フィクションなりの歴史との接点
『時神と暦人』の歴史背景というのは、平安末期から江戸期の伊勢御師の活動や成立背景を現代社会に適応させて世界観を描き、SFの要素を被せている。それが作品全体のベースである。
そして創作世界には、荘園、すなわち旧御厨地域を舞台にして、また古代の地方律令制末期の生活習慣や制度が脈々と現代まで流れ、それを秘密裏にしながら隠密の社会が現代まで人知れず続くという基本設定がある。
用語の意味はいずれ一覧で出すのだが、ここで必要な用語はまず御厨だろう。「みくりや」と読ますのだが、これは皇室、伊勢神宮、両加茂神社などの荘園のみに使う言葉で、もともとは台所や食料庫を表す言葉だったようだ。それが転じて食料を税として収める土地にまで転用した用語に変化している。
そのため必ずと言える程、御厨には伊勢神宮の御料地という側面があり、伊勢神宮と同じ祭神、即ち天照大神を祀る神明社がその地域の中心地に建立されている。
その歴史条件を本作では頂いて、その中心となる神明社にタイムゲートが古より伝わり、各地の時空世界の移動拠点としての役割を持たせている。
荘園すなわち御厨に関する歴史事項としては、日本史で学ぶことの多い、平安以前の律令時代、七二三年の三世一身法や七四三年の墾田永年私財法からも推測がつくように、八世紀前後に大きく発展していく。律令社会と私有財産制度の萌芽的なバランスの面白い時代だ。畿内奈良周辺での中央集権を維持しながら、土地という財を介して私有財産制度の優位性が強調された意義のある、封建制度の萌芽期とも言うべき興味ある時代である。まあ平安末期や鎌倉期には「本領安堵」や「土地を媒介とした主従関係」という歴史の教科書で学ぶことの多い封建制度に移る前の荘園の姿である。
さて堅いお話はこの辺で終わりにして物語本編の解説、お話に移ろう。
その御厨の中心神社は、いまもその旧御厨に存在していることが多い。例えば東京浜松町付近にあった飯倉御厨には、いまもだらだら祭りで有名な芝大神宮(芝神明)があるし、夏見御厨のあった船橋市には意富比神社(船橋大神宮)が存在している。
そういった各地の御厨の中心神明社をモデルにした架空の神明社に設定上「虹色の御簾」というタイムゲートを置いた。そうすれば通常はそんな歴史用語などは不十分なままでも、設定知識などは知らなくても本文の説明だけでタイムリープの物語として楽しめるからだ。そうでないといちいち注釈など入れていたら堅苦しい用語だらけの歴史物語になってしまい、基礎知識無くして手放しで楽しめない物語となる。
なので設定として突っ込んだ歴史現象を楽しみたい人にも、単に時空タイムリープの嗜好作品として読みたい人にも対応していまのこの形となった。そして歴史事象の表象である暦人や暦人御師の存在と、SF設定のアミュレットや時巫女、時の勘解由使、付喪神の存在がある。ここにSF物語の世界観形成を目指す歴史との接点とした。
御厨の次は御師についてだ。本編では暦人御師という役職が多数出てくる。
モデルとなったのは勿論伊勢御師である。前に触れたように御師はツアコンと伊勢信仰のアドバイザーのような神職である。だが拙作では御厨内にいる暦人を束ねるリーダーのような存在として、暦人たちに道案内や神社知識、時空世界の知識を教える役職にしている。当時の信仰者を現代の暦人に置き換えるとすると、それらのスキルや技術などを伝える役目が暦人御師というわけだ。それぞれの旧御厨にはおおよそ一人、一家系の暦人御師がいることになる。
さて、ここで本編ではあまり触れない、昔のお伊勢さんのお話と暦のお話。伊勢御師は暦とお札(神宮大麻・江戸の当時は「御祓大麻」と言った)を運んでくれる神職だった。本文中でも説明しているが、当時は長屋の住民や名主などのお得意さんのいる地方に出向き、皆で積立金をするなどのアドバイスをしたり、現地の宿の手配なども行ったという。自宅には暦の版木などもあり、当時のカレンダー兼九星気学の様な紙片を各家庭に配っては、伊勢神宮の神威を世間にひろめていた職業、神職である。
平安の頃には、暦は朝廷の役職機関で天体と一緒に観測、予想、研究がなされていたたため、尊い仕事でもあった。その末端の一部を担っていたのがその後の時代に登場する御師であった。数字が残っている十八世紀には約四五〇軒の御師邸が伊勢神宮の近くにあったという。そして制度としての原型は平安時代から存在していたそうだ。明治に廃止されるまで、何百年ものあいだ、人々をお伊勢参りに誘い、伊勢神宮の神威を授けた神職だったという。
もし現代でも、そんな心の支えとなる人々が、暦(時間)を武器に、時代を飛び回り、時空旅行の案内役になったとしたら、人々が優しさを失わない方向へと導けるなら嬉しいことだ。そんな互いをいたわり合える社会にすべく、縁の下の力持ちとして「暦人」たちが動いてくれる世界があったら、なんて嬉しい世界なのだろうというのが創作動機だ。少し変わった創作動機かも知れないが、トラディショナルな主題にはもってこいである。
ちなみに平安の頃、陰陽寮という朝廷の部署が存在する。その役職は、見習いの暦生に暦道学や漏刻学等を教えていたという。天体のルールが暦のルールになるのはしごく自然なことで、二十四時間(正確には二十三時間五十六分四・〇九秒)で天球の日周運動、大空が一回りをする、つまり自転の法則を十五度で一時間の移動という大もとの時間のルール、時計のルールに繋がっている。また同時に月齢の加味もあったろう。そこから算出したうるう月の設置や特別天体の観測をしていたと思われる。
その中で暦法の役人は外国の優れた暦が移入されると、日本に適する形に修正を加えて新しい暦法の達しを出していた。一番古い暦法は元嘉暦で持統朝の頃なのだそうだ。現在の暦法はグレゴリウス暦で明治六年に施行された。この中心役職が暦博士であった。ほかにも天文博士や漏刻博士などの管理官が置かれていた。まさに暦(時間)と天文学は背中合わせの学問だったことがうかがえる。ここでは簡単にしか触れないが、暦法の話はサードシーズンシリーズ統一主題でもあるので、読んでみて欲しい。
官僚機構のはしり、歴史上、実際には土地所有の裁判権や荘園領主のまとめ役などを行った、管理官である勘解由使なども、この物語では「時の勘解由使」がいる。「時の勘解由使」は人事権として、「暦人御師」の任命権を持っている。また「時の検非違使」という判官職や役人職を設けて、荘園の名残である御厨地域に残ったタイムホールの秩序維持。その目的は時間移動を厳しく取り締まる警備と時間移動のルールや法の遵守をさせるという番人の役目。物語の性質上、あまりそう言った場面を描くことは無いと思うのだが……。
そういうことなので、「時の検非違使」の方は、時間管理警護で時間法則の遵守を促し、その権力の行使を行う。また時の翁と時巫女を支配下としている。その末端実行職が暦人であり、彼らとの協力体制を維持している。「時の勘解由使」の方は人事権として、「暦人御師」の任命権を持っている。
この辺りは、セカンドシーズンの終わりに飯倉御師任命のシーンで登場させているのでお読みいただきたい。
やがて武士の台頭や朝廷の力の弱体化により、各地の荘園制度は徐々に領地という「本領安堵」の主従関係に変化していくことを本当の歴史では学ぶ。伊勢神宮の御厨も例外なく、徐々にその荘園制度の崩壊とともに歴史の表舞台から姿を消していく。
室町期までには守護大名にその領地や勢力範囲へと土地は置き換わり、神祇崇敬と威厳のみで支配権を維持できる社会ではなくなる。
そこで本作品の設定では、歴史背景に準じている。各地の暦人御師は各御厨に土着化して、その御厨、すなわち荘園の管理をしていた中心神社にあるタイムホール、「虹色の御簾」の管理と保存に役目を変えて、先祖代々守り始める。これがこの物語共通の基本設定だ。
隠密行動をしやすい、神官、農家、旅籠、鋳物鍛冶、学者、手習所経営などへと、仮の姿を探し、その表の身分を変えてしまうという設定になる。中には下賜されたその学問知識を使って、夏見家のように、以前の朝廷時代と同様に、卜占や時間管理を民間で扱う家系も登場する。それは小宅家も同様で、下賜されたガラス生成技術とアミュレット生成の妖術へと置き換わるものもある。
暦人たちが密かに身分を隠し、その隠密行動により現代、未来へと生き延びたあたりから、この物語のSFとしての超常空間や絶対生物との連携に繋がる。超常空間が「虹色の御簾」や「時の館」、「時守の里」であり、絶対生物が時巫女、時の翁、付喪神、時の検非違使などとなる。いわばこの物語の主なる世界観である。要は歴史現象とSFの狭間で構築した現代の日常ファンタジーとSF物語と言うことになる。
創作の面で、この作品はなるべく事件性のあるエピソード、悲惨な犠牲者や悪人、犯人を作らない世界観を持ち味にしている。そのためはらはらドキドキは少ないと思う。これは別に偽善的世界を装うためでは無い。このシリーズでは、単に物語創作の基本である「禁じ手」を用意、設定して、作者自ら悪役や悪者など、それらの類いを使わずに感動や愛情を表現できるような物語を紡ぐことを研鑽し、趣向を凝らしている。なので、カムフラージュとなるいけずや無粋な行為は、ほとんどが優しさと思いやりのための前振りである。それらは最後にはハッピーエンドとなるための伏線だったりする。
それがための「禁じ手」から出たプロット構築のためのプロセスの一部である。
そうはいっても、独りよがりは困るし、リアリティばかりでは、説明文が多くなる(エピソードゼロの反省点)。ここに挙げた歴史現象や事象も基本的には予備設定であり、本編を読むのに必要な知識ではない。ただリアリティとの接点がほしい人は、作者の世界観としてはこのような歴史との接点を持って物語を紡いでいるとお伝えしておく。ただし理屈よりも、とにかく皆さんに楽しんでもらえることが一番のモットーである。基礎知識を最小限に、登場人物の個性を多大に活かした楽しい物語が目標だ。まだまだ至らないが、そこを目指している拙い身の筆者である。あしからず。