ざまあ批判は、ランキングのファンによってなされている。
先日私は、『なろうの底は、ランキング1位よりも「響く」作品であふれてる。』というエッセイを投稿しました。正直、執筆した時点では認識していなかったのですが、このタイトルや書かれている内容が、一部の人には喧嘩を売っているように見えたのでしょうね。私としては、かなり前向きなエッセイを書いたつもりでいて、だからこそ感想欄をログインユーザーに限定せずに誰でも書き込めるようにしたのですが、ちょっとした数の非ログインユーザーから、攻撃的な感想が書き込まれることになりました。
――とまあ、一言でいうと「図らずも炎上商法をしてしまった」ということなのですが。
まあ、どうなのでしょうね。タイトルを見て本文を読んで、それでも納得できずに感想欄に否定的なことを書かれた人だけでなく、本文を読んで納得して評価をしていただいた方もいるはずですので、一概に失敗だったとは言えないとも思っていますが。それでもちょっと、必要以上に感想欄の空気は悪くなってしまったのかなぁとも思っています。
ただねぇ、あのタイトルや内容にどうしてそこまで否定的な反応をするのか、未だに「感覚としては」良くわからないのです。
――いやまあ、理屈としては理解していますし、納得もしていますけどね。感情が追い付かないというか、そんな感じでしょうか。
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最近エッセイランキングでよく見るようになった「ざまあ」という言葉、批判的な論調で語られることが多いと思うのですが、この批判、主にランキング作品を好む層によってなされていると思います。別にそのことは不思議なことだとは思いません。それどころか、作品を読んでいない層によって批判がなされるよりも遥かに健全なことだと思います。
――ですが、その反論として当然あるであろう、「ざまあ」の面白さについて語った意見をほとんど見ないのは、どうしてなのでしょう。
ざまあに対する批判に反論するのなら、ざまあに対する面白さを主張しないといけないですよね。なのにその主張がほとんどない。それどころか、「ランキングに載っているということは日本語として成り立ってる」とか、そんな言葉を見てしまいまして。
ええ、確かにそういう見方もあると思いますよ。「日本語として成り立ってる」が、自分の好きな作品に対するほめ言葉だと思ってるのなら、本気で危ないと思いますが。
基本的にランキングに載っている作品の日本語は、より多くの人に読まれるためにかなり平易な文体を採用していると、私は認識しています。その「平易な文体」というのを「日本語として成り立ってる」なんて表現するのはかなり自分本位な判定だと思います。実はこれ、書いている作者のことをバカにしていませんか?
なんか、テンプレさえ書けばランキングに載るとか思われてるみたいですが、そんな訳はありません。なろうのランキングはプレイヤーに対して極めて少ない席しか用意されていない、かなり過酷な椅子取りゲームです。その椅子取りゲームに勝とうと思ったら、生半可ではありません。
少なくとも序盤は毎日更新、一話あたり二~三千字程度にまとめて、平易な文体で書いて、可能であれば流し読みできるようにもする。世界観はナーロッパで説明は可能な限り簡潔に。風景描写も省略気味にして、でも容姿はちゃんと説明する。その上で読まれるテンプレ(ざまあ等)を採用して、読む前にどんな話なのかをタイトルで説明する。読みやすくするためにこれだけのことをして、ようやく勝負に参加できる、そんな世界のはずです。――これ、言うほど易しいことではないと思います。
――この努力を「日本語として成り立ってる」なんて表現するのは、やっぱり作者をバカにしてると、私なんかはそう思うのですが。なんて言うか、好きな作品の作者にマウントして自尊心を満足させているような、そんな空気すら感じます。
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まあ、それでも別に、ランキング作品愛好家たちの間でそう言いあってるだけなら構わないと思いますが。
でもね、たまたま比喩表現として『なろうの底は、ランキング1位よりも「響く」作品であふれてる。』というタイトルをつけたエッセイに突撃して微妙な感想を残すのはどうなのでしょう。
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創作活動というのは、極端な話、作り手と受け手という二人の人間がいれば成り立ちます。何ていうのかな、作品が産声を上げるのって、書き上げたときではなくて誰かに見てもらえたときという感覚がありまして。で、その「見てもらえた人」に喜ばれるのなら、その作品には生まれてきた価値は確かにあると、そんな想いを文章化したエッセイでした。
そんなエッセイから、ランキングへの敵愾心を勝手に読み取って感想欄でぶつけてくる。それが、ランキング作品に対する想いを文章にしたものならまだ良いと思いますよ。でも現実に書き込まれたのは、「なろう作品」や「ランキング外作品」をけなすような内容ばかりでして……
『スコップした”なろうでは”面白い作品も一般書籍レベルの評価で言えば10点満点で3~4点』『素人が難しいことをするとって奴は基本的に無理、プロっぽい真似事した作品読むぐらいなら本屋行きますわ』『読み手のことを考えないから文章が汚い』『パクリ』『底辺作品は読み物のレベルに達していない』『プリンに例えると型を使わずに原液→形無し→ほぼゲ〇、底辺作家の作品は残念ながら形無しです』……
ああ、そうだ。「感覚的なエッセイで何かを比較するの止めた方が良いですよ。根拠無く下げてる方は誹謗中傷と変わらないから」なんて言葉もありましたね。本当にその言葉が正しいのなら、「ウチの子は世界一かわいい」という言葉は全人類(ウチの子除く)に対する誹謗中傷になると思うのですが。うん、ちょっとどうかと思うよね、やっぱり。
――反感を覚えたからといって、自分の好きじゃない作品をけなしてどうするのかと思うのですよ。
せめて、「ふざけるな、ランキング作品は底辺の一万倍は面白いに決まってる! だから読まれるしポイントも付いてるんだ! ランキング作品とそうでない作品には超えられない壁があるのは当然だ!」とか言えば良いのにと。
たとえ同じことでもね、人をけなす表現と自分の熱意の表明はね、後者の方を選んだ方が良いと思います。人をけなす表現に共感して集団をつくってもね、あまり良いことはないですよと。
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ちょっと久しぶりにエッセイが月間ランキングに載ったことで、他の方のエッセイやその感想欄も覗いてみて。で、色々なことを思ってしまいまして。ちょっと自身のエッセイの感想欄で思ったことも交えて色々と吐き出しておこうかなと、こうして筆を執ってみました。
――ただ、感想欄の、ログオフユーザーの程度の低い書き込みには食傷気味ですので。もう感想欄を閉じたままで、好き放題に言葉をぶん投げても構わないよねと。
前回、特に喧嘩を売った訳でもないのに初手から論点をずらした批判を浴びましたからね。あれはホントにうんざりしました。というか、論点がずれてる時点で批判じゃないと思いますが。なのでまあ、たまにはこういうのもアリかな、なんて思います。