4 謝罪とこれから
「……何か挟まってるよ」
「ふわっ!……あっ、そ、それは……!」
いきなり腰に手を伸ばされて驚いたアレクサンドラはギュッと目を瞑って固まってしまった。
カサリという微かな音と訪れない感触に、恐る恐る開かれた紫の瞳が僕の手に収まった紙片を映すと、彼女は今まで以上に狼狽えだした。空いた左手が空を彷徨っている。
「え、なんで……?引っかかって……?…………」
彼女のドレスに引っかかって、誰にも気付かれることなくここまでやってきた紙は、あの時、巻き戻る直前に見たものよりも随分小さい。だがそこには、あの時のものと同じくアレクサンドラの字で思いの丈が綴られていた。
──猫ちゃんに会えるのたのしみ!でも、やっぱりクリス様に会えるのがいちばんたのしみ!
早く会いたい。すこし早く行っちゃダメかしら?
記憶に違わぬ幼い字は、『お父様にたのんでみよう!』と締め括られていた。
アレクサンドラは僕に早く会いたくて一時間も前に登城したというのだろうか?そんないじらしいことがあるのだろうか??なんだか胸がいっぱいだ。これが嬉しいというやつなのか?それに、
猫に……勝った──……
いや、張り合っても仕方ないことなのはわかってはいるのだが。
そんな優越感と嬉しさに浸っている時だった。
握ったままの左手が痛いほどに握り返されて、思わず顔を上げた。瞬間、ぎょっとしてしまう。
目のまえでは真っ赤な顔をしたアレクサンドラが、目の端いっぱいに涙を湛えてプルプルと震えていた。
「れ、レクシー?」
「わ……わたくし、すぐ、紙に書いちゃう癖があるんです……こんな、こんな紙切れに……。お、恥ずかしい、んです、けど……」
閉じた瞼の縁からポロポロと涙が零れ落ちる。絞り出された声もか細く、くぐもっていた。
「恥ずかしくなんてないよ!僕は素敵な癖だと思うよ!」
「でも、字だって、汚いです……」
「そんなことないよ!ええっと……えっと」
ひっく、としゃくり上げだしたアレクサンドラに焦ってしまう。こんな彼女の姿は初めてだった。
泣かせてしまった!!まさか泣かせてしまうだなんて……
こんな調子で僕は本当にこの子を喜ばせ続けることができるのだろうか?僕に『完璧な婚約者』は演じられないのか?また僕は間違えてしまうのか?
……そういえば、あの時のアレクサンドラも、目に涙を溜めて酷く恥ずかしがっていた。この癖は、彼女にとって恥ずべきことなのだろうか。
いや、それでなくとも、誰に見せるでもなく心情を吐露しただけのもの。勝手に覗き見られて、いい気持ちにはならないだろう……
「……ごめんね。勝手に君の気持ちを覗き見るような真似をして」
「……?」
濡れた紫の瞳が僕を見つめた。今のこの紙片だけじゃない、以前の彼女への謝罪も含めた言葉は僕の自己満足だ。よくわかっていないような彼女の顔に向かって笑顔を作る。考えろ、思い出すんだ。参考資料のヒーローたちはどうしていた?可憐な少女が泣いてしまった時どう慰めた?わかるはずだ。知らないことなど何もないと驕っていた僕なら、完璧に演じられるはずだ。
「でも、僕は本当に素敵な癖だと思うよ?気持ちを言葉にして残しておくのもいい思い出になると思うんだ。後々になって気付けることもあるかもしれないからね。どんな紙に書かれていようとそれは変わらないよ」
「……クリス様は……嫌じゃないんですか……?こんな変な癖……」
「まさか!嫌なもんか!」
アレクサンドラのこの癖のおかげで僕は救われたのだ。それを僕が非難できるわけがない。
彼女がああして形にしてくれていなければ、きっと何も気付くことなどできなかっただろう。知らないことなど何も無いと驕っていた、あの時の僕には。
優しい表情や精一杯の甘い声音、身振り手振りこそ小説で見たヒーローを意識したものだが、言った言葉は全て僕の本心だ。
「それに……」
再び手元の紙片に目を落とす。最後に見た時より拙い字は、幼い頃に見た彼女の筆跡そのままだった。
「……君の字はきれいだ」
幼いアレクサンドラの書く字は、お世辞にも上手だとは言えない。けれど、僕はその字が好きだった。取ってつけたような定型文の手紙でも、その独特な字に素の彼女を感じられたから。思えば、以前の僕が唯一本心から彼女を褒めた点だった気がする。
だが、長じるにつれ愛らしかったその字も手本のような素っ気ないものに変わっていってしまったのだが……
僕はその手紙をどうした?形式ばった文面に一分の隙もない筆跡。まるで僕に興味などないと言わんばかりのそれに憤りさえ感じ、碌に読みもせずに捨てていた。
……なんて愚かで傲慢だったのか。
その結果あんな婚約破棄騒動などを起こし、大衆の面前でアレクサンドラを辱めるような真似をしてしまった。時を戻したからと言って、僕の犯した間違いがなくなるわけではないのだ。
──変わらなければならない。
僕の幸せを願い、身を捧げた以前のアレクサンドラの為にも。例えこの子を喜ばせ続ける事ができないとしても、あんな悲しい愛し方をさせないことはできるはずだ。
そう決意を新たに顔を向けると、アレクサンドラが呆然とこちらを見つめていた。口を半分開け、ほんのり赤く染まった顔は瞬きさえ忘れてしまったように固まっている。
しまった。感傷に浸って顔を作れていなかったか。
「だ、だから恥ずかしいことなんて何もないんだよ。ね?」
慌てて顔を作り笑いかけた。アレクサンドラの涙は止まっていたが、ぷっくらとした頬にまだ涙の跡がついていた。拭ってやりたいが両手が塞がっている。この紙はもらってもいいのだろうか??
どうしようか考えあぐねている隙にアレクサンドラは空いた手で自ら顔を拭ってしまった。
「……その紙はあげます。……捨ててくださっても構いません」
「まさか!僕の宝物にするよ」
「……ふふ……今度、お手紙も書きますね」
そう言ってアレクサンドラは、まだ少し涙の跡が残る赤い目でにっこりと笑った。その笑顔に安堵しつつ、「楽しみにしてるね」と返す。彼女から貰ったどんな紙も手紙も、今度こそ一つも捨てずに大切に保管しようと心に決めて。
「……それじゃあ、そろそろおばあ様のところへ行こうか。おばあ様のいる離宮の庭園はとても広くてね、まるで森のようなんだよ」
「それでは迷子になりそうですね」
「うん。だから、」
アレクサンドラの手を握り直し向きを変えた。
「ちゃんと手を繋いでいこう?はぐれないようにね」
誰かと手を繋いで歩くなんて、初めてに近い経験に重ねた手のひらが熱くなる。そのせいなのか、少し顔が熱を持ったようだ。
改めて繋がれた手をまじまじと見つめていたアレクサンドラは、やがて僕の方を向いて春の陽光に勝るとも劣らない笑顔で嬉しそうに言った。
「はい!絶対に離しません!」