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2 与えられた機会

 ──ただ頭が良いだけの人のフリをするのが得意な人形。お前は心から笑った事があるのかい?


 そうだ、そう言ったのは祖母だった。

 みなが望む王太子の姿を演じ、子供らしい振舞いをしようともせず、周囲に対し落胆にも似た思いを抱いていた僕が、唯一尊敬していた人。


 ──私はお前が心配だよ。

 お前は全てを知った風にして何とも向き合おうとはしない。

 それは生きているとは言えないよ。

 私もそうだった。

 気付いた時には手遅れで、全て自分の手から溢れた後だった。

 傍にいてくれたあの人に何も返せなかった。

 お前は私に似ているけれど、お前は私以上に危うい。きっともっと後悔する事になる。

 あの人に返せなかった分、お前を助けてやりたいが私にもそう時間はない。

 だからこの子に頼んでいくよ。

 この子は特別なんだ。

 きっとお前を助けてくれる。


 そう言ったおばあ様の膝には、あの白い大きな猫がいた。


 おばあ様はかつて立派に国を治めた女王だった。そして先に亡くなった祖父は王配としておばあ様を支えたというが、僕は正直優秀で闊達な祖母に支えは必要なかったろうと思っていた。

 だが、おばあ様の言葉の意味を今は理解できる。

 ……なぜ、あんなに心配していたのかも。


 それから間もなくしておばあ様は亡くなった。まだ僕が十にも満たない頃のことだった。


 父上も母上も気付いていなかったが、祖母に懐いていた僕は平気なフリをしつつもだいぶ参っていた。祖母がいなくなった事が悲しかった。寄る辺を失ったようで不安だった。

 あの人は僕の唯一の理解者だと思っていたから。

 傍目(はため)には僕がそれほど祖母に懐いているとは見えなかっただろう。父も母も気付かなかったのだから。

 だが祖母と過ごした離宮にある庭園で、喪失感に苛まれていた僕の背を抱くようにして寄り添ったのは婚約者のアレクサンドラだった。


「……わたくしが傍にいます。あなたが許す限り」


 そう言って微笑んだあの子の顔は眩しいくらいの陽光を受けてとても綺麗だった。僕を笑顔にするのはこの子しかいないと、悲しいくらいに思ったんだ。


 けれど、そう言ったくせに、アレクサンドラは本音で僕と向き合ってくれなかった。


 透けるような金糸の髪に神秘的な光を湛えた藤色の瞳。一瞬で僕の目を奪った彼女は、初めて会った時から変わらぬ仮面を貼り付けて、頑なに素顔を見せようとしなかった。

 そんな仮面が見たいんじゃない。飾られた建前が聞きたいんじゃない。

 もっといろんな顔を見せてほしい。本当は何を考え、何を思っているのか聞かせてほしい。

 甘えたりわがままを言ったり、弱みを見せてほしかった。本当の彼女の姿を僕にさらけ出してほしかった。


 僕を笑顔にするのはきっとあの子しかいないのに、僕の望みを叶えてくれないアレクサンドラが嫌いだったんだ。


 彼女は僕のことなんてこれっぽっちも思ってくれていないんだと決めつけて、あの仮面の裏で他の誰もと同じように金と権力にしか目がないんだと思っていた。

 けれど、仮面をつけた彼らと、人形のように理想の王太子を演じる僕の何が違うというのだろう。

 アレクサンドラにだけ素顔を晒す事を期待して、それが裏切られたと彼女を嫌悪する僕はなんて傲慢だったのか。


 僕はあの子をちゃんと見て、向き合ったことがあっただろうか?

 あの子の気持ちをわかろうとしたことがあっただろうか?

 あの子に本当の自分の気持ちを伝えたことがあっただろうか?


 いいや。そんなことは、一度だってしたことはなかった。


 ああ、そうか。一線をひいて拒絶していたのは僕の方だった。それが、そもそもの間違いだったんだ。

 もしまたアレクサンドラと会うことができたのなら、初めからやり直すことができたのなら。

 有り得ないことだとわかっている。僕が捨ててしまった機会なのだとわかっている。

 それでも願わずにはいられない。


 君に伝えられなかった思い。君に言えなかった言葉。


 僕は、僕は君のこと、本当は──……





 ……ニャォーン……


 暗闇の中、遠くで猫の声が聞こえた。













「クリストファー」


 ハッと気付けば訝しむような父の顔が目に入った。


「どうした?ぼうっとするなんてらしくないな。緊張しているのか?」


 記憶より若い顔。


「……そうかもしれません」


 答えた僕の声は高かった。声変わり前の幼い声。見やれば手も身体も小さかった。


「珍しいな、お前がそう言うなんて。ああ、ほら、侯爵令嬢が来たぞ」


 緊張しているのは本当だった。

 それもそうだろう。今日はあの子と初めて会った日だ。婚約者として初めて顔を合わせた幼い頃、記憶の底に沈んでいた思い出の日。

 過去に戻っている。

 信じられないことだがなぜか確信できた。

 『特別な猫』だとおばあ様は言っていた。これは、あの猫とおばあ様が与えてくれた機会なのだろうか?まさか、こうしてまた、失ったはずの彼女と会うことができるとは。


 侯爵に連れられ、王宮の庭園を歩く彼女の髪は、降り注ぐ陽光に照らされ白く輝いている。その様に目を細めていると、傍に来た彼女が口を開いた。


「ライト侯爵家の娘、アレクサンドラです。殿下、よろしくお願い致します」


 非の打ち所がない完璧な淑女の礼をとって、上げた顔は記憶にあるものと同じだった。


 愛らしいその顔立ちに僕は一瞬で目を奪われた。けれどその顔に貼り付いた笑みが、他の誰もが着けている仮面と同じだったから僕は酷く苛立ったんだ。


 だが僕はなんて愚かだったのだろう。上辺だけを見て全て知った気になっていたんだ。本当は何も見えてなんかいなかったのに。

 よくよく見てみれば、彼女の笑顔は固く強張り、ほのかに見える恥じらいは緊張からのものと思われた。

 きっと、ずっとずっと緊張していたのだろう、僕を目の前にして。

 ……僕がアレクサンドラを緊張させていたんだ。


「君は……猫が好きなのか……?」


 思わずそう口にしていた。

 名乗りもせずにいきなりそんな事を聞くのは無礼だと言うのはわかっている。

 隣で父上が驚いているのが分かった。らしくないと思っているのだろう。僕だってそう思う。

 彼女だって驚いたのだろう。ぽかんとしていたのは一瞬で、その顔を見る間に真っ赤に染め右往左往としだした。


「え……な、なぜそれを……」

「アレクサンドラ!お前、まさかまた野良猫を拾って来たんじゃないだろうな!」

「し、してません!ちゃんと里親を見つけました!庭師の方がもらってくれました!」

「それで屋敷に連れて来ているのか……ドレスに毛がついているぞ……」


 今のは結局あの子は野良猫を拾って来ていた、という話だと思うのだが、侯爵はそれでいいのだろうか。

 慌てた様子でぱたぱたとドレスを叩いていた彼女の顔はまだ赤く、少し僕を睨むように見ていた。

 意地悪をしたと思われたのだろうか?


「祖母が猫を飼っているんだ。……とても綺麗な白猫だよ」


 まあ!と言ってアレクサンドラは目を輝かせた。

 ……こんなにも表情豊かな事を僕は知らなかった。あの子が笑うと僕も嬉しくなる事も知らなかった。

 僕は何も知らなかったんだ。すべてを知った風にしてよく見もしないで決めつけていた。

 けれど、ちゃんと向き合って、よくよく見てみれば、こんなにも世界は知らない事だらけだったのに。

 世界をつまらなくしていたのは僕自身だった。


「今度一緒に行こう。きっと祖母も……祖母の猫も喜んでくれる」

「もちろんです、殿下!楽しみにしていますね」


 アレクサンドラは楽しそうに笑う。それは僕が見たかった無邪気な笑顔だ。

 ……こんなに、簡単な事だったんだ。

 祖母には感謝してもしきれない。あの猫にも。こうしてもう一度機会をもらえたのだから。

 やり直してみせる。今度こそ間違えない。君が笑っていてくれる為に、僕はきっと変わってみせる。


 ふと、彼女にまだ名乗っていないことに気付いた。

 ……僕の名前を呼んでほしい、そんな欲が湧いた。


「アレクサンドラ嬢、自己紹介が遅れて申し訳ない。クリストファーだ。……どうか、クリスと呼んでくれないか?」


 いきなり愛称呼びは急だったろうか?あの子はとても驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔になりこう言った。


「……でしたら、殿下もレクシーと呼んでください」


 そうしたらわたくしも呼びます。と少し意地悪な顔で笑ったのは、先ほどの仕返しのつもりなのだろうか?


「……レクシー?」


 おそるおそるそう呼んだ。そんな風に呼んだことは一度もなかったから、もし拒絶されたらどうしようかと不安になった。

 けれどあの子は笑顔で応えてくれた。花がほころぶように、とても幸せそうに笑って、


 クリス様?


 と僕を呼んだ。


 それが嬉しくて、アレクサンドラの笑顔が眩しくて、僕は思わずつられて笑っていた。

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