キオウへの疑問◇異変が始まる
カモメがマストの近くを飛んでいる。
それを見た航海士は、日陰で昼寝をしている青年の肩を揺らす。
「キオウ、そろそろ陸地だ。起きてくれ」
意地汚く寝返ったキオウは「あー」やら「うー」やら唸った。完全に寝ぼけている。しかも機嫌も悪そうだ。
やれやれ…、とカイはため息をつく。いつもならこのまま寝かせてやるが、仕方がない。
ちゃっぷちゃっぷちゃっぷちゃっぷ…
ばしゃーんッ!!
「うわあああああッ!?」
「起きたな」
「かかか…ッ、カイーーーッ!!」
水をぶち撒かれてずぶ濡れになったキオウは、バケツを構えたままのカイに怒涛の雄叫びをあげた。
「おま…っ、今なにし――!?」
「陸地が近いんだ。座礁しないように誘導をしてくれ」
「だからって、どーゆー起こし方をしやが――」
そこで、はた、と我に返る。
――自分は、賢者だ。
賢者という存在は世界のバランスを保つ役割を有する。魔術師のそれとは比較にならない強大な魔力は、人より神に近いとされている。しかも自分は寝起きで最高に不機嫌だった。
もしカイに八つ当たりをしていたら――。こうした瞬間に、師匠が自分をカイに託した意味を感じる。
「…陸か」
素直になれないキオウは頭を掻き、害にならない程度の熱風を喚んで服と体を乾かした。
「ああ、陸が近い。海鳥がいる」
「海図は?」
「ラティが燃やしただろうが」
そうだった。
昨夜ジークがラティに調子良く酒を呑ませたために酔って海図を…。
「んー…、キーシ!」
「はーい」
見張り台にいると思われた少女だが、何故かキオウの後ろからひょっこりと現れた。
「え…お前、上にいたんじゃねぇのか?」
「トイレ。あたしだって生き物だもん」
「…そ、そうか」
怯むキオウに少しだけ笑うカイ。その目はカモメを追い、陸の方向を探っている。
「キーシ、上で陸を捜してくれ」
「はーい」
身軽に綱梯子をスルスルと登っていくキーシ。
…そのマストと樽の間で、何故かレイヴとジークが一心不乱に腹筋をしていた。
「お、おい。アレらは、なに?」
両者の間でバチバチと散る火花を感じた賢者が怯む。カイは「アレら」がすぐにはわからなかったようだが、キオウの視線を追って理解し、頷く。
「体力勝負をしているらしい」
「うーわー…」
何やっているんだか…、と冷ややかな視線をくれてやるキオウ。
“真空のジーク”と“探求のレイヴェイ・グレイド”の腹筋対決である。ひと月前にジークを追っていた警官達やレイヴの同業者達は、よもやこのふたりがこんな場所で腹筋をしているとは思うまい。
更にこのデスティニィ号の舵を執るのは伝説の有名航海士カイで、見張り役は元奴隷娘のキーシ。料理係は宮廷料理長経験者の料理人インパスで、買い出し係は世にも珍しい有翼人のラティ。そして――そもそも船の主が賢者キオウであり、そのペットは意味不明なマリモのまーくんであった。
もはや、理解不能である。
「で、ラティは?」
「海図の件でお前にシメられたショックで、まだ寝込んでいる」
「…。じ、自業自得だ」
いや、果たしてそうであろうか。
そもそもの原因であるジークは、レイヴと少しリードをとった状態で腹筋を続けている。
頭上から声が降ってきた。
「――…えた!」
「あ? 何が見えたって?」
「…が…た! みど…き……!」
潮風がキーシの声を消している。この場合にカイがとる方法は。
「キオウ、通訳」
「『大きな島が見えた。緑が綺麗だ』」
「この辺りで大きな島――、ショウカ領土内の有人島だな。そういえば…、ショウカにはまだお前と来たことがなかったな」
「………あ、嫌な感じ」
「ん?」
キオウは空を見上げている。
カイも同じく顔を上げると、妙にどす黒い雲が西の空に見えた。
真上の空はカラッと晴れているのに、だ。
「とりあえず、停泊だな」
「……ショウカ…、嫌だなぁ…」
「? どうした?」
空から視線をキオウに戻すと、彼の顔色は真っ青になっていた。
「………俺、ショウカには行きたくない」
時折キオウはわがままを起こす。だが、それらはただのわがままではなく、そこには何か「嫌な感じ」が在るからだという。
賢者はすっかり顔色を失い、その場にへたり込んでしまった。
「そんなに悪いのか?」
「《負の気》がすっげー強い…。うー…」
「行っても?」
「嫌。ぜっっったいに、嫌」
でもなぁ…、とカイは空を仰ぎ見た。
そうこうしている間にも風が強まってきたし、波も荒れつつある。嵐は避けられないだろう。船を停泊させた方がいいに決まっている。
「マシな場所はないのか? 嵐が去り、海が落ち着いたらすぐに発つ」
「………」
「キオウ」
右舷に島が見えた。
島と空と海をぐるぐると見渡し、キオウは髪を手加減なく掻きむしる。
「うー…」
「どうする?」
「あー…」
「しっかりしろ」
「………わーかったよ…」
力なく手を挙げたキオウが、プルプル震える指で島の入り江を力なく示す。
「あの辺りならいいんだな?」
「ま、結界が張りやすいし…」
うぅ…っ、と呻いて突っ伏すキオウ。
異変に気づいたふたりが、腹筋バトルを中断してやってきた。
「何なに? また変なモノでもキャッチした?」
うんうんと唸っているキオウを見たレイヴが、困惑した様に鼻の頭を掻いているカイに顔を向ける。
だぁんッ! と、船室のドアが乱暴に開く。
「風がくるーーーッ!」
パジャマ姿のラティが天に高々と両手を振り上げて叫び、パタッ…、と倒れた。空の眷属として攻撃的な風の力を感じ取ったのか。
ジークがラティの元へ駆け寄っていく。おそらく昨夜の罪の意識があるのだろう。
「ちょっとー、揺れるんだけどー」
インパスがお気に入りの絵付け皿を抱えて出てきた。揺れで落として割りたくないのだと思われる。
「インパス、出てくるな。
いいかキオウ、お前はどこかにしがみついていろ。レイヴは縄を切って帆をおろせ。
キーシ、早めに降りて来い!」
「「「はーい」」」
「…うー…」
インパスはすぐに厨房に飛び込んでかまどの火を落とし、キオウは四つん這いで手すりにたどり着く。レイヴは腰の短剣で縄を切った。
「カ、カイッ。大丈夫だろーなッ?」
ラティを船室に押し込んだジークが、揺れで舌を噛みそうになりながら叫んだ。カイは力強く頷き返す。
この程度の揺れなど、かつて遭遇した幻の大波に比べればまだ可愛いものだ…!
舵を素晴らしい手つきで操り、カイはキオウが示した入り江に船を廻す。舵がこれだけ利くのだ、ぜんぜ――…ん?
「?」
転がってきた何かが足にぶつかった。まーくんだろうか。
「…」
否。あまりのショックに暴発したチカラで子供の姿になったキオウであった。
「こ、こらこらキオウ」
揺れで足が危うく、下手をすれば踏みかねない。チビキオウならば文句を言わないだろうが、だからと遠慮なく踏みつけていいはずもない。
この場合キオウは頑固なまでに根に持つ、それをカイは知っている。
目を回しているチビキオウを脇に抱え、カイは舵を握り直した。子供の体は本当に温かい。…そんなことを久しぶりに実感する。
――やれやれ…、何故あんな風に成長したんだか…。
キオウはすっかりダウンしている。だが必要に応じてカイの思考へ入り込み、船が座礁しないようにと誘導している。
思念の声はか細く弱々しい。それでもキオウは船を、カイを導く。
「…」
カイは今一度しっかりとキオウを抱え直した。