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没入だけが感動じゃない。

 機能的非識字という言葉があります。まあ、もっとわかりやすい、機能的文盲という言葉もあるのですが。……なんていうか、文盲という言葉を使うと、一気にこう差別的というか侮蔑的というか、そんな香りが漂いはじめますよね。


 この機能的非識字という言葉、wikipediaでは「日常生活において、読み書き計算を機能的に満足に使いこなせない、文字自体を読むことは出来ても、文章の意味や内容が理解出来ない状態を指す。」と説明されています。要するに、文字は読めるんだけど話は通じないとか、そんな状態ですね。


 うん、まあ、このエッセイを読まれている方で、自分がこれに該当すると思っている方は少数派だと思います。


……ですが、そうですね。残念ながら私は、それなりの頻度で機能的非識字という状態に陥ります。


 例えば、一番わかりやすいのは難しい書物を読んだ時でしょうか。過去に読んだ「人工生命」という科学ドキュメンタリー、当時の私にはとても難解な本でして。正直、困難を通り越して半ページごとに眠気を誘うという、本当に恐ろしい本でした。


 同じ文章でも、ちょっとしたことで読みにくくなる、そんな時もあります。私が好きなあるマイナー作品に、普通に読むと読みにくいけど縦書きPDFを通して見るとやたら読みやすくなるという作品がありまして。まあ、私にとっては、その手間をかけるだけの価値がある作品なのですが。


 全く同じ文章でも日によって内容が読み解けなくなる、そんな時もあります。一番わかりやすいのは疲れてるときとか、眠いときとかでしょうか。まあ他にも体調が悪いときやちょっとした隙間時間を使って読むときとかも、そうなりがちかなと。


 何というか、機能的非識字という言葉をネットで検索すると、世の中には「話が通じる人」と「話が通じない人」の二種類がいて、この話が通じない人のことを「機能的非識字」というみたいな説明が出てきますし、多分そんな理解のされ方になっているような感じがします。ですが、決してそんな言葉ではありません。


 同じ人でも日本語が読める状態になったり読めない状態になったりと、二つの状態を行き来します。人間はちょっとしたストレスや感情の変化で機能的非識字、文字を追えて内容も理解してるのに頭に入ってこないという状態に陥るのです。


……とまあ、ここまで書けば、何となくピンとくる方もいると思いますが。


 このなろうで一般的に「読まれる」と言われている文体は、結果として、この機能的非識字という状態に真正面から取り組んだ文体になっていると、私は思っています。


……いやまあ、意識してそうなったのではないと思いますけどね。でも、スキマ時間や通勤時間に習慣的に読まれることを想定して、あまり集中しなくても読めるようにと意識して書けば、自然とそういう方向に進化することになるのかなぁと。


 結果として、このいわば「なろう文体」とでも言うべき、明らかに普通の小説とは違う文体で書かれた作品が、今ではなろうのランキングを席巻していると思います。


  ◇


 なろうで読まれる文章の条件を上げていくと、以下のような形になると思います。


1.一話あたりを二、三千字程度にする。

2.一人称主体の文章で書く。

3.一文には一つのことしか書かないようにする。

4.出来るだけ平易な文体で。流し読みできると吉。

5.世界観はナーロッパで説明は簡潔に。

6.風景も必要最低限にする。

7.でも、キャラの容姿は説明する。


 と、これを全部守らないといけない訳でもないと思いますが。ただ、通常の「小説の文体」ではちょっと考えられないような考え方だと思います。前半はまだわかると思いますが、後半はね。流し読みできるようにとかナーロッパとか、何だそりゃみたいな感じですよね。


……いやまあ、個人的にはナーロッパである必要は無いというか、ナーロッパ以外書けないのはちょっと問題だろうと思うのですが。ただ、ナーロッパ以外でナーロッパと同じように読める作品を書きたいのなら、挿絵か何かで情報を補完してあげないと無理かなとも思います。


 逆に言えば、挿絵を適切に使えば、(少なくとも視覚的な要素は)ナーロッパである必要はないと思うのですが。これはまあ、端末の通信料や通信速度とかも絡んできますしね。ちょっと難しいのかな、とも思います。


――と、何だかわからないことを言ってしまいましたが。要するに「ツイッターのノリで読める小説」を目指せばいいと、個人的にはそう思っています。


  ◇


 ツイッターで、美しい風景を見たからといって、それを文章で説明しようとする人って少数派じゃないですか。普通は写真を一枚撮って、それをアップしますよね。で、文章は「綺麗な街並みでした」で終わらせると。基本的にはそれと同じノリです。


……その考え方だと、キャラの容姿もいらない気がしますが。まあそこは小説ですし。絵本や漫画じゃないんだから、できるだけ文字で表現しないと、文章の楽しさとは違うものになってしまうということで。


 流し読みはね、正にツイッター感覚ですよね。タイムライン全てを没入して読む人ってあまりいないじゃないですか(多分)。リストとかを駆使して必要な情報を抽出したとしても、一つ一つのツイートは流し読みですよね。で、気に止まった文章で立ち止まって「いいね」をすると。


――と、なんかわかった風なことを言いつつ、実のところ、私はあまりそういう文体に興味が無くてですね。正直どこまで本当かなと自分でも思ってたりするのですが。


 それでもまあ、「なろう文体」は、「小説の文体」よりもツイッター的な、本気になって読むわけじゃないけど中毒性もある、そんな感じの書き方をしていると、私は思っています。


  ◇


 まあ、賛否両論ある方が健全なのでしょうね。何せそれまでの小説は、集中して読む文章でしたから。読み進めていくうちに集中して文字を追い進め、読み終わると同時に集中を解いて一息つく。そこで、「文章を読む」という仕事から解放された脳が感情を動かす。そうやって、没入と余韻を繰り返して、全ての文章を徹底的に味わい尽くすような、そんな読み方をしていたわけです。


 ここから没入を抜いて軽く読めるようにして、要所要所で「いいね」を感じるような書き方をしているのがなろうの文体だとすれば、そりゃあ、元々の小説を好んでいた人から批判の声が出るのもわかります。だって没入を捨てたら感動もできないというのが、「小説の文体」の常識ですから。「なろう文体」では感動なんてできないだろうと、そう思われても仕方がないと思います。


――でもね、人間って、つまらない文章を読み進めることなんて、できないと思うんですよ。


 心を動かさない、好奇心も満たさないような文章って、読んでも頭の中に入ってこないんですよ。目が滑るんです。それは、皆そうだと思います。なろう文体もね、面白いから読まれてるんです。心を動かしてるんです。そうでなければ読まれません。


 本当の意味でつまらない文章なんて、誰も読まないのです。


  ◇


 ただ、軽く読めるような書き方に極振りするのもどうなのでしょうね。個人的には、そこからしっかりと集中して読ませる、ツイッターでいう所の「連ツイ」や「記事のリンク」に該当するような、集中して読むタイプの文章も織り交ぜていくことを考えないといけないのかな、とは思います。


 多分、できる人は無意識のうちにやってるのですが。うん、そのあたりどうやるんだろう……って、いや、私は「小説の文体」で書きたい人でした。うん、危うく(自分にとって)無意味な考察を始めるところでした。


 危ない、危ない。


  ◇


 そんな訳で。私は「なろう文体」が「小説の文体」と比べて優劣があるとは思っていません。どちらも物語を綴ることのできる文体で、性質が違うだけかなと。実際、「小説の文体」で書くからって、全ての文章を全力で没入させるように書こうなんて考えませんからね。一話の文字数と大段落の文字数を考えて、何というか、リズムみたいなのは意識します。


 読み進められる文章には、一種の中毒性が備わっていると思います。先ほどは「なろう文体」をツイッターに例えはしましたが、現実にツイッターほど軽く読める訳でもないと思います。ただ、その中毒性はツイッターに似ているのかなと。


 リズムや文章のかたまりの大きさに気を配り、可読性を上げて文章を読み解く労力を下げて均一化する。そうして、読み進める速度を一定にして「文章を読み進める」という行為から中毒性を生み出すのが「なろう文体」、前後の文章に関連性を持たせて情報の密度を上げることで「文章を読み解く」ことに集中させて、その集中から中毒性を生み出すのが「小説の文体」だと、そんな違いなのかなぁと。


 なろう文体と小説の文体の違いは、その中毒性をどうやって出すのかという違いだけで、そこまではっきりとした境界線は無いのかなと、そんな風に思っています。


  ◇


 ただ、この「読み方の違い」は、作者、読者共に、少し注意した方が良いと思います。


 これは過去のエッセイとかの感想で感じたことなのですが。日間エッセイランキングを飛び出して日間総合ランキングとかに突入すると、なんというか、感想を書き込む層が変わるという実感はあります。そうですね、上位層にいけばいくほど(と言っても最高でも日間総合で100位台なのですが)短文を好み、空気を読む傾向があるように思えます。


 例えば、文章のちょっとした言葉遣いを、感情表現として読む傾向が強い。一人称だと、「○○なんか」と書くと、それがそのまま主人公の感情表現になったりするのですが、それと同じような感覚で文章を見ている人がまあ、それなりにいると感じます。


――なのでまあ、今回のエッセイのタイトルにも、わざと「ランキングなんて」と入れてみた訳ですが。


 私にとって、ランキングって価値のある場所じゃないんですよ。ランキングに載るためには自分の思う所をそれなりに曲げないといけないし、そこにある作品が私の好みじゃないことも知っている。なので、私にとって「ランキングなんて」という表現は、決して嘘偽りはありません。


 ですが、これが「感情表現か」と言われれば、明確に違います。タイトル自体、かなり自身を客観視した上で書いています。だいたい、本当に感情的になっている人は、「感想欄が荒れたので、言いたいことを好きに書いてみた」なんて、自分は怒っているからこういうことをするんだといちいち説明したりしません。


――もちろん、わざとそういう表現を選んだのだから、「挑発的な表現」だとは思いますけどね。でも、それって「私の感情を表現したもの」とは、ちょっと違いますよね?


 だから、このタイトルから何を感じるか。挑発のような意思を読み取るか、怒りが漏れていると読み取るか。普段、自分が文章の何を読んでいるのかを判断する材料になるのかな、なんて思いますが、どうでしょうか。


  ◇


 ランキング作品でストレス耐性が問題になったり感想欄が荒れがちになる原因の一つに、この読み方があると思います。タイトルで話の流れを説明した上で、流し読みでも話の展開が追えるような文体で書かれてますからね。読み方として、感情を読み取る方に注力することになってもおかしくは無いと思います。その結果として、ちょっとした言葉遣いから感情を読み取ってしまい、本当に感情をぶつけられた時のような反応をしてしまうと。


……これ、物語の文章としては利点だと、普通に思いますよ。読者の感情を揺さぶりやすいということですから。ただ、小説の文体と比べるとこう、「物語から感じる感情」と「生の感情」が区別しにくいというか。普通なら先が気になるはずなのに読むのをやめてしまう人が出たりとか、ちょっと扱いにくい面があると思います。


 この辺り、多分本当にツイッター的なのです。ツイッターを見ていると中毒性が先に走って判断力が落ちる、……というか、バカになる。ツイッター利用者な方、そんな経験ありませんか? 私はあります(笑)


 普通の文章だと、感情が動けば機能的非識字になる。そこで文章を読み進めることができなくなって感情を整える。でもツイッター的な文章だと、感情が動いて機能的非識字になっても文章自体は読み進めることができてしまう。


 この「小説文体(普通の文章)」と「なろう文体(ツイッター的文章)」との違いは、多分、色々なところで断絶みたいなのを生む元になっていると思います。


  ◇


 ツイッターだって、今までいろんなことを引き起こしてきたじゃないですか。過去にバカッターみたいな現象を引き起こしたし、特徴的な対立も生みました。同時に、それまで見えなかったものを可視化してきたのも事実です。


――なろうでないと生まれないような物語が生みだされた、その理由の一つには、この「なろう文体」もあると思うのです。


 なろうには「なろう文体」を読みやすいと感じる層と、「小説文体」を読みやすいと感じる層がいて、一部では混ざり合っていると思います。ですが、自分の好まない文体を「日本語としてどうか」と感じている人も多くいるように感じています。


 でも、多分それは違うのだと思うのです。もちろん人によって上手い下手はあると思います。ですが、好まれるのにはそれだけの理由があって、それはどちらも大切な、目指すべき価値のあるものだと思うのです。


 例え自分に理解できなくても、その文章を好んで書く人がいて楽しむ人がいる。それは否定されるべきではないし、けなされるべきでもないと、私は思います。

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