1 犯した間違い
1、2話はほぼ短編と同じ内容です。既にご存知の方は3話から読んでも問題ありません。
心を動かされる事がなかった。
優秀な頭は何でも卒なくこなし、知らない事なんて何も無かった。世界はなんてつまらないんだろうか、そう思っていた。
一歩引いたように物事に接する僕に「頭だけが良くて人のフリをするのが得意な人形」と言ったのは誰だったろう。
お前は心から笑った事があるのかい?と続けられた問いは、ずっと僕の心にシコリとなって残っていた。
『頭脳明晰で立ち居振る舞いも完璧な王太子』、人々の望む姿を演じていた僕は、自分の意思で笑った事がなかったから。
入学した学園で一人の令嬢と出会った。
田舎から出てきた彼女はよく笑う素直な子で、身分なんて関係ないように無邪気に振る舞う彼女は、いろいろな表情を僕に見せてくれた。
僕の理想の姿がそこにあった。
彼女と居れば僕もいつか笑える日が来るかもしれない、そう思った。
ある時、僕の婚約者が彼女をいじめているのを知った。
人目も憚らず彼女を謗り詰る姿はとても醜かった。目障りだった。王太子妃の立場しか目に入っていないくせに僕の邪魔をするなんて許さない。
彼女の笑顔が曇れば僕が笑える日は一生来ないだろう。彼女の笑顔を失うわけにはいかない。
僕は婚約破棄を決意した。
「アレクサンドラ・ライト!あなたは私の婚約者という立場でありながら、マリン男爵令嬢に数々の非道な行いをしてきた。挙句、彼女に毒を盛ろうと計画するとは!」
「……証拠はございますの」
「貴女の字で書かれた毒の発注書を押収した。今は重要な証拠として私が保管している」
「……そうですか」
淑女の鑑であり完璧な王太子の婚約者は、昼食時の中庭という大勢の目がある中で罪を指摘されて尚、悠然とした態度でいた。その整った顔には仮面が貼り付いている。
下される罰を告げればその仮面は剥がれるだろうか?
貴族の誰もが着けている本心を隠す笑顔の仮面。その内側には金と権力への欲がこびりついている事を僕は知っている。
「この婚約を破棄する!罪を犯したあなたには国外追放という罰を与える!」
婚約者という立場に固執し彼女を醜くいじめた女が権力への道を絶たれた時どんな態度を見せるのだろうか、どんな醜態を晒して僕を失望させてくれるのだろうかと俄にわかかに期待した。
だが婚約者が見せた態度は僕の予想を裏切るものだった。
「……承知致しました、殿下」
そう言って完璧な淑女の礼で応えてみせたのだ。
今何と言った?
何故そんな殊勝な態度を見せるんだ?
彼女にしていたのと同じように憤慨し、口汚く僕を罵るのではないのか?あるいは泣いて追い縋り、醜く浅ましい姿を見せるのではないのか?!
「……何を企んでいる」
「え?」
「貴女は王太子妃になりたいんじゃなかったのか?だから彼女を虐しいたげたのではないのか!?ならば何故そんな簡単に受け入れられる!貴女は一体……!!」
「フシャーーーッッ!!」
「うわっ!」
僕の言葉を遮るように突然大きな猫の鳴き声が辺りにこだましたかと思えば、大量の紙が視界を埋め尽くした。
「あ……あなた達……」
気付くと三匹の猫が婚約者の周りにいた。その中の一番小さな猫は婚約者を守るように僕を威嚇している。先ほどの鳴き声はあの猫のものか。どこから迷い込んだのか知らないが、まあいい。
それよりも気になるのは、
「なんだこの紙は……」
「……!だめ!殿下、見ないで!!」
足元に積もるように散らばったそれを拾い上げれば、紙に気付いた婚約者が珍しく声を張り上げた。
そこに書かれていたのは見知った婚約者の字で記された婚約破棄計画だった。
マリン男爵令嬢に毒を盛ろうとしている事と毒の発注書を僕に発見されるよう仕向ける事。そしてその罪で自身は婚約破棄され国外に追放される事。それが婚約者の立てた今回の騒動の計画だった。その後は母親の故郷である隣国の田舎で暮らす手筈だったようだ。
「……全て、君が仕組んだ事だったのか」
「僕は君に踊らされていた訳だ!君は王太子妃になりたかったわけじゃなく、ただ僕と婚約破棄がしたかっただけなのか!」
自嘲に顔が嗤う。なんて道化なのか、全て婚約者の手の内だったとは!
「自身の身分を差し出すほどに僕との婚約が嫌だったとは……」
「ナアァ!ンナッ!!」
顔を勢いよく上げ、何か言いたそうにした婚約者に代わるように子猫が何事かと鳴いた。タシタシッと片足を床に打ちつける素振りはまるで、他の紙も見ろとでも言うようだ。
「……なんだって言うんだ……」
そう考えた自分に呆れつつも紙を拾い上げる。
婚約者が息を呑むのがわかったが、それを宥めるように黒ぶちの猫が婚約者の足にジャレついていた。
それはなんて事ない日記だった。いや、日記というよりただ紙に書き殴っただけのように思える。そこには学園の隅で猫の一家を見つけた事とその愛らしさがつらつらと書かれていた。
こんなものを見せたかったのか?馬鹿らしい。
だが次に書かれていた事は、そんな僕の甘い考えを殴り飛ばすかのようなものだった。
──わたくしの話を聞いてくれるのは彼らだけ。
本当は悲しいの、殿下が彼女と仲良くしている事も、彼女に意地悪をしなければいけない事も。
でもわたくしがやらなければ他の誰かが彼女をいじめてしまうわ。万が一にでも彼女が傷付けば殿下が悲しんでしまう……
だからわたくしがやるの。できるだけ人目につくところで、できるだけ大袈裟に見えるように。
わたくし一人で相手をしたいと言えば他の皆は手を出さないわ。
辛くてもやらなくちゃ。だってそれが……
「なんだこれは……」
そこにはまるで僕やマリン男爵令嬢の為に不本意ながらも彼女をいじめていたかのような事が書かれていた。
……いや、実際そうなのだろう。
婚約者を差し置いてただの男爵令嬢が王太子の傍に居る事に多くの者が反発している事は知っていた。だがそんな事は僕が彼女を守ればそれで済むことだと思っていた。
まさか婚約者に守られていたとは露ほども思わなかった。
だが、なぜ婚約者はそんな事を?
その答えを探すように足元の紙を拾い上げては目を通していく。面倒になってとうとう地面に座り込む姿はとても王太子のそれでは無かっただろうが、そんな事は全く気にならなかった。ただ、目の前に散らばる婚約者の文字だけを追った。
──陽光のように煌めく蜂蜜色の御髪、太陽の光を湛えた黄金色の双眸、整った顔立ちの彼にわたくしは初めて会った時から惹かれている。
そのお顔が笑顔に満ち溢れる日が来るのなら、その為にわたくしはこの身さえ捧げられる。
──わたくしの妃教育がはじまった。つらいけれど弱音なんかはいちゃだめ。
いずれ王太子になる御方の婚約者として恥ずかしくない淑女でいなきゃ。
──はじめて殿下にお会いした!
とてもすてきな方、彼が婚約者だなんて、なんてうれしいの!
きんちょうしてしまったけれど、上手にあいさつできたかしら?ちゃんと笑えていたかしら?
幾日も幾年も、書き込まれ積み上げられた彼女の思いの中から拾い上げたそれらには、僕への溢れる想いが刻まれている。それはともすればまるで恋文のようにも思えた。
婚約者が僕に宛てた手紙のどれもが、形式的な物でしかなかったというのに。
「これが……君の本心なのか」
「……ッ……見ないで、ください……」
顔を赤らめその藤色の瞳を涙で滲ませた婚約者が、震える声でそう小さく呟いた。
その姿を見た瞬間に理解した。
婚約者は僕を愛している!
僕の幸せを日々願う程に。その為に身を捧げる程に。
だが、だったら、だったら何故、
「……何故言わなかった!おくびにも出さないで、こんな紙に書き殴って、何故一人で……!」
言って欲しかった。教えて欲しかった。
紙に書くくらいなら、猫に言うぐらいなら、一人で抱え込むくらいなら!
僕に伝えて欲しかった……!
けれど婚約者は、貼り付けたあの顔で静かに告げた。
「だって、殿下はわたくしのこと嫌いでしょう?」
その言葉に、息が詰まる。
婚約者だったあの子は悲しそうな笑顔を見せる。
「違う、僕は、」
僕はそんな顔が見たかったわけじゃない。
「良いのです、殿下。わたくし分かっておりますから」
ひらり、と一枚舞い降りた紙が手に収まった。どこかに引っかかっていたのだろうか、それに書かれていたことは……
──殿下はいつもつまらなそう。わたくしといる時も……
殿下を楽しませてあげたくていっぱい喋りかけてみたけれど、澄ました笑顔で応えてくれるだけだった。……貼り付けたような笑顔。
わたくしではダメなのだわ。きっとわたくしは彼に嫌われている。
彼女は彼を幸せにしてくれるかしら?彼は幸せになれるのかしら?
……本当は、わたくしが幸せにしてあげたかった。
彼の幸せを願っておきながら、他の人と幸せになる姿は見たくないだなんて、わたくしもわがままね。
「お別れですわね、殿下。……傍にいられなくて、ごめんなさい……」
そう言って、悲しくなるくらい眩しい陽光の中で微笑んだ顔は、いつか見たものと同じだった。
遠い記憶。忘れようと思っていたのに、何故今更そんな顔を見せるんだ!
「違う!僕は、僕は本当は……ッ」
「クリストファー様……」
不安げな声で後ろに控えていたマリン男爵令嬢が声を掛けた。
マリンを婚約者にしようと考えていた。彼女を誰にも害させないように、二度と彼女の笑顔を失わないように。そうすればいつの日か僕も笑えるはずだから、と。
けれど、なんて思い違いをしていたのだろうか!
彼女じゃない、彼女じゃなかった。
こんな事に今頃気付くだなんて!
「……めだ」
僕が本当に望んでいたのは、僕が見たかった笑顔は、彼女じゃなかったんだ!
「駄目だ!行くな、行かないでくれ……」
僕が見たかった笑顔は、僕を笑顔にできるのは、あの子しかいなかったのに!
「アレクサンドラ……!」
声も、無様に伸ばした手もあの子には届かない。
行ってしまう、行ってしまった。あの子はもう僕の婚約者ではない!
ああ、僕は、なんてひどい間違いを犯してしまったのか!本当に望んでいた大切な物を自らの手で捨ててしまった!!
「ミャア」
あの子が残していった気持ちに埋もれ、絶望と後悔に打ちひしがれる僕に猫の鳴き声が届いた。
あの子と共に行かなかったのだろうか、目の前に一匹の大きな白い猫がいた。
ジッと見つめてくるその瞳は、どこか懐かしさを感じる不思議なものだった。
──僕はこの猫を知っている。
不意に世界が暗転し、眠るように意識が暗闇に溶けていった。