6 課せられた試練
「猫ちゃーん!にゃんにゃーん」
庭園の一画、白い円柱に囲まれた噴水はおばあ様お気に入りの場所だった。置かれた白いテーブルセットには淹れたてのお茶が用意されている。
その傍らで白猫を撫でさするアレクサンドラは相好を崩していた。というか、崩れきっていた。
ピンと吊り上がった大きな目は、今やその目尻を下げきって、まさに恍惚といった表情だ。対する猫も大人しくアレクサンドラの手の中に収まり、ゴロゴロと喉を鳴らしている。学園でもこうだったのだろうか……?人知れずあんな無防備な顔を晒していたとでもいうのか??
「その顔で王太子の婚約者が務まるのかい?」
おばあ様がそう意地悪く言った瞬間、アレクサンドラはあの淑女の仮面を完璧に着けた。その見事なまでの変わり身の早さにおばあ様が感嘆する。
「やるじゃないか。これはこれは、完璧な婚約者様だねえ」
こちらに揶揄うような視線を投げるおばあ様を無視し、
「ひぁっ!な、何するんですか、クリス様!」
アレクサンドラのぷっくりした頬をつついた。
「ごめん、つい」
モチモチだった。
「……もぅ」
怒ったようにそっぽを向いてまた白猫を撫で出すその耳は真っ赤に染まっていた。
「お前は、随分変わったようだねぇ」
「……おばあ様と、あの猫のおかげです」
へぇ、とおばあ様は興味深げに僕を見た。
その向こうで、アレクサンドラが急に走り出した猫の後を追いかけていった。平時であれば、遠のいていくその背を追いかけていただろうけれど、今はおばあ様だけに確認しなければならないことがある。
不敵に笑む翠の瞳を見つめ、僕は覚悟を決めて口を開いた。
「僕は間違いを犯しました。今じゃない、遠い未来の事です」
おばあ様の目が驚愕に見開かれる。ありえない事に驚かれたのだろうか、冗談だと信じていないのだろうか。…それとも何か心当たりがあるのだろうか?
「間違いを犯した僕は、あの猫の力で過去である今に戻ってきました。とても信じられないことですが、事実、僕の身に起こったことです。……あの猫はなんなのですか?一体なぜそんな力があの猫にあるのですか?おばあ様はあの猫の何を知っているのですか?!」
特別だ、と以前のおばあ様は言っていた。あの猫がただの猫では無いことを、おばあ様も知っていたはずだ。だからきっと、おばあ様は僕の言うことを信じてくれるはずだ、何かを知っているはずだ!
切羽詰まったように詰め寄る僕に、平静を取り戻していたおばあ様は遠い目をして空を仰いだ。
「あの子はね……あの人……お前のおじい様が連れてきた子なんだよ」
祖母の声は遠い昔に失くしたものを懐かしむような、愛しさと悲しみを含んでいた。
僕が産まれる前、まだ父が幼い頃に亡くなったらしい王配であったおじい様は、辺境の伯爵家の養子だった。出自も定かではない男が王配に着くことに、当時多くの者が反発したと聞く。
そんなおじい様とあの猫にどんな繋がりがあるというのだろうか。
「あれはただの猫じゃない。特別な力を持った『精霊』だ、と言っていたよ」
「精霊……?ですか?そんなの、御伽噺では……」
「かつては親しい隣人だったようだよ。あの人の言うのが、いつの何処での話なのかは聞かなかったけどね」
含みのある言い方で、少し悪戯っぽく微笑んだおばあ様の顔は、けれど少し自嘲めいて見えた。
人とは違う存在、精霊。
御伽噺では身近な存在だが、実際に存在していると言われてもとても信じられるものではない。あの猫は精霊なのだと言われて、そう簡単に受け入れられるか?
しかし、現に僕の身に起こっていることも信じられないことだ。信じられないが、信じるしかない。あの猫は、過去に遡るだなんてありえないことが可能なほどの強い力を持つ精霊なのだと。
……でも、なら、だったら!
「あの猫が精霊だと言うのなら、あれほどの力を持っているなら、おばあ様だって助かるのではないですか?!おばあ様を助けることだって、できるはずだ……!」
もともと身体の丈夫ではなかった祖母は、父に王位を譲ってから日に日に体調を崩し、還暦を目前に亡くなる。父を産むのが遅く、歳であったとはいえ早すぎる死に多くの者が涙した。
僕だって、もっとおばあ様と共にいたかった。もっとおばあ様といられたなら、あんな間違いを犯すこともなかったのではないか。
時の流れを操る事ができるなら、おばあ様の運命だって変えることができるのではないのか?!
「クリストファー、お前はあの猫の力が何なのか、知っているのかい?」
「……分かりません。でも!」
息巻く僕の気を削ぐように、「おやおや!」と言っておばあ様は大仰に手を広げた。
「王子様にも知らないことがあったとはね!そんな何かも分からない方法で助けようなど、無茶なことを言うものだ」
それは、以前の僕を揶揄するような物言いだった。もしかしたら信じていないのだろうか?僕が未来から戻ってきた事を、これからおばあ様に訪れることを。
「でも!おばあ様はもうすぐ……!!」
「クリストファー、お前は何のために戻って来たんだい?」
静かな、よく通る声だった。有無を言わせぬ圧を持つ女王の声が場を支配する。
「ぼく、僕は…………。僕は、全てを知った気になって、目の前の事すらよく見ようともしませんでした。知らない事など何もないと驕っていました。その結果、惹かれていた相手を傷つけ、無惨な姿で捨てたのです。そうしてやっと、自分の間違いに気づいた愚かな僕は、行いを正す機会を貰うことができ、今ここにいます。それは、おばあ様があの猫に僕のことを頼んでいてくれたおかげです」
だからこそ、与えられたこの機会におばあ様の事も救いたいと、女王然としたおばあ様に向き合い、威圧を感じさせる翠の瞳から目を逸らさずに告げた。おばあ様は目を閉じ「そうかい」と呟くと、再び開いた瞳はいつもの優しいものではない、静かな、静かな瞳だった。
「……退位し、離宮に篭ってから、よくヘリオのことを思い出すんだよ。あの人はずっと傍にいて、私を支えてくれたけれど、それだけじゃなかったんじゃないか、私はもっとあの人に助けられていたんじゃないかって、ね。ヘリオはよく言っていたよ、精霊は願いを叶えてくれるってね」
ジッと、僕の目を見据える翠緑の瞳がキラリと光った。
「……クリストファー。あの人はね、『失敗することもある』と言っていたよ」
「どういうことですか?!!」
「『試されている』そうだ。認められなければ無かったことになるのだと、そう言っていた」
『無かったことになる』?!それは、それでは。
「……アレクサンドラを……失うかもしれないということですか……」
絞りだした声に、おばあ様は肩をすくめて応えた。
遠くで白い金髪がふわふわと舞っている。猫を追いかけているのだろう、楽しそうに風に揺れる姿は今まで僕が知らなかったものだ。その軽やかに舞う姿がそのまま陽光に溶けて消えてしまうのかもしれないと思うと、ゾワリと胸の奥が冷えた。
「知りたければ自分で調べることだね。私は……何も知らないんだ、あの人の事を、何もね。でもあの人が私の絶対的な味方であることは変わらなかったから、それでいいと思っていたんだ。知ろうとすれば、あの人は話してくれたかもしれないのにね」
そう言うおばあ様の姿は、いつもの優しい姿でも、女王然とした姿でもなかった。まるで僕と大差ないかのように、とても小さく感じられた。
──お前は私と似ている。
巻き戻る前のおばあ様の言葉が甦る。
「……ヘリオに何も返せなかったこと、私は後悔しているんだ」
「……でも、おじい様はきっと、おばあ様の傍にいられただけで幸せだったと思います」
後悔していてもおばあ様は猫に願うことはしなかったのだ。それは、そこには確かに二人の幸せな思い出があったからなのだろうと僕には思えた。
傍にいて、笑っていてくれればいいと言う、自分の気持ちにさえ気づかなかった僕とは違って。
「そうだといいけどね」
ニャー、といつの間にか傍に来ていた白猫が、まるで祖父の意を肯定するかのように鳴いた。
「クリストファー。目的を見失ってはいけないよ……気付いた時には全て零れた後かもしれない。だからこそ、本当に大切なたった一つから目を離してはいけないんだよ……私たちの手はとても小さいからね。この子の手よりも何倍も」
足元にうろつく白猫を抱え上げながら言ったおばあ様の声は、やり直す瞬間に聞いた声と、とてもよく似ていた。
「お前には後悔してほしくないんだ。……私を助けようと思ってくれたことは嬉しいけどね」
おばあ様を救おうとするのは間違いだとでも言うのだろうか?おばあ様と共に生きることはできないと言うのだろうか?
僕を助けてくれた人を、僕は救えない。
そして、おばあ様もそれを望んでいない。
「そうそう、この子の名前はシロだよ」
「……随分素敵な名前ですね」
「言っとくけど私が付けたんじゃないよ」
俯いてしまった僕の頭を優しい手がくしゃり、と撫でる。
「疲れたからもう休むよ。お前たちも、遅くなる前に帰りなさい」
そう言って、おばあ様は車椅子を翻した。
「クリス、あの人は様々な書物を離宮に残していったよ。いつでも好きなように読むといい。あれら全てお前に遺そう」
カラカラと回る車輪の音が耳に響く。伏せた視界の中で緑の草木が揺れている。
そんな別れの言葉のような事を言い残して、おばあ様は僕を置いて行ってしまうのだった。