貴女は「ディートリンデ」ですか?
「エフィ、君がとても聡明で清らかな令嬢であることを前提に相談がある。どうか私との婚約を忘れてはくれないか?」
「……何故で御座いましょうか?」
突然、会場の中央──から、僅かに外れた人集りの中心でその言葉は響き渡る。
今日、この日、とある国の学園で夏期間へ向けた長期休暇の前に、寄付をしてくれている貴族たちに向けての謝礼会として学園内にあるホールで舞踏会が開かれていた。終始和やかな空気が流れていた最中、その場の空気を一瞬にして凍りつかせたそれは要約するなら「君に非はなく、私自身の勝手になるが婚約破棄をしたい」という事だろう。当然、その言葉を言い渡された相手方の令嬢、又の名をエフィリア・オートマタールはこの国きっての名家、オートマタール公爵家の長女は突然の出来事に一瞬扇を取り落としかけたがすぐさま気を持ち直すと悠然と問い返した。
「レオ様、対応次第では廃嫡もあり得るのですよ。其れ相応の理由がおありと見てよろしいですわね?」
「ああ、廃嫡も覚悟の上で答えよう。私、レオンハルト・リグルテイルは身勝手な行いによりとある令嬢と契約をしてしまった」
途端に、まるで水を打ったかのように周囲が騒めき出す。契約という一言を聞くや否や付近に配備されて居た守衛が慌てて駆け出す様も見るからに、この事は王や王妃にすらまだ知られていない事実なのだろう。
「契約」。それは本来一般の市民や貴族の間などではただの約束事なのだが、王族が口にした場合にのみ違う意味合いとなる。王族が契約を行なった場合、必ず、それこそ命をかけても果たさなければいけないいわば「真実の契約」。
もし果たされなければ、償いとして死もあり得るほどの恐ろしいものだった。
エフィリアは先程から横で心配そうに自分とレオンハルトの方を見比べる少女に大丈夫だから、と笑いかける。
お世辞にも流行とは全く無縁のドレスを着てエフィリアの背後に隠れる彼女はエフィリアのただ一人の親友だ。心優しい彼女を巻き込まないようにと、せめて己の影に隠しやりながらレオンハルトを見つめた。
「その契約の内容、詳しくお聞きしても?」
「そうだな……どこから話せば良いものか。まず、私は半年程前から学園の寮の管理人として勤務していたのを覚えているかな」
「ええ、存じております。丁度新学期が始まった頃のことですわね。私も同じように管理人として、毎回女子寮へ忍び込もうとする狼を蹴散らすのに苦労いたしましたから」
ちらりと傍観者の中にいる狼を何人か見据えてやれば慌てて誰かの背後に隠れる姿に「軟弱者めが、」と口の中で吐き捨てる。
しかしそんな折に連れ去らそうになっていた彼女と出会う事が出来たのは幸いだった。それだけは半分感謝を、半分呪いを込めて祈ってやる。
「それと同じように、私の方にも可愛らしい羊が何人か迷い込んできていた。その都度丁寧に帰していたのだが、一人だけ、何度も私の元へ訪れる者がいた」
……ああ、成る程。レオンハルトの言葉の意味を理解したエフィリアは思わず半眼でレオンハルトを見やる。このお方は、また性懲りも無く見知らぬ令嬢に惚れたのだ。しかも今回は契約付きという最悪な結果を伴って。
「エフィリアの忠告通り、私は彼女を帰し続けた。しかし、その……」
「いつの頃からか、惚れてしまったと」
「すまない、私はやはり女性からのアプローチは苦手で……彼女と何度か話している内に、「王妃にする」と契約を……」
王太子であろう方が押しに弱くてどうする!と思わず出かけた言葉を喉の奥に押し込んでからエフィリアは優雅に笑みを繕ってみせる。
「まず、契約してしまった事は仕方ありませんわね。それで。貴方と契約したという御令嬢は一体、何処のどなたでしょうか?」
「ああ、待っていてくれ。多分すぐに……」
「レオンさまぁ!」
レオンハルトが言いかけた直後、そう、なんだか途轍もなく甘い匂いを振りまいた一人の令嬢がレオンハルトの胸に飛び込んだ。
肩に腕を回し、まるで甘えるように擦り寄るその姿にエフィリアは「またこのパターンか」と頭を抱える。
「……レオ様、そちらの方が?」
「私と契約した令嬢だ。名前を、」
「レオンさま!私、自分で名乗りますわ!元婚約者様ですもの、ちゃあんと私自身から名乗らせていただかないと!」
蕩けるような声色で話す令嬢の言葉にあちらこちらでひそひそと小声で話し合う姿が増え始めた。それも当然、この令嬢はあろう事かエフィリアの事を「元婚約者」と断言したのだ。例え先の発言があろうと、書類上は未だ「婚約者」であるエフィリアに向けて。
「そう、元婚約者……ですのね」
「ええ!そしてレオンさまが次にお選びになったのがこの私、ディートリンデ・カポールです!」
「──は?」
「えっ」
彼女の名前を聞いた瞬間、エフィリア、そしてエフィリアの背後にいた少女が殆ど同時に唖然とした。思わず互いに顔を見合わせ、エフィリアが指をさした「ディートリンデ」に少女は思いっきり首を振ることで見覚えがない事を示した。
なんだか、さらに頭の痛い事が起きそうな予感にエフィリアは誰かに胃痛薬を持ってきてもらうように頼みたくなったがなんとか堪えてレオンハルトに告げる。
「レオ様」
「ど、どうしたんだエフィ、そんな怖い顔をして」
「本当に貴方がお人好しで助かりましたわ。それからこの契約、多分無かったことにできますわよ」
「本当か!」
途端にぱあっと花開く笑顔になったレオンハルトと対照的に、エフィリアの言葉を聞いた瞬間にこちらを物凄い勢いで睨んでくる「ディートリンデ」。
「エフィリア様、無駄な足掻きはどうかおやめください。王族から行なった契約は絶対のものだとこの国では誰一人知らない者はいない事実なんですよ?」
「ええ、そして、それと同時に王族の契約には公平を示すためにある条件があります」
そういえば、なんだか背後が騒がしいとちらりと少女の向こうの集団を見やるとその中に青白い顔をした汗だくの貴族が一人。
……ああ、「ディートリンデ」。貴女が一体何をしたかったのかは分かりませんが、どうやら「御家族」が来た、いえ来てしまったようですわね。
「その前にもう一度問いかけますわ。貴女は「ディートリンデ」ですの?「ディートリンデ・カポール」?」
「ええ、そうです!私はディートリンデ・カポール!「カポール男爵」の「令嬢」すら知らないんですか!」
あらあら、「ディートリンデ」様?貴女、まさか記憶喪失にでもなったのかしら。
「……存じ上げませんわ」
「なんて酷い!学園の中では誰だってびょうど……」
「ですから、貴女が「ディートリンデ・カポール」であることは存じ上げませんの。だって──」
「こちらにいらっしゃる彼女こそ、ディートリンデ・カポールですもの」
「──へ、ぇ?」
そう言って私が背後に隠していた少女を横に呼び出す。彼女も巻き込まれた以上顔を出すしかないと覚悟したのだろう。なるべくお淑やかに、いつもの活発さを抑えてしずしずと私の横に立った。
「はい。……私がディートリンデ・カポール。お父様はロンギヌス・カポール男爵で、私はその長女です」
目の前の偽ディートリンデに深々と頭を下げる辺り、ディートリンデ……いいえ、ディーはきっと彼女の本当の地位も知っているのでしょう。情報通な彼女の事だから、きっとあり得る話だわ。
「なっ、そ、そんな!嘘よ!私がディートリンデ・カポールなの!」
「ねえ、ディー。ああ言っているのだけれど、貴女はこの方の地位を知っていらして?」
「はい。彼女の本来の名は「クリミア・リトラーセ」、リトラーセ公爵の次女であるはずです」
「……成る程ね」
「違うわ!!」
とてつもない剣幕で今度はディードリンデを睨みつけたクリミアはその両腕をディートリンデに伸ばしかけた。しかしエフィリアがそれを防ごうとするよりも早く、その場に突如現れた第三者の手が彼女を掴み上げる。
「いっ……!だ、誰よ!離しなさい!」
「クリミア、私です。貴女の姉、レレイアよ」
「はあ?姉!?そんなもの知らないわ!」
そう、確かディートリンデが言うならば彼女は次女で、長女がいるのは当たり前のこと。きっと彼女もまた先程の光景を目の当たりにしていたのだろう。学校の寮生活が始まり、危険な目にあっていないかどれだけ心配したことだろう。
しかし蓋を開けてみれば──こんな事になっていた。まるでそう言わんばかりに、レレイアの表情は彼女の気持ちをありありと物語っていた。
「貴女がこんな事になっているなんて……どうして気づいてあげられなかったのか……」
「離しなさいよ!私はクリミアなんて名前じゃやいわ!ディートリンデ!ディートリンデ・カポールなの!!私はヒロインでしょ!おかしいわ、おかしいわこんなの!!」
ばたばたと暴れ始めたクリミアをレレイアが連れて来たのだろう守衛達が囲む。公爵令嬢相手に暴力で取り押さえない辺り、陛下やレオンハルトの方針がそれを成しているのだろう。素直に感心しながら、エフィリアは守衛達に睨まれながもいまだ騒ぎ立てるクリミアに契約の条件を告げた。
「クリミア・リトラーセ。地位も名声もありながら、貴女が何故ディートリンデ・カポールの名を騙ったのかは理解に苦しみます。ですが真実の契約の条件には「双方は平等であれ、故に偽り有る時契約は破棄とされる。また、騙った者には罰を」とあります。……ここにいる皆様の証言のもと、クリミア・リトラーセには王族の契約に対し偽りを騙ったとして追って罰を!守衛、彼女はまだ公爵令嬢、個室に案内して差し上げなさい」
「御意に」
守衛の一人がエフィリアに頭を下げるとそれを皮切りにクリミアはホールから退場していく。その後を王族にレレイアと、青い顔のまま胸の辺りを抑える貴族とそれを支える夫人を見かけ、お可哀想に、と心の中で哀れんだ。
「……エフィ。その、」
「レオ様ぁ?」
「あっ、その、本当にすまない!悪気はなかったんだ!」
おずおずとエフィリアに話しかけてきたレオンハルトを思わず睨み付けると今にも頭を下げそうな勢いでわずかに後退する。その様子に怒りすら吹っ飛び、エフィリアは扇の下で軽く溜息を吐いた。
レオンハルトとエフィリア、実はこの二人はある意味腐れ縁の延長線上の婚約者であり、惚れやすく押しに弱いレオンハルトを守るためにもエフィリアが仕方なく婚約者の立場になっただけの関係だ。というのも、二人は二人ともお互いに恋愛意識を一切持っていなかった。違う、それすら通り越した熟年夫婦のような関係といった方が早い。
そして何故か名前を騙られたディートリンデ・カポールは男爵家の娘でありながらあちらこちらに出向いてあらゆる情報を仕入れたがる一風変わった少女であった。それが災いしたのか、ある子息に無理やり襲われそうになったところをエフィリアに助けられて以降、違いに気のおけない親友となっていた。
勿論、情報通である彼女が二人の関係を知っていないはずも無く……。
「もう、びっくりしましたよ。なんで夫婦の二人の間に私が入らないといけないんですか」
「待ちなさいディー。私とレオ様は夫婦ではありませんからね?婚約者で、しかも一応の関係ですからね??」
「そ、そうだよ。ああ、それからなんだか巻き込んでしまってすまない」
「いえいえ、なんだかスクープみたいで面白かったから別に構いません。あ、エフィ用に用意してた胃痛薬飲みますか?」
「ああ、いただくよ……」
二人して胃痛薬を受け取って飲んでいる傍、そういえばとディートリンデが口にする。
「あのクリミアさん、もう少し落ち着いた印象だったら、凄く私に似ていましたね」
「え、まさか」
「ははは……嘘だろう?」
レオンハルトとエフィリアはディートリンデの言葉に半信半疑のまま、とにかく無事に収束してくれた事態をただ喜ぶことしかできなかった。
その後、リトラーセ公爵家は陛下や双方に謝罪するために奔走。件のクリミア・リトラーセは姉のレレイアと共に修道院へと送られることとなった。いまだ妄言を続けるクリミアとは違いレレイアは何もしていないのだが、彼女曰く「元のクリミアに戻って貰うために私がついていく」と自ら修道院へ向かったそうだ。
それで、レオンハルトとエフィリア、そしてディートリンデはどうなったか?
勿論、結局二人は熟年夫婦のまま盛大な結婚式を挙げたとの事。ただ、その横にディートリンデが追加されていたのは言うまでもない。
いつから──脳内お花畑はヒロインにしか転生しないと思っていた?
・エフィリア・オートマタール
レオンハルトの婚約者、兼、レオンハルトの腐れ縁。惚れやすい、押しに弱い、胃が弱いの三拍子揃ったヘタレ王子を監視中。その関係は腐れ縁を通り越した熟年夫婦。
・レオンハルト・ロンドリヒ
この国の王子。エフィリア曰くヘタレ。
王妃の座を狙う肉食系令嬢から逃れるために腐れ縁のエフィリアに婚約者になってもらった。エフィリアにだったら嫁いで来てもらいたいと願ってるが、本人無自覚。
・ディートリンデ・カポール
カポール男爵家の長女。実はヒロイン枠。貴族とはいえ下っ端貴族の田舎貴族な為活発に動き回るのを好む。本来の流れなら王妃の座に着いたかもしれないが、クリミアのおかげで側室についた。
が、不満はなく寧ろ大満足。
・クリミア・リトラーセ
転生お花畑ヒロイン……ではなく転生お花畑モブ。
寮に入った直後前世の記憶を一気に思い出してしまった為今までの記憶をすっかり失う。代わりに前世でやっていた乙女ゲームのヒロインと似ている自分の姿を見てヒロインだと勘違い。
レオンハルトにアタックをかけて契約をもぎ取ったものの、最後に嘘がバレて(本人は信じきっていた)あえなく修道院送り。
・レレイア・リトラーセ
半年ぶりに妹に会えると楽しみにしていたのに見つけた時にはとんでもないことをしでかしていた事に深く悲しんだ。多分一番の被害者。
元のクリミアに戻ってほしいが為に一緒に修道院へ向かうことを決意した。
この世界はクリミアの前世がしていた乙女ゲームに「良く似た」世界でした。