真っ赤な舞踏会 その8
この章もこれでお終いです。
「全く……何を考えてるんだか」
空っぽのベッド。誰もいない病室。
予想通りの光景に、芋虫は小さくため息をついた。
「白ウサギが逃げ出したよ」
芋虫はまるで天気の話でもするような呑気さでそう言った。
話を聴いていた相手は、その言葉に眉間のしわを深くする。
「逃げ出さぬよう見張っておけと言ったはずだが?」
「無理言うなよ。いくら怪我人とはいえ、私が白ウサギに勝てるはずないだろう?」
芋虫はそう言って、懐からライターと煙草を取り出した。
無言で睨みつけてくる相手を気にもせず、煙草に火をつけ、それをくわえる。
「私は武力は嫌いでね。剣や銃を振り回すより、こうやって呑気に煙草をふかしてる方がずっといい」
うまそうに煙草を吸う芋虫の態度は余計に相手は苛つかせたようだ。
芋虫のくわえていた煙草を相手は素早く払い落とした。
「何するんだ。火事にでもなったらどうするんだい?」
そう言うわりに芋虫は急ぎもせず、のんびりと煙草を拾い、丁寧に火を消す。
「まだだいぶ吸ってなかったのに、もったいない」
「貴様という奴は……」
「そう怒らないでくれ帽子屋」
私だって悪かったと思っているよと全く悪びれもなさそうに言う芋虫に帽子屋は額を抑え、小さく呻く。
やはり最初っから芋虫のような何を考えているのかわからない相手に白ウサギを任せなければ良かったのだ。
と今さらながらそう後悔したところで既に遅い。
「いくら白ウサギといえど1人で女王のもとへ行っても勝ち目はないだろうね」
「そんな事言われなくてもわかっている……」
苦々しげに呟くと帽子屋は芋虫に背を向け、さっさと歩きだす。
「どこ行くんだい?」
「わかっているだろう」
「白ウサギを助けに行く気か。帽子屋は優しいね」
ちゃかすようなその物言いに帽子屋がますます不快げな顔をする。
「だが、君だけではいくら何でも無理だろう。チェシャ猫や侯爵に関しては侯爵婦人が許す訳もないし、あと残るは……」
それ以上言葉を続ける前に帽子屋の剣が芋虫の首筋に突きつけられる。
無言のその威圧に芋虫もそれ以上は何も言わず、困ったように首をすくめた。
「3月ウサギ……」
「何だい?」
「アリスがさらわれたって言うのに、私達はこんな所で呑気にお茶を飲んでて本当にいいのか?」
「この紅茶は美味いな。新しい茶葉にして正解だった」
「ちゃんと人の話を聞け」
「聞いているとも。3月ウサギはお茶会を開くものだし、お前はそれに付き合うべきだ」
「だが……」
「ああ! 茶菓子の買い足しに行かないとな。いつもの店に今度新作が出るらしい。今度街に行ったらぜひ買いに行こう!」
「何の話をしてるんだ……」
いい加減長い付き合いだ。もう慣れているとはいえ、やはり会話をかみ合わせるのは難しい。
どんな耳をしているかはしらないが彼は聞きたい事だけ聞いて、聞きたくない事は基本聞かない。
だから彼が聞きたがらない話を彼とするのはいくら眠りネズミといえど酷く難しい事だった。
「本当に何もしないのか? 紅茶を飲む暇があるなら少しは考えたりしないのか?」
「いつだって私は考えているよ。今だって次のお茶会の茶菓子を何にするか真剣に悩んでいる」
「そうじゃなくて……」
そう言う話をしているのではない。そう眠りネズミが言う前に、会場の扉が勢いよく開かれた。
驚いてそちらに目をやれば、そこにはもの凄く不機嫌そうな帽子屋の姿があった。
突然現れた来客に動揺する眠りネズミとは違い、3月ウサギは全く気にせず、紅茶を飲み続ける。
帽子屋もまたそんな3月ウサギを気にもせず、テーブルに並べられている美味しい茶菓子や紅茶には目もくれず、真っすぐと3月ウサギのもとへと向かう。
帽子屋が3月ウサギのもとへたどり着いた時、ようやく3月ウサギはカップをテーブルに置き、帽子屋を見た。
「やあ! 君がお茶会に来るなんて、今日は雪でも降るんじゃないかい?」
笑いながらそんな事を言う3月ウサギに帽子屋は何も言い返せない。
ここに来る時、帽子屋はいつだって不機嫌そうだが、今日の機嫌の悪さは最悪のようだ。
3月ウサギの軽口に帽子屋がいつ剣を抜くかと眠りネズミはハラハラしながら2人の様子を見守る。
「どうしたんだい? そんな怖い顔して。ああ、君はいつだって怖い顔をしていたな」
「3月ウサギ……頼みがある」
「頼み? そうだな君がどうしてもと言うなら聞いてあげてもいいかな。もちろんただではやらないよ。君がしばらくの間私の下僕になるのなら考えてやってもいいかな」
「3月ウサギ……俺は本気だ。お前ならわかっているだろう」
帽子屋のその言葉に3月ウサギは僅かに押し黙る。
その顔から笑みが消え、冷めた表情で帽子屋を見返す。
「私は行かない。アリスを助けには行かないよ」
その一言に帽子屋の目に鋭さが増した。
あっと思った時には帽子屋は3月ウサギの胸ぐらをつかみ、持ち上げていた。
「3月ウサギ!」
眠りネズミが慌てて立ち上がるも、その間に割って入るような威勢が彼にあるはずもなく、それ以上は動けない。
それを見て、3月ウサギは僅かに笑い、おち着いた様子で帽子屋の手をつかむ。
「少々、乱暴じゃないかね?」
「お前はあの女を許せるのか!? あの女をその手で殺したいとは思わないのか!? あの女さえいなければ……」
「彼女を殺したとしても代わりはすぐ現れるさ。それに……原因は彼女でも全てが彼女せいだった訳ではない」
「っ……」
3月ウサギの吐いた意味深な言葉に帽子屋は僅かに動揺する。
それがきいたかどうかわからないが、結局帽子屋はそれ以上何も言わず、乱暴に3月ウサギを突き飛ばすとさっさと背を向ける。
「貴様をあてにしてた俺がバカだった……」
そう言うともう3月ウサギに一瞥もせず、そのまま帽子屋はお茶会の会場から出て行った。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、眠りネズミは訝しむような視線を3月ウサギに向ける。
「何だ?」
「あ、いや……」
おそらく先ほどの会話が気になるのだろう。
眠りネズミは何か言いたそうな顔をしたものの、結局何もいわなかった。
どうせ聞いたところで相手が素直に話す訳もない。
「帽子屋との間に何があったかは知らないがさっきのはまずかっただろう」
「まずいって何が?」
「アリスを助けに行かないってやつだ。冗談にしてもたちが悪すぎるだろう」
「冗談? 私は嘘と冗談は嫌いだ。一度だってそんなものを言った事はない」
それこそ嘘ではないかと言いかけたが、話がそれてしまいそうなので、言うのは止めた。
「じゃあ、君は本当にアリスを見殺しにする気なのか!?」
「どうせ、今までだってそれなりの人数は死んでるんだ。今さらだろう」
「でも……彼女の事は気に入っていたじゃないか!?」
「気に入っていたさ。彼女が白ウサギ達に無事救出される事を心から願っているよ」
3月ウサギはそう言うと椅子に座り直し、再び紅茶を飲み始める。
「全く、帽子屋のおかげで紅茶が冷めてしまった」
「3月ウサギ……私はお前が時々わからなくなるよ」
「何がだね? こんなにわかりやすいのに」
朗らかに笑いながら紅茶を飲み干す3月ウサギを眠りネズミはどこか複雑な心境で見つめた。