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怪少女のバラード  作者: 飯野春市
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BAD CAT 1

  1


 にゃー、と鳴くのは、仕方がない。

 小生、確かに姿形こそ猫ではある。だが、ちょっと待って欲しい。その一事だけを取って、小生をただの猫と見定めてしまうのは、いささか早計であると云わざるを得ない。

 小生が、小生をただの猫ではないとする論拠は、次に掲げる事実に起因する。

――小生は、人語を解し、人語を操る、猫である。

 そのことだ。

 小生、”あるとき”を境にして、自分というものを知ったのである。人間の用いる”時間”という概念や、”暦”なる、人間の偉大な発明品をちょいと拝借して説明を施すなれば、今このときより一年と三月を遡った”あるとき”、その事実を知ったのである。

――小生は猫である。だが、ただの猫ではあり得ない。

 そのことだ。

 そのときから小生は、人語を解し、操れるようになったのだ。

 小生、生まれは、近代的な高層ビルが立ち並ぶ、都会の街である。”シティ・ボーイ”、もとい”シティ・キャット”と呼んでくれて差し支えない。

 小生と近しい人間は、小生のことを、敬愛と、あと多少の利便性を兼ねて”シティ”と呼ぶが、これではただの”街”という意味である。だが、愛称というものは、得てして特段の意味を求めないものであるらしい。だから小生、しぶしぶながらそれを看過している。寛容な猫、なのである。

 いや、話を戻そう。

 小生は五匹兄弟だったと記憶する。猫というものは、一期一会を大切にするもので、出産の際も、一度に何匹も、ぽんぽんと子どもを産み落とすものだから、小生、自分が何番目の子どもなのかは、今に至っても皆目検討がつかない。

 小生は生まれつき貧弱で、他の兄弟と比較しても身体が小さく、そのせいか、立ち上がって歩き出すまでに途方もない時間を要することとなった。それにも増してもっとも不運なことには、小生の体毛の色は、炭のような黒色なのだった。母たる三毛猫から不穏当な視線を一身に浴びて育ったことは、今でもくっきりと、この小さな脳みそが記憶しておる。

 黒猫は不運を呼ぶ、とは、最近知り合ったある人間の談だが、とても不思議なことながら、そのことは猫の世界でも常識として知られていることらしく、小生を見る他の猫の目は、ひんやりと冷たく、針で刺し貫くが如く、痛みすら伴うものであった。

 けれども幸いなことに、小生の、忌み嫌われる漆黒の身体を産み落とした張本人たる母は、小生を見る目つきすら凶悪なものではあったが、他の兄弟とひとしく乳を飲ませてくれたし、餌の捕り方や、住処の形成など、生きる上での術を伝授してくれたのである。

 小生は、何者からも(実の母からすら)愛されてなどおらなかったが、愛などなくとも、生き残るために何ら差し支えなかったことは、まぎれもない事実なのである。

 問題の発端となったのは、その、厳格ながらも温かだった母の死である。所謂”交通事故”による死だった。小生が目撃したときには、あの、おおきく頼りがいのあった母の身体は、タイヤにひかれ、絨毯の如く平べったくなっておった。

 小生は、それから長い期間、意気消沈していた。街中をあてどなく歩いた。”車道”なる、本来であれば、風の如く走り抜けねばならぬ、と母から身振り手振りで厳命されていた場所ですら、小生、肩を落として、まるで蟻の行列を追うかのように地面ばかり見て、とぼとぼと歩いた。”自動車”なる、人間が移動手段として用いる機械が、小生の姿を見ると、叫び声をあげるかのように、キーッと音を立て、つんのめりながら止まっていた。

 当時、小生は生を受けてから、はや二年が経過していた。身体としては、大人の仲間入りをしている。

 二歳で大人とは、人間からすれば不可思議なことであろうが、猫からすれば不可思議だと思うことの方が、よほど不可思議だ。そもそも、猫は長くて一五年で寿命を迎えるが、人間はなんと八〇年も生きると云うではないか! 人間一人で猫四匹分の生命を謳歌する計算だ。……いや、もっとか? 小生、計算は得意ではない。指が短く、人間のように折って数えることができないせいであろう。

 とにかく。

 小生、図体ばかり大きくなって(他の兄弟と比べれば、弱小であるにせよ)、心はいまだ、赤ん坊のままだったのだ。

「親の死を嘆くことは、精神性の幼さと何ら関わりがない。当然のことだ」

と、人間なら云うだろう。

 けれど、猫の世界は違う。もともと他者の不幸を哀しむ(人間に云わせれば”人間的な”)感情を持った猫などごく少数であったし、そんなことをしている時間があるのなら、ネズミの一匹でも捕って喰ったほうが腹は満たせる、と多くの猫は考えている。

 事実、その頃、他の兄弟たちは自らの腹を満たすため、餌集めに奔走していたのだ。

 都会の街、というのは、例えば、人間が景観のために申し訳程度に植樹した木々やら、人間が趣味で栽培している園芸やらはあるものの、本来的な意味の自然というものは、切り開かれ、視界の端にすら映ることはない。街は、謂わば”コンクリートジャングル”の様相を呈している。

 勘違いをして欲しくはない。小生、ここで人間批判を展開したいわけではない。親を殺されはしたものの、人間に対する憎しみなる感情のいっさいも、湧いてはいない。

 後で知ったことだが、人間は変革を求める生き物なのである。その変革は、自らの私腹を肥やすための、欲深で、傲慢な変革に過ぎないものの、だからと云って、例えば小生たち猫が、欲深で傲慢ではないかと云えば、そうではない。

 要はその変革は、正当な欲求に基づく、正当な能力の、正当な行使の結果と云えるのである。

 では、なぜ小生が”コンクリートジャングル”なる別称を用いて都会の街を表現したかと云えば、他でもない。その頃小生、どこを探しても、”食い物”が見つからなかったのである。

 哀しくても、腹は減る。街中を徘徊する理由が、母の死に対する感傷への慰撫から、空腹を満たすための俗物的探索に変化を遂げたのは、無理もなかったことなのである。

 母の消失と、小生の腹減りの関連性に、疑問を呈される方も多かろう。実際、街中にはノラ猫なぞ大勢おるのだから、如何に”コンクリートジャングル”とは云え、どこかにかならず餌はあるはずで、小生の腹減りも、小生の努力次第で解消されるはずではないか、と。

 結論から申せば、その通りである。母の消失と小生の腹減りに、関連性はほとんどない。

 原因は、母の死と同時期に発生した、ある事件に収束するのである。


 小生たち一家は、母と、小生を含め五匹の兄弟からなる、六匹家族であった。

 母の死を契機に、一家離散という憂き目に遭いはしたものの、それまでは、少なくともこの街の他の猫家族と比較すれば、幸福な生活を営んでいたと云って良い。

 その”幸福”は、ひとえに、住処と食糧の心配から解放されていたことに起因する。

 ひとまず、小生たち家族の住んでいた住処をご紹介しよう。

 槍の如き鋭利な鉄柱の生えた頑強な石塀に囲まれ、門扉は、美術館のあらゆる芸術品と見比べても遜色のない、趣向を凝らした佇まい。厳かな鉄柵を抜け、敷地に一歩足を踏み入れると、そこに待ち構えるは三〇〇坪に及ぶ広大な土地。家屋は、威風堂々たる和風建築。平屋ではあれ、途方もなく広い。地面に根差したその姿は、まるで飛翔を望み、その第一段階として大地にひれ伏す龍が如き、雄大さ。

 小生たちは、”豪邸”に住んでいたのだ。

 ……と云えば聞こえはいいが、正確に申せば、そんな豪邸のある敷地内の端、家屋の裏側にある石塀に隣接した蔵を、無断で”間借り”していたわけだ。

 蔵の内部は、何やらいわくありげな雑貨やら、見る者が見れば価値のありそうな骨董やらが、所在なげに保管されていた。壁沿いに立ち並ぶ棚に積まれた埃の山やら、天井の四方に張り巡らされた蜘蛛の巣やら、ジメジメとした湿気に満ちた空気やらを見るかぎり、おそらくこの蔵が、家主にほぼ忘れ去られ、顧みられることのなくなった空間であるらしいことは、猫の小さな脳みそを持ってしても容易に想像のつくことだった。

 小生たちにとって、これほどの優良物件は他にない。ここを探し当てた母の嗅覚は、史上類を見ないほど鋭敏であり、ここを住処と定めた母の決断は、運命の岐路に立ってなお賢明になされた英断であったと云えよう。

 その蔵を住処に決めて、二月ほどが経った頃だろうか。

 小生たち家族が、ある人間と、相見えることとなったのは。

「だれか、いるの?」

 恐怖からか掠れる声を、半ば強引に発する形で、突如として蔵にやってきたその人間は、暗闇の中で疑問の言葉を発した。

 当然のことながら、小生は、その頃まだ人語を解することができない。だから、その声やこれから続く人間の言葉はすべて、小生の記憶と、それから僅かばかりの想像とを交えて表記したものであることを、先に断っておきたい。

「おねえちゃん? ……わたしを脅かそうとしているの?」

 声の主が、幼い人間の雌であるらしいことは、その声の質からも想像できたことだ。だが小生、生来神経症の気があって、行動は物事をよく観測し、深く熟考してからせねばならぬ、という理念の持ち主であったから、”敵”が何者か確かめねばならぬ、という脅迫観念に駆られたわけだ。

 一家と共に隠れていた木箱の脇から顔を出し、先立っての敵の姿を確認した。

 蔵の内部は陽が当たらず、人間が用いる電灯など望むべくもないから、ふとすると吸い込まれそうになるほどの真っ暗闇ではあった。けれど、猫の目というものは便利なもので、瞳孔の機能が人間よりよほど優れており、暗闇に視界を求めることもそれほど苦にはならなかった。

 声の主は、想像していた通り、やはり幼い人間の雌だった。人間の用いる呼称に直せば、”少女”と云える年齢だ。猫に直せば、生後五か月くらいだろうか。すまない、それはテキトウだ。

 少女は、絶えずきょろきょろとしており、不安げである。これほどの暗闇だ。目が慣れるまでに時間が掛かり、もし慣れたとしても、小生たち猫のように周囲をくっきりと見渡せはしまい。視界の欠如と異物の気配は、少女の心に困惑と、強い恐怖をもたらしているらしい。

 猫の見る色と、人間の見る色とでは、多くの場合で差異を生じるようだから、色に関する記述は控えることにしよう。その上で少女の外見をごく端的に表現すれば、”棒”のようであった。

 半袖Tシャツとショートパンツという半裸姿だったのでよく目立ったが、少女の手足は骨に皮が張り付いただけのようにか細い。着ているTシャツがぶかぶかなのは、サイズが大きいから、という理由だけではないように思えた。

 小生、ここで少女に親近感を覚えた。貧弱は何も、悪いことではないのだ。

「怖い……怖いよ……」

 少女はうずくまり、頭を抱えた。人間がよくする、現実から目を背け、自らの殻に閉じこもる所作だ。現実的な問題が解決するわけではないが、僅かばかりの精神的な安楽を得られるらしい。なんというか、わかりやすい。

 小生、兄弟たちの制止を振り切り、少女の前へ飛び出した。

 そのとき、なぜそうしたのか、小生、今になってみても分からない。兄弟たちと比べ体の小さかった小生、棒のように細い少女に親近感を覚えたのは、先述のとおりで事実だ。

 だが、人間とは信頼に値しない生き物だ、ということも常識として知っていた。彼らは餌を持って巧みに小生たち猫に近づき、嗜虐心を満たすために身体を切り刻むこともあったし、ひんやりとした薄暗い部屋に押し込み、目障りだという理由でガスを吸わせて殺す(人間に云わせれば、”駆除する”)こともあった。

 けれども小生、その少女が、そういった有害な人間であるとはどうしても思えなかった。なぜかと問われれば返答に困るが、いわゆる”野生の勘”とでも答えておこう。

「……子猫」

 眼前にしゃんと座った小生の姿を見て、涙目の少女が洩らしたその言葉は、何の面白味もない、ごく平凡な、まるで点呼でもとるかのような事実確認の内容だ。

 けれども小生、その瞬間、あたかも電撃が体内を走り抜けたかのような衝撃を受けた。終始ふにゃついていた小生の尻尾が、このとき、深い眠りから覚めたかのようにピンと立ち上がった。目を見開き、心がざわつき、背筋が凍った。

 股の辺りが生暖かった。汚い話をして、すまない。ちょっと漏らしてしまったようだ。

 何をそんなに驚くことがあるのか。

 一歳を過ぎているのに、”子猫”と呼ばれたことが衝撃的だったのか。

 いや小生、当時まだ若輩なれど、そんなことでおののくほどヤワじゃない。

 それは、少女と目が合ったときだ。

 正確には、目が完全に合ったわけではない。”半分”合ったときだ。

 めちゃくちゃだ、言っている意味がわからない。そう思われるかもしれない。でも待って欲しい。これは的を射た表現だ。”半分、目が合った”。これを思いついた今、小生、ちょっと小躍りしておる。もう一度言っておこう。”半分、目が合った”。

 少女には、左目がなかった。暗く、空虚な穴が開いているだけだったのだ。

「わたし、怖いの」少女は、小生の身体を抱き寄せた。驚きのあまり身体が動かず、成されるがままの小生。「一緒にいてくれるかしら」

 小生、再び怖々と少女の顔を見上げる。やっぱり、左目があったはずの箇所に、ぽっかりと暗い穴が開いている。小生と視線を半分(しつこいようなので、これが最後)合わせて、少女は小首を傾げ、困ったように笑う。

「――”あなたが言葉をしゃべれたらいいのに”」

 ほんの冗談のつもりだったのだろう、少女は自嘲気味にそう云った。

 その声は、今まで聞いていた少女の声とは、まるで違ったものに聞こえた。心に沁みわたる、澄んだ音色だった。頭がすっきりと晴れ渡り、身体中がリラックスし、ボールにじゃれついているときのような、楽しい気持ちが胸いっぱいに広がった。

 このとき。このときである。何度でも云おう、”このとき”なのだ。

 ”小生が小生を知った”のは。

「何故、片目がないのだ?」

 その声が、どこから響いてきたのか、小生には初め、わからなかった。

 それは少女も同様だったらしく、しばし視線を周囲にめぐらせてから、再び小生を視界に捉え、目を見開く。

「いや、小生は猫である。さすがに人間と会話はできぬ」

 その声は、小生の言いたいことを言ってくれた。何者かが小生の思考を先読みし、言語化してくれているかのようだった。だとすれば、便利なことこの上ない。

 でも、違った。

「あなた、言葉が話せるの?」

 少女は、小生の醜悪な顔立ちを眺めながら、あわあわと唇を上下させた。

 小生は、少女の端正な顔立ちを眺めながら、ほうほうと唸り声をあげた。

 小生、気づいた。

――小生は猫である。だが、ただの猫ではあり得ない。

 そのことだ。


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