており、目は大きくパチリと開いて、サラサラと柔らかい黒髪は、長過ぎず短過ぎない髪型に落ち着いている。
駿輝はイケメンという言葉がピッタリハマるほどの美少年で、サッカー部で鍛えられているからか、体つきも良く、センター分けの髪型を毎日きめてきている。
二人は階段をゆっくりと降ってゆく。一階にある購買は並ぶ人数は多けれど、相当な量のパンを持ち込んでいるのか、昼休みの前半で尽きることは無い。今のペースで着いても特に問題はない。
もうすぐ一階に着きそうなタイミングで、駿輝の部活の後輩二人が、階段の踊り場で駿輝に話しかけてきた。
「「田頭先輩、こんちゃーす!!」」
「おう、お前らもパン買ったんか。」
後輩達は「そうなんですよ……」と、話しを続けたい様子だったが、玲央を見て自分たちだけで話し続けてもいいのか、と気まずくなった。
「……とりあえず、俺ら山せんのとこ行かなきゃいけないんで! じゃ!」
山せんとは、サッカー部の顧問の愛称である。後輩達は階段を登って、二階にある職員室の前まで来ると、駿輝の隣にいた玲央の事が気になった。
「あの人誰だっけ? いつも田頭先輩と一緒にいるけど。」
「ああ、霧島玲央だろ。なんか昔、人死なせたことあんだって。」
「は? 殺したってこと?」
「そうじゃなくて……俺も詳しくは知らねぇけど、あの人が車に轢かれそうになった時に、それを見てた人が庇って死んだって。俺が聞いた話しじゃあな。」
後輩達は職員室の前で立ち止まる。
「それ誰から聞いたん?」
「田頭先輩と同じ学年の、大島先輩。あの人さ、人の嫌な思い出とかをよーく覚えてんだよな。なんか気色悪りぃよな。」
「それな。田頭先輩と大違い。でも霧島って人も大概だよな。もっと気をつけろってな。」
後輩達は職員室のドアをノックし、失礼しますと言って、中に入って行った。
× × × × ×
パンを一通り買った玲央と駿輝は教室に戻り、パンを食べていた。駿輝はコロッケパンを二つも買って、食という喜びを噛みしめながら食べている。玲央はコーンマヨネーズパンを静かに食べていた。
少しの沈黙が流れた後に、駿輝はふと気になって、玲央に質問した。
「なあ、玲央はもう進路決めたんか? 俺らもう三年生になったけど。」
「進路? まだだけど。でも——」
玲央の目が冷たくなったのを、駿輝は見逃さなかった。それは駿輝や、熱のこもったカーテンや、ましてや彼らが手にしているコロッケパンや、コーンマヨネーズパンに向けられたものではない。虚無に漂う、心の中の自分に向けられているものだった。
「人の役に立つ仕事がしたいんだ。」
その言葉はカーテンに深く照りつける陽射しよりも鋭いものだった。決して自分の身を惜しまない、犠牲の心。覚悟や信念から遠く離れた、自分だけの『犠牲の世界』に、彼は浅く、しかしズブズブと沈んでいっているのだ。
「まだ罪の意識があるのか?」
『犠牲の世界』から、駿輝は玲央を引きずり出そうとする。玲央の顔は沈んでゆき、耳には懺悔の感情が流れ込んでいき、外耳道を通って、鼓膜に厚く張り付いてゆく。
「溺れたままじゃなきゃいけないんだ。」
駿輝は玲央を引き上げられなかった。
放課後、特にどこかへ用事もなかったので、まっすぐ家路についた。
「……ただいま。」
家のドアを開け、玄関で独りごちる。どうせ大きな声で帰宅の挨拶を唱えても、姉以外は反応しない。玲央は姉が帰ってきていることに気づいていない。
玄関から廊下を渡り、リビングへと歩を進めると、テーブルにタブレット端末を開いて、映画を眺めている母がいた。テーブルの上には他にビール缶が2本、空けられていた。
「……?」
一瞬誰が入ってきたのかわからずに、母は玲央の顔を睨む。夢の中でもそうだったが、漫画家・藤田潤悟を死なせたあの日から、母はしょっちゅう玲央を睨むようになり、重要なこと以外は玲央のことを無視するようになった。
ひどい時は暴言を吐いたりもするようになり、そうゆう時は決まって酒とコンビを組んで、言葉の暴力で玲央を痛めつける。
「ああ、あんたか。」
「ただいま……」
「……」
そういえば、進路のことを話さなくてはならなかった。こんな母だが、相談にはのってくれるかもしれないと、淡い期待を込めて話しかけてみた。
「母さん、進路のことだけど——」
「あ、玲央おかえり。」
リビングのドアの真正面にある階段から、玲央の姉である琴乃が降りてきた。玲央が姉の存在に気づく前に、母は突然、理性の糸が切れた。
「勝手にしなよ! どーせ大した仕事に就いたりしないんだから。適当な金で、適当な学校行けばいい!」
間髪入れずに、顔を真っ赤にしながら琴乃が反論をぶつける。
「そんな言い方あんまりだよ!! 今のお母さん最低だよ!!」
今度は琴乃と母のケンカが始まってしまった。母がしっかりしていればと思っても、この呪いは、自分が生み出したものなんだと、玲央は諦めていた。
口喧嘩は夕日が沈む時まで続き、姉は目を腫らして玲央の頭を撫でるだけだった。
「玲央は立派なんだから……ッ」
人を死なせ、自分が中心で起きた喧嘩を制止しようともしなかった自分は立派なのか? 自分の理想や『らしさ』がますますわからなくなった、そんな夜になった。