BAD CAT 4
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結論として、小生の一世一代の選択――つまり、金井塚君について行くという選択は、必ずしも過ちであったとは云えぬが、必ずしも正解であったとも云えぬ。
住処もある。喰うに困ることもない。研究なる、痛めつけに遭うことももちろんない。
それらだけを申せば、幸福であるし、これ以上を望むことなど贅沢である、との非難は免れぬやもしれぬ。
だが、あの”一事”に関してのみは、不幸である。どうか、分かって欲しい。手放しで喜ぶことなどできはしないのである。
それらの幸不幸を寄り集め、数で割って算出した”幸福度平均値”は、一言で云えば、まあまあ、である。小生に云わせれば、みゃあみゃあ、だ。
いや、待て。下らぬことを申している暇はない。
小生は、小生の身に起こった事実を、ありのままに書き記す義務がある。時間が差し迫っているというわけではないが、猫の一生は、人間の一生と比ぶれば、途方もなく短いのである。人間と同質の一生を送ろうと思えば、人間より四倍に凝縮された時間を過ごさねばならぬ。四倍という計算は間違いだったか? いや、いい。いずれにせよ、早速、取りかからねばならぬ。
では、記そう。既に予想がついている者もいるかもしれぬ。
そう。これから記すは、小生が信じざるを得なくなった、とある非科学的な現象について。
すなわち、”運命”について、である。
石田君の住処を出た小生は、金井塚君に連れられ、バスや電車を乗り継いだ。
公共の乗り物というのは、(人間自らも動物であるという事実を忘れてか)動物の乗車を固く禁じているらしく、小生は、金井塚君の手提げ鞄の中に身を隠し、皮革特有の鼻につんとくる匂いを嗅ぎながら、ガタガタと揺られておった。
自動車を用いれば、このような苦労を強いられる必要はないはずだった。小生が、その旨尋ねてみると、金井塚君はその、表情というものの失われた顔を左右に振って、云った。
「申し訳ございませんが、出来かねます」
金井塚君は、自動車の運転をする資格を有していたが、”ある事故”を境にして、その資格を返納したのだと云う。あれほど便利な機械の操縦権を自ら放棄するなど、正気の沙汰とは思えない。おそらくはとてつもない大事故に遭って、怖い思いをしたのだろうが、その詳細については終ぞ、教えてはもらえなかった。
小生たちが下車したのは、とある寂れた田舎駅であった。
白ペンキで塗られた木造の駅舎は、ところどころ腐りかけておった。駅には、駅員なる、庶務を担当する同じ恰好をした人間がいるはずであったが、ここには彼らどころか、乗降客の一人すらいない。金井塚君は慣れた手つきで、切符なる、電車への乗車権利書を回収箱(なんと、牛乳パックである)に入れると、駅舎を抜ける。
辺り一面、田園風景である。ゲコゲコと、蛙の大合唱が耳に五月蠅い。蛙は寄生虫がおるらしく、あまり食用には適さないが、腹が減って堪らなかったとき、何度か喰ったことはある。ぬるぬるとしていて、肉も噛みごたえがなく、あまり美味とは云えぬ代物だ。
道なりに進んでいくと、だんだんと傾斜がきつくなっていく。地平線が見渡せるほどのひらけた大地が一変し、辺りの風景は、林立する針葉樹と背の高い草花に覆われる。生まれ故郷で見た人工物では断じてない。正真正銘の自然、なのである。
小生、都会育ちのため、山道など登った経験はない。その上、身体が貧弱であるため、体力と云うものに関しては、身体能力で猫に劣る人間にすら、もしかすると敵わぬかもしれぬ。
何を云いたいのかといえば、小生、金井塚君の申すところの”別荘”につく頃には、足を引きづり、息も絶え絶え、へとへとになってしまっていたのである。
山奥に颯爽と佇む別荘は、威厳すら感じられるほどの風格を備えていた。涼しげな影が差し、程度をわきまえた小鳥の声は清涼感があり、耳に心地良い。屋敷は木造ではあれ、先ほどの駅舎とは比べようもないほど大きい。三階建てで、窓が無数にあることから想像するに、部屋がいくつもあるのだろう。大人数の住処なのだろうか、宿泊客でも来るのだろうか。
「これから、シティ様がお会いするお方には、お名前というものがございません。従いまして、ただ”お嬢様”とお呼び頂ければ、結構でございます」
別荘に入り、玄関を上がって、疲労感からふらふらと廊下を進んでいると、小生の前を歩いていた金井塚君が、歩みを緩めもせず云う。小生と同じ道程を歩いてきたというのに、このスーツを着た機械女、物腰にも、言葉の端々にも、何ら疲れを見せることはない。強靭な雌、である。
「なに。お嬢様?」
「その通り、でございます。また、お嬢様の御前では、軽く会釈して頂く程度で構いません。必要以上の礼節はむしろ、お嬢様のご機嫌を損ねる原因となり得ます」
「レイセツ?」
小生、聞いたことのない言葉にぽかんとする。
「失礼いたしました。お気になさらないでください。シティ様におかれましては、あまりご関係のないことでございました」
金井塚君に悪気はないのだろうが、小生、なんだか馬鹿にされたような気がした。
木の床の上を、乾いた音を響かせながら進むと、やがて扉に突き当たる。先ほどから幾度となく見かけていた扉よりも、一回りほど大きな代物だ。表面に彫られた目玉のような紋様は、不気味でありながら奇妙な重厚感がある。
「お嬢様、金井塚にございます。ご命令の通り、人語を解し操る猫様――シティ様をお連れいたしました」
金井塚君は、軽くノックしてから、扉の向こう側の人間に慇懃な態度で、云う。この金井塚君、小生たちに対しても丁寧な態度であったが、お嬢様なる、この部屋の住人に対する言葉遣いからは、更なる畏敬の念と、それから細心の注意を払っているらしいことが窺える。
向こう側から、返事がない。小生、不思議に感じて見上げてみると、あの機械の如き金井塚君の顔が、僅かに強張っていることに気付く。
――ドン
しばらくして、そんな籠った衝突音が響く。扉の向こう側で、扉と、何か固い物がぶつかったらしい。不覚にも小生、背筋をびくりとさせる。
「ありがとうございます。失礼いたします」
そんな小心者の小生とは真逆の態度で、金井塚君は胸を撫で下ろしたようにほっと一息つくと、ドアノブに手を掛ける。
扉が開け放たれる。そこは暗い、ジメジメとした空間。先が見えない。足元に『く』の字に折られた木片が転がっている。おそらくは先ほど、お嬢様なる、この部屋の住人が投げた物だと推察される。
奥で、何者かの気配がする。警戒を怠るな。小生の尻尾が、小生にそう指示するかのように、ぴんと立ち上がる。そんなこと、分かっておる。
「また、こんなにお部屋を暗くして。お嬢様、お身体にキノコが生えてしまいますよ」
金井塚君が、相変わらず感情の窺えぬ声でそう申すと、不用心にも部屋の奥に足を踏み入れる。
「……愚かな」
危うい行為である。勇気は扱い方を誤ると、蛮勇となり得る。もしくは、何者かの気配を感ずる暗闇の怖さを、この女は知らぬらしい。小生が身を乗り出し、金井塚君に注意を促して呼び戻そうとすると、その瞬間、辺りは眩いほどの光に覆われる。
陽の光である。金井塚君が機転を利かし、窓際のカーテンを開け放ったのだ。前言撤回。やはり金井塚君は、勇敢な女、である。勇者、である。
何にせよ、小生の前に視界がひらけた。暗闇でも小生の目をもってすれば、視界を確保することは容易いが、やっぱり明るい方が、見やすいことは確かだ。小生、部屋内を見回す。十畳ほどの空間である。
机に向かい合い、小生に背を向ける形で、何者かの姿があった。小柄で、手足はやたらと細く、長い黒髪が特徴的な、幼い人間の雌であるようだ。椅子に腰かけ、手元で何やら作業をしている。いたく熱中しているらしく、来客の存在を忘れているかのようだった。
「この者が、お嬢様?」
小生の傍らに戻ってきた金井塚君に問い掛けてみる。
「左様にございます。こちらで、少々お待ちください」
金井塚君は声をひそめて云う。
――お嬢様、シティ様をお連れしましたよ
しばらくして、お嬢様の作業が一息ついたのを見計らったのだろう、金井塚君は言葉を発する。その声に反応するように、お嬢様は顔を上げると、立ち上がり、こちらを振り向く。チェック柄のスカートが、ひらりと舞う。
このときの小生の姿を的確に表現すると、南国・沖縄の、シーサーなる、伝統工芸品に近いやも知れぬ。口を開け広げている方だ。小生、困惑と云うか、恐怖と云うか、呆れと云うか、一種の悟りの境地を啓きかけるほどの、幾重にも連なった感情の膨張と、縮小とを繰り返し、次第にそれらも消失し、心が味気ない、無味乾燥な空気だけで満たされたかのような、空虚さにとらわれた。
小生、呆気にとられた。口を開け広げ、目を見開き、呆然とその幼い人間の姿を眺めていたのである。
お嬢様の容貌を一目見れば、小生がそんな反応を示したのは、無理もないことだと理解してもらえるだろう。
お嬢様は、小麦粉に押し付けられたかのような真白い顔をしていた。
目元には困ったように皺を作り、白目は横長で黄色く、瞳はそれに比して、小豆の如く小さい。口角は頬を切り裂かんばかりに吊り上がり、僅かに垣間見える口内は鮮鋭的に赤く、やけに整った歯並びが覗いている。何より、頭の左右には二本の角が突き立っていた。ブラウスとスカート姿の、少女のような柔和な体格に、その恐ろしげな顔は、誠にアンバランスと云う他ない。
怒っているのか、憂いているのか、笑っているのか、泣いているのか。その表情からは読み取ることができない。表情がありすぎて、感情を読み取れない。金井塚君のそれとは真逆である。
「こやつ……」
小生は知っていた。”奴”の正体。
”鬼”だ。人間をとって喰うと云われるあの鬼、である。
人間のような巨大な生き物を喰うと云うのだから、小生のような貧弱な猫、物の数ではないだろう。一息に、あの真っ赤な口に押し込まれ、飲み込まれてしまうに違いない。
鬼と目が合った。小生、怖々会釈する。金井塚君に云われた通りにしなければ、とって喰われるやも知れぬ。金井塚君が先ほど、緊張しているふうだったのも、相手が相手だけに、大いに納得できることである。
すると、”鬼”のお嬢様も、小生に(これは意外にも)軽く会釈を返してくる。
「お嬢様、ご加減は如何です」
金井塚君が問うと、これにもお嬢様は会釈で返す。
その会釈を肯定の意と取ったのか、金井塚君は頷くと、足元の小生を抱き上げ、お嬢様にゆっくりと近づく。
「お嬢様、こちらの猫様が――」
「な、なにをする!? 放さんか!!」
腕の中で暴れる小生を見て、金井塚君は言葉を止めると、小首を捻る。
「どうかされましたか?」
「どうかされたも、されぬもない。そうか……貴様の魂胆が分かったぞ! 小生を喰わせる気だろう? あの鬼に!」
小生、恐怖から取り乱してしまう。暴れた際、自慢の爪で腕を引っ掻いたはずだが、金井塚君、何ら表情を変えていない。小生も衰えたか、と思い、攻撃箇所を見てみると、彼女の白い肌の上には、確かに幾筋かのひっかき傷が刻まれていることが分かった。傷はそれほど浅くはなかったが、不思議なことに、血は出ていない。
ここで小生、罪悪感から落ち着きを取り戻す。
「鬼、ですか?」
「あいつだ。あの、お嬢様のことだ」
小生、お嬢様を指差す。正確には指ではない。右前足全体で、だ。
「あぁ、あれは違います。”般若”ですよ」
「般若?」
金井塚君は、先ほどお嬢様が作業していた机まで来ると、小生にそれが見えるよう、心持ち上体を傾ける。机の上には、木の板や物差し、瓶詰めされた液体や、彫刻刀なる、様々な形の切っ先を持つ刃物などが並んでいた。
「お面、ですよ、シティ様。お嬢様の”作品”の一つです。只今、お召になっているのは、確か……」
そこで”般若”のお嬢様は、慌てたように机に向かうと、ノートを開き、鉛筆を手に何やら文字を書き始める。
やがてお嬢様によって掲げられたそのノートには、大きな文字でこうあった。
――『般若の面 とめ子一号』
このお嬢様、お転婆である。
小生が申すところの”不幸”とは、それすなわち、このお嬢様の所業のことに他ならない。
山奥の屋敷で生活を始めて、一日も経たぬ間に、それは小生を襲った。
屋敷に到着した日の夜、である。
金井塚君に案内された小生の部屋は、広々としており、ベッドが二つもあった。それも、人間用の巨大なやつ、である。爪とぎ用のゴソゴソとした板が壁や床に張り巡らされ、段ボールなる、人間が荷物を詰める際に用いる箱で組み立てられた、塔のようなものが四つほど並んでいた。おそらくは小生が登って遊ぶためのものと思われる。
用を足すための砂場はあるし、部屋のドアの下部には、小生用の出入口まである。四角いプラスチック製のもので、小生が頭を突き入れれば、扉は前に押し込まれ、そこから出入りできる、という具合だ。
その夜、その部屋で、小生はベッドの上に丸くなり、眠っていた。小生、もちろん姿形は猫であり、体質もさして変わりないから、夜行性である。でも、その夜は、山道を登って疲れていたため、ぐっすりと眠りにつくことができた。
ケタケタケタ、と笑う声が聞こえた。そのときはまだ、夢か現実か、判別がつかなかった。とりあえず瞼を開けてみると、目の前が真っ赤であることに気付いた。
驚いて起き上がり、見回してみると、小生の寝ころんでいたシーツの上に、べったりと、赤黒い液体が付着していた。いや、シーツだけではない。小生の身体全体にまで及んでいる。漆黒の毛並みが、その液体に浸され、毛先は乾いて固まっていた。
聡い小生は、すぐさま思い至った。これは、血である。小生の身体から流れ出たものに違いない。だとすれば、どこかに傷があるはずだ。一刻も早く該当箇所を探し出して、止血しなければならない。そうしなければ……そうしなければ――
「――死ぬっ!」
小生、自分で発した言葉の恐ろしさに、飛び上った。
ケタケタケタ。笑い声が聞こえる。背後からだ。
小生、振り返る。そこには、あの鬼――いや、お嬢様の姿があった。
般若の面を着用したお嬢様は、小生と目が合うと、身を翻して部屋を出ていった。
ケタケタケタ。ケタケタケタ。笑い声が遠ざかっていく。
「あやつ……」
お嬢様が出ていく際、小生は確かに見た。お嬢様の手に握られていたもの。
小生、手についた赤い液体を、ぺろりと舐めてみる。
小生、気づいた。
――やっぱりこれ、ケチャップだ!
お嬢様はもしかすると、小生のことを、犬と勘違いしているのかもしれない。
人間からすれば、犬も猫もさほど変わりがないのだろうか。小生から見て、猿と人間の区別は容易につくのだから、決してかようなことはないはずである。だとすれば、お嬢様だって、小生が猫で、しかも人語を解し操る猫であることを、承知しているはずである。
ではなぜ、追っかけ回すのか。そのことを問いただしたい。
小生はただの猫ではあり得ないが、生物学上、猫ではある。猫は、必要以上のコミュニケーションを好まない種族である。他者との強い結びつきを好まず、ぼんやりと陽に当たり、欠伸をして伸びをし、また腹這いに寝転がる。時間の流れをゆったりと感じつつ、悠々と生きることを良しとする生き物である。
「そのことは、分かっておろうな? お嬢様」
小生の尻尾を引っ張り、体中をこねくり回すお嬢様に向け、小生は静かに問い掛ける。
般若の面に飽きたのか、最近ではめっきり”おかめ”なる、人間の雌の笑顔を模したお面を着用しているお嬢様は、小生の言葉に軽く首を傾げる。
分かっておらぬのだ。このお嬢様、小生の性情を分かっておらぬのだ。
お嬢様は、自室でお面を彫っているときは静かであったが、ひとたび小生の前に姿を現すと、居ても立ってもいられぬように身体を揺らし、足音荒く走り寄ってきては、小生捕まえ、身体中を撫でまわす。
このとき、無言である。無言で撫でまわすのである。
小生、そんなお嬢様がなんだか不気味であったし、撫でられるときに多少の痛みを伴うので、お嬢様の姿を見掛けると、逃げ回ることが習慣となっていた。
お嬢様は、小生を捕まえ撫でまわすことに並々ならぬ熱意を抱いているらしく、逃げ回る小生に追いすがり、猛スピードで屋敷中を駆け回る。他者の気持ちというものは、他者の立場に立たねばわからぬものだ。小生、今になってようやく、ネズミの気持ちがよく分かったのだった。
金井塚君は、お嬢様に注意をしようとすらしない。立場をわきまえている、ということらしい。彼女はいつも家事ばかりしており、休憩している姿を見掛けない。ごく稀に買い出しに行くと云って出掛けるが、半時もせぬ間に帰ってきて、また家事をする。することがなくなると、やり終えた掃除をまたやり始めたり、まだ着てもいない服を洗濯し始めたりする。
あるとき小生、追いかけ回されることに嫌気が差して、玄関から屋敷の外へと飛び出したことがある。
小生の後を追ってきたお嬢様は、玄関で急ブレーキをかけると、突然怖気づいたかのように身体を震わせ、急いで下駄箱の影に隠れると、そこから怖々と顔(おかめの面だが)を出し、表へ出た小生の姿をきょろきょろと探し始める。
このお嬢様、屋敷から外へ出ることを、殊の外、恐ろしがっているのだ。
「お嬢様はある事件を機に、外出することの必要性に疑問を呈されているのです」せっせと屋敷周辺の雑草をむしる金井塚君は、小生の問いかけに、そんな返答をした。「ですので、屋敷外の所用はすべて、当方が請け負っております」
金井塚君の話はいつも回りくどい。おそらくは、”ある事件”なる、何らかトラウマをお嬢様は持っていて、それが原因で、屋敷から外へ出ることができなくなってしまったのではないか、と小生は推察した。
小生、それをいいことに、以降はお嬢様に追っかけ回されるたびに、屋敷の外に逃げることにした。お嬢様には悪いが、ボランティア精神で身体を触らせてやるほど、小生は性格の良い猫ではない。
自然と、外を歩きまわる機会が増えた。日にちが経つほどに、屋敷周辺の山内は、もはや小生の縄張りとなった。原住動物たちからすれば、勝手な主張、ではあろう。しかしながら縄張りの主張は、先に云った者勝ち、なのである。
ある日のことだった。
縄張りを巡回中に、異様に高い声で鳴く、カラスの集団を発見した。
縄張り内のいざこざは、同時に、縄張りの主たる小生の問題でもある。
現場に急行してみると、何やら三匹のカラスが、喚き散らしながら、地面に向けて急降下を繰り返していることを知る。地面には、這いつくばる白い物体がいて、おそらくはそいつ目掛けて、嘴や爪を突き立てているらしい。
よく見てみると、その白い物体は小生の同族であるらしかった。猫、である。それも幼い。生後三か月程度、と推察することができる。
地面に這いつくばるその子猫は、真白い体毛を自身の血液で朱に染めて、もはや観念した様子で、ただ死を待つかのようにうずくまっている。
小生、その子猫の姿に見覚えがあった。記憶を辿るため脳が回転するに従って、身体が硬直した。そうして、思い出すことができた。
そうだ、ミャー子だ。――いや、違う。ミャー子ではない。ミャー子は小生と同日に生まれ、今ではすでに生後三年に近い。あのような子猫であるはずもない。
しかし、似ている。共通点は毛の色だけではない。しなやかな体つきや、容貌だってよく似ている。垂れた耳なんてそっくりそのままだ。
小生がそんな考えを廻らせながら観察していると、不幸なことに、その子猫と視線が合ってしまう。子猫は、死への恐怖に怯えた瞳で、憐れみを乞うてくる。
カラスは強く、その上、賢い。性格は凶暴で、捕食を目的とせず他の生き物を攻撃するほど、意地が悪い。翼があり、空を飛ばれてしまえば、そもそも小生たち猫などに勝ち目はない。もっとも相手にしたくはない生き物の一つ、である。
屋敷まで戻って、金井塚君に助力を乞うべきか。しかし、その間にあの子猫が命を落としてしまえば、元も子もない。ならば、叫び声をあげてカラスたちを脅かし、逃げ去ってくれる可能性にかけるべきか。しかし、もし失敗すれば、相手に小生の居場所を知らせることになり、知られてしまえばもはや子猫を助けるどころか、小生の身すら危うい。
どちらも愚策、である。
血だらけの子猫の姿を眺めながら、小生はミャー子のことを思い出していた。
小生の、この貧弱な体つきや、忌み嫌われる漆黒の毛並みを見ても、ミャー子は軽蔑の態度一つ見せず、対等に扱ってくれた。幼い頃、いつも一緒に遊んでいた。遊び道具だった丸い柿の実を取り合いしたことも覚えている。餌の確保に、小生が四苦八苦していたときには、ミャー子は嫌な顔一つせず、自身の食い物を恵んでくれた。
もちろん、あの子猫はミャー子ではない。依然として、ミャー子は行方知れずだ。ただ似ているというだけで、あの子猫を救ったとしても、ミャー子には何ら関係がない。恩返しにはならない。
しかし、助かった子猫を見たら、きっとミャー子は喜ぶに違いない。喉をごろごろ鳴らし、子猫に身体を擦りつけるに違いない。実際のイメージが目の前に浮かぶようだった。
小生、一つ嘆息すると、子猫に向けて駆け出した。
他者のためにこの身を投げ出すのは、初めてのことである。少し怖いが、何やら得体の知れない心地良さのほうが勝っている。暖かく弾力のある、不思議な感覚だ。
カラスはすぐに気付いた。声高に鳴き、木の枝の上で身を屈め、迎撃態勢を取っている。
しかし、小生の目的はカラスへの攻撃ではない。子猫の救出、である。
小生は子猫に駆け寄ると、首根っこを咥えた。これほど小さな身体のくせに、異様なほど重い。顎がつりそうだ。小生の幼い頃、母はよくこうやって小生たち兄弟を運んでいた。楽々やっていたように見えた。これほど重い物だとは、小生、想像もつかなかった。
身を翻し、来た道を引き返す。背後で、カラスの羽ばたきが聞こえる。近くを飛んでいる。風圧が小生の背中を撫でる。小生は振り返ることなく、なりふり構わず掛けた。
やがて、屋敷の前についた。カラスはいない。カーカー、と、まるで嘲り笑うかのような鳴き声は、遠くの方で聞こえる。どこで諦めたのかは分からなかったが、とにかくここまでは追ってこなかったようだ。
子猫はぐったりしている。前脚で小突いてみるが、反応がない。生きているのか、死んでいるのか、分からない。
ここまで連れてきたのはいいが、小生、これ以上は何もできない。
「金井塚くーん! たいへんだ! 来てくれ、金井塚くーん!」
最後はやっぱり、人頼み、である。