還暦バスは、筆先より先に揺れる
還暦バスは、筆先より先に揺れる
大型観光バスの車内に漂うのは、微かな芳香剤の匂いと、加齢臭を必死にラベンダー系のコロンで打ち消そうとした形跡、そして――初対面の男女二十人が醸し出す、鉛のように重たい沈黙だった。
「えー、皆さま! 本日は『六十代限定! 紅葉の信州と信州そば打ち体験で結ぶ、大人の恋の旅路ツアー』へようこそ!」
最前列でマイクを握る婚活ツアープランナーの若い女性が、引きつりそうな営業スマイルで声を張り上げている。
右側三列目の窓際。通路側に座る見知らぬ男性の気まずい咳払いを聞き流しながら、私――神谷修造かみやしゅうぞう(六十歳)は、新品のノートとボールペンを膝の上で弄んでいた。
(……やっちまったな、これは)
先月、三十八年勤め上げた中堅建材メーカーを無事に定年退職した。
退職金もそこそこ、持病も血圧が高めなくらいで特に問題なし。妻とは十年前に円満(という名の、お互いへの関心喪失)に離婚しており、一人息子の自立も見届けた。
晴れて完全な自由の身となった私のこれからの野望は――「まったりと小説家を目指す」ことだった。
学生時代に文学青年気取りで太宰や安吾を読み漁っていた情熱が、定年を機にメラメラと再燃したのだ。図書館で古典を借り、パソコンの前に座り、毎日原稿用紙十枚を書く。いつかは同人誌仲間を作ったり、あわよくばどこかの新人賞をかっさらって「遅咲きの老境文学」として新聞の片隅に載る……はずだった。
だが、いかんせん退職して一ヶ月。
圧倒的に、暇なのである。
一日中家にいても、テレビのワイドショーと冷蔵庫の開閉を繰り返すばかりで、人生の深みどころか人間観察のネタすら湧いてこない。
そんなとき、ポストに入っていたチラシが目に飛び込んできた。
『人生の秋を、共に彩るパートナーを。六十代限定・日帰りバス婚活』。
「まあ、暇つぶしだ。小説のネタ拾い、いわゆる取材ってやつだな」
そう自分に都合の良い言い訳をして参加したのだが――。
「では、最初のサービスエリアに着くまで、お隣同士でプロフィールカードの交換と三分間の自己紹介タイムです! 席替えもありますので、全員とお話ししていただきますよ〜!」
地獄の号令が下された。
「あ、どうも……神谷です」
私は硬直した笑顔で、隣の席に座る女性にカードを差し出した。
白髪交じりのショートカットに、品の良い紫色のカーディガンを着た女性。カードに書かれた名前は「三宅民子(六十二歳)」。
「三宅です。よろしくお願いします……神谷さん、前職は会社員で、趣味は……『純文学の執筆』?」
民子さんが細めた目でカードを凝視し、眉をピクリと動かした。
「ええ、まあ。先月定年になりましてね。これからは第二の人生として、言葉を紡ぐ日々に身を捧げようかと」
ちょっと文士気取りで顎を引いてみた。芥川賞の受賞インタビューのような渋い声を意識したつもりだった。
すると民子さんは、ふうと深い溜息をついた。
「……あなた、もしかして、朝から晩までパソコンの前に座り込んで、奥さんに『お茶まだ?』とか言っちゃうタイプ?」
「は? い、いや、独身ですし、お茶くらい自分で淹れますが……」
「よかったわ。うちの前の旦那が定年後に陶芸だの俳句だのにハマってねえ。毎日土をこねて家じゅう泥だらけにするくせに、お茶碗ひとつ洗わなかったのよ。男の『定年後の文化人気取り』ほど、見てて鬱陶しいものはないわよねぇ」
グサッ。
初撃から、私の心の文士像の鳩尾みぞおちに深々とナイフが突き刺さった。
「そ、そうですか……陶芸と文学は別物だと思いますがね……」
「同じよ。どっちも一人前の気になって、家族をアシスタント扱いするんだから」
チーン、とスタッフのベルが鳴る。
「はい、男性の方はひとつ後ろの席へ移動してくださーい!」
「どうも、失礼しましたっ」
逃げるように席を立ち、後ろへ移る。背中に冷や汗がびっしょり張り付いていた。
小説の取材どころか、己の定年後の生き方を真っ向から全否定されてしまった。
* * *
二人目。派手なスカーフを巻いた六十一歳。
「趣味は推し活です! 韓国のボーイズグループを追っかけてソウルまで遠征してます! 神谷さんは年金、繰り下げ受給派? それとも即受給派?」
「えっ、あ、六十五歳から普通にもらおうかと……」
「ダメよ! 今の制度なら少しでも繰り下げて枠を増やさないと、遠征費が出ないじゃない!」
三人目。大人しそうに見えて目が笑っていない五十九歳。
「ご両親の介護は終わられてます? 持ち家は一軒家ですか、マンションですか? もし一軒家なら、屋根の修繕歴を教えていただけますか?」
「え、あ、十年前に一度……」
「修繕積立金の計画書はお持ちですか?」
四人目、五人目、六人目……。
バスが中央道を西へとひた走る間、私はただひたすらに、現実という名の荒波に揉まれ続けた。
若い頃の合コンのような「どんな音楽聴くんですか?」「休日は何してるの?」といった甘酸っぱい探り合いなど、ここには一切存在しない。
繰り広げられているのは、「残りの人生の損益計算書」の突きつけ合いだった。
健康状態、年金額、介護リスク、前妻との関係、実家の相続問題。
六十年の歳月が積み上げてきた生々しい生活の臭いが、狭いバスの座席に充満している。
(……すごいな。これが、六十歳の婚活か)
最初はうんざりしていたはずの私の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入った。
ノートのページをめくり、ボールペンのインクを走らせる。
『六十代の恋とは、ロマンスの追求ではなく、老後という名の航海を共にする泥舟の補修作業である。彼女たちの眼光は、青年の恋心より鋭く、税理士の査察より厳しい――』
「おい、神谷さんだっけ? さっきから何メモしてんだ?」
通路を挟んだ隣の席に座る、頭頂部が涼しげな同年代の男性――鈴木さん(六十三歳)が、缶コーヒーを片手に話しかけてきた。
「あ、いや……ちょっとした日記のようなものです」
「へえ。俺なんかもうヘトヘトだよ。さっきの女性にさ、『血圧の薬、何飲んでます?』って聞かれて、アムロジピンって答えたら『私と同じ!』って妙なところで意気投合しちゃってさ。何の合コンだよこれ」
鈴木さんが自嘲気味に笑う。
私も思わず、吹き出してしまった。
「あはは、分かります。私もさっき、定年後の小説執筆を『ただの自己満足の粗大ゴミ』扱いされましたよ」
「ははっ! 手厳しいねえ! でもさ、みんな必死なんだよ。定年して一人で家にいると、一日誰とも喋らない日があるだろ? あれが一番堪えるんだ。だから、こうやってバスに揺られて、誰かに文句言われるだけでも……案外、悪くないよな」
鈴木さんの飾らない言葉が、ストンと胸に落ちた。
そうだ。みんな、暇だから来たのだ。そして、寂しいから来たのだ。
私のように「小説のネタ拾い」などと格好をつけて、安全な高みから人間を観察した気になっていた自分がいかに浅ましかったか。
恥ずかしさと同時に、目の前の鈴木さんや、さっきの毒舌な民子さんたちが、急に愛おしい生身の人間に見えてきた。
* * *
昼過ぎ、バスは目的地の信州・蓼科の体験工房に到着した。
プログラムは「男女ペアでの信州そば打ち体験」である。
くじ引きの結果、私の相手となったのは――なんと、あの最初の一撃で私のプライドを粉砕した、三宅民子さんだった。
「……あら。神谷さん」
民子さんがエプロンをつけながら、苦笑いを浮かべた。
「……どうも。粗大ゴミの神谷です」
私がそう名乗ると、民子さんは吹き出した。
「ふふっ、根に持ってるのね。悪かったわよ、言い過ぎたわ」
「いえ、当たってますから。一人で悦に入ってた鼻をへし折ってもらって、むしろ感謝してますよ」
調理台の上には、大きなこね鉢と、そば粉と小麦粉の山。
「よし。じゃあ、水回しからやりますか」
私は腕まくりをして、鉢の中に手を入れた。
「神谷さん、手つきがいいわね。料理するの?」
「一人暮らしが長いですからね。男の一人飯なんて、煮込みか炒め物ばかりですけど。……でも、そば粉に水を少しずつ加えて、指先でポロポロのパン粉状にしていくこの作業……なんか、原稿用紙のマス目を少しずつ埋めていく感覚に似てますね」
「またそうやって、何でも文学に結びつける」
民子さんが呆れたように笑いながらも、ボウルに少しずつ水を注いでくれる。
「でもね、神谷さん」
民子さんは、私の手元を見つめながら、静かに言った。
「何か夢中になれるものがある人は、やっぱり羨ましいわよ。私なんて、趣味らしい趣味もなくて。退職してからは、孫の写真を眺めるか、録画した旅番組をぼーっと見るだけでね。毎日が、何の引っかかりもなく流れていっちゃうの」
「……流れる日々に、句読点を打つのが趣味ですよ」
「句読点?」
「ええ。何もしなければ、ただスーッと過ぎていくだけの毎日に、無理やり『、』や『。』を打ち込むんです。今日こうやって、知らない誰かとそばをこねるのも、ひとつの派手な句読点でしょう」
民子さんは目を丸くし、それからクスリと柔らかく微笑んだ。
「……なるほどね。今の言葉、ちょっと小説家っぽかったわよ」
「お褒めに預かり光栄です」
二人の息が合い、そば玉は滑らかなひと塊になった。
延ばし棒で平らに広げ、畳んで、専用の包丁でトントンと切っていく。
私の切ったそばは、うどんのように太くなったり、きしめんのように平べったくなったりと不格好極まりなかったが、民子さんはそれを見て声を上げて笑った。
「あはは! 神谷さん、これ、茹でたら団子になっちゃうんじゃない?」
「味は同じです! 不格好な文体にも、独特の味があるってもんですよ!」
湯気の立ち上る大釜で茹で上げ、冷水で締めた、私たちの「不揃いな手打ちそば」。
つゆにつけてすすり込むと、驚くほど強いコシと、豊かな香りが口いっぱいに広がった。
「……ん! おいしい!」
民子さんが目を輝かせる。
「本当だ。うまいですね……。自分で打ったからか、それとも――」
「それとも?」
「この年になって、誰かと笑いながら飯を食ったのが、久しぶりだからですかね」
私が照れ隠しにぼそっと言うと、民子さんは目を細め、静かに頷いた。
「そうね。……本当に、そうね」
窓の外には、午後の陽光に照らされた信州の山々が、赤や黄色に鮮やかに燃え上がっていた。
人生の秋、か。
悪くない。若い頃の青臭い春には出せない、深くてあたたかい色が、そこには確かにあった。
* * *
夕方。帰りのバスの中。
プランナーの女性が、最終投票カードを回収して回る。
『本日、もう一度お話ししてみたい方の番号をご記入ください』。
私は迷わず、ノートの切れ端に「三宅民子様」と書きかけた――が、ふと手を止めた。
隣の席の民子さんは、歩き疲れたのか、窓に頭を預けて静かに寝息を立てている。
夕陽の光が、彼女の目尻の細かな小じわを優しく照らしていた。
(……いや、ガツガツするのは野暮ってもんだな)
私はカードを伏せ、白紙のまま提出した。
この旅で得たものは、「パートナー」という結果そのものよりも、ずっと尊いものだったからだ。
鞄からノートを取り出す。
ガタゴトと揺れるバスの中で、私は新しいページを開き、サラサラとペンを走らせ始めた。
『六十代のバスは、過去の荷物と未来の不安を乗せて、夕暮れの高速道路を走る。
隣の席の彼女の寝息は、静かな秋の潮騒に似ていた。
私たちの人生の第二章は、大傑作にはならないかもしれない。
けれど、不揃いに切られたそばのように、不器用で、噛み締めるほどに味わい深い物語になるはずだ――』
「ん……神谷さん?」
目を覚ました民子さんが、擦った目で私の手元を覗き込んできた。
「また何か書いてるの?」
「ええ。定年後の、最初の短編小説のプロローグですよ」
「へえ。……私がモデルなら、ちょっと美人にしておいてよね」
「善処します。ただ、口の悪さはそのまんま書きますけどね」
「まあ、失礼ね!」
二人の小さな笑い声が、薄暗くなったバスの車内に溶けていく。
タイヤの立てるリズミカルな振動が、これから始まる私の長い長い執筆生活の、心地よいプロンプター(伴奏)のように聞こえていた。




