半島夜話
浅野光介「日高関係の今後」第二章より抜粋
21世紀、有史以来最大級の少子化と国際社会の解体を乗り越え、世界はそれまでの姿から大きく変わった。
高麗連邦の成立は21世紀において重大な事件の一つである。
朝鮮戦争から百年近い分断を経て、半島は停滞状態にあった。
もはや既存の社会秩序を見通しは完全に絶たれてしまったかに見えた。
金氏政権の瓦解、不法入国者の流入によって日本と同じく、半島も凄まじいカオスに見舞われていた。日本のような破滅的内戦は避けられたが、それまで南北に分断されていた国が一つに統合したことも、同時代人からすれば相当な災厄であった。
高連といえば、『五十年計画』と呼ばれる社会・文化的格差の解消に半世紀以上をかけたことで知られている。
この構想を練ったのが当時南韓の大統領であった李東済であった。彼の長い目を見据えた計画は、当時から即時性のある政策を求める者たちから様々な批判にさらされていたが、彼は無理解を耐え忍んだ。
北韓の方からようやく非核化の合意が伝わった。しかし、東済は決して驕ることなく冷静に交渉を続けた。
その血のにじむ努力が実を結んだ結果、2054年に連邦制度の発足を迎えるのである。だが、もう分断以前の半島を知る者はほとんどいなかった。協議に参加した人々の顔色を見ても、祖国が統一に近づいた喜びよりもむしろ当惑の方が勝っていた。何より、その数ヶ月前に日本統治時代に生まれた女性が亡くなったばかりなのである。この半島が一つの国家であった時代を直接経験した人間はもう一人もいなかった。
ドイツとは違い、半島が即時統一を選ばなかったのは世紀の英断と言えるだろう。ドイツで性急な統一が格差の増大をもたらし、政治的な分断を残した経験を高連の政治家はよく知悉していた。そのため、まず移動の自由化から始まった。それまでは極めて少数の人間が旅行や外交交渉のために北韓を訪れるだけだった。
それまでに比べると往来が容易になった結果、膨大な人間が毎年両国を往来するようになった。この際、考古学や生物学上の発見においてもめざましい成果がもたらされ、学術研究は急速に進んだ。
北韓の民は南韓の移民の多さに驚き、南韓の民は北韓の古色蒼然とした雰囲気に懐かしさを感じ、移住する者も多かったという。
しかし、国境の管理がもっとも難題であった。休戦状態の傷跡は深く、軍事境界線の撤去が最も難題であった。38度線周囲に敷設された地雷の撤去にどれだけ長い時間がかかったかについてはもうすでに専門書が出回っているので詳細は省く。また金氏政権の崩壊後から中国、シベリア、中央アジアからの亡命者の不法入国が相次いだことにも手を焼いた。(1)
ついで、行政区画についても喧々諤々の議論があった。南韓は北韓の実効支配する地域に名目上の行政区画を置いていたが、北韓は独自の行政区画を有していた。
北韓側に何を配慮し、配慮すべきではないかを慎重に問い続けたのである。
それまでに、時折小規模ながら起きた軍事衝突による犠牲者もいたわけだから、対立感情のしこりは残されていた。
また、何を以て国家の存在理念とするかについても議論があった。ちょうど哲雄の征夷大将軍就任と天皇家の国外亡命が日本を騒がせていた時、海峡の向こう側では李家の王政復古を唱える者がいた。当時の王族の末裔を国王として推戴することにより、分断や植民地支配以前の状態を取り戻そうとするのが狙いだった。
連邦制は一応朝鮮民族という共同幻想によってその体制に正統性を与えられていたが、社会の様々な階層に浸透してきた移民によりその神話にはかなりのひびが入っていた。朝鮮半島に限らず、西欧を始め先進国が陥っていた課題である。
李之遠はこれに対して、
「権威の再建は必要ない。我々は自らの努力でこの秩序をつかみ取ったのだ。……ただ一人の人間によって保証されねばならない謂れはどこにもない。」
として、頑なに王政復古の要求を阻んだ。それは間違いなく、渡辺政権に対する挑戦という性格を持っていた。
国土の統一といえば聞こえはいいが、無論ながら秩序の解体と再編は何の反対もなしにできることではない。
数十年経ってようやく全文が公開された『五十年計画』の草稿で、
「これは、創造ではなく破壊である」
と記されている通り、それは旧来の社会秩序を大きく廃棄するものであった。
東済は、南北朝鮮の秩序が不本意なものとはいえ、それなりに歴史のあるものを理解していた。そして、破棄された文化や伝統は数知れない。
結局、この合同は『北韓の南韓化』という性格を帯びたものであることは論を待たない。南韓の住民に対しても、新しい社会秩序に対する適合を迫るものだった。
しかし東済は祖国の真の統一を見ることなく、渡辺哲雄に先駆けて2081年に死去する。すぐに哲雄の名で日本政府から弔電が送られた。今ではソウルに呂運亨と共に彼の立派な彫像が建てられている。
民衆の事情においては、南北で大きな差があったことはすでに述べた。
南韓では、国民を構成する社会成員の要素が下層から緩やかではあるが非常に異なったものへと切り替わっていたことが知られている。南韓では連邦が成立する以前からすでに、様々な所で諸外国からの人間の流入があった。そして、ある時代を境目に、社会の世代が一気に消滅する時期があり、それ以降になって若い世代の経済状況が改善したという背景があった。
移民の事情は、日本と半島では大きく異なっていた。
南韓では移民の存在する社会に適合した法体系の整備議論が進んでおり、2020年代ですでに婚姻関連の法律の見直しがあったし、2040年代には移民系の人間が道令が就任する例があった。この点では高連は日本よりも優れていた。
北韓との交渉でもこのことは時に民族同胞としての一体意識に齟齬をきたすことはあったが、
日本では半島ほどには移民の社会への統合は進まなかった。内戦で社会による監視下に置けない集団が大量に発生したことはそれを固定化してしまった。内戦後の膨大な犠牲は、むしろ少数派に対する排斥を劇化させた。(2)
2053年、内戦の余燼がいまだくすぶっている時代にはそのようなことについて論議すること自体が無意味となっていた。
2064年に日本国籍を取得した海外出身者が都知事に立候補した事例もあるが、すでに時遅く、渡辺哲雄の征夷大将軍即位により全ての努力は水泡に帰したのである。
21世紀の序盤からすでに世界各国において経済の停滞と少子化が進んでいたが、そこからいち早く脱したのも高連であった。多くの国が伸び悩んだ経済成長においても、長い苦境を脱した感があった。
連邦の発足当初はまだ社会混乱が激しく、まだ人々は自分がどのような時代を迎えたのか理解していなかったが、その混乱を収拾する段階に入った時、ついに国民はエネルギーを解放したのである。
民衆の夢は漢江の奇跡を再び起こすことであり、そして李氏朝鮮以前の本来の祖国のありようを再現することであった。
21世紀後半の世界的混乱によりほとんどの国が機能不全に陥る中で、高麗連邦は百年以上失い続けたものを取り返すべく邁進し続けたのである。人口減少にようやくはどめがかかったのは2080年代を待たねばならなかった。
全てがうまくいったわけではない。半島はあまりに長い間断絶していたために、社会にも言語にも容易には埋めがたい差異があった。
連合体制が発足してからすぐ、南から派遣された顧問団が農地改革を断行した。これは当初から南北両側から強い批判があったが、北韓の格差是正は当初から五十年計画の最も重要な物として認識されていた。
南韓に目を向けても、貧富の問題は深刻なものであった。李東済もその後継者も、時には強硬的な手段を辞さなかった。これによって連合解消の危機が訪れたのは二度や三度ではなかった。特に北韓北部の鉱山資源の利権は熾烈な抗争を生み、様々な陰謀詭計が政界に躍る原因となった。まさに、この血みどろの政治闘争を改革は伴ったのである。
しかしこれらの改革もひとえに上からの命令によってなしえたものではなく、少子化と人口減少により社会の基盤が解体していったという前提があって初めて可能なものだったのである。それまでの社会の利害関係を構築し、主導権を握っていた者たちが軒並みこの世を去らなければ、根底から社会構造を刷新するのは困難だった。
だがその瞬間が訪れても、彼らは過去そのものを復興することが困難であることを理解していた。東済は、最初から社会の統一性や多様性が揺らぐことを想定して今後の国家の構築を企図したのである。
国境を越えて人間が意思疎通するには当然言語による相互理解が必要不可欠である。
当初高連では、南韓語が政府文書に用いる正統なものとされていた。これに対して、北韓の言語が軽視されるのではないかという反対運動が起きた。そのために、一部の文書では2130年代に至るまで南北の言語表記が併記されていた。日常的な語彙に関しても無視できない乖離があったので、――――ドラマやニュースを通じて、北韓の人間に対する南韓語の伝授がされたが、これは当時すでに希薄なものになりかけていた方言差をさらに縮める結果にもつながった。
政治のポストにどれだけ北部の人間を容れるかについても市井の人間の間に至るまで熾烈な論争になり、暴力沙汰になることは決して珍しくなかった。
命がけで南韓の文化を北韓に伝えた人間もいるにはいたし、そのような人間が南北の融和に貢献した事実は確かだが、一世代だけでは社会の一体化に至るには十年一日の感があった。連邦の成立後も、南北の経済格差は是正不能であるという言論を持ち出して頑なに現状維持を主張する政治家は至る所にいた。
現世的な理屈ではなく、信仰ともいうべき情熱が、現状維持にしがみつく冷笑を打破したのである。
高連の成功はただ彼らの努力によるものではなく、外部要因からも大きな影響を受けていた事実を見逃すべきではない。
何より日本における渡辺哲雄の勃興は半島に緊張感を与えずにはいられなかった。その独裁的、排外主義的政策による軍事力増大は、半島人をして金氏王朝の再来を予感させた。
この危機感が半島の統合を進めたとされる。利害の一致なくして旧北韓の指導者層を説得できる義理はなかった。日本でも南北韓の融和に対して警戒感を募らせており、これまた日本国民が哲雄に対する依存を深める原因となった。そのため列島と半島の関係は21世紀前半よりもむしろ悪化してしまった。あの忌まわしい『開城事件』(3)はそれを決定的な物にし、十数年以上に渡って東アジアの外交関係に禍根を残した。だがこうした緊張や対立によって東アジアの世界秩序はヨーロッパやアメリカ大陸の影響を脱し、21世紀初頭とは全く別の物に組代わって行った。
2080年代に大移民時代が終結し、世界の人口減少に終わりが見えつつあった頃、哲雄と東済が死去したのは偶然ではない。
東済は、大統領を退任した後も様々な政治活動を行って南北の政治に影響を与えていたが晩年にさしかかると清津に隠棲し、俗世との関係をほとんど切って天寿を全うした。自分の影響力があまりにも持続すると、国政に弊害が残ると判断したのだろう。
その瞬間こそ、あらゆる混沌が固まっていき、秩序へと変化していく時代の変わり目であった。米ソ冷戦から始まった社会の解体が終息した節目であった。
そしてついに2112年三月一日、『五十年計画』の――実際の年月を大きく超えていたが――完遂が宣言されるに至る。この時代にもなると、もう分断されていた頃の世相を知る者はほとんどいなくなっていた。同時に、日本においても渡辺家による統治が軌道に乗り始める。中国大陸にいくつもの軍閥が割拠し乱世に突入するのを横目に、重商主義政策を取り、香港やマカオを併合しながら東南アジアやアフリカとの関係を重視する台湾、自由主義を標榜する高連、渡辺家独裁の権威主義体制で国内の統制を徹底し、日本という三国鼎立の様相を呈する。
この三国は外交において熾烈な係争を繰り広げたが、軍事的な均衡や不可侵不干渉を徹底することで、民衆にとっては半世紀以上に渡る平穏な時代を迎える。政治家同士のパワーゲームは常にやまず、民衆に悪漢場をもたらす不穏な出来事もあるにはあったが、少なくとも22世紀の間、国民は無事に過ごすことができたのである。
(1)これらの不法入国者は対馬海峡や樺太を経由して日本列島にも到達したことが以前から知られるが、彼らの処遇や強制送還について日本政府と南韓の間で秘密裏に協議が重ねられてきたのが明らかとなってきた。
(2)少子化と移民は、古代末期の地中海世界より一層はなはだしいレベルで世界の文化や生活のありようを撹乱した。ダリル・キャリントン「新しきシスマ」に記されたように、特に『黒の西欧』『白の東欧』の対立は、ヨーロッパを完全に覇権地域から引きずり落としていたので、事程左様に由々しい問題であった。
(3)2126年開城に暮らしていた日本の民主運動家が次々と暗殺された事件。捜査によって日本の情報局の工作員による犯行疑惑がもちあがり、一時は戦争一歩手前の緊迫状態になった。