しょうもない一日
今日は珍しく、自然に目が覚めた。
リビングへ出ると、母さんが食卓へ朝食を運んでいた。
「秋冬も今日みたいに、いつも早起きならいいのに。ねえ、岩夫さん?」
母さんが父さんへ微笑みかける。
食卓の向こうでは、父さんがあぐらをかいたまま新聞に没頭していた。表情は見えない。
「そうだな。早起きして新聞が読めるくらいの余裕は持つべきだ」
父さんの声は朝から無駄に重い。
「父さん。新聞のテレビ欄だけ譲って」
「駄目だ」
即答だった。
「テレビ欄だけだって」
「駄目だ」
「父さん。そんなこと言わずに」
俺は父さんのもとへ歩み寄る。
「駄目よ、秋冬。岩夫さんを困らせないの」
しつこさを見かねたのか、母さんが止めに入った。
「岩夫さんからテレビ欄を奪ったら、読むところがなくなっちゃうでしょ?」
――まあ、だからこそ欲しかったんだけど。ほとんどテレビを見ないくせによくやる。
席に着いても、父さんはまだテレビ欄とにらめっこしていた。
「秋冬。今日はなぜ早く起きた?」
「運よく起きられたから」
「……そうか」
生返事と、新聞の擦れる音が同時に響く。
俺の位置から父さんの表情は見えない。新聞が壁の役割を果たしている。だから父さんが喋っているというより、新聞そのものが返事をしているみたいだった。
「父さん」
「……なんだ?」
「テレビ欄」
「駄目だ」
重厚な声に、わずかな感情の色が混ざった気がする。赤かな。怒りっぽいやつだ。
「譲ってくれよ。すぐ返すから」
「駄目なものは駄目だ」
「なんで?」
「お前には早すぎる」
「テレビ欄がっ!?」
あまりの衝撃に、思わず身を乗り出してしまう。
「岩夫さんの言う通りよ。秋冬にテレビ欄は早いわね。テレビ欄は我が家の大黒柱が読むべき象徴よ。秋冬にはまだ……」
母さんが俺の頭を撫でてくる。例の「しょうがない子ね」みたいな生ぬるい笑顔まで添えて。完全に馬鹿にされている。この撫でがその証拠だ。
「テレビ欄が我が家の象徴とか、いま作ったろ。十五年も一緒に暮らしてきて初耳だよ」
「知らないのも無理はない。それが若さというものだ。だからお前にテレビ欄はまだ早い」
「都合よく合わせるなよ。新聞で顔を隠してても、裏でニヤついてるのはバレバレだぞ」
「そ、そんなことはない。断じてないぞ」
ゴホン、と父さんはわざとらしく咳払いした。新聞を握り直す手が泳いでいる。
というか……母さんがまだ俺の頭を撫で続けている。
「いつまで触ってんだよ! それに普通はてっぺんだろ。なんで後頭部なんだよ!」
手を払いのけると、母さんは「ああ……」とこの世の終わりみたいに嘆いた。
「秋冬の髪の毛、手触りがいいのに」
やっぱりそれか。スポーツ刈りのジョリジョリ感が目当てか。認めるけど、される側はたまったもんじゃない。
「スキンシップを拒むなんてあんまりだわ。こんなことなら、秋冬を産まなければよかった」
俺は絶句した。いま、母の口からあまりにも辛辣な言葉が漏れた気がした。……いや、空耳であってくれ。
「産まなければよかった」
「ええっ!? 触らせないくらいで全否定!?」
「母さんは秋冬が可愛いから、愛してるって表現をしただけなのに、冷たく接するなんて」
「ちょっと待て! 可愛いんじゃなくて、さっき手触りって言っただろ!」
「それも愛情表現の一つよ。秋冬を感じていたかったのに。ひどいわっ」
言葉とともに顔を両手で覆い、母さんは俯いてしまった。しくしくと、鼻をすする音まで聞こえてくる。
「だからって産まなければよかったはないだろ。父さんもそう思うよな!」
父さんの新聞は、動かない。
え? なんで無言なんだ? 俺、マジでいらない子なの?
待っていても進展がなさそうなので母さんへ視線を戻すと、彼女の肩は小刻みに震えていた。
「産まなければよかった」
どうしろと。正解がわからない。
「産まなければ、秋冬をお腹で感じられたのに!」
「……へ?」
「産まなければ、秋冬はずっと母さんのものだったのに!」
あ、ああ。そういうこと……ね。愛が冷めたわけじゃないらしい。
そのとき、対面の父さんが立ち上がった。新聞を読む姿勢のまま、俺のところまで歩いてくる。
「父さんにはわかっていたぞ、秋冬。お前は母さんから十分に愛されているとな」
声に自信がみなぎっている。こういうときの父さんは怪しい。
「嘘つけ。答えに詰まって、その場しのぎしただけだろ。あの沈黙、俺が生まれないほうがよかったって父さんまで同意したみたいで、本気で悲しかったんだからな!」
「ふ、ふふふ」
父さんの不敵な笑い。なのに、聞こえてくるのは父さんというより新聞の声みたいで薄気味悪い。
「な、なんだよ」
「言葉がなければ物事を理解できないお前は未熟。だから――」
ガサッ、と新聞を突き出してきた。
「テレビ欄はまだ早い!」
「くどいっ!」
これでもかと新聞を押しつけてくる。もはやテレビ欄への執着に対する、執拗なまでの報復だ。
活字、活字、活字。視界に第一面の文字がドアップで飛び込んできた。インクの匂いが鼻腔をくすぐる。
……ん?
あまりの近さに、逆に違和感を覚えた。この記事、どこかで見覚えがあるぞ。
――あっ! これ、今日の新聞じゃねえ!
登校することにした。外はまだ肌寒く、朝日がありがたい。
学生鞄と補助バッグを提げて、大通りへ向かった。
なんとなく体が重い。今日もまた変わらない日常を過ごすのかと思うと気が塞ぐ。将来の夢があるわけでもないし、一日を終えても充実感は薄い。そんなところが、このだるさにつながっているのかもしれなかった。
「やっほー。元気ないよー」
車の行き交う大通りに出たところで、背中を軽く叩かれた。
「秋冬ー、朝から辛気くさいなんて不健康だよー」
「梨奈か」
俺の隣に並んだのは、同級生の梨奈だ。肩に少し届かないくせのある黒髪、くりくりした目、小柄な体つきが目立つ。
「秋冬に入魂だよー。元気一発ー」
また背中を叩かれた。意外と痛い。
「お前は朝から元気だな」
「当たり前だよー。梨奈だからー」
「意味わかんねえよ」
横断歩道に差しかかる。信号が青に変わると、梨奈は白線だけを踏むようにして渡り始めた。
「横断歩道の白線って、踏みたくなっちゃうよねー」
「そんなもんか?」
「そんなもんだよー。横断歩道には人を狂わせる白い悪魔が潜んでるんだよー」
「……じゃあ、白線だけ伝って歩いてる今のお前は、もう狂ってるってことか?」
梨奈は空を見上げた。
「ああ、そうかもー。白い悪魔って怖いねー」
そこは否定しろよ。
俺が内心でツッコんでいる間に、梨奈は学生鞄を握ったまま拳を構えていた。渡り終えた横断歩道に向かって、「シュッシュッ」と口ずさみながらジャブの真似を始める。鞄の重みのせいで、パンチの切れ味は最悪だ。
近くを通ったサラリーマンが冷めた目で梨奈を見て、そのまま追い越していく。
当の本人は気にした様子もない。だが、隣にいる俺の羞恥心は順調に削られていた。
俺は見なかったことにして先を急ぐ。
「酷いよー。置いてくなんてー」
「いや、見てるこっちが恥ずかしいんだよ」
「なんで秋冬が恥ずかしがるのー。『頑張れ、もう少しで退治できるぞ』って励ますところでしょー」
「そんな掛け声した瞬間、二人そろって痛いやつになるだろ」
「痛くないよー。白い悪魔を倒せるんだよー。わたしは英雄、秋冬は支援者。光栄の極みなのに、わかってないなあ」
梨奈は残念そうに首を振った。
「今日のニュースの交通事故も、きっと白い悪魔の仕業だよー」
「白い悪魔はもういい」
「そんなわけにはいかないよー。ほら、あそこにも敵がいるよー」
梨奈は前方の横断歩道を指差し、トテトテと駆けていった。
しかも今度は学生鞄と補助バッグを路上に置き、本格的にシャドウボクシングまで始めた。
……よし。
赤の他人のふりをしよう。
そう決めて、元気すぎる梨奈を鮮やかにスルーし、俺は白い悪魔こと横断歩道の白線を無慈悲に踏みつけようとした。
「待ってー!」
制服の襟を後ろから思い切り引っ張られた。首に負担がかかり、体が持っていかれる。
振り向くと、梨奈が満面の笑みを浮かべていた。小柄なくせに、こういうときの力だけは妙に強いから質が悪い。
「秋冬も一緒に戦ってー」
梨奈が困ったちゃんモードに突入してしまった。こいつは変なことに執着すると、ほんとに止まらない。
俺も同類になれだって?
本気かよ。
横断歩道相手に、こいつと共闘ボクシング?
衆人環視の中、俺たちは二人してマジ顔で拳を振るっている。世界平和を願い、悪を憎みながら、ストレート、ジャブ、アッパー。
そこへ通りがかった幼稚園児が指を差して叫ぶ。
『ママー、変なお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるー』
母親が人差し指を口元に当てて諭す。
『シッ。受験勉強で疲れてるのよ。そっとしててあげなさい』
……あはははは。
嫌すぎる!
冗談じゃねえ!
俺は我に返ると、その場から全力で逃げ出した。
バス待ちの列をすり抜け、自転車通学中の他校生を追い越す。脳内にこびりついた哀れな自分を振り払いたかった。
「秋冬ー! 逃げちゃ駄目だってー! 立ち向かおうよー!」
梨奈が追いかけてくる。
しかも、ちらりと振り返った俺は目を疑った。さっき路上に置いた学生鞄と補助バッグを、あいつはちゃんと回収したうえで走ってきていたのだ。
妙なところでしっかりしてるのが腹立つ。
「追いかけてくんな! 俺は一人で登校する!」
「私と一緒だからって照れないでー!」
「照れじゃねえ! 恥だ!」
道行く人をかわしながら通学路を全力疾走する。
やがて高校へ続く登り坂に差しかかった。勾配がきつくて腹が立つ。
肺が熱い。足の回転も鈍くなり、ついに歩かざるを得なくなった。完全にバテた。
「体力ないなあ秋冬はー」
肩で息をする俺の横に、梨奈が涼しい顔で並ぶ。こいつ、呼吸ひとつ乱れていない。
「……お前の体力がありすぎるんだよ」
「すごいでしょー。こんな私となら白い悪魔を倒せるよー。さあ秋冬、さっきの横断歩道へ戻ろうー」
「戻る!? わざわざ戻るのかよ!」
「この先の敵も倒すけど、その前に今まで通過した悪魔を全滅させないとー」
「……参った。勘弁してくれ」
思わず天を仰ぐ。肌寒い朝のはずなのに汗がにじんでいた。
荒い呼吸を整えていると、梨奈がまた背中を叩く。
「ほら、元気になったねー」
そう言い残して、梨奈は長い坂道を一人で軽快に駆けていった。
俺は呆然とその背中を見送る。
遠ざかっていく後ろ姿を眺めていると、今朝いちばんに梨奈に言われた言葉がふっと蘇った。
――やっほー。元気ないよー。
自分ではいつも通りのつもりだったんだが。
気づけば、なぜか笑みがこぼれていた。重かった足も、少しだけ軽くなっていた。
坂の上で、梨奈がこちらへ大きく手を振っていた。
俺も振り返すべきなんだろう。だが、まだそれは恥ずかしくて無理だった。
梨奈が立っている場所は、次の横断歩道のすぐ手前だった。
そういえば、俺が白い悪魔退治を拒んだとき、あいつは何も答えなかったな。
……はは。まさか、な。
嫌な予感はする。だが、今は思い過ごしだと信じておこう。
いざとなったらまた逃げればいい。次こそは逃げ切ってやる。
だって、そうだろう?
今の俺には、梨奈からもらった余計な元気があるのだから。
朝のホームルーム前は、仲のいい友達と駄弁る時間だ。
登校した時点で坂道を全力疾走してへばっていたとしても、それは例外にならない。俺のところには友人の厚真木が来ていて、前の席の椅子にまたがるように座っていた。
「このクラスで一番の美人は朝霧。可愛さなら祝。だが、人気は花咲だな」
厚真木は女子のたまり場を盗み見ながら囁いた。手には赤ペンで「マル秘」と書かれたメモ帳を握っている。
「橙堂は誰が好きだ?」
ブレザーを脱ぎ、ノートで自分をあおいでいた俺は、仕方なく答えた。
「厚真木たまこ」
姿勢まで正して答えた俺を見て、厚真木の目が細くなる。
「オレの妹を狙っているのか。殺すぞ」
厚真木はメモ帳を閉じ、それからシャープペンの芯を伸ばし始めた。妹ラブだからな、こいつは。
「ジョークだよ」
「当たり前だ。で、好きなやつは?」
厚真木は眼鏡のブリッジを押し上げる。メモ帳が再び開かれた。
「厚真木たまこ」
俺の返答に、厚真木は目を閉じて嘆息した。
「フッ。聞き取れなかった。もう一度聞く。誰だ?」
「厚真木たまこ」
厚真木の動きが止まった。微動だにしない。
やべえ。超楽しい。
「悪い悪い。ちゃんと答えるよ。好きなやつはいない」
厚真木は俺を睨みつけると再起動した。シャープペンでメモ帳をなぞり始める。
「祝か」
「いわいじゃねえ。いないだ」
「祝」
「違うっての」
「違わないだろう」
梨奈はねえよ。可愛いのは認めるが、俺はあいつを好きじゃない。
「じゃあ、花咲でいいや」
面倒になりそうだったので、適当に答えておく。
「お前の心は移ろうな。前回は朝霧だったぞ」
「そうだったか?」
椅子の背もたれに体重を預け、ノートであおぐ作業を再開する。
「橙堂よ、ラブレターは用意したか。花咲は彼氏がいない。今こそチャンスだ」
「気が向いたら書く。今はだるい」
俺は手首のスナップを利かせながら、廊下側にある梨奈の席をちらりと見た。
視線の先には花咲と梨奈がいた。花咲が梨奈の頬をつねっている。梨奈が悪ノリしすぎて、お仕置きでもされているのだろう。
花咲が動くたびに、褐色のセミロングヘアがさらさら揺れる。意地悪そうな笑顔も妙に自然で、変に遠慮しなくてよさそうな気楽さがあった。
「だるいではない。ラブレターは今書くべきだ。好意は伝えなければ意味がないからな」
「朝のホームルーム前に告白ってどういう展開だよ。普通は放課後とかだろ」
「普通など関係なかろう。朝に告白してフラれるか結ばれるか。それがお前の普通であるべきだ」
「お前に決められたくねえよ」
「よく考えてみればラブレターなど要らないな」
厚真木は小声で呟くと、メモ帳を胸ポケットへしまって立ち上がった。そしてどこかへ歩いていく。
どこへ行くのかと眺めていると、花咲と話し始めた。
花咲がこちらを見た。厚真木と一緒にこっちへ来る。
おい、まさか。
「橙堂くん。話って何?」
花咲が微笑みながら話しかけてきた。
やられた。
「厚真木。どういうつもりだ」
「オレのたまこを狙われてはたまらん。お前は誰かとくっつくべきだ」
「あれは冗談だって!」
「たまこの可愛さは超絶級。いつ橙堂が狂ってもおかしくない。そのときのためにストッパーが必要だろう。ストッパーとはすなわち彼女、恋人だ」
「ふざけんな!」
思わず机を両手で叩いてしまった。
「えっと、話が見えないんだけどさ」
花咲の視線が俺と厚真木を行き来する。
「花咲よ。これから橙堂が大切な話をする。心して聞いてくれ」
「え? あ、うん、わかった」
いつの間にか教室の喧噪は消えていた。さっき俺が机を鳴らして叫んだせいで、俺と花咲にクラスメイトたちの視線が集まっている。
俺は椅子から立ち上がった。
「すまない。花咲。これは厚真木の冗――」
「皆、聞いてくれ。これから橙堂が恋の告白をする。見守ってやってほしい」
「ちょっと待てーッ」
絶叫してしまった。わけがわからねえよ。
クラスがどよめく。指笛、拍手、ざわめき。異様な空気だ。
「こ、告白!? 朝一のこんな状況で!?」
花咲がわずかに後ずさる。
「じょ、冗談でしょ? 罰ゲームか何か? あたし、そういうの良くないと思う」
花咲と目が合った。なぜか妙に艶っぽく見えて、俺は恥ずかしくなって目をそらした。
「罰ゲームとか、ではないんだが」
「じゃあ、本気なの?」
「いや、その……」
俺はクラス全員の注目を浴びる中で大きく深呼吸した。
落ち着け。焦るな。慌てるな。
ここは勢いに任せちゃ駄目だ。俺は花咲を特別視していない。こんな形で告白したら、花咲に失礼だろう。
「すまん」
俺は花咲に頭を下げた。
「罰ゲームではないんだが、本気で告白する気はないんだ。厚真木が――」
言いかけてやめた。あいつにも責任はある。だが、ここで弁明するのはなんだか格好悪い気がした。
「とにかくすまなかった。実は告白も話題もない」
上体を起こし、もう一度下げる。
しばらくそのままでいると、肩に何かが触れた。
「頭を上げて。まあ、冗談みたいなものだろうとは勘付いてたからさ」
頭を上げると、それが花咲の手だとわかった。
花咲は腰に両手を当て、わずかに息を吐いた。
「悪かったな。ここまで来てくれたのに」
「いいって。でも、教室のみんなは残念そうだね」
花咲の言う通り、周囲からは期待外れだの落胆だのという声が漏れていた。無理やりテンションを上げられて肩透かしを食らえば、そうもなる。
すると、
「嘘でいいから告れ!」
どこからともなく男子の声が飛んできた。
「そうだ、そうだ! せっかく盛り上がったんだ、演技でいいから告白しろ!」
「わたしも見たーい。やってみせてよー」
「落とし前つけろ」
教室の空気が再燃した。興味本位の賛同が次々と沸き起こる。
「なんか火が点いちゃったね」
花咲は臆することなく笑っていた。
「正直、告白なんてやりたくない」
「そう? でも許してくれなさそうだよ」
まさしくその通りだった。ここで拒めば、臆病者のレッテルが貼られるのは確実だ。
俺はひとつため息をつく。
「花咲。頼めば協力してくれるか?」
目の前の花咲を少し見下ろす。
「うーん。どうしようかなー」
花咲は顎に人差し指を当て、横目で見つめてきた。いたずらっぽい笑みだ。
「頑張れ。橙堂」
声がしたので視線を移すと、厚真木が腕を組んで頷いていた。こいつ、完全に他人事みたいに。
「お前も同罪だぞ」
「オレの行動は橙堂の幸せを願っての所作だ。橙堂は感謝すべきであり、オレに罪などない」
「俺の幸せ? 嘘つくな。俺が妹に近づかないためってさっき言っただろ。お前のせいで」
「厚真木くんにも責任があるの?」
花咲が割り込んできた。俺は「ある」と答えた。厚真木は否定。
「厚真木くんが教室で煽らなければこんな状況にはならなかったし、責任はありそうだなあ」
さすが花咲だ。話がわかる。
「よし、じゃあ、こうすればいいんじゃない?」
花咲は人差し指を一本立て、口の端を上げた。
「二人で告白ショーしてよ」
「「告白ショー?」」
俺と厚真木の声が重なった。
「橙堂くんと厚真木くんの二人で愛を語り合うの。すっごく見ものじゃない、それ」
教室に静寂が広がる。まるで時が止まったみたいだった。
だが、それは長く続かなかった。
「きゃー。何それキモーい」
「だはは! いいぞー!」
「橙堂と厚真木のカップリング、マジうける」
耳をつんざくようなクラスメイトの大爆笑。
「いやいやいや、ちょっと待て。冗談じゃねえ!」
手振りまで交えて全力で拒否する。これはやばい。逃げたほうがよくないか。
俺は廊下の様子を盗み見た。出口の扉は開いている。
「あ、逃げる? それもいいけど、告白見たいから邪魔しちゃおうかな」
花咲が俺の腕をがっちり両手で掴んできた。しかも花咲の後ろには柔道部の太田まで出現している。威圧感が半端ない。逃亡できなくなった。
花咲は俺の後ろへ回り込むと、背中を押して教壇の前まで無理やり誘導した。もちろん太田の監視つきだ。
厚真木もクラスメイト二人に両腕を引かれ、強引に運ばれてくる。
俺と厚真木は向かい合う形になった。
嫌な汗が垂れる。無表情が売りの厚真木も、さすがに顔が引きつっていた。
「厚真木、お前のせいだからな!」
「橙堂が花咲に告白していれば問題は生じなかった。橙堂が悪い」
「お前が花咲を連れてこなければこんなことには――」
「オレのたまこを狙うからだ」
俺は頭を抱えて、その場にうずくまってしまう。
「秋冬ー。アフリカ大陸に比べたら恥ずかしくないよー。遊びだよー」
遠くから朗らかな梨奈の声が飛んできた。
「アフリカ大陸?」
複数の声が重なった。クラスメイトたちが反応したのだろう。
俺は反射的に立ち上がり、梨奈を思いきり睨んだ。
俺が睨むと、梨奈は慌てて両手で口を塞ぐ。口外禁止の約束を思い出したらしい。
小学六年のときのおねしょのシミがアフリカ大陸の形だったのだ。そんな秘密を今ここで掘り返されたら、赤っ恥にも程がある。
「ねえ? アフリカ大陸って何?」
花咲が怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「厚真木」
俺は花咲を無視して、厚真木の両肩をしっかり掴んだ。
アフリカ大陸。アフリカ大陸。アフリカ大陸――。
これは遊びなんだ。開き直れ。やるなら本気で行け。中途半端が一番見苦しい。
「好きだ、厚真木。大好きだったんだ。どうしようもなく」
俺は厚真木の眼鏡の奥の瞳を見つめ、告白を始めた。
「お前を想うと俺は夜も眠れない。男同士なのに、どうしてこんなに惹かれるのか。これはきっと運命だ。目も、指も、胸元も……いや、お前の全部が俺を狂わせる」
肩を押さえる手に力がこもる。
「俺はお前が欲しい。お前は俺のすべてだ。必ず幸せにしてみせる」
片手を厚真木の頬へ伸ばし、指でさする。
「ぐぅ、ぐぐ」
厚真木に鳥肌が立った。目元は痙攣している。体は俺から遠ざかろうと後ろへ傾いた。
「逃げないでくれ。俺のことが嫌いか?」
俺は退こうとする肩を離さず、引き寄せる。抱きしめる。
「聞こえるか、厚真木。俺の鼓動が。制服の上からじゃわからないだろう。でも、確かにお前を慕う俺はここにいるんだ」
厚真木の乱れた呼吸がはっきり聞こえた。
俺は耳元で囁く。
「俺をたまこだと思って演じろ」
しばらく抱きしめていると、厚真木の呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「橙堂。オレは……」
厚真木は俺の体を引き離し、それから真剣な眼差しを向けて口を開く。
「オレも橙堂が好きだ。お前に出会ってからオレの人生は変わった。光が差しこんだ。ただなんとなく怠惰に生きてきたオレに目標ができたんだ。お前の笑顔が見たい。生きる意味を見出せた」
「厚真木」
「橙堂」
俺たちは熱い抱擁を交わす。
「厚真木。大好きだ。愛してるぞ」
「オレもだ、橙堂。二人で幸せになろう」
「好きだ」「好きだ」「好きだ」「好きだ」
「大好きだぁー!」
俺と厚真木は互いを腕で包みながら、高らかに吠えた。
やがて、見守っていたクラスメイトたちから拍手が起こり始め、気づけば教室は歓声に支配されていた。
「何やっとるんだお前ら?」
喝采の中、突然、廊下側からしわがれた声が響く。担任の山田だった。出席簿を片手に立っている。やがて咳払いをひとつ入れた。
「仲が良いのは結構だが、不純同性交遊には発展しないように。まあ、してもいいが、バレないようにやれ」
「不純同性交遊……」
俺と厚真木の声が、またしても重なった。
不純同性交遊ってのは、不純異性交遊の同性版か?
そこでは裸の俺と厚真木がパラダイスを形成している。裸なのに、なぜか眼鏡だけは装着している厚真木。口には一輪のバラ。少女漫画みたいにきらきらした瞳で俺を求めている。
ぎゃあぁああぁぁぁ!
ギャあぁあぁぁ!
ぎぃゃあぁあああぁ!
*>+p#<$%:&
俺は現実に戻ると、厚真木との抱擁を解除した。
肌が無性にかゆい。あちこちを掻きむしる。厚真木も同じように爪を立てているようだ。
そんな俺たちを見て、教室には笑い声が蘇った。
わ、笑いたきゃ笑え。それだけ俺の演技がすごかったってことだ。俺は俺は俺は! くそうっ!
「出席とるぞー。みな席に着けー」
室内の興奮が冷めきらない中、山田が手を叩いて呼びかけた。クラスメイトたちはそれぞれの席へ散っていく。
俺も自席へ戻る。
「橙堂くん。やるじゃん。面白かった」
隣の花咲がウインクを飛ばしてきた。
「アフリカ大陸はもっと面白いのかな?」
花咲は俺の顔を覗き込むように尋ねてくる。俺は答えなかった。
アフリカ大陸……。
花咲の興味は別のところへ移ったようで、まったく移っていない。
ごまかそうとして告白ショーを強行したのに失敗か。未来が見えた。梨奈の口からアフリカ大陸の秘密が漏れるのは時間の問題だ。
俺は花咲に体を向け、背筋を伸ばした。
「俺は花咲を好きだ。愛してる。結婚を前提に付き合ってくれ」
花咲は目を丸くし、それから吹き出す。
「本命は厚真木くんでしょ」
もう、どうにでもなれ。
午前の授業が終わり、昼休みになった。
学食組は教室を出ていき、弁当組は仲間同士で机をくっつけている。
厚真木の姿はない。朝の告白ショーの余波だろうか。
俺は一人、母さんが作ってくれた弁当の包みをほどいた。
鮭の焼き魚にミートボール。見た目だけなら、とても美味そうだ。
そのままだったらな。
問題は、シーチキンサラダのマヨネーズが弁当全体に広がっていたことだった。白ご飯も例外じゃない。おかず側は水っぽくなり、きんぴらごぼうにまで白が混ざっている。
食える。食えるんだけど、わかるだろ?
今朝の激走で、アルミホイルの防衛が崩れたらしい。
「うわあ……なんか白いお弁当だね。シーチキンサラダが広がったのかな」
隣の花咲が、少し引きつった笑いでツッコんできた。
よく見ると、花咲は一人で座っている。
「梨奈は? 一緒じゃないのか」
「パン買いに行ったよ。もうすぐ戻ってくるんじゃない?」
そのとき、ちょうど梨奈が教室に戻ってきた。花咲の前の席に腰を下ろし、買ってきたイチゴミルクとサンドイッチを机に並べる。
「今日はパンなのか」
「そうだよー。美味しそうでしょー?」
梨奈は包装されたサンドイッチを両手で持ち、見せびらかしてきた。
……イラッとした。
こいつのせいで俺の弁当はこんなことになったのに。
「秋冬はおっちょこちょいだねー。お弁当は揺らしちゃだめだよー」
「お前のせいだろ。朝、お前が追いかけ回したからじゃねえか!」
「んー?」
梨奈は首をかしげた。
「秋冬が白い悪魔を一緒にやっつけてくれないからだよー」
「公衆の面前であんな恥ずかしいことできるか」
俺はシーチキンマヨ味になった鮭を箸でほじって口に運ぶ。
普通の鮭が食いてえ。
「何の話?」
花咲がレンコンをかじりながら聞いてくる。
俺は今朝の白い悪魔騒動について、かいつまんで説明した。
「ふーん。そんなことがあったんだ。橙堂くんなら、一緒に退治してあげられそうだけどなあ。厚真木くんに告白できるんだし、簡単でしょ」
「いや、あれは勢いで」
「かざりんの言う通りだよー。秋冬はわたしと白い悪魔を退治しなくちゃだよー」
梨奈は玉子サンドを頬張り、ストローでイチゴミルクを吸い上げる。
よろしくない。話題を変えよう。
「梨奈って、よくイチゴミルク飲むよな。そんなに好きか?」
「うん。好きー」
屈託のない笑顔だ。
「でも虫歯になるぞ」
「大丈夫だよー。虫歯になっても、えすきゅうしが生えてくるよー」
「えすきゅうし?」
「えすきゅうしは、えすきゅうしだよー」
確認のため花咲を見ると、花咲も食べる手を止めて瞬きしていた。
「もしかしてリナ、永久歯をA級歯と勘違いしてる?」
「A級歯をA級歯? かざりん何言ってるのー?」
梨奈はサンドイッチのハムを口で引きちぎって食べ、「おいしー」と頬を押さえる。
「この子マジだ」
花咲は額に手を当てた。
「いい、リナ。永久歯が抜けたら、もう歯は生えてこないのよ」
花咲は箸を置き、少し強めの口調で説明を始めた。
「生えるよー。A級のあとはS級でしょ?」
「違うから! ランクアップみたいに言わないの! ゲームじゃないのよ!」
「えー。それじゃ面白くないよー」
「面白いかどうかじゃなくて、よく聞いて――」
「早くS級にならないかなー」
「話を聞いてっ」
会話になっていなかった。
梨奈は両手を組み、祈るみたいな格好で天井を見上げている。
A級歯か。ちょっと面白いな。
「梨奈。子どもの歯は何て名前だ? B級歯か?」
「乳歯でしょー」
そこは知ってるのかよ。
俺は水筒の紅茶を飲んだ。
「S級歯ってどんなもんなんだ?」
「すっごく固くてー、何でも噛み砕けちゃうんだよー。ダイアモンドだって大丈夫」
「固すぎるだろそれ。虫歯になったら治療できねえな。ドリル負けるぞ」
「やったー。ドリルに勝ったー」
「喜んじゃったし」
俺が横目で見ているうちに、梨奈は最後のサンドイッチまで平らげた。
「全部食べちゃったー。足りないかもー」
梨奈は花咲の小さな弁当箱へ視線を向け、唇に指を当てる。
「あ、あげないからね。あんた、どんどんねだってキリがないし」
花咲は弁当箱を持ち上げ、守るように食べ始めた。
「ケチー」
今度は梨奈の視線が俺の弁当箱へ移る。
食いたくないって顔だな。失礼なやつだ。
「食堂のお弁当って急げばまだ残ってるかなー?」
「残ってるんじゃない? 人気メニューはないと思うけど」
「おにぎり食べたいー」
「なら早く行ってくれば? 運が良ければ三、四種類は残ってるかもね」
「そうするー」
梨奈はゴミを袋にまとめて立ち上がった。
そして、俺と花咲の席の間――補助バッグで狭くなった通路を、急いで抜けようとする。
その瞬間だった。
ガタンッ、と机が大きく揺れた。
ふたを閉めていなかった水筒が傾き、紅茶が盛大にこぼれる。
「おわっ!?」
慌てて立て直したが、遅かった。
温かい紅茶がズボンに染みこみ、股間に不名誉な湿り気が広がっていく。
「あちゃあ……」
俺は立ち上がり、自分のズボンを見下ろした。机の上には紅茶だまりができている。
どうやら机の横に掛けていた補助バッグに梨奈が引っかかり、机ごと揺れたらしい。
「あー。ごめんー」
梨奈は制服のポケットからティッシュを取り出した。中から一枚、二枚と抜き、こっちへ歩いてくる。
そして、その手が俺の股間へ伸びて――。
「何をする!? 自分で拭くから!」
俺は反射的にその手を払いのけた。
「えー、でもー。おまたが濡れちゃったよー」
「おまたって言うな! それに、異性が気軽に触っていい場所じゃないんだよ!」
「でもー」
梨奈は引き下がらなかった。
その目は真剣そのものだった。拭かなければならないという使命感に満ちている。
「梨奈、俺のことはいいから学食へ行けよ」
梨奈の目は、まるで俺の見られたくない一点をロックオンしたスナイパーみたいに動かない。
「やっつけなきゃ」
梨奈がぼそりと呟いた。
やっつける!?
何をだよ!
お前、殴ったりするから普通に怖いんだけど!
「秋冬ー、今から助けるねー」
梨奈はしゃがみ込み、ティッシュを握った拳に息を吹きかけた。
俺は一歩下がる。
「秋冬ー、何で逃げるのー」
「怖いからだよ! いいか、今からトイレで体操服に着替える。濡れたズボンはそのあと渡す。それでいいだろ!」
一定の距離を保ちながら提案する。
「だめだよー。今すぐ退治しないとー」
梨奈はティッシュを握り潰し、なぜかパンチの素振りを始めた。
「待て。何でパンチなんだよ」
「やっつけるー」
「ふざけんな。二次災害しか起きねえだろ! お、おい、待てって。こっち来んな!」
梨奈がワンツーを打ちながらにじり寄ってくる。
もう駄目だ。未来を想像しただけで血の気が引く。逃げるしかない。
「秋冬ー。逃げないでー」
背中から声を浴びせられる。
俺は無視して廊下へ飛び出した。後ろから梨奈の足音が追ってくる。
「秋冬ー! おまたが風邪引いちゃうよー!」
「黙れ! 連呼するな! 尊厳が死ぬ!」
「やっつけるためだよー! 痛くても秋冬なら我慢できるよー!」
「やっぱり殴る気じゃねえか!」
ティッシュを握りしめた梨奈が、全力で追ってくる。
股間を紅茶で濡らした男子高校生が、おまたスナイパーに追われて校内を走る。
廊下ですれ違う生徒たちの視線が、俺の自尊心をじわじわ削っていく。
追いかけながら「おまた、おまた」と連呼する梨奈を、俺は心の底から呪った。
放課後になった。
昼休み、梨奈をやり過ごすために男子トイレで籠城戦を展開していたせいで、俺は昼飯を食い損ねた。その後も何も食えず、空腹のまま帰るはめになった。
横断歩道で信号待ちをしていたら、三つ年上の従姉妹と遭遇したのだ。なぜ俺がジャージ姿で帰っているのかを説明していると、俺の腹の虫がいい感じに自己主張した。その結果、アヤ姉がファミレスでおごってくれることになったのである。
「お弁当、災難だったね。そんな君にはこれをあげよう」
アヤ姉が、自分のチョコパフェに載っていたミントを摘み上げる。そして、それを俺の明太子スパゲティの上にちょこんと置いた。
「嫌いだからって俺に押し付けないでくれ」
「好きだよ。君ぐらいには」
「……めっちゃ嫌われてるじゃん、俺」
正直いらねえ。
「他には学校でどんなことがあったのかな? お姉さんに教えてごらん」
アヤ姉はバニラアイスを口へ運びながら、にこにこと笑う。
今日あった特別なことといえば、残るは厚真木との告白ショーくらいだ。
俺の恥部なので本当は言いたくない。だが、飯をごちそうになっていることだし、アヤ姉は俺の馬鹿話を見下さずに面白がってくれる。だから、つい話してしまった。
「秋くんは男の子に告白したわけか。やるね。なかなかできることじゃないよ」
「できても誰もやらないだけだと思う。やりたくないし、痛い記憶になるしなあ」
俺は明太子スパの上のミントをフォークでつついた。
「お、実は気にしてるのかな?」
棒状のチョコスナックをかじりつつ、アヤ姉が覗き込んでくる。
「病むほどじゃないけど、後悔はしてる」
「あらら。それはそれは。教室の反応は?」
「笑ってた」
「それならよろしい。人を楽しませるのは大切なことだよ。頑張ったね。ご褒美に、お姉さんがそのスパゲティを食べてあげよう」
アヤ姉のパフェ用スプーンが俺の皿に伸びてくる。
一本の麺を小さく刻み、それをすくい上げようとして――失敗した。スプーンからこぼれ落ちる。
「ややや。このスパゲティは曲者だ。秋くん以外に食べられたくないらしい。一途だね。きっと君を愛しているんだよ」
「スプーンだけじゃ無理だから。それに愛とか意味わかんないし」
「愛は愛だよ。まだまだ甘いね、秋くんは。さあ、スパゲティの心の声に耳を傾けるんだ」
アヤ姉がスプーンでスパゲティを指し示す。
んなこと言われてもな。
俺はとりあえずスパゲティを見下ろした。
「秋冬サマ、アナタノ血トナリ肉トナリタイノデス……」
アヤ姉の声だった。
鼻をつまんで、いかにも「ワレワレハ宇宙人ダ」みたいな声を出している。
つり目気味の整った顔立ちに、今日はスリムパンツとブラウス。黙っていれば、仕事のできる大人の女に見える。なのに本人は鼻をつまんでニヤニヤしているのだから救えない。
「プッ……」
背後から、堪えきれなかったような吹き出し笑いが聞こえた。
「ん?」
アヤ姉が振り向く。
そこには銀のトレイを抱えた若い女性店員が、口元を押さえて震えていた。
「あ」
まずいと思ったのか、店員の顔が引きつる。
「し、失礼しました」
そう言って頭を下げ、小走りで去っていった。
アヤ姉はしばらく、その後ろ姿をぼんやり見送っていた。
やがてこちらへ向き直ると、チョコパフェにスプーンを深く突き刺す。
「笑われてしまったよ。こういうこともあるのだな」
そう言って俯き、肩を小刻みに震わせ始めた。
泣いているのではない。どう見ても、笑いをこらえている。
その姿に、俺も思わず吹き出した。
アヤ姉は少し潤んだ目元を拭ってから、こっちを見る。
「今、秋くんは私を馬鹿にしたのかな?」
「馬鹿にしたっていうか、おかしかった。まさか店員さんに見られてるとは思わなかったし」
「私を痛いと思うかい?」
「まあ、それなりには」
「だろうね。私もそう思う」
アヤ姉は湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。
「でも、笑ってくれた。私は満足だよ」
ソーサーにカップを戻す、小さな音がした。
なぜか少しだけ、格好良く見えた。
俺は厚真木との告白ショーを思い出す。
あのときだって、教室は笑いに包まれて終わった。殺伐とした空気になったわけじゃない。
そう考えると、あれもそこまで悪いだけの出来事じゃなかったのかもしれない。
「目が回るー」
アヤ姉の宇宙人声が飛んできた。
無視して口へ運ぶ。
「痛い。痛い痛い。すり潰されるぅー」
……食いにくい。
「やめてくんない? それ。食べにくい」
「おっと、失礼」
アヤ姉は鼻から指を離して笑った。
……やっぱり、さっきのなしだ。
この人は格好良くねえや。
現在、午後十時。俺は自室で、嫌々ながら数学の勉強をしていた。
勉強ってのは、どうしてこうもやる気が出ないのか。視界の端にある漫画や漫画や漫画が、俺を怠惰のほうへ引っ張っていく。
アヤ姉と別れてからしばらく経つのに、いまだにファミレスでのことが頭に残っていた。
そういえば会計のとき、レジにいたのはアヤ姉を笑ってしまったあの女性店員だった。
彼女は会計の前に、まずアヤ姉へ謝っていた。会話を盗み聞きするような形になったうえ、それを吹き出してしまって申し訳なかったらしい。
対するアヤ姉は、いつも通り背筋を伸ばしたまま「気にすることはない」と一言。
そのあと、サービスでキシリトールガムと飴玉をもらった。普段はガムだけらしいが、今回は俺とアヤ姉の分の飴まで一つずつついていた。
それを受け取ったアヤ姉はご機嫌で、
「アりがとう。感謝スる」
と、また鼻をつまんで宇宙人声を出していた。
女性店員はそれを見て頬をほころばせ、「またのご来店をお待ちしております」と嬉しそうに見送ってくれた。あれはあれで良かったのかもしれない。
俺は参考書へ目を戻す。
正弦定理、余弦定理。数学は苦手だ。数式を見ていると、それだけでため息が出てくる。
ああ、もう駄目だ。
今日は勉強をやめて寝ることにしよう。
「ジャジャジャンジャンジャン♪」
洗面所で歯を磨いて自室に戻ると、ちょうどスマホにメッセージが届いていた。
ベッド脇の籠からスマホを取り出す。
厚真木からだった。
俺はベッドに仰向けで寝転び、画面を開く。
『橙堂の好きなやつは、俺ではなく花咲でいいんだよな』
……なんで確認してくるんだ、こいつは。
俺が本気でお前に惚れているとでも思ってるのか。
俺はすぐに返信を打ち込む。
【安心しろ。お前じゃない。花咲だ】
一瞬、冗談で妹の名前でも入れてやろうかと思ったが、話がこじれそうなのでやめておいた。
一分ほどして、
【わかった】
とだけ返ってくる。
やり取りはそれで終わりだった。
なぜ厚真木は、わざわざこんな確認を送ってきたのだろう。
たぶん、これは厚真木なりの気遣いなんだろう。
気まずさをどうにかしたい。でも、どう話しかけていいのかわからない。だから、とりあえずあの話の続きを持ち出してきたのだと思う。
そう考えると、普段あまり連絡してこない厚真木が、わざわざメッセージを送ってきたことにも納得がいく。
妹のことになると暴走気味になるやつだが、基本的にはいいやつなのだ。
明日は俺から話しかけるとしよう。
俺はスマホを籠に戻し、部屋の明かりを消した。
でも、できれば明日はもう少し落ち着いていてほしい。
そんなことを思いながら、俺は掛け布団を引き寄せ、ゆっくり目を閉じた。
大丈夫。
アフリカ大陸は描かない。
終わり




