寝たきり格闘家
寝たきり格闘家、というキャラクターを考えてみた。小説にしてみようか。
まずは、あるくたびれた男の話から。
朝がきて、男は憂鬱な気分で布団を畳む。階段を下り、リビングの席に座る。
中学生の娘は化粧ばかり熱心で、食事もとらずに出掛けていく。高校生の息子は大声で携帯電話の誰かと話し、一度だけ男を睨みつけてから家を出ていく。妻はほとんど口をきかない。
家族から冷たくされ、近所では犬に吠えられ、電車では痴漢と呼ばれ、会社では上司に叱られる。飲み屋で絡まれ、帰宅途中にガムを踏み、散々な一日が終わる。
布団に潜り、心地よい温もりのなかで男はようやく再生する。もう二度と、起き上がりたくないと思う。
男はどこかで聞いた、寝たきり格闘家の伝説を心の支えにしている。寝床は彼の活躍するリングだ。寝たままの打撃や関節技が得意で、グレイシー柔術が胴着を武器にするように、枕や毛布で相手を丸め込んだりもする。
男は寝たきり格闘家になった自分を想像し、生意気な子供たち、冷たい妻や憎い上司を、布団のなかに引きずり込んでコテンパンにやっつけたいと願望する。
隣に座る妻は、私の作り話を聞いてクスリと笑う。
調子に乗って、私は語り続けた。「寝たきり格闘家は10代の頃、壮絶な事故に遭い、それ以来起き上がれなくなった。でも彼はくじけず、独自のリハビリを積み、障害者の英雄になったんだ」
妻はまたクスリと笑った。だが少し経つと表情を変え、「でも不謹慎だと思うわ」と言った。「だって、知恵遅れ建築家とか、ぼけ老人レーサーとか、言葉の意外性で弱者を笑うみたいじゃない」
「差別かな」
「そうよ。差別だわ」
「だけどね、君」。私は反論を試みる。
「知恵遅れ建築家とか、ぼけ老人レーサーなんて実在したら、とても魅力的な人物とは思わないか。それと同じで、寝たきり格闘家はけっしてネガティブな存在じゃない。健常者も憧れる、新しいヒーローだよ」
「でも、実際に事故に遭われて寝たきりの生活を強いられた人が、あなたの話を聞いたらどう思うかしら」
「寝たきり格闘家が、ただ笑われるためだけの内容で書かれたら、不快に思うかもしれないね」
「うーん」。妻が考え込む。
私は言った。「でも、弱者が笑われて傷つく。それはいけないことかな」
「いけないに決まってるじゃない」
「僕なんか、昔は何もできない、つまらないガキだった。たくさん馬鹿にされ、傷つけられたから強くなった」
「それは虐められても余裕ある人の意見よ。障害者が障害者であることを笑われても、それは自分ではどうすることもできない」
「克服できない障害と、心の成長とは別。障害者でも気持ちが未熟なら、馬鹿にされてもいいと思う」
「コンプレックスやトラウマが深いと、成長の試練を与えられているのか、差別されているのか、わからないこともあるのよ。そういう人は深く愛される体験を経て、自信と、他者への信頼を持てるようになってからじゃないと耐えられないの」
「でも健常者だって、無条件では愛してもらえないぜ。簡単には愛されないなら、せめて笑われる方がマシって考えもある。……あれれ、議論が脱線したかな」
それから、73秒の沈黙。
「あと私が危惧するのは……」。妻が言いかけて黙る。
「何だよ」
「えっとね、だからつまり、寝ながら格闘なんて、布団のなかで二人がもつれ合う感じじゃない。それでエッチな小説だと誤解されるかもしれないし」
「なるほど」。妻は真面目な女だと思う。「僕はエロがいけないとは思わない。だが、ちゃんと読まれず、偏見だけが一人歩きするのは確かに良くない」
「でしょ」
「それこそ、寝たきりとエロを安易に結びつけるという意味で、差別的だよ」
「しっかりした小説を書くのなら、タイトルもそれなりのものにしないとね。『寝たきり格闘家』なんて、駄目だと思うわ」
どこからか、雀のチュンチュン鳴きあう声が聞こえてきた。午前の明るい日差しが、窓から部屋に差し込む。
「……!」
妻は突然何かに気付き、時計を確認してから私に言った。
「いけない。また、いつもの長話しでごまかされるところだった。でも今日は駄目よ。山田さんがもうすぐ来るから、布団畳んで片付けないと」
それから私たちの格闘が始まった。布団を剥ぎ取られ、畳の上に投げ出される。寝たきり格闘家に、私はとても及ばない。