記憶の中にいる人◇記憶の中にいる人
屋敷の前で立つ自分に気がついた。自分は静かなこの屋敷に住んでいて――…ん?
これは…、ずっと昔の記憶だ。10年――いや、もっと前だ。
とても幸福だった頃の、記憶。
――この屋敷には、自分にとって何よりも大切な存在がいた。その存在を守るためとはいえ、共にいられないことには心が痛んだが…、それでも幸せだった。
その笑顔を見るだけで、その存在に触れるだけで、その声を聞くだけで、自分はとても幸せだった。そのことを思い出し、自然と温かな笑みが浮かんでくる。
でも…、私は誰と会おうとしているのだろう? ここには誰が住んでいるのだろう?
――…何故、こんなに胸が痛むのだろう?
思い…出せない……。
「…あ、起こした?」
目を開けると声がして、視線を向ける。
黒の長衣に銀髪が映えた青年の姿。手元のテーブルには丁寧に下ろされたのであろう盆が見えた。
自分の物音で起こしたと思っているのか。その申し訳なさそうな顔に、やわらかく笑んで首を振る。
――…夢、か…。
未だ残る夢の中で感じた不思議な感覚。戸惑いの答えを求めて無意識にキオウを見ると、この青年は水差しからコップに水を注いでいた。
「………」
この感じは、なんだろう…。やはり他人とは思えない。
「はい」
「うん、ありがとう」
差し出されたコップを受け取り――、ふいに脳裏で何かがよぎった。
一瞬――…誰かと、キオウが、重なった気がした。
キオウ…、その名も知っている気がする。自分が本来いる場所ではその名は使わなかった。絶対に口には出さなかった。
――自分は、その存在を、隠していた。
そんな気がする…。
「夢を見た、って言っていたけど――」
思考に滑り込んできた声に我に返ると、キオウがベッドの近くに引き寄せた椅子へ座ろうとしているところだった。
「夢は記憶の整理にも使われるんだ。その日の出来事や、それ以前の記憶の整理に」
「…記憶の整理、か」
「俺の師匠は俺とは違ってカタブツな賢者でさ、ガキだった俺にもほぼ手加減なしで仕込みやがるんだ。それで俺は昔よく深夜まで魔術の勉強をした。んで、その後に寝ると勉強の内容が夢に出てくる。
夢で反芻するのは有益ではある。けど…、それで寝言で空間転移の呪文を唱えて、朝起きたら見知らぬ浜辺や山奥にいたこととか度々あってさ。寝ぼけた頭で『ここどこーっ?』って泣きべそかいていると、師匠が呆れた顔で迎えに来るんだ」
「おや」
その様子を想像すると微笑ましくて、アゼルスは穏やかに笑った。小さい頃のこの子はとても可愛らしかったに違いない。
そしてキオウはというと――、この客を少しでも楽しませようと饒舌に話をする自分に気がついて驚いていた。
自分に戸惑い、窓辺に目を向けるキオウ。
まーくんがいる。
「…。えッ!?」
い…いつの間に……?
フツーの人であるアゼルスがコレを見たら卒倒しかねない。それは困るっ。
くわっと目を見開いたキオウ。慌ててまーくんをひっつかむと、窓の外にポイ捨てした。飼い主としての愛のムチである。
しかし当のアゼルスは、慌てふためくキオウを穏やかな眼差しで見ていた。
「いいのかい? そんな無造作に…」
「…。よく驚かないな」
「あの子に、かい? まぁ最初は驚いたけどね、毎日見るとさすがに見慣れたよ」
「毎日ぃッ!?」
い…今までまーくんはこの部屋に通って――、まさかお見舞いのつもりか!?
口を開けたまま唖然とするキオウに、アゼルスは優しく笑う。
「あのよくわからない表情を見ると、何故だか心がやわらかくなるよ」
「………」
アレを『癒し系キャラ』と称して大量生産し販売すれば売れるだろうか。キオウは一瞬かなり本気で考えてみた。
「キオウは…、賢者の称号を持っているんだって?」
「青柳の賢者、コレが俺の肩書きだ。
けど、称号っつーか…、賢者は生まれたときから賢者だから」
「?」
不思議そうな反応に、キオウは「そうだなぁ…」と頭を掻く。
「熟練の魔術師が賢者を名乗るわけじゃない。賢者は有翼人と同じようなモンで、フツーの人間とは違った意味で在るんだ。
吟遊詩人がよく『賢者は常に10人存在する』って話を謳っている。コレは間違いじゃない。10人の賢者はかの存在が定めた《絶対》だ。俺もとある賢者が死んだその瞬間に生誕したワケだ。
――ややこしい話だよな。悪い、忘れてくれ」
キオウは苦笑し、首を振る。
「俺の師は長い年月を生きた頑固な賢者だ。いろんな意味でな。
俺は今こうして船でふらふらしているけど、ある意味これも修行なんだよ。師匠は『人との関わりも大切な経験だ』とか言って、カイに幼い弟子を託した。だから俺は今も定期的に師匠んトコへ行って、魔導の手ほどきを受けている。
けどさぁ…、当の師匠は『人との関わり』を知る御仁には見えないんだよなぁ…。明星の――先輩の賢者がこう皮肉ってた。『秋津のの脳みそはガッチガチの漬物石!』って。
…そんなに面白い?」
キオウは声を押し殺して笑っているアゼルスにきょとんとした。アゼルスは目頭の涙を拭い、キオウに笑いかける。
「ごめんごめん。
だが、キオウは師匠を愛しているんだね」
「愛~い?」
口にした瞬間に背筋がゾクゾクしてしまった。
心底嫌な顔をするキオウに、再び声を出して笑うアゼルス。
「愛に語弊があったのならば、信頼や信用や尊敬といった辺りかな。どうかな?」
笑った目で問われて「俺もう行かないと」と慌てて席を立つキオウ。
そんな逃げようとする姿が微笑ましくて、アゼルスは再び笑いが込み上げてくる。
――…こうしてこの子を見ていると、なんだかとても愛しくて、嬉しくて、誇らしさも感じて…。けれどとても切なくて、苦しくて、心の奥底が酷く痛んで…、足元の地面が崩壊していく恐怖をおぼえる。
夢の中で感じたように――。
「キオウ…」
ドアに向かっていたキオウは呼び止められ、振り返った。
そして――、その目をじっと視る。
アゼルスは何かを言おうと口を開き、声を発しようとして――…言おうとしていた言葉を忘れてしまった自分に気がついた。
「…ごめんね、なんでもないよ」
「そう? じゃあ、また」
ぱたん…――
閉められたドア。アゼルスは深いため息をつき、目を閉じる。
――…自分は、一体何を言おうとしたのだろう…?
キオウもドアを背に、ため息をついていた。
――…やっぱり…、この人にはどうしても効きにくい…。




