第三章 迷子の侯爵様 その1
ようやく第三章。長かった……。タイトルから誰が出てくるかわかりますね。
奇怪なお茶会その8の訂正版をお読みになっていない方はお手数ですがそちらをお読みになってから本編をお読み下さい。
鼻をくすぐる甘い香り。暖かに降り注ぐ日差し。チェシャ猫は城の庭に位置するそこへ来ると足をとめ、浮かべていた笑みをさらに深める。
かつてある男がたった一人の女性に送ったその庭は今もなお美しく、庭に植えられた色とりどりの花々が佳麗に咲き乱れている。
その庭の中央のもっともよいところにテーブルと椅子が置かれており、そこからは花々を一望する事ができた。
そしてそこにいつもどおり彼女はいた。
「どこに行っていたのよ、チェシャ猫」
チェシャ猫はにんまりとした笑みを浮かべたまま、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄る。
「どこって色んな所にかな? 森にも行ったし、芋虫の所やカササギの所にも行ったっけ?」
チェシャ猫の曖昧な答えに彼女は僅かに眉をつり上げる。
「怒るなって。猫は気ままで自由な生き物なんだ」
「貴方は普通の猫じゃないの。貴方はチェシャ猫。私の飼い猫だって事をもっと自覚しなさいよ」
「何言ってんのさ。これでも誠心誠意、ご主人様に仕えているけど?」
「そう? なら、もう少し私の言うことを素直に聞いたらどうなの?」
「猫は命令されるのが嫌いなんだ。例え大好きなご主人様の言うことだとしても」
そう言ってチェシャ猫はそっと膝をおると、彼女に甘えるようにすり寄る。
彼女は不機嫌そうな顔をしつつもそれを無視したりせず、そっと手を伸ばし、優しくチェシャ猫の髪をすいてやる。
「そう言えばアリスに会ってきたんだ」
「アリス? もう新しいのがやってきたの? 前のが来てからまだ少ししかたってないわよ?」
「まあね。まあ、今度のアリスは特別だから何とも言えないけど」
「特別?」
「うん。白ウサギが勝手にあっちの世界から連れて来ちゃったんだ」
呑気な声でそう言うチェシャ猫に対し、彼女は驚いたように目を見開き、手を止める。
「連れてきた? アリスを勝手に連れて来ちゃったの!?」
「うん。白ウサギはわがままだから自分で選んだアリスじゃなきゃ、満足できなかったんだ」
平然とまるで他人事のようにチェシャ猫はそう言い、笑う。
「いいの?」
「何が?」
「何がって……そんな勝手な事してよ。いくら白ウサギでもアリスを勝手に連れてくるなんてやり過ぎでしょう」
呆れたようにそう言う彼女にチェシャ猫は笑顔で答える。
「う~ん、いいんじゃない? 別に連れてこようが何しようがこの国にアリスがいればいい話だし……それに」
「それに……?」
「あのアリス、可愛いし」
「はあ?」
チェシャ猫はにやりとし、唖然とする彼女を見る。
「今度のアリスは可愛いんだ。さすがは白ウサギだな。あんな可愛い子を連れて来るだなんて」
「……」
「ああゆう子なら俺も大賛成。アリスはやっぱり可愛くないと」
そう言って笑いかけるチェシャ猫を彼女はただ見返す。
「うん? どうしたの?」
「呆れた……」
彼女はチェシャ猫の髪をなでるのを止め、チェシャ猫に冷ややかな視線をやる。
しかしチェシャ猫は視線など全く気にもせず、にやにやとした笑みを浮かべて、彼女の方を見る。
「何よ……」
「別に~」
チェシャ猫のどこかいい加減な態度にますます彼女は眉をしかめる。
「そう言えば、今日はあの人と一緒じゃないんだ?」
チェシャ猫のその一言に彼女はぴくりと動きを止める。
「……彼ならどこかに行ったわ。白ウサギでも探しに行ったんでしょう」
「白ウサギを?」
「そう、白ウサギったら私との約束を忘れて、約束の時間になっても来ないのよ。全く……何のためにあんな大きな時計をわざわざ持っているのか。そう言ったら彼がいつの間にかいなくなってたの」
そう言って不満そうに文句を言う彼女にチェシャ猫は相変わらずの笑顔のままで静かに言った。
「だからそんなに不機嫌なんだ」
「黙りなさい」
「そう言えばさっきあの人を見かけたよ。また迷子になってたみたいだけど」
彼女の目がゆっくりと見開かれる。見る見る間に顔から血の気が引き、顔がひきつる。
「貴方は……彼が迷子になってるってわかってて見捨ててきたの?」
「え~、そうゆう訳じゃないけどさ。あの人が迷子になるのはいつもの事だし」
そう言ってへらりと笑うチェシャ猫を彼女は冷たく見据える。
「何?」
「もう、いいわ」
彼女は静かに立ち上がるとチェシャ猫に背を向け、庭を出て行った。
じんわりとにじむ汗。乱れる呼吸。苦しくて苦しくて、それでも足を止めないのは後ろから追いかけてくるあいつのせいで。
「待って下さいよ、アリス!」
「嫌! ついて来ないで!」
もはや私も必死だ。完全に危ない奴となった白ウサギから逃れるため全速力で城内の廊下を走り抜ける。
本来、人様の家の廊下を走るなど言語道断だが今はしょうがない。あきらめよう。
「アリスー!」
あの変態から逃れるためなら私は何でもする。
「アリスー!」
「ついて来ないでー!!」
何で私ばっかりこんなめにあわなきゃいけないのよ……
どれぐらい走っただろう? 頭がぼおっとしてきて、まともに考える力ももう残されていない。
先ほどからうるさいほど聴こえていた自分を呼ぶ声はもう聴こえない。恐る恐る後ろを振り返るとそこに白ウサギの姿はなかった。まいたのだろうか?そうは思いつつもまだ完全に安心はできない。
なにせ相手はあの白ウサギである。地の果てだろうが地獄だろうがついてきそうな気がする。
足を止めずに私は後ろを何度も振り返りながら次の角を右へと曲がった。
「……っ!?」
「うあっ!?」
突如として声とともに目の前に何かが現れ、よける暇もなく私はそれとぶつかり、そのまま倒れ込む。
「いたっ……」
痛い、結構痛い。私はしばらくの間ぶつかった衝撃で動けずその場にうずくまる。
唯一の救いは倒れ込んだ時に何かがクッションになってくれたおかげで体を床に打ちつけずにすんだことだ。衝撃でさえこれなのに床に打ちつけられでもしたら……考えただけでも恐ろしい。
しかしそこまで考えてふとある疑問が浮かんだ。
クッション? いったい何がクッションになってくれたんだ?
「いてて……」
下から声が聞こえ、ぶつかった相手が自分の下敷きになっていることにようやく気づき、慌ててどく。
男はゆっくりと体を起こし、痛そうに頭を抑えながら私の方を見る。
ここで初めてお互い顔を見合わせた。相手は中年もしくはそれより若いぐらいの年齢の男で、焦げ茶の髪に体格のよい体、身長も高く、顎の下には髭がのばされていた。
服はデザインはシンプルなもののよくよく見ると上等な服でその男の裕福さが伺える。
「いてえな……廊下は走るなって、誰かに教わらなかったのかよ」
男はそう言って私の方を眉をしかめて見てくる。
どうやらこの人もこの城の住人らしい。
私はじっと男を見つめる。あまりにも私が見るせいか男は僅かにたじろぐ。
「な、何だよ……」
私にとって重要なのはこの男が誰かではない。この男がまともかどうかである。