弟子と修行➂
香寧は、ずっと理由を探していた。
月澄が自分を好く理由を。――そして、いつか自分から離れていく理由を。
前世の香寧は、親に虐待されて育った。酷いことをされないよう、常に相手の顔色を窺い、機嫌を読み、自分を押し殺して生きてきた。そうしているうちに、自分の感情が分からなくなった。何が好きで、何が嫌なのか。何を望んでいるのかさえ曖昧になっていった。存在を否定され続けた人間は、やがて「自分には価値がない」と思い込むようになる。
だから、月澄に告白された時も、香寧はどこかで信じきれなかった。
自分は彼の師だから。一緒に過ごした時間が長かったから。彼にとって最も近い大人だったから。
――あるいは、この世界そのものが、月澄に“香寧を求めるよう”仕組んでいるだけなのかもしれない。
そうやって、いくらでも理由を並べられた。
怖かった。もし月澄が外の世界を知ってしまったら。もっと沢山の人と出会い、もっと広い景色を見て、その上で「あれは勘違いだった」と気づいてしまったら。
その時、自分はきっと立ち直れない。
だから予防線を張る。これは愛ではないのだと。師弟だから。環境のせいだから。仕方のないことなのだと。そう思い込まなければ耐えられない。健全に育つことのできなかった、自分の心が壊れてしまう。
不安そうに月澄がこちらを覗き込んでいた。その顔を見ると胸が痛む。こんな顔をさせたいわけじゃない。傷つけたいわけじゃない。
だから香寧は、震える唇を開いた。
「月澄……」
「はい」
「お前は、その……私のことが、本当に……」
「はい」
「……」
好きなのか――。その一言が、どうしても言えなかった。
広間で向き合った時と同じだ。喉が詰まり、胸がいっぱいになって、情けないほど声が出ない。
逃げるように目を逸らそうとした瞬間、月澄が香寧の手を取った。大きな手だった。熱く、力強く、逃がさないように指を絡めてくる。
そして金色の瞳で香寧を射抜くように見つめながら、はっきりと言った。
「はい。俺は師匠が好きです」
「っ……」
その言葉が全身へ流れ込んでくる。心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。嬉しいのに怖くて、今すぐ逃げ出したいのに逃げたくなかった。
「合っていましたか……?」
すがるように月澄が香寧の手へ頬を寄せる。こんなにも一途な想いを向けられる資格が、自分にあるのだろうか。
けれど、それでも。この誠意に応えたいと思ってしまった。
だから香寧は、震える声で、必死に勇気を振り絞る。
「……じゃあ、証明しなさい」
言い終えるより早く、月澄が唇へ噛みつくように口づけた。
「んっ……!」
驚いて身を引こうとする。だが後頭部を掴まれ、腰を強く抱き寄せられていた。逃げられない。まるで檻に閉じ込められたみたいだった。熱く、激しく、息もできないほど求められる。たとえ抜け出せても、きっとまた捕まってしまう。そう思わせるほど執拗で、一途な口づけだった。
なのに、不思議と怖くなかった。怖いはずなのに、どこか安心してしまっている自分がいた。そんな自分がひどく愚かに思えた。
唐突に月澄が唇を離す。細い糸が、ぬるく唇の間に引いた。
「師匠、師匠からもしてください」
「……」
いつもの悪戯っぽい笑みが妙に憎たらしい。肩に手を乗せ、香寧がそっと唇を重ねると、それを待っていたみたいに深く奪われた。言葉では足りないから、身体で教え込むように、月澄は少しも香寧を離そうとしない。
再び舌が入り込もうとした、その瞬間。
「ぐっ……!」
突然、月澄が首を押さえて苦しみだした。
「月澄、どうした!?」
「……大丈夫です」
どう見ても大丈夫ではない。慌てて襟元を探ると、首に掛けられた紐が肌へ食い込み、赤く痕を残していた。
「はぁ……くそ、まだ時間経ってないだろ……」
「これは……?」
「……忘川観の見張り札です。悪念が暴走した時用なんですが……煌瑛のやつ……っ」
また締まったらしく、月澄が苦しげに呻く。その様子に香寧は青ざめた。祭りの準備をしていたはずの月澄が、途中で抜け出してきたことを思い出す。
慌てて立ち上がり、石に蹲る月澄の手を引いた。
「月澄、すまない。送ってやるから、もう行こう。立てるか?」
「……立てません」
「そんな! 」
運ぶしかない、と香寧が焦っていると、月澄の肩が揺れた。次に顔を上げた時には、楽しそうに笑っている。
「師匠からのキスがないと立てません」
「……ばか!」
再び腕を引けば、月澄は呆気ないほど簡単に立ち上がった。――キスがないと立てないんじゃなかったのか。そう思った瞬間、じわりと頬が熱くなる。
通りへ戻ろうとしたところで、また胸元へ引き寄せられた。
「月澄、ふざけてないでもう行かないと……」
「ふざけていません。師匠は、もう少ししてから帰ってください」
「なぜ……」
息を乱したまま問えば、月澄は不機嫌そうに眉を寄せた。耳まで赤い。
「すごく……可愛い顔をしていますから。他の奴に見せないでください」
「……っ」
拗ねたまま、奪いすぎたことを誤魔化すみたいに、腫れた唇を優しく舐められる。その近すぎる距離のまま、月澄が低く囁いた。
「今、微明と清揺は任務で他の土地に行っていて……俺も今夜から旅立ちます」
「……うん」
触れ合う吐息が熱い。香寧の震える睫毛が頬へ触れるたび、月澄の吐息が僅かに乱れる。
「それが終わったら、ようやく手紙を出すことが許されます。正月には帰省もできます」
「……!」
「もうすぐです。俺達、師匠の元へ帰ります。だから、待っていてください」
香寧が大きく頷く。それを見た月澄は、安心したように微笑み、名残惜しげに香寧の髪を撫でた。
「気を付けてください」
そう言い残して、風みたいに去っていく。香寧はその場へ座り込んだ。頭の中を掻き回していた不安も恐怖も、抱き締められている間だけ静かになっていた。
顔を覆い、深く息を吐く。ふと、いつかの白宵の言葉を思い出した。
──きっと彼は、香寧の元でしか生きられないんだろう。
「……逆だ」
そう呟いて、香寧は再び自己嫌悪へ沈んでいった。
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「煌瑛師兄、待たせたな」
「……」
生き生きと現れた月澄の姿を見た瞬間、煌瑛は心底うんざりした。
乱れた呼吸。赤い頬。汗に濡れた首筋。短い時間で何をしてきたのか、嫌でも察せられる。しかも本人は隠す気がまるでない。女弟子が見るとまた変な噂が立ちそうだ。
祭りの屋台の骨組みを作り始めた月澄の背中を睨みながら、煌瑛は美しい顔を引きつらせて言う。
「……ずっと黙ってたけど、今日のお前には本当に腹が立つから言う」
「なんだよ」
「お前、時々俺のこと『こうねい』って呼んでるよな」
「……」
「それって渡雲香君の――」
「黙れ!」
恐ろしい勢いで木材が飛んだ。
「ははは! 図星かよ! 」
「殺す!!」
「馬鹿二人! 何をしている!!! 」
殴り合いの喧嘩を始めた二人に、裴 凛雪からの怒号が飛んだ。
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微明は、ひどくげっそりしていた。
普段は几帳面に整えられている髪も今日は雑に束ねられ、目元には濃い化粧を施されているせいで、ただでさえ鋭い目つきが余計につり上がって見える。薄く紅を引かれ、身体の線を隠すゆったりとした衣を纏わされていた。
そして何より問題なのが――隣だ。
夜哭宗所属の砕花が、ぴたりと微明の腕へ張り付き、肩へ頭を預けたまま離れない。しかも今日は女の身なりをしているものだから、端から見れば完全に仲睦まじい恋人同士だった。
二人は川沿いの喫茶の席へ並んで座り、標的が通るのを待っていた。
微明がそっと腕を引こうとする。だが、その度に砕花が指へ力を込める。
「あの、こんなに密着していなくても……」
「だーめ。急にくっついた方が、逆に怪しまれるでしょ?」
わざと甘ったるい吐息混じりの声を出しながら、砕花が微明へさらに寄りかかった。
微明は青ざめた顔で店内を見回す。案の定、周囲の男客たちがちらちらと砕花へ視線を送っていた。
「それに……夏明くん、逞しいから落ち着く……」
頼むから変な吐息を混ぜながら喋らないでほしい――。
微明は心の底からそう思った。ちなみに「夏明」は、微明の偽名である。
今回の任務は、夢花楼の楼主・魯 大順による人身売買疑惑の証拠を掴むことだった。
魯 大順は若い男を好むことで知られている。そこで砕花が直接近付き、微明――もとい夏明が裏で探る手筈になっていた。
その時、不意に砕花が微明の腕を強く掴む。
「来た」
先程までの甘えた声音とは違う、低く冷えた声だった。
砕花は頭を預けたまま目だけを伏せている。微明はさりげなく通りへ視線を向けた。
恰幅のいい男が歩いてくる。頬の肉はだらりと垂れ、細い目は脂ぎった顔へ埋もれるように窪み、おちょぼ口には厭らしい笑みが浮かんでいた。似顔絵で見た通りの顔だ。
――魯 大順。
夏明は相手の視線を引くように、わざと大げさな動作で立ち上がった。
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結局、香寧は祭りへ行かないことにした。自室で酒でも飲みながら、遠くの花火を眺めるつもりだった。雅心宗の弟子たちが土産を買ってきてくれると約束してくれたので、それも少し楽しみだ。
皆が出払っているため、今夜の雲香宮は普段の騒がしさが嘘のように静まり返っている。遠くには里の灯りが瞬いていた。
香寧は部屋の灯りを消し、窓辺へ腰を下ろす。月明かりだけを頼りに、花火が上がるのを待った。頬を撫でる夜風が心地よい。うっかり、このまま眠ってしまいそうだった。
――いや、眠ってしまってもいいのかもしれない。
弟子たちが山を下りてからというもの、香寧はずっと慌ただしく過ごしていた。疲れ切って気絶するように眠る日ばかりで、こうして穏やかに眠気を待つ夜は久しぶりだ。なんだか贅沢だな、とぼんやり思う。
ふと、昼間の月澄との抱擁を思い出した。今思えば短い逢瀬だったが、不思議と満たされていた。無意識に唇へ触れ、我に返ったように慌てて手を離す。
気を紛らわせようと針仕事でもしようか――そう考えた時だった。
不意に、気配を感じる。
香寧は目を閉じ意識を巡らせた。丹新山の結界の一部が壊れている。雲香宮の対角線上にあり、ほんの僅かの傷だ。リス一匹通れるかどうか程度の小さな綻び。だが、嫌な予感がした。香寧は窓から飛び出し、急いでその場所へ向かう。破れた結界を修復し、周囲を見回るため木々へ灯りを灯そうとして、背筋が凍った。
久しぶりに感じる、あの感覚。妖魔王と相対した時と全く同じ、吐き気を催すほど濃密な悪念。香寧は弾かれるようにその気配へ向かった。
案の定、空間に巨大な裂け目が走っている。真っ黒だった。光すら呑み込み、その奥では煮え立つような熱が脈打っている。本能が警鐘を鳴らしていた。耳飾りへ触れ、白宵へ通話を飛ばす。――繋がらない。
「っ、こんな時に……!」
悪態を吐きながら、香寧は緊急用の花火を掲げた。――直後。
――ヒュゥゥゥ……ドン。
同じタイミングで里の方角でも祭りの花火が打ち上がる。夜空が派手に染まり、緊急信号はあっという間に紛れてしまった。誰か気付いただろうか。そう焦った時、裂け目がゆっくりと開く。
――“何か”が出てきた。
認識できない。ただ黒い。異様なほど黒い。光を一切反射せず、まるで存在そのものが穴になったみたいだった。“それ”は全身から黒い液体を垂れ流していた。
液体が地面へ落ちる度、草花がじゅうじゅうと音を立て、たちまち腐り落ちる。妖魔王ではない。これは――。
突如、黒い液体が香寧へ飛び散った。咄嗟に扇で受け流す。だが掠めた先から煙が上がり、扇の端が溶け落ちていった。ぞっとする。
“それ”は人型をしているようでいて、人ではなかった。液体の塊が無理矢理立ち上がっているような、不安定な姿で一歩こちらへ踏み出す。
途端、ゴゴゴゴ――と地鳴りが響いた。裂け目の下から、煮え立つ黒い溶岩が噴き出す。
「っ!」
墨を腐らせたような濁った溶岩は、木々を呑み込みながら山肌を侵食していった。触れたものから、命が消えていく。先ほどまで見えていた“何か”の姿も、その中へ沈んで消えた。
辺りに腐臭と、ゴポゴポと煮え立つ不快な音が闇の中へ響いていた。灯り出せない。位置を晒せば食われる。気配を探ろうと神経を研ぎ澄ませる。すると、下から黒い影が跳ね上がった。香寧を喰らうように襲い掛かってくる。寸前で身を捻って避けたが、裾が僅かに触れた。ジュウウ――と嫌な音を立て、衣が溶け落ちる。
これに触れてはいけない。香寧は即座に己へ結界を張った。黒い影は何度も食らいつくように襲ってくるが、その度に結界へ阻まれる。だが、不吉な予感は消えなかった。
やがて、黒い溶岩が一方向へ勢いよく流れ出す。向かう先は山の麓。このまま流れれば、祭りの人々を直撃する。香寧は即座に先回りし、巨大な結界を展開した。押し止めてはいる。だが量が多すぎた。防波堤のように遮っても、黒い波は次から次へ押し寄せる。
ジジ、と雑音が走り、耳飾りから声が響いた。
『すぐ行く!』
「早く!」
白宵の切羽詰まった声だ。予想外の事態なのだろう。
黒い溶岩は香寧を避けるように左右へ広がり、まるで山を呑み込もうとせんばかりに広がっていく。逃がさないよう、波の動きに合わせて結界も広げる。少しでも気を抜けば、この死の奔流が人里へ流れ込む。ゴポゴポ、と不快な音が響く。
今夜は祭りで人が一か所に集まっている。絶対に通してはいけなかった。
結界は限界まで広がり、丹新山を囲えるのではないかと思うほど巨大になっていく。波が通った場所では、眠っていた獣たちも呑まれただろう。しばらくは草木すら育たない。
動物たちを可愛がっていた弟子の背中が脳裏をよぎる。香寧は唇を噛み締めた。
(清揺、君の大事な子たちを守れなくて、ごめん……)
ドン!――花火が夜空を震わせるのと同時に、“それ”が結界へ激突した。
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清揺は任務で百草堂へ来ていた。
百草堂とは、医術と薬理に特化した門派である。
仙門の中でも特に“治すこと”へ重きを置いており、各地の修士や民間人からの信頼も厚い。
門下には薬師、医官、丹師が多く所属し、傷病の治療から霊丹の調合まで、その技術は多岐に渡る。
忘川観の女医・葉 婉春や、白宵の御付きである洛悠も百草堂の出身だった。
大規模な疫病や妖毒被害が起きた際には、真っ先に百草堂へ救援要請が飛ぶとも言われている。
山門へ一歩足を踏み入れれば、濃い薬草の香りが鼻を満たす。谷一帯には薬園が広がり、崖には霊花が咲き乱れ、弟子たちは昼夜を問わず薬炉の火を絶やさない。
残灯師の医館へ通された清揺は、目の前に並ぶ膨大な薬棚に目を見張った。
葉 婉春の医館を訪れた時も、その薬の多さに感心したものだが、こちらは比べものにならない。まるで世界中の薬という薬を掻き集めたようだった。
呆然と棚を見上げていると、奥の扉からこの医館の主が現れる。
しかし残灯師は、清揺へ一瞥も寄越さなかった。青白い肌に、長い髪をだらりと垂らし、その片目を隠している。細い指で素早く薬棚を開け、忙しなく調合を始めたかと思えば、次の瞬間には何かを考え込むようにぴたりと動きを止める。
――半生半死。
彼の渾名は、実によく似合っていると清揺は思った。
やがて残灯師がくるりとこちらを振り返り、唐突に口を開く。
「柳 清揺、聖獣を扱える?」
「いいえ」
「そうか。では鳥を出してくれ。小さいのでいい」
清揺は言われた通り、床へ召喚術を展開した。
淡い光の陣から、小さな白い鳥が姿を現す。機嫌良さそうに鳴きながら、医館の中をふわふわと飛び回った。
その手際の良さに、残灯師が感心したように眉を上げる。試しに細長い指を伸ばした途端、鳥は警戒したようにその指を啄んだ。
「中央修仙司から、動物向けの薬を作れと依頼されていてね。私たちは人の身体なら隅々まで知っているが、動物は専門外だ。君を頼りにしているよ」
「はい」
「できれば妖魔王でも連れてきてくれると嬉しいんだが……」
興味津々といった様子で身を乗り出してくる残灯師へ、清揺は柔らかく微笑んだ。
「どんな対価を差し出されますか? 」
「ふむ……命が惜しいからやめておこう」
残灯師は肩を竦める。
「雲香宮がある丹新山は霊験あらたかな場所だ。私もあそこが気に入っている。そこの霊気に満ちた生き物を呼んでくれ」
「それなら……」
清揺は再び召喚陣を展開しようとして、そっと目を閉じた。
――その直後だった。びくり、と肩が震える。次いで、何かへ怯えるように目を見開いた。
「清揺、大丈夫か」
傍に控えていた瑠璃が、静かな声で問い掛ける。お目付け役でもあり姉弟子でもある彼女は、日本人形のように整った顔を僅かに曇らせながら、清揺の背をゆっくり擦った。
清揺は両手を胸元で合わせ、半ば瑠璃へ寄り掛かるようにしながら、虚ろな目で呟く。
「……い、いません……」
その言葉に、残灯師だけでなく、後ろに控えていた忘川観と百草堂の者たちまでざわめいた。
「居ない、とは?」
「わ、わかりません……でも……皆、し、死んでいます……」
清揺は右手の腕輪を強く握りしめた。そこには師の髪が収められている。医館の空気が一変する。誰もがただ事ではないと察し、ざわめきは一気に大きくなった。
「ふむ……」
残灯師は短く唸ると、天井から吊るされた紐を勢いよく引いた。
――ゴォン。重たい鐘の音が、百草堂全体へ響き渡る。緊急事態を知らせる警鐘だった。
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一方、龍牙門では、各門派の若手弟子を集めた武闘大会が開かれていた。
忘川観からは月澄、景 煌瑛、謝 廉を含む数名の門弟が参加していたが、勝ち残ったのは月澄と景 煌瑛のみだった。
謝 廉は早々に敗退している。だが月澄は、彼の実力を知っていた。わざと負けたのだとすぐに察していたので問い詰めたが、謝 廉は相変わらず掴みどころのない笑みを浮かべるだけだった。
武道場を囲うように作られた客席には各門派の弟子たちが集まり、熱気と歓声が渦巻いている。
忘川観の門弟たちも一角へ固まって座り、他門派の試合を眺めていた。景 煌瑛は、今にも自分の番ではない試合へ乱入しそうな勢いでうずうずしている。
その時、不意に裴 凛雪が月澄を少し離れた席へ呼び寄せる。
周囲の喧騒から距離を取ったところで、裴 凛雪は試合場へ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「月澄。これに優勝すれば、逆鱗玉が手に入る」
「……? はい」
突然の話題に、月澄は僅かに眉を寄せる。本来なら今頃、他の土地で妖魔退治をしているはずだった。だが予定は直前で変更され、半ば強引に龍牙門へ連れて来られたのだ。
「古龍の逆鱗から作られたとされる霊玉だ。古龍は……魔界から現れた存在とも言われている」
裴 凛雪の声音は淡々としていた。だが、その横顔には僅かな警戒が滲んでいる。
「逆鱗玉は力を与える。だが、その内には濃い魔気が眠っている。器が足りなければ、いずれ命を喰い潰される」
武道場では歓声が上がり、剣戟の音が響いていた。その喧騒の中でも、裴 凛雪の低い声だけは妙にはっきり耳へ残る。
「本来、逆鱗玉は龍牙門最奥の封印庫へ安置されている代物だ。それが今は、弟子同士の武闘大会の褒賞として持ち出されている」
裴 凛雪はそこで一度言葉を切った。
「適合者を探しているのではないか、と噂されている」
月澄は黙って聞いていた。裴 凛雪が何を言いたいのか、まだ見えてこない。
「本当は、お前をこの大会へ連れて来るつもりはなかった。だが龍牙門側が強く望んだ」
そこでようやく、裴 凛雪は隣の月澄へ視線を向けた。雪のように冷たい、美しい目だった。
「お前は魔界戦争の最中に戦場で生まれた子だ。人の子か、魔の子かも分からない」
月澄の表情が僅かに止まる。
「龍牙門当主は、その逆鱗玉をお前へ与えたがっているように、私には見える。……気を付けなさい」
ざわめく歓声の向こうで、誰かが勝敗を決したらしい。しかし月澄の耳には入ってこなかった。裴 凛雪は静かな声で告げる。
「もし人として生まれたのであれば、人として生を全うしなさい」
その声音は冷たい。けれど、不思議と拒絶の響きはなかった。雪は全てを凍えさせるために降る訳ではない。春まで草花を守る雪もある。
その時、謝 廉が月澄を呼びに来た。どうやら次の試合が近いらしい。月澄は裴 凛雪へ礼をすると、武道場へ向かって歩き出した。
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黒の濁流に押され、結界は今にも砕けそうだった。香寧が歯を食いしばった、その時――丹新山へ純白の雷が落ちた。
轟音と共に天地が裂ける。それは天罰のようでもあり、世界を切り開く夜明けのようでもあった。現修真界最強と謳われる男、白宵が来た合図だ。
「林宮主~、遅くなってごめんなさいねぇ」
黒い溶岩が結界を叩く粘ついた音の中、不釣り合いなほど軽い声が隣から響いた。洛悠だった。彼は懐から飴玉を取り出し、包み紙を剥いてぽいと口へ放る。次の瞬間、狐のように細められていた目が鋭く見開かれた。
「っしゃあ!」
香寧の展開していた結界へ勢いよく手を重ねる。霊力が一気に流れ込み、ひび割れていた結界が眩い光を放ちながら再構築された。空気が震えるほどの霊圧だった。
先ほどまで飄々としていた男と同一人物とは思えない。香寧が驚きに目を見張っていると、背後から低く落ち着いた声が響く。
「林宮主、ここは洛悠にお任せください。白宵真人がお待ちです」
振り返れば、大柄な男が立っていた。髭を蓄え、洛悠と同じ法衣を纏っている。男は香寧を庇うように前へ出ると、そのまま白宵の元へ導いた。
白宵は空中へ立ち、丹新山を侵す黒の濁流を静かに見下ろしていた。純白の衣が雷光を受け、夜闇の中で神仙のように浮かび上がっている。
「香寧、一体何が起きたのです」
近くに御付きの者たちがいるからか、声音はどこまでも清廉で端正だった。いつもの白宵ではなく、“白宵真人”を演じているのだと分かる。
香寧は少しだけ可笑しさを覚えながら、簡潔に状況を説明した。
「裂け目が現れ、そこから“何か”が現れました。その直後、この濁流が山へ流れ込み始めたのです。祭りをしている里へ向かっていたので、結界で押し止めていました」
白宵は黒い濁流を見つめたまま、静かに頷く。
「分かりました。まずは元凶を討ちます」
その声音には、一切の迷いがなかった。
「香寧は気を鎮める香煙を焚いていてください。悪念が濃すぎます」
「……はい」
この騒ぎでは祭りどころではないだろう。だが今日の雲香宮に人が残っていなかったのは、不幸中の幸いだった。もし弟子たちが山に残っていれば、どうなっていたか分からない。見れば、周囲にはちらほらと修真者たちの姿があった。白宵が各地から呼び寄せたのだろう。
雷鳴と香煙によって生まれた雲から雨が降り注ぐ。それに打たれた黒の濁流は、少しずつ中和されるように夜の闇へ溶けていった。
長い時間の後、裂け目は唐突に閉じる。黒い溶岩も、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。
空は白み始めている。
「……ちっ、逃がした」
小雨の中、白宵が小さく舌打ちする。
下を見れば、山の三分の一近い草木が枯れ、地面が剥き出しになっていた。雲香宮の建物が無事だっただけ、まだ幸運と言えるのかもしれない。だが悪念が薄まるまでは、修行者が暮らせる状態ではないだろう。
「伊手オロギー先生、これはどんな展開なんだ?」
御付きの者たちが離れ、二人きりになると、香寧は小声で尋ねた。白宵は険しい表情のまま首を振る。
「……前にお前へ言ったことを撤回する」
「?」
「黒焔魔尊がお前へ執着しているのは、“物語に作られた感情”だって話」
香寧の胸が嫌な音を立てる。だが表情は変えず、続きを待った。
「俺はこんな展開を書いてない。そもそも、妖魔王がお前に会いに来る予定すら無かったんだ」
「……でも、物語の裏側で進行していた可能性はあるだろ」
「それはある。けど嫌な予感がする。主人公が見つからないのも含めてな」
香寧は何気なく下を見下ろした。黒の濁流が通った跡――草木が消え、地肌の露出した場所に、小さな子供が立っていた。
「だから、お前も気を付け――香寧!?」
いくら本体が消えても、悪念は悪念だ。子供へ与える影響は計り知れない。香寧は反射的にその子の元へ飛び降りる。背後から白宵の焦った声が響いた。
「待て! 不用意に近づくな! そいつ、嫌な気配が――」
え? と思った時には、もう遅かった。子供の身体がどろりと黒く崩れる。次の瞬間、黒泥のようになったそれが、香寧の胸へ勢いよく飛び込んだ。




