あの娘は悲しいヤモリの娘
夏の終りに書いたお話です。
物陰から、半分の大きさになった彼女の静かな息遣いが聞こえてくる。
机と壁の隙間は、普通の人間なら絶対に入り込むことは出来ないのだが、縦と横と幅が普通の半分ならば、丁度ぴったり収まる大きさと言えるのかもしれない。
狭い一人暮らしの彼の部屋の中、全てが半分の大きさになった彼女は、誰も居ない部屋の中でじっと息を潜めるように動きを止めていた。
真っ赤な夕日の飛び込む誰も居ない部屋の中、帰って来た彼が玄関から「ただいま」と声をかけると、その時初めて隙間の中の影がガザリとうごめいた気配がした。
太陽の光を嫌って、日中に彼女が出てくることは殆ど無い。
案の定、一抱えもある机と壁の隙間から彼女は指先どころか尻尾の先も出さなかった。
彼はそんな彼女に喉の奥で「仕方がないなぁ」と笑いつつ、手に持っていたビニール袋を敷きっぱなしの布団の上に放り出した。
ドサッ、と音がして中身が飛び出すと、散らばったのはビールの缶が二つと、コンビニ弁当が一つ、それから、安っぽい緑のカゴに入ったコオロギだった。
「君もお腹がすいただろう? バイトのついでにご飯を買ってきたんだよ」
言いながら布団の上にあぐらで座り、カシュっとビールのプルタブを開けながら陰の闇に向かって語りかける。と、彼女は昨日ぶりの食事に喜んだのか、太陽が出ているせいで今すぐ食事にありつけないもどかしさなのか、隙間の中の暗がりでガザガザと音を立てつづけた。
彼が先にコンビニ弁当を食べ終えてしまう頃、傾きかけて真っ赤な光を放っていた夕日は静かに地平線の彼方へ落ちていき、やがて彼の部屋も真っ暗になってしまう。
街灯の光が点々と灯されて、その人工的な光の欠片が窓の外からもぐりこむ頃、ようやく彼女の影が机の隙間からそろりと出てきた。といっても、出てきたのは彼女の手だった。
草色がかった色の、人間めいた五つの指。だけれど、指の先端は潰れて、大きな吸盤みたいに丸い。
何かを探るように潰れた手のひらが動き出すと、それを待っていたかのように、彼は帰り道に捕獲してきたコオロギを隙間の傍の床に放した。瞬間、ばんっと彼女の手のひらがコオロギを押しつぶす。数秒ののちに手のひらは徐々に握りこぶしに形を変えて、コオロギを捕まえたまま隙間の中に消えて行った。そして数秒の後に、またのろりと出てくる。
ばんっ、ずず……。
ばんっ、ずずず……。
一連の動作は放されたコオロギが居なくなるまで続き、彼は愛おしげにそれを眺めつづけていた。
「散歩に行こうか」
夜も更け、人通りも少なくなったのを確認してから彼は隙間の彼女に声をかけた。
返事は無い。
けれど、しゃがんだ彼が隙間に背を向けた瞬間、人の上半身と同じくらいの大きさの何かが素早く這い出てきて、どすんと背中に覆いかぶさった。
ふしゅう。
冷たく、少し生臭い息を頬に感じて彼は笑う。
「あはっ、くすぐったいよ。解ってるからそんなに焦らないで」
よいしょと立ち上がる。
彼女は半分になった腕を彼の首に回すことは無く、彼の背中にぺったりと張り付いたままだ。
人形のように何も言わないヤモリの彼女を背負いながら、彼は外へと歩み出す。
人通りの少ない細道を、彼は頼りない足取りで彷徨うように歩いている。
車の居ない駐車場と、人の居ない抜け殻の家ばかりの小道の脇を、忘れ去られたような古い街路灯が照らしていた。
生ぬるさの消えかけた秋の風を受けながら、ふと街路灯を見上げる。と、光に集まってきた小さな羽虫を街路灯によじ登った彼女がおいしそうに食べていた。
闇に同化するように息を潜め、動きを止めて、近寄ってきた羽虫を素早くパクリと捕まえる動作は鮮やかで、思わず見入ってしまうほど。
けれど、夏場よりも羽虫は少なく、草むらでリィリィと鳴くコオロギの声だって間もなく少なくなるだろう。
もし、冬になってコオロギが取れなくなってしまったら、家の中でコオロギを飼育するしかなさそうだ。そうなったなら、コオロギの暖房費やらエサ代がかさむなぁ……。
ぼんやりと冬支度に思いを馳せているうちに、ひゅうといつもより冷たい秋風が頬を撫で、彼は思わず首を竦めた。
もしも冬になったなら、他にも体温調節の出来ない彼女の為にヒーターを用意しないといけないな。お金足りるかな。バイトをもう一つ増やそうかなぁ……。
唸るように考えるうちに、羽虫を食べ終えてお腹いっぱいになったらしき彼女が再び彼の背中にしがみついてきた。首だけで後ろを振り返るようにして彼女を見ると、お腹いっぱいになって嬉しいのか膨れた腹を背中に押し付けきた。そして満足げにキッキッキと鳴く姿を見て、彼は「食いしん坊だなぁ君は」と苦笑した。
あの日起きた大災害。
大災害は彼らの世界を、綺麗に半分飲み込んだ。
つるりと、舐めるようにきっちり半分。そして後には何も残らなかった。
彼の家はこっちの世界に残ったけれど、彼女の世界は向こう側へと消えていた。
こっちへ引っ張る暇など、少しも無かった。
小さなヤモリは、彼女の飼っていたペットだった。
「可愛いでしょう? 裏庭で捕まえたの」
落ち葉に詰め込まれたプラスチックケース。彼に、そこに入れているヤモリを見せてくる彼女は人を化かしている最中のキツネみたいに可愛く笑った。
「なんでヤモリなの? ほかにも可愛い生き物はいっぱいいるだろうに」
爬虫類がちょっと苦手な彼は口を尖らせたが、彼女は素知らぬ顔で「あたしが好きだからいいのー」と言ってのけるのを見て「まぁ、ケースから出さないなら別に良いけどさ」とむくれたように頭を掻いた。
彼女は昔から、ちょっと変わった生き物が好きだった。
カエルとかカタツムリとか、ヤモリとか。カメとかヘビとか、そんなのだ。哺乳類も好きだけど、爬虫類や昆虫のつるっとしたのが好きらしい。
「それにね、ヤモリはすごいんだよ。吸盤が無いのにガラスとか壁とかを自由に歩き回れるんだから」
あの時、彼女は目を輝かせて教えてくれたが、彼は何が凄いのかよく解らなかった。けれど、今になってやっとわかったような気がする。
目を開くと、彼女は天井にぺたりと張り付いていた。
時折、素早い動きでサササ、と逆さまのまま移動するのを見て、寝ぼけ眼の彼はすごいなと思った。
頭の先から、尻尾の先まで、人としては半分でも、ヤモリとしてはだいぶ大型だと思う。「大型」なんて言ったら彼女から怒られるかもしれないけれど。
大災害の起こった二週間後、彼女はヤモリになって現れた。
何故、と言われても困る。
「何故」などと言うのは、彼にとってはどうでも良いことなのだから。
ヤモリの表れる二週間、彼は死んでいた。
死んだように生きていたのではなく、文字通り死んでいた。
地獄から這い上がった亡者のように血眼で彼女の姿を探し回った。飲まず食わずで無数の避難所を巡り、彼女の家があった場所を何度も這いずり、それでも彼女の姿はどこにもない。
その時、彼は「彼女を探す」というためだけの目的で動く機械であった。
燃料が切れるまで、目的の物を見つける機械。
そしてとうとう燃料が切れ、彼が彼女の家の残骸の前で倒れたとき、ヤモリは音も無く現れた。
人の半分ほどもある巨大なヤモリ。
彼女が、ヤモリになって帰って来たのだと思った。
遠い昔に思いを馳せながら、彼は真っ暗闇の布団の上で、天井に張り付いた彼女の背中をじっと見ていた。
時折、忘れたころにサササ、と動く。
彼は布団を首まで引っ張り上げると横を向き、夜に抱き合って眠れないのが少し寂しいなと思った。
ヤモリって可愛いですよね。でっかいヤモリを背中に張り付かせてみたいです。あの手が凄く可愛いと思うんですよ。
マダガスカルヒルヤモリとトッケイヤモリが好きなんですけど、エサのコオロギを飼う手間を考えるとなかなか飼えません……。
過去、別所に投稿したことがあります。その修正版です。