8 幸せな婚約
煌びやかな王宮の広間、多くの重臣の前で、僕とアレクサンドラの婚約が正式に結ばれた。
◇
「いやぁ、良かったなークリストファー。無事にアレクサンドラ嬢と結婚できて」
「……婚約、です。父上」
そうだったか?などと笑顔で惚けてみせるのは父である国王陛下だ。威厳など何も無い顔でそんな冗談を吐けるのは、今この場には僕ら王族とライト侯爵一家しかいないからだ。
国王陛下による婚約宣誓の後、僕たちは王宮の庭園へと移動していた。ここで、僕たちだけの婚約の儀式をするために。
「だが、揃いの白い服はまるで結婚式のようじゃなかったか?なあ、ザンダー」
「……まだ八歳だぞ。結婚は早すぎる」
「ライト侯爵は堅いな」
肩をすくめて応えた父上も、ライト侯爵も、王と臣下にしては随分とくだけた態度だ。彼らは確か、一年違うとはいえ同じ時期に学園に通っていた。その際に交流があったからなのだろう。
……父上は、そういうところがあるのだ。誰とでも分け隔てなく接し、交流を持つ。それでいながら王としての威厳を保つ様が尊敬を集めていた。それはきっと、学園時代でもそうだったのだろう。
僕の学園生活とは、まるでかけ離れている。
「け、結婚……結婚……」
ライト侯爵の傍に立つアレクサンドラを見やると、何やらぶつぶつ言いながら白いドレスの裾を握りしめていた。
「……レクシー」
「ひゃっ」
「今日のドレスもよく似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます……」
以前の彼女は婚約式の際、白いドレスでは無かった。確か、瞳と同じ色の菫色のドレス。その姿も似合ってはいたのだが、こうして揃いの色を着ると妙な嬉しさがある。同時に気恥ずかしさも感じるのだが。
頬を染め、神秘的な紫の瞳で見つめてくるアレクサンドラから、思わず目を逸らしかけた時だった。
「あらあら、随分仲良しさんねぇ」
艶やかな雰囲気を纏ってやって来たのは王妃である母上だ。その後ろからライト侯爵夫人が続き、嫡男であり養子でもあるアレクサンドラの兄がおばあ様の車椅子を押して現れた。
「アレックス、良かったわねえ。殿下の婚約者になれて」
「アレックスはお兄様と結婚するんじゃなかったのか?!」
「しません」
前回何度か見かけたことはあるが、形式的な挨拶を交わすくらいで、飾らない普段の姿を見るのは初めてかもしれない。家族と仲良さそうに話すアレクサンドラの姿も。
思えばライト侯爵家自体との交流もほとんど無かった。婚約関係にある家だというのに、気に掛けたことさえなかったのだ。
だから知らなかった。
「ねえ、レクシー?君、家族からは『アレックス』って呼ばれてるの?」
「はい!お父様も家ではそう呼びます」
そうだったのか?じゃあなぜ僕はレクシー呼びなんだ?
疑問が顔に出ていたのだろう。アレクサンドラは頬を染めて小さく呟いた。
「だって……クリス様には特別に呼んでほしくて……」
「え、あ……そうなんだ……」
……なんだ、これは。だいぶ恥ずかしいぞ。
というか、顔合わせの日に会ったのが初めてだと思うのだが、あの瞬間に思いついたのか?すごいな。
でも、僕だけ呼び方が違うというのは正直嬉しい。
僕らの様子に噛み付かんばかりの敵意を剥き出しにしていた令息を夫人が宥め、母上が双方の様子を楽しそうに見ていた。だがそんな周りの様相を意に介さず、おばあ様が僕らの方へとやって来た。
「婚約おめでとう、クリス、アレクサンドラ」
「ありがとうございます、おばあ様。全てあなたのおかげです」
アレクサンドラが礼で応えたのを受け、フフ、と笑い返したおばあ様の膝の上にどこからか現れた白猫が乗った。
「吹っ切れた顔をしているね。どうやら心配事は去ったのかな」
「はい、おばあ様。僕はもう大丈夫だと胸を張って言えます。アレクサンドラが傍にいてくれる限り」
二度と間違えないと言いながら、僕はもう何度間違いを犯しかけただろう。間違えないことなど無理な話なのかもしれない。
けれど、傍にいてくれると言ったアレクサンドラを大事にして、一番に思っていればどんなに間違えようと、例えその先にどんな障害があろうと、どんな恐ろしい事実が待っていようと、全て乗り越えて行けるだろうと思えたんだ。
僕を支えてくれるとほほ笑んだ、アレクサンドラの想いに僕も全力で応えよう。
そうかい、と笑ったおばあ様は手招きをして僕を傍に呼んだ。そして小さな声でこっそりと、
「私も過去をやり直したいと思うことはある。けれど、ヘリオがいた時間を否定したくはない。だから私は今を受け入れているんだよ。後悔ばかりだとしてもね」
なんとなく、そんなおばあ様の頼みだからシロは僕のことを助けてくれたのだろうと思った。
「お前がやり直したのが良いことなのか悪いことなのか、決めるのはこの先のお前自身だよ」
「肝に銘じておきます」
おばあ様の目を真っ直ぐ見つめてそう言うと、とても優しい顔で微笑んでくれた。
前回は心配ばかりかけてしまったけれど、今回はきっと、おばあ様を安心させることができたんじゃないか。もしそうであったなら、僕が巻き戻った意味はひとまず『あった』と言えるのではないだろうか。そして、それは、僕ら二人の関係についても。
「さ、さっさと儀式を終わらせてしまおうか。ソワソワしてる子がいるからね」
ニヤリ、とおばあ様が笑顔を向けた先でアレクサンドラが真っ赤な顔をして僕の陰に隠れた。
その行動は、ちょっと、だいぶ、かわいいんじゃないだろうか……
儀式、と言いながらおばあ様が取り出したのは一冊の本だ。とても大事なものだからと、婚約式が終わった後、自ら取りに向かったものだ。
それは、おじい様が大切にしていたという誓いの書。
『儀式』というのは、その本に名前を記すことで精霊たちに誓いを立て、祝福を願うことを指すのだそうだ。そのためこの儀式は精霊たちが多くいると言われる自然の中で行われる。だから僕らは庭園に集まっているのだ。
おばあ様とおじい様も、父上と母上も、婚約の際この儀式を行っていたそうだ。
……以前の僕らはそんなことをやっていないし、本の存在自体知らなかった。
形通りの婚約式を終えた後は実にあっさりとした別れだった。きっと、祖母も父も何か思うところがあったのだろう。彼らには、婚約自体が間違いだと思われていたのかもしれない。
「さあ、クリストファー。アレクサンドラ。ここにサインを」
おばあ様に促され、テーブルの上に置かれたペンを取る。おばあ様の膝上にいるシロが開かれた本を覗いていた。
そのページには婚約への宣誓が記されている。
婚姻を成すその日まで、互いを思いやり、尊重すること。そのような内容が見知らぬ古い字で記されているらしい。
婚約は契約だ。以前の僕は上っ面だけなぞって、婚約者の義務を果たしていたと思っていただけにすぎない。でも今回は違う。
「クリス様」
隣に並んだアレクサンドラが向ける微笑みに、自然と頬が緩んだ。知らず緊張していたのかもしれない。ペンを握る手の力が抜け、ペン先は滑るように紙をなぞった。
クリストファー・ヘリオ・ベル
その隣には、
アレクサンドラ・ライト
こうして僕らは前回とは違う形で婚約者となった。巻き戻ったことによって、新しい関係を築けたことは素直に嬉しい。けれど、ここから、これからだ。
あの学園での断罪騒動までに、僕らの間に何が起きるかまだわからない。不安も疑問も、知らないこともまだ多く残っている。アレクサンドラとだって、この先変わらぬ関係でいられるとは限らない。
だからこそ、ちゃんと彼女を見て、知る努力を惜しまないでいよう。
そう思って、隣のアレクサンドラの手を取り、握りしめた。
しかし。
繋いだ手を引き剥がすようにアレクサンドラの左手が動いている。
……もしかして嫌だったのだろうか。あんな決意をした矢先だと言うのに、嫌だと言われたら挫けそうだ。いや、まずはそこから始めるべきなのか?すっかり無条件に愛されているとばかり思って慢心していたのかもしれない……
そっと手を離そうとすると離れかけた手の指を絡め取られ再び手を繋がれた。先程とは違う形で。互いの指を絡めた状態で。
「……レクシー……」
訳がわからずアレクサンドラに顔を向けるとへにゃりと微笑んだ。やっぱり訳はわからないが、とても嬉しそうなその顔に何も言えなくなってしまう。僕が嫌だったわけではないのだろうから、良かったと言うべきなのか。
「あらまあ、アレクサンドラ。随分殿下と仲が良いのねえ」
そんな僕らの様子を目敏く見つけたライト侯爵夫人が声をかけてきた。
「アレックス!お兄様とはそんな風に繋いでくれたことないじゃないか!」
「クリス様とだけです!」
「そうですよ、ディオン。それは絶対に離したくない人とだけする特別な繋ぎ方なんですよ。ねえ?アレックス」
「はい!お母様」
今不穏なことを聞いたような気もする。
確かにこの繋ぎ方を男女がしているのは見たことがある。恋人と呼ばれるような、特に仲の良い二人や、特に仲の良い夫婦がよくしていた。でもそんな意味があったのか?ライト母娘はそういう考えなのか?
ぴったりと隙間が無いほどに繋がった手はまるでアレクサンドラに捕らえられてしまったかのようだ。
けれど、正直、アレクサンドラが僕を離したくないと思ってくれているのならこれ以上ないほどに嬉しい。僕のために自ら離れることを選んだ過去のアレクサンドラとは違うのだ。
かつての僕が得られなかった温もりを、ぎゅっと握ると、気づいたアレクサンドラがこちらに花がほころぶような笑顔を向けた。
僕はもう二度とこの笑顔を離さない。失くしたりはしない。
決して同じ間違いを犯したりはするものか。
「殿下」
僕らの様子を微笑ましく見守っていた侯爵夫人が膝を折り、目線を僕に合わせた。
「アレクサンドラのこと、よろしくお願いしますね」
温かな、けれどどこまでも真剣な瞳は母親の深い愛情を感じる。以前はあまり知ることのなかった相手だが、アレクサンドラのことをとても大切に思っているのだと今更ながらに気付いた。
「勿論です」とその瞳から目を逸らさずに告げれば、柔らかな笑顔を見せてくれた。
「ところで、侯爵夫人の瞳は変わっていますね。紫と黄色が半分に分かれているなんて初めて見ました。とても綺麗です」
「あら、ありがとうございます。でもアレックスの瞳もとても綺麗なんですのよ」
「そうですね。ただの紫じゃなくて、光の加減で赤や緑が入っているようにも……」
まて、僕は今何を言った?
あらあらまあまあ、と夫人が微笑んでいる先で、母上がこちらをニヤニヤと見ていた。
なんだか厄介な気配がする。迂闊なことを言ってしまったんじゃないか?
「うふ、うふふ。無粋なことを言ってしまったようですね」
失礼しますね、と侯爵夫人は何か言いたげに僕を睨む子息の口を塞ぎ、遠くの方で話し込んでいる父上たちのもとへ向かった。既に本を仕舞ったおばあ様と母上も、お茶が用意されているテーブルを囲っている。
なんとも言えない空気の中僕ら二人は残されてしまったわけだ。
隣のアレクサンドラの顔をなんとなく見れないでいると、
「うわっ!」
「ニャー」
少しの衝撃の後、足元をするりと毛皮が撫でていった。あいつ今頭突きしていかなかったか?
「ふふ」
突然の猫に驚いた僕を見て、アレクサンドラが楽しそうに笑う。固くなっていた空気が一気に和らいでいった。
「クリス様。わたくし、今とっても幸せです」
庭園を照らす陽光に負けないほどの眩しい笑顔でそう言ったアレクサンドラの姿に、胸が締め付けられる。
「僕もだよ」
掠れるようにそれだけ絞り出した声が届いたのか、繋いだ手に力が込められ身体を寄せてきた。触れる温かさが心地よい。
「これからも、ずっと幸せにするからね。レクシー」
「……はい!」
一瞬驚きに目を瞠ったアレクサンドラは、すぐに柔らかな笑みで応えてくれた。
本当になんて良い日なのだろうか。陽光に照らされた庭園が、こんなに気持ちよくて輝いて見えることなど今までなかった。
これも全てアレクサンドラが隣にいるおかげだと横に目を向けると、アレクサンドラは大きな瞳をくりくりさせて僕をじっと見ていた。まるで、何かを期待するような熱い視線を唇に感じる。
「……ああいうことは、人前でしちゃダメだからね」
距離があるとはいえ、父上たちはすぐ傍にいるのだ。それもこちらの様子を伺いながら。
下手なことをすればバッチリ見られ、後々ずっと揶揄われることだろう。
無意識だったのか、指摘されたアレクサンドラは驚いたように顔を真っ赤にした。
「わ、わかってます!あれは……クリス様とわたくしだけの秘密です」
そう言って小さく笑った顔は艶やかな大人びた顔で面食らってしまった。
ま、ませてるなあ……




