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怪少女のバラード  作者: 飯野春市
3/5

BAD CAT 3

  3


「フギャッ!」

 小生の肢体を、激痛が突き抜けた。まるで血管の中を、血液と共にガラスの破片が流れ過ぎ、全身を巡っているかの如き苦痛だ。

 その日は小生、全面が真白く、殺風景な一室に連行されていた。空間の中央に、背の高い台が一つあり、その上に置かれた檻の中に、小生は閉じ込められていたのだ。

 体中に革ベルトが巻き付けられ、身動きをとることができなかった。小生の身体に、太い針が何本も突き刺されている。これだけでもすでに、鋭い痛みが皮膚の表面を走り回っていたが、更に一定の間隔で針の先端から電流が放出されると、その激痛は尋常なものではなかった。小生、身悶えしながら、止むことなく訪れる悪鬼の如き苦痛を、ただただ耐え忍ぶしかなかった。

 南側の一角にガラス窓があった。そこから、これまた真白い白衣を着た複数の人間たちが、興味深げに、苦しみに呻く小生の様子を注視しているらしかった。

 悪趣味な連中、である。

「はい、じゃあ、話してみてくださーい」

 天井から、お気楽な声が聞こえる。ガラス窓の向こう側の人間の一人が、”マイク”なる、人間の用いる拡声機械に向けて言葉を発したのが、小生の位置からも垣間見えた。

「な、何をだ……」

 小生、苦悶の表情をうかべながらも、なんとか問う。しかし、返ってきた答えは、小生の疑問を解消する類のものではなかった。

「はーい、ありがとうございまーす。じゃあ、これで、今日はおしまいでーす」

 小生の陰鬱とした気分とは似ても似つかぬ、とぼけた陽気な声が轟く。

 すると、部屋の扉(なんと、自動で開閉する)が開き、何者かが小走りに姿を現す。

 石田君だ。熊のように毛深い若者で、先述の白衣姿の人間が多数を占める中、彼だけはいつも、鼠色の作業服を身に着けている。その役目は、小生を含め、この施設内に飼われている動物たちの世話なのだそうだ。年恰好が似ている人間は、小生、失礼ながらあまり見分けがつかぬため、この石田君以外の人間は、ほとんどの顔と名が一致せぬ。

 小生、この半年の間、まともに会話をしたのは、この石田君だけだ。この施設には、他にも大勢の人間が棲息している。しかし、それらの人間はどれも、何故だか小生と話したがらない。気味が悪い、と洩らす者すらあった。

 白衣の人間どもは、小生と簡単な問答こそするものの、”研究”なる、小生の身体を痛めつける行為ばかりにご執心の、意地の悪い連中だ。

 石田君は、小生をあの忌まわしい純白の部屋から連れ出し、いつもの、種々の動物たちが調度品の如く棚に飾られた、”生物管理室”なる部屋に連れ戻ってくれた。

 部屋の中央の木製の机の上に檻を載せると、重たい柵扉を引き上げてくれる。小生、檻からぬっと抜け出ると、伸びをし、前脚を舐め、湿ったそれで顔を拭う。

「お疲れ様、シティ」

 石田君の声は、凶悪に野太い。唐突に話しかけられると、小生、背筋をびくりとさせられる。例えるならば、縄張り内で突然、外敵に襲われたときのような気分に近い。

「石田君、急に話しかけないでくれるか。心臓に悪い」

「あぁ、すまない」

 石田君は素直な人間だ。だが、人間の世界では、素直さは悪であるらしい。素直であるという理由だけで、他者から侮られ、嘲笑の対象となるようだが、小生のような猫からすれば、彼のような人間の傍らにいることは、とても居心地の良いことである。

「……それにしても小生、暦を用いれば、もう六か月もここへ閉じ込められておる計算だ。このような、研究なるものにいつまでも付き合っていては、我が身がもたん。いつになったら、家に帰れるのだろうか」

 後ろ足で耳の裏を掻きながら、小生、石田君に愚痴る。いつものことだ。石田君がおらなければ、小生の、この漆黒の毛並みは、ストレスで禿げ上がってしまっていたことだろう。それに関しては、この野獣の如き外見の青年に感謝せねばなるまい。

「家? シティにも家があるのかい?」

「知らぬのか。小生、ここに連れ去られる以前は豪邸に住んでおったのだぞ。小生の部屋には、値打ち物の骨董品やら、名のある芸術家の描いた絵画やらが、所狭しと飾られていた。朝と晩には給仕の者が、おにぎりを初め、極上の餌を運んできてくれたものだ。……このような、出来合いの餌でなく」

 小生、石田君が用意してくれた、キャットフードなる、酷い臭いのする乾物の餌を、手で小突いて云う。話の半分は嘘だが、もう半分は真実だ。過ぎたるは及ばざるが如し。真実など、半分くらいが丁度良い。

「それはすごいね。シティは裕福な家の猫だったのか。言葉が話せるというだけで、こんなところで研究対象になってしまうなんて、悲運だなぁ」

 石田君は哀しげに目を細める。小生、後で知ったことだが、人間の多くは本心とはまるで違う表情を、意図して作ったりするようだ。でも、こと彼に限ってのみは、そのときも、本心のままの表情をしていたように思われる。そもそも、本心とは異なる表情を作れるほど、この石田君、器用ではない。

 まるで自分がその立場に追い込まれたかのように、沈痛な面持ちで考え込む石田君に、小生は、ふと思った疑問を投げ掛けることにした。

「言葉を話す猫、というのは、それほど珍しいモノなのか?」

 確かに、小生の母や兄弟たちは話さなかった。とは云え、世界は途方もなく広い。世界中を探し回っても、言葉を話す猫がいないというのは、そのことのほうがよほど、小生には珍妙なことのように思えてならない。

「そうだね。少なくとも僕は、君のような猫、見たことがないなぁ」

「彼らは――つまりあの白衣の悪漢共は、小生が珍しいから、苛めるのか?」

「苛める?」ここで石田君、首を捻り、あぁ研究のことか、と呟くと、言葉を継ぐ。「君の身体のどこを調べても、異常が見つからないものだから、おそらく焦っているんだと思うよ。彼らは」

「異常?」今度は、小生の方が困惑する。「言葉を解し、操ることが、異常だと云うのなら、お前たち人間は皆、異常ということか?」

「僕には難しいことはよくわからないけれど、君は猫だから、ね? 普通の人間は言葉を話すが、普通の猫は言葉を話さない」

「小生は、ただの猫ではあり得ない。だから、言葉を話すのだ」

「だろ? 要は、君は圧倒的少数者というわけだ。猫の世界ではね」

「それが分からぬ。では例えば、言葉を話せぬ、お前が云うところの圧倒的少数者である人間は、小生のように、ここまで執拗に調べ上げられるのか?」

「シティのように調べ上げられはしないと思うけど、言葉を話すことが出来るよう、検査や治療はされるだろうね」

 毛繕いをようやく終えた小生、石田君の言葉に眉をひそめる。

「多数者と違う者は異常であり、異常であるがゆえに、治療なる、同調化政策を取らされるということか?」

「難しいことを言うね」石田君のその言葉には、猫のくせに、というような軽侮の一切も含まれてはいない。彼の言動は、如何なる場面においても、素直の一言に尽きる。「まぁ、言葉を話せないと不便だし、普通は本人も、話せるようになることを望むからね」

「だとすれば小生にだって、他の猫と同様、言葉を話せなくなるよう”治療”を施すべきではないか。今のこれは、明らかに治療のためではなく、知的好奇心を満たすため、及び、人類の発展のため、とかいうやつではないのか」

 そこで石田君、小生の顔を覗き込む。小生、キャットフードを喰らう手(口だが)を止める。もごもごもご。

「シティは、言葉を話せないようになりたいの?」

「いや、そうではないが……」

「だよね。君が話せなくなると、正直、僕は退屈だ」石田君はほっと胸を撫で下ろした様子だった。「それに君の場合は、特別だ。君のおかしなところは言葉を話せることだけじゃない。例えば今このとき、人間と同じように思考していることも、おかしな点の一つだよ」

「人間は思考できるが、猫は思考できない、とでも? それはちと、思い上がりが過ぎぬか、石田君」

「確かに、そうだ。シティがここまでの思考能力を備えているということは、他の猫にだってそれが備わっている可能性はあるし、猫に限らず、他の生き物だって、人間と同じようにあらゆる思考を繰り返しているのかもしれない」

 石田君はそう云うと、傍らにあった椅子に腰掛け、昼食だと云う、カップラーメンなる食べ物を、豪快にずるずるとやりだした。汁が辺りに飛び散る。彼の啜り上げる音はまるで、排便のそれの如くであった。

 小生が、その下品な姿を見て、語らうべき相手を誤った、と後悔の念に駆られたのは、云うまでもないことであろう。


 翌日、小生は目覚めると、檻の柵扉を鼻先で押し上げ、生物管理室の、冷たいタイル張りの床の上に降り立った。石田君はいつも、小生の檻に鍵を掛けることはしなかった。

 着地の際の衝撃を、小生のしなやかな脚と、その裏の肉球が押し殺したため、さしたる物音は立たなかった。にも関わらず、棚に陳列された動物たちの多くは、小生の気配に気付いたようで、あるインコは、毒々しい色合いの羽をバタつかせて警戒の視線を向け、あるモルモットは、電子音の如きけたたましい鳴き声をあげ、暴れ始めた。

 石田君はと云えば、昨夜食べたカップラーメンの容器や割り箸などもそのままに、椅子に腰かけたまま机に突っ伏して、涎を垂らし、どうにもわざととしか思えぬ、滝の真下にいるかの如き轟音のイビキを立てておる。

 人間と他の動物たちの寿命の長短は、もしかすると、日常の気の張り具合も関係しているのでは、と小生、そんなことを思ったりもする。

 小生が出窓へ上り、腹這いに寝転がって外の様子を眺めていると、突如として、けたたましい電子音が辺りに鳴り響く。今度はモルモットのものではなくて、本物の電子音――電話のコール音のようであった。プルルルル、プルルルル。

 石田君、むくりと起き上がると、袖で涎を拭い、モジャモジャの頭を掻き毟りながら、出入口のドア前の壁に設置された電話へと、重そうに身体を運ぶ。同程度の音量の、モルモットの鳴き声では起きなかったのに。人間とは不思議なものだ。

「はい、生物管理室。……はい。……はい、えっ? なんですって、”解剖”!? あ、はい。……はい……はい……」

 はい、とは、人間の用いる、自身の理解や肯定の意思を、相手方に伝える言葉の一つだ。会話の内で、一方にだけこの言葉が多いということは、情報や命令の伝達が、一方的に行われていることを意味する。石田君の戸惑い様から見て、それはどうも、すくなくとも良い知らせではないらしい、ということだけは明確である。

「……はい。わかりました、はい……。二時、ですね。昼間の。あ、そうですね、すみません。……わかりました、お連れします。はい、失礼します……」

 ガチャリ。石田君、受話器を壁に掛け戻す。

「石田君、如何した? 顔色が優れぬようだが」

 電話の内容に聞き耳を立てていたと知れては、無礼者の誹りを免れまい。小生、窓の外に視線を戻しつつ、問い掛ける。

 外には人工芝生が張り巡らされ、花壇やベンチのある広場が一望できる。天気は、快晴。この室内とは別個の世界であるかのような、気が滅入るほどのお天気だ。

「……いや、シティ。なんでもないよ」

 石田君は、表情を曇らせ、肩を落としてとぼとぼ歩く。窓際の小生に近づくと、顔を寄せ、精一杯の笑顔を”作り”、小生の頭を撫でる。彼の指は、厳つく太い。手のひらは岩のように固く、ざらついている。

 先述の通り、石田君は、素直な人間だ。

 小生には、彼が嘘をついていることなど、お見通しなのである。

「君はいつも窓の外ばかり眺めているけど、表へ出たいのかい?」

 唐突に、野太い声で、石田君は小生に問い掛ける。

「表? 出れるものなら、出たいがな」小生、投げやりに答える。

 石田君は、小生と視線を合わせたまま、唇を噛み締めると、やがて大きく頷いた。


 以前、動物病院から研究施設へ送られたときは、小生、道中を、暗い箱の中に押し込まれ、ガタガタと揺られておったに過ぎない。あれは、自動車だったかも知れぬ。けれど、そうではなかったかも知れぬ。例えば、電車なる、大地に張り巡らされた線上を這う乗り物や、飛行機なる、空飛ぶ鉄塊だったかも知れぬ。

 それらは、いくら考えても分からぬことである。

 分からぬことを、いつまでもくよくよと考え続けるのは、それこそ愚の骨頂である。そういうものは、あるときふと、唐突に暖風が吹き抜けるが如く、示し合わせたかのように分かるものなのである。

 従って小生、自動車に乗ったのは、正味、これで二度目であるとしよう。

 一度目に乗った西園寺の自動車は、重厚感のある黒塗りで、日を照り返しており、内部も広々としていた。一方、石田君の自動車はと云うと、石田君の作業服と同様の鼠色で、車体も小さく薄汚れており、内部には廃棄物やら食べ残しやらが散乱しておった。

 段差の上を走行するたび、小生の身体は大きく跳ね上がった。座席にしがみついていないと、命の危険すら覚えるほどだった。西園寺の自動車は、終始なめらかな走行で、さしたる振動すら感ずることはなかったのに、である。

 自動車、と一口に云っても、その形体は様々あるようだ。

「ここだ。いらっしゃい、シティ」

 小生は、石田君の住処だと云う、集合住宅の三階の、ある一室に招じ入れられた。

 家具もなく、殺風景な空間で、生活感なるものがいっさい窺えなかった。小生の知る限り、石田君は毎晩、あの施設の生物管理室で寝泊りをしていたから、滅多にこの住処へ戻ることはなかったのだろう。

 小生の眼前に、水の入った容器を差し出す石田君はなんだか、普段とは違う、本日の天気かのような、晴れやかな顔をしておった。小生、なんだかよく分からぬが、排便し、その上から土をかけ終え、澄まし顔で歩き去る兄弟猫――ミャー子の姿を思い出していた。

 石田君は休むことなく、巨大な(トランクケースというらしい)を開け広げ、タンスや押入れの中から服などを取り出しては、鞄の内部へと詰め込んでいった。

「荷造りなどして、如何した?」

 小生が水を飲み終え、濡れた舌をべろべろとさせながら尋ねると、石田君は作業の手を止め、こちらへと向き直った。

「シティ。君は昨日、家へ帰りたい、と言っていたね」

「家?」家。住処。蔵。母。ミャー子。片目の少女。種々の記憶が甦る。「帰れるものなら、帰りたいがな」

「僕が連れて行ってあげるよ。だから、君の家がどこか、教えてくれ」

「連れて行く?」小生、ぽかんと口を開け広げ、石田君の、奇妙にも精悍な顔つきを眺める。「石田君が、小生を、住処へ?」

「あぁ、そうだ。僕がシティを、君の家まで送り届ける。これからはそこで、以前と同じように生活するといい」

「だが、研究は? 石田君は小生の世話係兼、見張りのはずだろう? 小生がいなくなってしまっては、石田君は大丈夫なのか?」

「あぁ、そいつは問題ない。上から、シティを家まで帰す許可をもらったし、それに僕は、あそこを辞めるつもりだから」

 石田君は口角を上げ、表情を崩して小生に笑い掛けると、再び荷造りに取りかかる。

 何遍も云うが、石田君は正直者だ。”馬鹿”のつくほど、正直だ。

 小生を家に帰す許可を得たならば、石田君があの施設を辞める理由など毛頭ない。以前から鬱憤が溜まっており、もしくは施設から辞職を促され、偶然にもこの件と仕事を辞める時期が重なったというのならまだ分かる。だが、石田君はあの仕事を気に入っていた様子だったし、施設内の石田君に対する評価も、決して悪いものではなかったと思われる。

 それに、この荷造りはいったい何なのだ。小生を住処へ送り届けるだけならば、かの自動車を用いれば、すぐにでも済むことではないか。

 石田君は、嘘をついている。

 そんなこと、小生にはお見通しなのである。

 しばらくして、石田君の身支度が完了した。彼は両手いっぱいに荷物を持ち、おもむろに立ち上がった。窓辺で日向ぼっこに興じていた小生も、後に続くため、むくりと起き上がる。

――コンコンコン……

 石田君が一歩踏み出し掛けたとき、静まり返った部屋内に、ノックの音が響いた。今にも消え入りそうな微かな音ではあったが、心の内によく響くその不気味な陰鬱さは、強い存在感を有していた。

 仁王立ちになった石田君は、その逞しい体格からは想像できぬほどの怯えようを見せた。

鼠色の作業服の脇と背中は、彼の汗でびっしょりと濡れていた。次第に鼻息が荒くなる。両脚が大仰に震えているのは、両手の荷物が重たいせい、というわけではないだろう。

「石田様。こちらにいらっしゃいますね?」

 籠った声が、ドアの向こう側から聞こえる。なかなかドアが開けられないことに、痺れを切らしたのだろう。若い人間の雌の、丁寧ながらも、感情を押し殺したかのような冷たい声であった。

 石田君は沈痛な面持ちで、ついと小生を振り返り、それから荷物を置き、ドアに近寄って覗き窓から外の様子を窺うと、ようやくのことで意を決し、ドアを開け広げた。

「石田様。石田健次郎様で間違いありませんね」

「はぁ、そうですが。……何か御用ですか」

 石田君は冷静さを繕って、壁に手を掛け、気だるそうに受け答える。

「わたくし、幇助監督局の金井塚と申します。こちらへは、少々、お願いがあって参りました」

「幇助監督局? 確か、最近になって新設されたとかいう……」

 そこで小生、石田君の足元に潜り込み、来客の姿を見上げる。金井塚、と名乗る人間は、予想通り、若い雌であった。胸の前に、大きな金属製の鞄を抱えている。

 スーツなる、人間が仕事をするときに好んで着用する、没個性な服装をしている。服の色は黒く、漆黒の毛並みの小生、なんだか親近感を覚えずにはいられなかった。あの片目の少女の、貧弱な体つきを見たとき以来の、知古の友人と遭遇したかのような感覚だ。

 金井塚君は、小生の視線に気づいたらしく、感情の窺えぬ、曇り空かのようにどんよりとした灰色の瞳で、小生の姿を見下ろす。それから、その凝り固まった、人形の如き顔つきを微かに崩し、首を傾げると、小生を指差し、石田君に問い掛ける。

「この猫様が、件の人語を解し操る、という猫様ですか?」

「はっ?」石田君、その言葉に身を乗り出す。「なぜそのことを? 研究所では極秘扱いになっていたのに」石田君は正直者だ。

「なぜって、人づてにお聞きしましたので」

「いったい誰が!?」

「まぁ、そんなことはいいとして、……こんにちは、猫様。確かお名前を、シティ様とおっしゃいましたか」

「左様である」

 小生、機嫌が良い。なかなか、小生の名や生物学的名称に、”様”なる、敬称を用いる人間はいない。誠に殊勝な人間、である。

「あら、本当に人語を操ることができるのですね」

 金井塚君は、ほんの僅かだけ瞼を上げた。

 石田君は、脚を閉じ、小生の身体を隠すようにすると、低く唸る。

「なぜ、シティのことを知っている?」

「ですから、人づてに――」

「それは、誰のことだ!?」

 石田君、大声をあげる。見た目が見た目だけに、怒ると怖い。凶悪な威圧感がある。小生、以前に石田君の私物の上で粗相をしてしまったときなんて、天井に吊るし上げられ、なぶり斬りにされてしまうのではないか、という最上級の恐怖心を抱いたものだ。

「誠に恐縮ですが」そう前置きした上で、金井塚君は淡々と言葉を継ぐ。「当方にも守秘義務というものがございます。そのことは何卒、ご理解ください」

 金井塚君は、怒る石田君に対し、何ら恐怖を覚えてはいないらしく、そう云うと、金属製の鞄(こちらは、アタッシュケースと云うらしい)を地面に置き、何やら番号を入力し始める。その姿を、石田君はぼんやりと眺めている。

 カチャッ。心地の良い音がして、鞄が開け放たれる。

「おい、なんだこれは」石田君は、歯を食いしばりながら、つとめて平静を装う。「何のつもりなんだ」それでも少し、声が震えている。

「ほんのお気持ちでございます。当方と致しましても、不必要の時間の浪費を避けると共に、粛々と業務を行いたい。これはそれを円滑にするための、潤滑油、とでも思って頂ければ幸いです」

 金属製の鞄の中身は、隙間なく詰め込まれた、紙片の束。”金”なる、人間の用いる物やサービスとの引換券の一種であった。小生、それが何枚あるのかなど見当もつかなかった。だが、石田君のこれほどの動揺から察して、それらが途方もない価値を持っていることだけは確かである。

「目的は、なんだ?」

「そちらの猫様――シティ様を、お引渡しください」

 金井塚君は、小生に、そのどんよりとした瞳を向ける。

「シティをどうしようって言うんだ?」

「それは、失礼ですが、石田様にはご関係のないことのように思われます」

「こちらとしても」石田君は、金井塚君の足元に置かれた札束を眺め、ごくりと喉を鳴らしてから、続ける。「上からの許可がなければ、僕の一存で決められるものではない」

「上からの許可がなくとも、石田様なら出来るでしょう。事実、貴方は今、シティ様をお連れし、ここにいらっしゃるのですから」

 金井塚君が僅かに口角をあげると、石田君は俯き、小生に視線を向けた。見上げてみると、彼の目が泳いでいることが分かる。この女、体格は華奢なれど、石田君などより何枚も上手の人間に違いあるまい。

「いえ、ほんの冗談でございます。先方からは――すなわち築島科学研究所様からは、既に許可を頂いております」

「何だって!」石田君、再び大声をあげると、金井塚君に向き直る。「しかし、シティには所有権者がいたはずだ。確か、西園寺さんとおっしゃったはず。あの方の意向を無視して、シティの譲渡を決定するなんて、そんなこと出来るわけがない」

「西園寺様は、逝去なされました。この度、シティ様の”解剖”が決定されましたのも、それ故のことにございます」

「何だって……。じゃあ、君も――誰の命令か知らないが、シティを狙っているのは、西園寺さんの所有権が消失したからなのか?」

「滅相もございません。正規の権利者様のご命令により、当方は使わされました」

「西園寺さんから命令されて?」

 石田君の問いかけに、金井塚君は、ふるふると首を横に振る。

「大まかに申し上げればその通りでございますが、正確に申し上げればそうではございません」

「どういうことだ?」

「お察しください」

 金井塚君と石田君は、しばし見つめ合う。感情すら窺えぬ彼女の瞳から、いったい何を察しろと云うのだろう。無我の境地だろうか。人間と機械の境界線だろうか。

 その答えは、やはり石田君にも分からなかったらしく、目を逸らすと、俯き、ぼそぼそと云った。

「でも僕は、シティに、家へ帰してあげると約束した」

「お家へ? それはあまり良案だとは思えませんね」

「なぜだ?」

 そこで疑問を呈したのは、小生である。住処へ帰ることが良案ではないとは、いったいどういうことなのか。

「シティ様。貴方様の住処であった蔵は、既に取り壊されております。それどころか、西園寺家は、もはやこの世から跡形もなく消え去りました。貴方様のご兄弟も、すでにどこかへと引き払われておいでです。ですので、お帰り遊ばされても、無益です」

 衝撃的な話、である。

「ミャー子は? ミャー子は如何した?」

「ミャー子様?」金井塚君は、視線を上向け、しばし思案してから、云う。「誠に恐縮ではありますが、当方、ミャー子様なる猫様は、存じ上げません」

「では、あの片目の少女――」

「待て、これだけは教えてくれ! 頼む!」

 小生の質問を遮る形で、石田君の野太い声が轟く。

 さしもの金井塚君も、やはり唐突な石田君の声には驚いたらしく、僅かに背筋をびくりとさせてから、自身のその態度を恥じたように、微かに赤面して、云う。

「なんでしょうか?」

「君にシティを渡したら、シティはどうなる?」

「別荘へ参られます」すぐに冷ややかな冷静さを取り戻した、金井塚君。どんよりとした瞳を、またしても小生に向ける。「貴方様は、そこで、”あるお方”と共に暮らされることになります」

「「それだけ?」」

 小生と石田君、素っ頓狂にあげた声が、被る。

「それだけ、にございます。ご不安のようなので、申し上げさせて頂きますが、当方の所属する幇助監督局は、未だ歴史浅しと言えど、”国家機関”の端くれにございます」金井塚君、上着の内ポケットから何やら手帳らしきものを取り出して掲げると、それを開く。金井塚君の顔写真と、『金井塚京子』なる氏名、それから金色に輝くバッジ(どくだみとか云う、草花の形が彫られていた)が、小生の視界に映る。「当方、一般市民に虚言を用い、騙すようなマネは、間違っても致しません」

 その瞬間、虚無に近かった金井塚君の瞳に、熱が籠った。

 単なる、陽光の差し込みかも知れぬ。コンタクトレンズなる、人間の用いる視力矯正装置が、光を反射しただけかも知れぬ。

 けれど、少なくとも小生には、それが、彼女の内側から発せられた、情熱的な炎であるかのように見えたのだ。

「……シティ、君が決めたらいい」石田君、屈みこみ、小生に向け、声を潜めて云う。「この人は、信頼に値する人のように思う。君が彼女について行きたいなら、そうするといい。でも、もしそうしたくないのなら、約束通り、僕が君を、君の家まで送り届けることにしよう」声色は、優しげだ。

 このとき、小生はもう、心を決めていた。

 金井塚君について行くことにしよう、と思ったのである。

 ミャー子や片目の少女のことは気に掛かる。だが、これ以上、石田君に迷惑は掛けられない。彼は、職を辞してまで、小生のために尽くしてくれたのだ。

 小生を金井塚君に渡し、石田君が得ることとなるあのお金は、謂わば小生の恩返しということにもなり得る。猫の恩返し。童話にありそうな話、である。小生は何ら努力をしてはいないが。

 だが、あのお金を得ることで、石田君の生活環境は、今よりぐっと良くなるはずだ。

 小生が、その旨を申すと、石田君はただ一言、「そうか」と云って、小生を抱き上げ、頭を撫でた。相変わらずの、固い手、である。そして、「頼む」と云うと、小生を金井塚君に手渡す。

 金井塚君は、小生の身体を、両手で優しく包み込んだ。雰囲気通りの、冷たい金属の如き手を予想しておったが、思いの外、暖かく柔らかな手である。

「それでは、こちらを……」

 金井塚君が、地面に置かれたアタッシュケースを受け取るよう、石田君に目配せする。だが石田君、それに手を掛けようとはしない。それどころか、とんでもないことを云い放ったのである。

「それは受け取れない。持って帰ってくれ」

 人間にあるまじき行為、である。

「こちらは、いくらあっても困らぬものと思われます」当然のことを、まるで幼子に諭すように、金井塚君は云う。「ご心配なされる必要はありません。石田様の、上司とされる皆々様は、揃ってお受取りになられました。税務会計上も、贈与として処理させて頂きます。特別措置として、すでに当方により申告は済んでおりますし、もとより今回の贈与に纏わる税の納付は完了しております。それに石田様は、シティ様を助けるため、事前の断りなく、研究対象であったシティ様を研究施設内から持ち出されました。それにつきまして、おそらく、追って何らかの懲罰があることでしょう。失礼ながら、懲戒免職も充分にあり得ます。出過ぎたマネを致しますが、もしそうなりましたときに、こちらは生活の足しになるのではないか、と思われます」

「僕は、金に目が眩んで、シティを売り渡したわけではない」

 もはや決意は固まっていたらしい。石田君は事もなげに、そう云い放つ。

 以後も、金井塚君の再三に渡る訴えかけに、石田君は頑として首を縦には振らなかった。

 小生、これでは猫の恩返しが出来ない。誠に困った人間、である。石田君は。

「石田君、もらっておいて損はないぞ」

 石田君は、そう云う小生の顔を見つめると、何を思ったか、ふっと笑みを漏らす。

「シティ、元気でやれよ」

 そう云い残すと、石田君はドアを閉めてしまったのである。

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