マスク
新型コロナウイルスのせいで世の中の人間みんながマスクをしているのを見て、おれはマスクをするのが無性に嫌になり、マスクをしないことにした。
手始めに口元から今しているやつを引っぺがしてゴミ箱に入れ、ついでにテーブルの端の籠のなかに重ねてある四枚のマスクも捨てた。もうしないと一度決めたら、家のなかに一枚でもマスクがあることに勘弁ならなくなる。
そこで体温計やバンドエイド、前に風邪をひいたときにもらってこっそり貯めこんでいる抗生物質の飲み残しなんかを入れてるプラスチックの青い救急箱を開けると、おう、あるある。
コロナが流行る前に買った五十枚入りの使い捨てマスクがひと箱、ビニールも剥がしてない状態で見つかった。試しにネットで見たら、五千円の値がつけられてやがる。おれが買ったときは五百円くらいだったのだが。
これは捨てるのがもったいないが、おれはシャチョーと違って、転売なんて外道なマネはしない。こんなおれでも人様のためになれることを証明すべく、このマスクは玄関を出て、真っ先に出会った人間に無料進呈することにした。
人のためになることへのワクワクを抱えながら、おれが最初に出くわしたのは外回りの営業中らしい、たぶん入社二年目くらいの若い兄ちゃんだ。しているマスクはかわいいウサギちゃん柄の手作りマスクだから、こりゃあ、彼女がいるな、と思い、おれは兄ちゃんにマスクをくれてやることにした。
「兄ちゃん、マスクいらないか?」
「え?」
と、けげんな顔をしたので、
「おっと勘違いしてもらっちゃ困る。別に売ろうってんじゃない。タダでやるよ」
ますますけげんな顔になる。
「どうして、その、僕にマスクをくれるんですか?」
「深い理由はない」
「でも、そのマスク、その、こんなこと言って怒らないでほしいんですが、――なにかしてあるんじゃないですか?」
「おいよく見ろ。これ、ビニール包装してあるんだぜ? 工場から出荷されてここまで人間の手は触れてないって代物だ。な、もう一度、よーく考えてくれ。末端価格五千円の使い捨てマスク五十枚。タダで手に入るんだぜ?」
「注射とかしてないですよね?」
「あのな、注射器ってのは医療機関しか手に入れられないの。おれが医者に見えるか?」
「えーと?」
「とにかく、このマスク、もらってくれよ」
「あの、すみません。僕急ぐので」
欲のない若者である。
次に出くわしたのは近所のおばちゃんだ。
といっても、半径徒歩五分以内の家に住んでるらしいってだけで言葉を交わしたことはない。もちろん名前も知らない。ただ、いつも白い柴犬を散歩させている。
マスクいりませんか?とたずねたら、新型コロナウイルスでも見るような目をして、おれのことを避けていった。おれはちょっぴり傷つき、そして、めんどくさくなってしまった。近所の公園のベンチの上にマスクを置いた。欲しいやつが拾えばいい。おれはもう知らん。
いま世のトレンドは時差通勤にある。おれもたっぷり時差通勤することにした。みんなが時差通勤しているのだから、マスク同様、時差通勤もやめちまうべきなのかもしれないけど、でも、人間、自分で決めたルールを好き勝手に破らないのなら、なんで神さまは意志とか精神を人間に与えたもうたのか。まあ、考えてみてくれ。
ところで、おれはマスクをしない男。つまり、危険人物だ。アウトローだ。おれはビリー・ザ・キッドであり国定忠治だ。アル・カポネであり石川五右衛門だ。ルパン三世だ。次元大介だ。峰不二子だ。
時差通勤さまさまで座って出勤ができる。おれが座るとマスクの無いおれを感染リスクとしてとらえた隣のねーちゃんが別の座席に移動した。すると、おれはあまのじゃくなもんだから、ねーちゃんを追尾してまた隣に座ってやった。ねーちゃんはおれのこと、物凄い目で睨んできたけど、おれはどこ吹く風だ。そのうち、ねーちゃんはまた移動した。バカなやつだ。肉食獣は逃げる獲物を追いかけるよう本能に刻み込まれているのだ。おれは根っからのピラニア野郎だから、しつこく追いかける。そのうち、おれが降りる駅に着いたので、おれはこのくだらねえ遊びを切り上げて、電車を降りた。
しかし、世の中狂ってる。あのねーちゃんがひと言『やめてください』と言えば、メンタルが豆腐みたいにもろいおれのことだから、自分からねーちゃんと距離を取っただろうに。まるでコロナにかかることよりも自分の口で自分の言葉を話すことを恐れているようだったじゃないか。どうもコロナ禍は人間のオツムの構造に決定的なダメージを与えるらしい。
駅から仕事場のある倉庫までテクテク歩いているが、マスクがないというのはいいものだ。どこかにお買い得マスクがないかってそのことばかり考えて生きるのとはすっぱりと縁を切ると、脳みそに空き容量ができる。つまり、脳みそがスカスカになるってことだ。
おれの会社は零細企業でいまはマスクの転売で稼いでいる。倉庫にはマスクの箱がうずたかく積まれ、五十枚一万円の相場を待っている。この外道商売の陣頭指揮を取っているシャチョーなる人物はもう本業は捨てて、すっかりマスクの転売に夢中になった。世の中、外国為替の寸止め取引で全財産とかすやつも多いが、シャチョーはマスクに全財産をつぎ込んでいる。
ところで、うちは零細企業だから組合がない。まあ、それは悪いことではない。春闘と書かれた鉢巻(略して春巻!)してエイエイオーとかぎゃあぎゃあわめき、組合組織の維持費を給料から天引きされてむしろ給料が減ってるなんてアホみたいなことはない。男一匹、自分の賃金アップは自分でやるものだ。おれはたぶん三万回目くらいになる賃上げ交渉を始めた。
「シャチョー。給料上げてください。月百円」
「お前、なに言ってるんだ? うちがトヨタ自動車を子会社にでもしてると思ってるのか? ただでさえコロナの影響で運送の仕事が減ってるのに月給のベースアップなんてできるわけないだろ」
「でも、マスク転売で儲かってるでしょ?」
「そんなもん、トントンだ」
と、言ってるシャチョーの左右の手首には真新しいロレックス。
シャチョーがいなくなると、おれは会社の看板と積み上がったマスクの山を同じフレームに納めきれる絶妙な位置でスマホのシャッターを切り、『摘発! これ、単価一万になるまで寝かせておく予定です』とだけ題名を打ち、SNSにアップする。
自分で底を破った船にいつまでも乗っているほど、おれはおめでたくないので、さっさと作業着を脱ぎ、倉庫を出ていき、途中で会ったやつ全員に「おれはやめるぜ。お前らも早く脱出しな」とあいさつし、事務所には今月八日分の給料を払えと脅しをかけた。そのまま、コンビニに行くと、飲料会社の国民総アル中化計画の尖兵であるストロング缶の500mlを買い、それを飲みながら駅へ歩く。いまのおれは世界で一番クリーン・マン。なにせ口のなかを絶賛アルコール消毒中だ。あっはっは。おれはいつもストロング缶を買うとき、500ml缶を買う。だが、どうしても途中で飽きちまって、150mlくらい残っているところで捨てちまう。なら初めから350ml缶を買えばいいのだが、500mlのほうがお得だし、それに買うときは飲みてえ!って気持ちのほうが強くて、つい500ml缶を買ってしまう。で、残す。500-350=150ml分の愚かさ。ただ、世間はアルコール消毒をもてはやしてるわけだし、我慢して飲もうとするが、最後のほうはうがいに使ってしまう。
そういえば、酒蔵やブルワリーの持ち主がアル中になったって話をきいたことがないがなんでなんだろうな。裏ビデオ屋のダビング係がうんざりして女の裸に興味が持てなくなるように、酒にうんざりしてしまうからだろうか?
家に帰る途中、警官が道を塞いでいた。なんでも公園のベンチに不審物が置いてあると通報があって、爆発物処理班が呼ばれているらしい。おれがベンチにマスクを置いたときはそんなもんなかったが。まったく恐ろしい話だ。
コンビニで500mlのストロング缶を買い、コンビニでバイトしているチェペと世間話をする。チェペは新型コロナウイルスにマジでびびっていて、故郷のエルサルバドルに帰ろうかどうしようか迷っている。エルサルバドルには新型コロナウイルス患者が五十人しかいないらしい。
歩きながら飲み、ストロング缶にまた飽きてきたころ、三十歳くらいのえらくちんちくりんな女がおれのことを糾弾してきた。マスクをしていないのが気に入らないらしい。
「なんだなんだ、自粛警察かよ」
「あなたがマスクをしないことでどれだけの毒をばらまいてるか、自覚はないの?」
「毒ってこれのことか? ゲホッ、ゲホッ!」
おれは空咳を自粛警察に浴びせかけた。
「ぎゃっ! なんて非常識なんでしょう!」
「おれが非常識だってか? 本物の非常識がどんなもんか知らんくせに。なんなら、教えてやろうか?」
警察は公園の爆発物騒動にかかりきりになっているのを計算に入れて、おれは女の頭にヘッドロックをかけた。ちんちくりんはさんざんジタバタしたが、耳がだんだん赤くなり、ぐったりしたところで放してやった。
今度から偏頭痛に見舞われるたびにおれを思い出せ、と捨て台詞を吐いて、ストロング缶をぐびりとあおった。まずい。なんで、こんな甘っちょろいもんを飲みたいなんて思えるんだろう? おれはどうかしてたんだな。
ただいま、マイ・スイート・ホーム!
今日も一日いいことをした。だからといって、神さまがおれになにかくれるもんじゃあない。おれが女だったら、ご褒美に王子さまがあらわれて、頭からティアラ生えちゃいそうな甘ーい言葉をくれるのかもしれないが、おれは男一匹、ひとり暮らし。おやすみなさいをする前に未曽有の殺人ウィルスと戦うためにネット・オークションで見つけたフィンランド陸軍下ろし売りのガスマスクの入札ボタンをポチリと押す……。