BAD CAT 5
5
「シティ様のような黒色の猫様は、不幸を呼ぶ、と云われ、不当な差別を受けていると聞きます」とは、金井塚君の談である。
小生、このところ、そのことを明確に否定できなくなってきている。
経験上、確かに小生は、不幸を呼ぶ。少なくとも、不幸と呼んでいると云われても差し支えないほど、小生は不運であるように思う。
しかし、そんな小生にも、たまには幸運が廻ってくるものだ。
小生が救出し、金井塚君によって治療がなされた白色の子猫が、元気に飛び回る日が来るなんて。これを幸運と呼ばずして、何を幸運と呼ぼうか。
みゃあ、みゃあ。
子猫は、小生にやたらと懐いた。覚束ない足取りで小生に近寄ると、その身を摺り寄せてくる。小生が動くたび、子猫は小生の後をついて回った。それを見た金井塚君が、「まるで親子のようですね」と無感動に云ったのも、無理からぬことであろう。
小生は、もちろんこの子猫の親ではないが、親代わりをしてやってもいいと思った。手始めに、名前をつけてやろうと考えた。
――コワッパ。
そうだ、それがいい。
「お前は今日このときから、『コワッパ』と名乗れ。いいな?」
小生は、ある夜、自室でボール遊びに興じていた際、そんな思いつきを口にした。
コワッパは爛々と輝く瞳で小生を見上げると、了承したようで、大口を開けて、みゃあ、と一声、鳴いた。
台風は今週末に来る、と云う噂だ。
テレビなる、人間が用いる映像再生機械に映った、”お天気ニュース”を見た金井塚君が、そのことを小生に教えてくれた。
小生、台風なるものを経験したことはない。だから、具体的に説明することは叶わぬが、なんだかものすごいらしい。黒雲が空を覆い、雨風が狂ったように吹き荒れ、轟々と雷鳴が大地に響き渡る、と云う噂だ。まるで世界の終末かのようではないか。
小生、わくわくだ。
「お嬢様、誠に申し訳ありませんが、どうしても外せぬ用事があって、今週末、局舎に向かわなければなりません。来週の火曜日までには戻ります」
夕食の席で、金井塚君は相変わらずの無表情をお嬢様に向けて、云った。
狐の面をずり上げて口元を出し、食事をしていたお嬢様は、了解して頷く。
「台風が来るという話です。戸締りを厳重にしてから行きますが、何かお困りのことがございましたら、すぐにご連絡ください。――それから、シティ様」
「ん?」
小生、金井塚君特製の、味気ない、塩分なし料理を食べていたところだった。好物のおにぎりを所望したこともあったが、塩の振られていないおにぎりほど、小生を哀しませるものはこの世にない。
ちなみに小生とコワッパは、椅子に座って喰うことはできぬし、床で食べさせるのも忍びない、と金井塚君が云うので、机の上に載って喰っている。小生は礼儀をわきまえているため、ゆっくりと上品に喰うが、コワッパは一心不乱に喰うため、机の上に喰いカスが散らばってしまっている。それを見ても金井塚君は嫌な顔一つせぬし、お嬢様に至っては、食事の際も仮面を被っており、そもそも顔が見えない。
「シティ様は、その日、間違っても外に出てはなりません。それはコワッパ様も同様です。どうか、コワッパ様のご面倒を見て差し上げてください」
「なぜだ? なぜ台風が来ると外に出てはいけない?」
「危険だからです。シティ様ほどの体重ですと、台風によって吹き飛ばされてしまうかもしれません」
「空を、飛べるのか?」
「空に、飛ばされるのです」
小生、そうなったときをイメージしてみたが、どちらもさして変わりはないような気がした。
「了解した。外に出はしない。それに、こいつは小生から離れん。心配することはないだろう」
「ありがとうございます」
金井塚君は深くお辞儀をすると、立ち上がり、喰い終えた皿を集め、流しへと持っていった。
「台風がくれば、小生たち猫でも空を飛べるようだ」
その夜、自室で、コワッパと共に段ボールの塔を昇り降りしながら、小生は云った。
コワッパは塔の頂上から軽やかに飛び降りると、振り向き、頂上にいる小生を見上げて、首を傾げる。両耳が垂れ、瞳が大きく、気品の漂う白い毛並みのその子猫の姿は、成長するにつれて、どんどんとミャー子に近づいていっている。
「分からぬか? お前を襲っていたカラスたちのように、大空を自由に飛ぶことができるということだぞ」
小生の言葉に、コワッパは無邪気に目を輝かせた。
「そうなれば、お前を苛めたカラスどもに、一泡吹かせることもできるかもしれない」
小生、そうは云ってみたものの、当然のことながら、本気で申したわけではない。単なる、話の種として用いたに過ぎない。ほんの冗談のつもりだったのだ。
小生、悔やんでも悔やみきれぬ。
――あんなことになると分かっていれば、こんな話はしなかったのに。
土曜日の夕方に、台風が、小生たちの住む山荘に直撃した。
その前から、なんだか胸騒ぎがしていた。空が静まり返り、風一つ吹くことなく、生暖かい空気が小生の漆黒の毛並みに纏わりついていたからだ。
風が鋭い鳴き声をあげ、バタバタバタ、と大粒の雨が絶え間なく屋敷に吹き付ける。大地を揺るがす雷鳴が轟くたび、部屋の電灯の光が明滅する。窓の、外側から打ち付けられた木板の隙間から外を眺めてみると、大地に根差した太い幹を持つ木々が、今にも千切れんばかりに右へ左へと大きく揺らぎ、辺りには木枯らしが渦を巻いている。
屋敷は頑丈に出来ている。その上、窓の一つ一つに、金井塚君が木材を打ち付けておいてくれたおかげで、強度は更に増している。如何に台風といえど、この堅牢な屋敷を吹き飛ばすことなど、容易にはできないはずである。
だが、怖い。
恐怖には、如何なる理論も用を成さぬ。怖いものは怖いのだ。
ひときわ凄まじい雷鳴が轟いた瞬間、屋敷中の電灯が消えた。停電が起きたのだ。
そのときには小生、ただ無心で自室を出、お嬢様の作業室へと向かっていた。後ろから、コワッパがついてくる気配はあったように思うが、そんなことを気にしていられるほどの余裕は、そのときの小生にはなかった。
作業室の扉(目のような文様の入ったあの扉)はわずかに開いていた。小生、そこへ頭を押し込んで隙間を広げ、なんとか室内に潜り込んだ。部屋は停電のため暗く、稲光が頻繁に、如何にも恐ろしげにチカチカ室内を光らせた。
そんな環境でも、お嬢様はいつものように机に向かい、お面を彫っていた。一旦こうなってしまえば、作業が終わるまで、もはやお嬢様はお面を彫る機械と化す。話しかけようとも、彼女の身体を揺すろうとも、無意味であることは先刻承知だ。
小生、彫刻刀で木を削る音を延々と聞きながら、お嬢様の足元でうとうとしていた。
ふと顔をあげ、辺りを見回してから、何かが足りないような気がした。いつもは小生が寝ころんでいると、自動的に身体が温まった。身体に纏わりついてくる、毛布のような毛玉のようなもの。それが今日はない。
そこでようやく、小生、気づいた。
――コワッパがいない!
「コワッパ!」小生は飛び起きて、子猫の名を呼ぶ。「コワッパ! どこへ行った!?」
返事はなかった。
小生、慌ててお嬢様の作業室を出て、コワッパの名を叫びながら、屋敷中を探し回った。しかし、どこを探そうともコワッパの姿はない。外の騒ぎとは違い、まるで暗闇がすべてを飲み込んでしまったかのように、屋敷の中はひっそりとしている。
無数の部屋を虱潰しに調べつくし、最後にたどり着いたのは、玄関であった。
玄関はスライド式の重い扉であったが、その下部に、小生の部屋の扉と同様、辛うじて小生が通れるくらいの小さな押し扉がある。金井塚君によるものだ。
小生、そこを眺めていると、とても嫌な予感がした。
『台風がくれば、小生たち猫でも空を飛べるようだ』
数日前にコワッパに話したことが、頭をよぎる。
『そうなれば、お前を苛めたカラスどもに、一泡吹かせることもできるかもしれない』
もしかすると。
もしかすると、コワッパは小生の与太話を真に受け、屋敷を出て行ったのではないのか。
そう思うのと、身体が動くのとは、ほぼ同時であった。
小生、玄関の扉を抜けると、外へと飛び出した。
嫌な予感、とはよく当たるものだ。泥濘の上に、小さな猫の足跡が、屋敷の玄関から山林の奥へと続いていた。紛れもない、コワッパのものである。
嵐だ。雨粒が痛いほどに小生の身体に打ち付ける。強風が吹くたびに、小生は身体を沈め、地面に這いつくばってやり過ごす。小生の身体など台風で飛ばされてしまう、と金井塚君は云っていた。恐怖心を煽るための、人間の親が子どもにするような嘘だと思っていたが、やはりあの金井塚君は、どのような場面であれ嘘などはつかぬらしい。
小生の身体は泥にまみれた。轟く雷鳴と稲光は、慣れ、というものを寄せ付けず、始終新鮮な恐怖心を呼び寄せる。けれども、小生の足が止まることはなかった。山林の中へ分け入り、熱心にコワッパの姿を探した。
足跡を辿り、山の北側に差し掛かると、突然に大地が途切れ、視界がひらけた。この先は崖だ。切り立った崖で、高さはおそらく二〇メートルはゆうに越す、と思われる。覗きこむと、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、細い小川が流れているのが垣間見えた。
みゃー、みゃー、みゃー。
風の吹き荒ぶ音、ざわめく木々や地面に打ち付ける雨音、そして天地を揺るがすが如き雷鳴。それらが合わさり、形成する轟音の合間合間にかろうじて、不安そうなコワッパの鳴き声がするのを、小生の発達した耳は捕えた。
小生、目を凝らして岩壁を観察する。
そうして、発見する。小生のちょうど真下に、約五メートルほどの距離を取って木の根らしきものが突き出ており、そこに、必死でしがみつくコワッパの姿があった。
「コワッパー! なぜそんなところにおる!? 戻ってこい!」
雑音に負けず、コワッパの元へと届くよう、小生、これまで出したことのないほどの大声で叫んだ。
みゃー、みゃー。
小生の声に気付いたコワッパは、小生を見上げ、前脚を伸ばして、期待感に満ちたような高い声で鳴く。
小生、生来神経症の気があって、行動は物事をよく観測し、深く熟考してからせねばならぬ、という理念の持ち主であったが、このときばかりはそんな理念すら捨て去り、居ても立ってもいられず、岩壁に前脚をかけた。
このとき、いつもの通りにもう少し考えを廻らせてさえいれば、次の事態は未然に防げたのかも知れぬ。
小生、なんとか、突き出た岩や木の根を伝って、岩壁を下りたまでは良かったが、コワッパのところまで辿りつき、コワッパの首根っこを咥えると、もうそれ以上、何もできなくなってしまったのだった。
岩壁には雨水が伝い落ち、ぬかるんでいるため爪が立たず、何よりコワッパを咥えたまま、上部の木の根や岩場に飛び移るのは至難である。崖下まで降りる手段もあったが、途方もない距離があり、その上一歩足を踏み外せば奈落の底である。小生の脚はすくんだ。
これこそ正真正銘の二次災害、である。
小生、途方に暮れた。
みゃー。
辺りは寒かった。雨に濡れているから、余計にそう感じるのかもしれない。小生はコワッパの身体に覆いかぶさり、温めてやった。コワッパは小刻みに震え、鳴き声も次第に弱々しくなっていった。
何時間、そうしていただろうか。未だ、夜は明けない。金井塚君はいつ屋敷へ戻ると云っていただろうか。来週の火曜日だったと思う。今日は何曜日だっただろうか。土曜日である。いや、日付が変わって日曜日かもしれない。とにかく、最低でもあと二晩は、ここでこうしていなければならない。もちろん、飲まず喰わずで。
絶望的状況、である。
「なぁ、コワッパ」
コワッパは、虚ろな目で小生を見上げる。この子猫の衰弱は目に余るものがある。一刻も早く、戦局を打開せねば、と小生は苦心した。
「お前を連れてはこの崖を登れない。小生が一人で上へ登り、助けを呼んでくる。お嬢様は屋敷から出られぬため不可能だろうが、山を下りれば人間など大勢おる。金井塚君の帰宅を待っているより、その方が早かろう」
そう云って、小生が離れようとすると、コワッパは気が狂ったかのように泣き喚き、暴れはじめた。「如何した、コワッパ」小生が宥めようとすると、コワッパは小生の腹の辺りにしがみつき、決して離れようとしなかった。
「分かった。小生もここで助けを待つことにする」
みゃー。
遂には小生が折れると、コワッパは安心したように一声鳴き、疲労したらしく寝転がると、再び身を小さくして身体を震わせ始めた。
小生、その貧弱な子猫の姿を眺めながら、思った。小生が初めてコワッパと出会ったとき――つまり、カラスに襲われていた一件の際、何故、コワッパはあそこにいたのか。それは、以前から疑問に感じていたことだった。
屋敷周辺の山奥には、小生以外の猫は棲んでおらぬ。それは、お嬢様の手から逃れ、毎日のように山内を散策していた小生が、直に確かめていることだから確実である。
如何に猫と云えど、突然ふっと、どこからともなく生まれ出でることはない。すなわち、コワッパを産み落とした親は、間違いなくどこかにいる(いた)はずで、けれどこの山にはおらぬ、ということを意味している。
もしかしたら、既にこの世にはおらぬのかもしれぬ。小生、自動車に踏みつぶされた母の姿を思い出す。死、は突然の出来事である。もしそうであっても不思議はない。
――コワッパは、母に、この山へ置いて行かれてしまったのではないか。
小生、そんな想像をしたりする。
コワッパの母のその後がどうあれ、コワッパは「母に捨てられた」と、そう思っているのかもしれない。だから小生が、一時的にこの場に置いて行こうとしたのを、あんなにも常軌を逸した反応で拒んだのかもしれない。
また置いていかれまい、と。
コワッパは言葉を話せぬし、いくら考えても、真偽のほどは分からぬことである。分からぬことをいつまでもくよくよと考え続けるのは、それ即ち、愚の骨頂である。小生は愚かな猫、ではない。気高く賢い猫、である。
台風を初めとする一連の気候変動は、その後も収まる気配を見せず、むしろ勢いを増していた。強風が吹き荒び、崖の険しい斜面に削られて、とてつもない風圧が小生たちを襲った。油断していると、風に煽られ、崖下に転落しそうになる。
小生、ここで死ぬのかもしれない。そう思った。
思えば、小生は黒猫で、”不幸を呼ぶ”猫である。このような不幸の内に死ぬのも、それはそれで、致し方のないことなのかもしれない。これまで生きてきて、確かにいくらかの幸運とまみえたことはあったが、それとは比べものにならないほどの不幸にさらされてきた。謂わば、こんなの慣れっこ、なのである。
そんな不幸の中でも、石田君を初め、ミャー子、片目の少女、金井塚君、お嬢様など、たくさんの生き物と出会うことができた。善し悪しは別として、たくさんの経験を積むこともできた。小生の人生は不幸であったが、実のところ小生は、それほど悲観はしていない。まあ、なかなか楽しめた。
だから小生、もういいかな、なんて思った。
仮にここで小生が死んでも、哀しむ者などおりはしない。石田君には小生の死など伝わらないだろう。金井塚君は、小生の死骸を見つけるか見つけないかは分かぬが、とにかく形式的な手続きをし、すぐに小生のことなど忘れてしまうだろう。お嬢様に至っては、苛める相手が一匹いなくなっただけで、また他を探せばいい、と考えるに違いない。
けれども。
小生、コワッパの小さく白い身体を見つめて、思う。
けれども、コワッパだけは救わなければならない。小生の、この下賤な命では見合わぬかもしれぬが、いずれにせよ、一命を賭してこの子猫を救わなければならない。
コワッパは身よりのない猫である。貧弱な体つきの、カラスや台風に簡単に敗れる、愚かな子猫である。言葉を用いて意思表示もできぬのに、誰かに頼らなければ生きることもままならない、弱い生き物である。そんなコワッパが死んで、いったい誰が哀しむ?
分かりきったことだ。
小生が哀しむ、のである。
みゃー。
ふいに、コワッパがか細い鳴き声を洩らした。視線は上を向いている。小生を見上げているのではない。その純朴の瞳は、もっともっと、更に上を見ている。
つられて見上げたとき、小生は、幻でも見たかのような、神秘的な物に触れたかのような、なんとも例えようのない気分になった。目の前の出来事はあり得ないことであったが、あり得ないことなど、あり得ないのかもしれない。実際に小生の目に映ったそれは、そんな、矛盾とも至言とも云える感想を、小生の脳内に湧き上がらせた。
そこにいたのは、猫、である。人間の姿形をした、猫の顔の生き物である。
「お母さ……?」小生、そう云い掛けて、気づく。
いや、違う。あれは猫ではない。
崖の上で小生たちを覗き込むのは、”猫のお面”をした、”お嬢様”であった。
小生たちの姿を視認すると、お嬢様は身を乗り出した。
ひどく挙動不審に辺りを見回し、一瞬、身体を強張らせると、こちらへ足を伸ばす。崖の、わずかな出っ張りに足を掛け、下りてこようとしているらしい。恐る恐る、と云った感じではあったが、身体を動かす時々に焦燥感が垣間見えた。お面の下の表情も、小生には容易に想像がついた。
小生は呆気にとられた。不可思議な出来事が、連続して目の前で巻き起こっている。
まず、お嬢様がここにいるはずがないのだ。なぜなら、彼女は屋敷から外に出ることはできないのだから。そして、お嬢様の行動――崖を下りて、小生たちを助けようとしているらしい行動は、日頃のお嬢様の行動からは、想像もつかないものであった。
「なんで、ここにいる? なんで、そんなことをしている?」
小生、崖にとりつくお嬢様の姿を呆然と眺めながら、独り言のように虚ろに呟く。
信じられなかったのだ。毎日のように小生にちょっかいを出してきた、お嬢様が――小生が外に飛び出すと、下駄箱の後ろに隠れ、身体を震わせながら恐る恐る顔を出し、小生の姿を必死で探していた、お嬢様が――
まさか、トラウマを押しのけ、自らの危険を顧みず、小生たちを救おうとするなんて。
ふぎゃ!
傍らで、そんな悲痛な呻き声が聞こえたとき、ようやく小生は夢から覚めたかのような心地で、現実へと戻ってきた。
声のする方向に目をやったとき、小生はまず初めに、己を責めた。何度、同じミスを繰り返せば気が済むのか。しかし、そんな自己批判もほどほどに、小生は選択を迫られた。それほどに、状況は逼迫していた。
コワッパが、崖下へ落ちたのだ。
小生が身体を放し、お嬢様を眺めている間に、強風に煽られたのだろう、コワッパは出っ張りから足を踏み外した。そうして呻き声をあげ、小生の傍らから姿を消した。急いで見下ろすと、コワッパの身体は回転しながら、重力に任せて下へ下へと引っ張られていく。死は、すぐそこにあった。
一瞬、コワッパと目が合った。
瞳は恐怖ににじんでいたが、そこからは、自嘲するような、一種の達観するかの如き色すら見て取ることができた。小生にはコワッパが云わんとしていることが、このときばかりは、なんとなくだが、分かったような気がした。
――やっぱり、空を飛ぶことは出来ないみたい。
気付いたときには、小生、地面を蹴っていた。
猫は空を飛べない。小生が飛び降りたって、コワッパを救うことはできない。
そんなこと分かっている。
だけど、そうせざるにはいられなかった。
コワッパは、小生の”子ども”である。小生が、守ってやらなければならないのである。
小生、雨に撃たれつつ、少しでもコワッパに近づこうと、空中で手足を掻いているとき、なぜだか、母の顔を思い出していた。先ほど、猫のお面を被ったお嬢様を、母と勘違いしたことが影響しているのかもしれない。小生の頭の中に現れた母の姿は大きかった。きつい目をしていたが、優しく暖かで、慈愛に満ち溢れていた。
昔、小生たちの住む蔵の近くに、コンビニエンスストアがあった。裏手のゴミ箱に、賞味期限が切れた食べ物が破棄されていたらしく、母はよくそこ漁り、食べ物を持って帰ってきてくれた。
小生は、おにぎりが大好きだった。母の持ち帰ったビニール袋の中に、おにぎりがあるときはとても嬉しくて、飛び上って喜んだものだった。
だから、コンビニエンスストアが国道十六号の向こう側に移転し、おにぎりを食べられなくなってしまったときは、小生、とっても哀しかった。
それからすぐ、あの事故は起きた。母は国道十六号を渡ろうとして、死んだ。
小生は、そこで思い至った。
小生は醜悪な猫である。体毛は黒く、見た目は貧弱で、容貌は醜かった。小生の体毛の色を見て、多くの猫は、小生に軽蔑の視線を送った。言葉を話す猫など気味が悪いと、多くの人間は云い、小生を遠ざけた。小生など、生きていようが死んでいようが誰も気にしない。小生はずっと、そう思っていた。
けれど違った。確かに小生は、”愛されていた”のである。
空中を舞う小生の身体は、コワッパには追い付かなかった。でも、諦めるわけにはいかなかった。小生はなりふり構わず前後の脚を掻き、コワッパに追いすがった。
そのときだった。頭上から、澄んだ声が響いた。
「――”シティが、空を飛べればいいのに”!」
それは、懐かしい声だった。こんな状況だと云うのに、なんだか心がウキウキとした。疲労していた身体がほぐれ、この上なく快調になった。不思議な感覚だった。
今なら、なんでも出来るような気がした。
小生が、小生であると気付いたあの一件と、似ていた。蔵で、片目の少女と会話をしたときのことである。けれど、正確には違う。そのとき気付いたものと、今回気付いたものとは、類似性は高いが、別個の存在である。
小生はあの頃より、更に一歩踏み込んだ。けれど、知った事実は同一のものである。
――小生は猫である。だが、ただの猫ではあり得ない。
そのことだ。
小生は、”飛んだ”。
空中で、背中に羽が生えたわけでもなく、腰からジェット噴射をしているわけでもないのに、小生が手を伸ばした方向へ、小生の身体は銃弾のように、突き進んだ。
小生は勢いよく下降し、コワッパの首根っこを咥えると、次は上昇し、崖にしがみつき四苦八苦しているお嬢様に近寄った。
「尻尾に掴まれ」
そう云うと、お嬢様は黙って頷き、尻尾を掴んだ。そして、恐る恐る身体を空中に投げ出す。小生の浮力は、お嬢様の体重を上回り、(ちょっと尻尾が痛かったが)なんなく空中を浮遊することができた。崖の上を目指して浮上している最中に、鋭い風が吹き抜け、お嬢様のお面が空に飛び上がったが、それでも小生はびくともしなかった。
崖の上にたどり着くと、コワッパとお嬢様を地面に降ろした。その頃には、台風の勢いもかげりを見せ始めていた。また再び息を吹き返し、この辺りを襲い始める可能性は大いにあったが、このときばかりは束の間の休息を味わえた。雲間から、鮮やかな茜色(猫の小生にはそう見えた)が顔を出しており、小生はそれを、美しく思った。
コワッパは大口を開け、そんな小生を呆然と眺めている。お嬢様は――
お面をなくしたお嬢様は、おろおろと、周囲に視線を彷徨わせていた。整った顔立ちで、黒髪は長く艶やかで、どこか見覚えのある容貌だった。
それと気付いたのは、お嬢様と目が合ったときだ。
いや、”半分”目が合ったときである。
小生、それを見て、運命なるものの存在を信じることになった。
お嬢様は、何故だか少し頬を火照らせて、伏し目がちに、はにかんだ。