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血とカネの螺旋  作者: 八月河
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血の教訓

空は鉛のように重く、その腹を切り裂くように降りしきるみぞれが、ブルックリンの舗道を黒い氷の鏡に変えていた。車のヘッドライトがその鏡面ににじみ、タイヤが軋む音、遠くで聞こえる船の汽笛さえも、凍りついた風に遮られ、世界は墓地のような静寂に包まれていた。それは、神さえもこの街の悲劇に目を背けたかのような、不気味なまでの黙祷の時間だった。


その静寂の中心に、コリーニ・ファミリーの屋敷は佇んでいた。外見は近隣の他の家々と変わらぬ控えめな煉瓦造り三层建てだが、その窓という窣は分厚いベルベットのカーテンで閉ざされ、内部から漏れる仄暗い灯りだけが、この家が特別な重み——死、謀略、そして消えゆく「掟」の重み——を背負っていることを示唆していた。門前には黒塗りのセダンがずらりと並び、太った男たちがコートの襟を立て、警戒しながら吐く息を白く曇らせている。彼らは皆、コリーニ家の「兵士」たちだ。今日という日が、単なる葬儀以上の「何か」の始まりであることを、本能で理解していた。


屋敷の内部は、死と高級葉巻の煙、そして無言の悲嘆で満たされていた。18歳のドミニク・コリーニは、客間の中央に安置されたイタリア産黒檀の棺の前に立ち、中の父親、フランコ・コリーニの顔をまっすぐに見つめていた。死化粧により整えられたとはいえ、父の顔には、銃弾が肉体を引き裂く直前の驚愕と怒り、そして何よりも、信じていたものが裏切られた絶望の表情が、皺というよりは刃物で刻まれたように深く刻み込まれていた。三発の9ミリ弾が、彼の胸と腹を貫いていた。いわゆる「ルシア・レター」——裏切り者へのメッセージだ。


(父さん…この顔は、俺が知っている優しい父さんの顔じゃない。あの、日曜の午後に裏庭で一緒にサッカーをした、汗と笑顔に輝く父さんの顔じゃない。これは…戦場で倒れた兵士の顔だ。しかも、ルールも名誉もない、卑劣な戦場で。大学で学んだ倫理も、祖父の教えも、この現実を前にしては、ただの綺麗事に過ぎないのか?)


彼の耳裡には、ほんの数週間前、祖父の書斎で聞いた重々しい声が蘇る。あの部屋は、革と古書、そしてシェリー酒の香りで満ちていた。


「我が孫、ドミニクよ」


ドン・アンジェロ・コリーニは分厚い革張りの椅子に深く座り、その目は長い年月の重みで曇りながらも、鋭い洞察力を失っていなかった。かつての覇権争い、「ピザ・コネクション」の荒波を生き延びた古狐ふるぎつねだ。「道理をわきまえた男には、決して怒りをもって接してはならない。怒りは、思考を曇らせ、判断を誤らせる盲目の霧だ。感情は…そうだな、最後の最後に、全ての手段が尽きた時のみに取る、最終兵器である。真の力は、交渉と、そして何よりも“尊敬”という名の通貨で動くことを忘れるな。我々は紳士であれ。たとえ地の底で取引をする時でもな」


その教えは、ドミニクにとっての羅針盤だった。彼は父の願い通り、表社会で成功する道を歩み始めていた。コロンビア大学で経済と法律を学び、コリーニ家の「クリーン」な事業——不動産、労働組合、飲食店——を、合法の領域で強化する。それが、父フランコの夢だった。息子に、血と暴力という代償を払わせたくなかった。フランコ自身、かつては有能な「ストリート・ボス」だったが、息子が生まれてからは、ファミリーの「ビジネス面」に専念するようになっていた。


しかし、その夢は、ブルックリン路地裏の吹雪のような銃弾によって、無残に打ち砕かれた。フランコは愛車のリンカーン・タウンカーで帰宅途中、信号待ちで停止しているところを、オートバイに乗った二人の男に襲われた。いわゆる「ドライブバイ」という、効率的だが卑怯な手法だ。


ドミニクの傍らで、ドン・アンジェロ・コリーニは、孫の腕にすがるようにしか立っていられなかった。かつて五大ファミリーの会合で絶対的な威光を振るったその身体は、病(糖尿病と心臓病)と老いという敵の前に、見るも無残に痩せ細り、背骨は曲がり、かつては雷の如き説得力を持った声は、今ではか細く震えるささやきに成り果てていた。彼は「ドン」である前に、一人の父親だった。


彼の瞳は、棺の中の息子から離れず、その乾いた唇がわずかに動いた。

「ドミニク…この私の目で、わが子の葬儀を見る日が来ようとは。神よ…この罪は…私自身にある。」


彼は息をひきつらせながら、言葉を紡いだ。それは、彼の人生哲学そのものの弔辞でもあった。

「私は…麻薬というビジネスを、一族の教えに背く悪魔の所業として退けてきた。それは人の魂を腐らせ、家族の絆を金という毒で引き裂く。我々が長年かけて築いてきたもの…政界との繋がり、労働組合への影響力、地域からの信頼…これらは目に見えぬが、鉄壁の城壁となるものだ。それを私は守ろうとした…“我々は銀行強盗ではない、銀行家なのだ”という自負を…」


アンジェロの拳が、蝋のように皺だらけの手の甲で強く握りしめられた。かつては敵の喉笛を絞めつけたその手も、今では震えが止まらない。

「だが…私のその頑固な信念が、逆に我が子フランコを…現実という名の銃弾に晒してしまった。タッタリアの野郎どもは、麻薬の汚らわしい金で、我々の十年分の交渉を一夜で凌ぐ力を手に入れた。力の均衡が崩れれば、もはや“掟”も“尊敬”も、風前の灯火同然だというのに…私は…時代の変化を見誤った愚か者だ…」


その言葉は、単なる後悔ではなく、自らの人生哲学そのものが時代遅れとなったことへの、深遠なる絶望の表明だった。それは「ドン」の権威の終焉を意味していた。


その悲嘆の空間の一角で、コンシリエーレ(顧問弁護士)、アレックス・リッツィは、まるで異なる次元から来た者のように冷静だった。伊達眼鏡の奥の鋭い目は、感情ではなく、損得と戦略のグラフを描きながら、居並ぶ弔問客たち——政界の腐った議員、賄賂で飼いならされた判事、他ファミリーの見舞い代わりに遣わされた使者たち——を分析している。彼は黒いスーツを完璧に着こなし、銀のカフスボタンが仄かに光る。リッツィはシチリア生まれではない。ミッドタウンの法律事務所からヘッドハントされた、ニューヨーク流の「問題解決者」だ。


リッツィはドミニクに静かに歩み寄り、葬儀の荘厳さを冒涜するかのように、低く、しかし明確な声で語りかけた。

「この悲劇的な舞台で、君はどんな教訓を学んだのかね、ドミニク・コリーニ?喪失の痛みか?あるいは、無力さへの怒りか?」


ドミニクが振り向き、怒りの視線を向ける。リッツィは微かに手を挙げて制す。その手には、モンブラン・マイスターシュテュックの万年筆を持ったときと同じ優雅さがあった。

「待て。もっと根源的で、醜い真実がある。それは、『カネという現実が、血という絆よりも重い』ということだ。これが、我々が生きる新しいニューヨークの、そして新しい時代の、鉄の法則なのだ。感情は奢侈品ぜいひひんだ、ドミニク君。我々のような者には贅沢すぎる」


「父さんの信念を嘲笑うな、リッツィ」

「嘲笑う?とんでもない。」

リッツィの口元に、冷ややかな微笑が一瞬浮かぶ。それは計算機が答えを表示する時のような、無機質な笑みだ。

「私は君の父を評価している。彼は…古き良き時代の“紳士”だった。しかし、紳士であることが、この世界では“弱者”であることを意味する時代が来た。タッタリアは、麻薬で得た金で、我々の倍の兵隊を抱え、判事の懐を潤し、警察の目を曇らせることができる。彼らにとって、君の父やドンが信奉する“旧き掟”は、陳腐な道徳劇の台本に過ぎない。現実を見よ、ドミニク。ドンが守ろうとした尊厳は、タッタリアと彼らを支える南米のカルテルがばらまく“汚れたカネ”の前には、無力だった。数字は嘘をつかない。力の方程式は、すでに書き換えられたのだ。麻薬は“悪”ではない、それは…“流動性”なのだ」


リッツィの言葉は、毒のようでありながら、あまりにも真実を突いていた。それはドミニクの傷口をえぐり、同時に冷たい現実で焼き鏝を当てるような痛みを伴った。彼は、父がどれだけ時代遅れだったのか、そして祖父の権威がどれだけ空洞化しているかを、否応なく理解させられた。


『この男の言うことが正しいのか?父の死は、時代の変化に取り残された者の、必然的な末路なのか? ならば…俺はどうすべきなんだ? 父の仇を討つという“正義”を実行するために、父が唾棄した“悪”の力を借りなければならないという矛盾…これが、俺に課せられた運命というものか? リッツィは危険だ。彼の言葉は蜂蜜のように甘く、砒素のように致命的だ。だが…今の俺に必要なのは、まさにこの“毒”かもしれない』


彼の内面で、温もりのある祖父の教えと、冷徹なリッツィの現実分析が激突し、彼の心は二つに引き裂かれそうだった。彼は棺の中の父の顔をもう一度見つめた。そこにあった「裏切られた絶望」が、ゆっくりと、しかし確実に、彼自身の心に移植されていくのを感じた。


葬儀から三日後。ドミニクは自身の部屋——大学の寮の部屋ではなく、コリーニ家の屋敷の、少年時代から過ごした部屋——で、大学の教科書を手に取った。『ミクロ経済学』『ローマ法大全』『契約法の原理』——それらの表紙は、彼の過去の人生、父が夢見た「クリーンな未来」の象徴のように思えた。彼は一冊ずつ、ゆっくりと、しかし確実に、クローゼットの最も奥深く、闇に葬るように押し込んだ。それは、彼自身の一部を生き埋めにする儀式のようだった。


「さようなら、幻想よ」

彼は囁くように言った。声には、わずかな未練もなかった。

「お前の居場所は、もうここにはない。ここにあるのは、鉄と火と血の現実だけだ。」


ドン・アンジェロの決定により、ドミニクはアンダーボス、ヴィンセント・“ヴィニー・ザ・ブル”・ロマーノの指揮下に置かれることになった。ロマーノは、がっしりとした体格に傷だらけの顔、そしてコリーニ家への忠誠心だけで出来上がったような男だ。彼はフランコの幼馴染であり、戦友だった。彼のオフィスは、ブルックリンの倉庫街の一角にあり、安物の葉巻と安ウイスキー、そして汗と鉄の匂いが染み付いていた。壁にはイタリアの風景画と、聖母マリアの像がかけられている、いかにもな「イタリアン・マフィア」の拠点だ。


ロマーノはドミニクをじっと見つめ、苦渋に満ちた表情で口を開いた。彼の声は、砕けたガラスを踏みしめるような粗さだ。

「ドンであるお前の祖父さんはな…心の底では、お前をこの泥沼に足を踏み入れさせたくなんてない。お前は、フランコの希望の光だったんだ。表の世界で、コリーニの名を輝かせるはずだった。俺たちみたいな“ストリート・ラット”とは違うんだ」

彼は太い指で葉巻の灰を灰皿に落とした。

「だが、“ヴェンディカトーレ”(復讐)は、我々の血に刻まれた義務だ。それを止める権利は、神にも、私にもない。お前が復讐に加わることは…フランコの意思に反するだろう。だが、お前が復讐から外されることは、フランコへの侮辱だ。ジレンマだな、クソッ」


ロマーノは立ち上がり、ドミニクの肩に重い手を置く。その手には、無数の傷と関節の変形が見えた。

「だが、教えておく、ドム。(ドミニクの愛称)お前の最初の仕事は…コリーニの御曹司としてのプライドなんて、木っ端みじんに打ち砕かれるような、クソみたいな場所だ。腹は据わっているか?大学のキラキラしたキャンパスとは訳が違うぞ。ここは…動物園だ。そして、お前は今、檻の中に放り込まれようとしている」


ロマーノが示した先は、ブルックリンの埠頭地区だった。かつてはコリーニ家の重要な収入源だったが、今やタッタリア・ファミリーの影響下に堕ち、密輸されたブランド品、タバコ、そしておそらくは麻薬の荷捌き場となっていた。

「お前の役目は、組合員に成りすまし、あの汚ねえ倉庫で働くことだ。目立つな。口数は少なく、頭は低く。しかし、耳はダンボのように大きく開いておけ。お前の父を売ったネズミの一匹、ジョーイ・“ノーズ”・スカレッティという小悪党がいる。あいつは、タッタリアのカポ(組長)、ジーノ・“ザ・ファット”・ファルコーネの犬だ。コカインの常習者で、口が軽い。あいつの口から、ファルコーネの動向や、タッタリアの荷の流れ、弱点を聞き出せ。それが、復讐の長い道のりの、最初の一歩だ。覚えておけ、これは偵察任務だ。決して…“ジョーク”(独自の行動)を働くな。お前が死ねば、フランコの血筋が絶える。それだけは避けねばならねえ」


こうして、ドミニク・コリーニは、ブルックリン埠頭の労働者という、彼のこれまでの人生とはかけ離れた仮面を被った。彼は「ドミニク・ロッシ」と名乗り、ニュージャージーから流れてきたという設定だ。倉庫は、冷たい海水と重油、腐った木材の匂いが混ざり合い、一種の圧迫感で満ちていた。埃っぽい電球が照らすのは、積み上げられた無数の木箱と、錆びたコンテナばかり。彼の手は、重い荷物で水膨れを作り、安い革手袋ですり切れていった。大学で法学書をめくったその指先は、わずか数日で荒れ果て、血まみれになった。


『これが…現実というものか。机の上の数式や法律の条文は、ここでは何の意味も持たない。ここで通用するのは、筋力と、したたかさと、そして…恐怖だけだ。コリーニの名は、ここでは嘲笑の的でしかない。聞こえるか、父さん。彼らはお前のことを“時代遅れの愚か者”と嘲笑っている。しかし、この嘲笑一つ一つが、俺の心を鋼に変える。この屈辱の全てが、復讐の刃を研ぎ澄ませる。耐えろ…ただ耐えろ。そして、学べ。彼らの動きを、彼らの弱さを、彼らの“システム”を学び取れ』


彼はそこで、標的であるジョーイ・“ノーズ”・スカレッティを特定した。小柄でずる賢そうな風貌の男で、タッタリアの下っ端として威張り散らしていた。その鼻の下は、常に白い粉を嗜んだせいで赤く炎症を起こしており、金と快楽に溺れた男の典型だった。スカレッティはよく、倉庫の隅でこっそりと粉末を吸い込み、その後で調子に乗って働き手たちを叱りつけるのが癖だった。


ある雨混じりの午後、倉庫に一陣の緊張が走った。タッタリア家のカポ、ジーノ・“ザ・ファット”・ファルコーネが、二人の大男の子分を従えて、視察と称して現れたのだ。ファルコーネは、フランコ・コリーニ殺害の実行犯の一人であり、ドミニクが真っ先に血で贖わねばならない仇敵だった。彼は「肥満」というよりは「巨漢」で、その体重が権力の象徴であるかのように振る舞う。


ファルコーネは肥満体型をダスターコートで包み、分厚い指に嵌めた金の指輪が薄暗い倉庫内で不気味に光る。彼は、汗と埃にまみれて木箱を運ぶドミニクを見下すように見て、大声で嗤った。声は太く湿っている。

「おい、そこの新入り!その足腰、まるで腰抜けじじいみたいじゃないか!もっと速く動け! この倉庫は、タッタリア様の重要な拠点なんだぞ! コリーニの時代みたいに、のんびりとはやってられねえんだよ! あの連中はな、“尊敬”だの“掟”だのと、古臭いおとぎ話ばかり唱えて、ビジネスのスピードについていけなかった。ビジネスはな、金だ! スピードだ! そして…“恐怖”だ!」


周りのタッタリア派の労働者たちが、追従するように哄笑する。ドミニクの全身に、灼熱の怒りが走った。彼は拳を握りしめ、指の関節が白くなるのを感じた。ファルコーネの太った喉元に飛びつき、その脂ぎった肉を歯で引き裂きたい衝動に駆られた。


(今すぐ…今すぐあいつの喉笛を引き裂いてやる…父さんが死んだ時、あいつはどんな笑顔を浮かべていたんだ?)


しかし、彼はゆっくりと息を吐いた。頭の中で、リッツィの冷たい声が反響する。『感情は、最後の道具だ』 だが、リッツィの言う「最後」とは違う。これは、計算の始まりなのだ。そして、祖父の声も蘇る。『怒りは盲目の霧だ』


(待て…今動けば、ただの暴徒だ。父と同じく、計算不足の死に方をする。復讐は、感情の爆発ではない。それは…芸術だ。緻密な、冷徹な芸術なのだ。ファルコーネ…お前の嘲笑は全て記録した。お前の驕り、お前の油断…それらがお前の墓穴となる)


彼はうつむき、無言で作業を続けた。ファルコーネの嘲笑は、彼の背中にまとわりつくが、もはや痛みはない。それは単なる「データ」に過ぎなかった。

「見ろよ、使えねえ奴らだ!時代はな、力と金だ!この二つが全てを動かす! 昔の栄光にすがってる連中は、皆、こうして消えていくんだよ! コリーニのドンなんて、もう動けない老爺だ! 息子は墓の中! はっきり言って、終わったファミリーだ!」


ファルコーネの傲慢を支えているのは、麻薬ビジネスが生み出す「汚れたカネ」の圧倒的な力だった。ドミニクは、その力の前では、一時の感情的な反抗は無意味であり、むしろ愚かであることを、身をもって理解した。彼は、リッツィの言う「力の方程式」を肌で感じ始めていた。


「計算…」彼は心で呟いた。手は荷物を運び続けている。「全ては計算だ。次の手、その次の手…盤面全体を見据えろ。ファルコーネは駒に過ぎない。真の敵は…タッタリア全体、そして彼らに“流動性”を与える麻薬ビジネスそのものだ」


夜、埠頭は昼間の喧騒が嘘のように静寂に包まれた。倉庫街の灯りはほとんど消え、波が岸壁を打つ音と、遠くのサイレンだけが、この闇の世界のBGMだった。電気の消えた組合事務所は、オイルと湿気、そして闇が混ざり合う、不気味な空間と化していた。ドミニクは、ジョーイ・スカレッティを、倉庫の片付けの手伝いという口実で呼び出した。それは、ヴィンセント・ロマーノの指示に反する“ジョーク”の第一步だった。もはや、待っている余裕はない。彼は「証拠」を集めるだけの偵察任務には飽き足らなかった。彼には「血」が必要だった。父の亡骸に刻まれた絶望を拭い去るための、最初の生贄いけにえが。


スカレッティが、不機嫌そうにドアを開けた。彼の目は虚ろで、鼻の下がひどく赤くなっている。コカインのハイが覚めかけている時間帯だ。

「ったく、なんなんだよ、こんな時間に…ああ?コリーニのガキ——もとい、ロッシか。用は短くしろよ、これから楽しいところへ行くんだ。新しい“雪”が届いたんでな」


ドミニクは、部屋の隅の影からゆっくりと現れた。彼の目は、闇の中で狼のように冷たく光っていた。彼はコートの内ポケットに手をやり、ヴィンセントから渡された、.38口径スナブノーズ・リボルバーの冷たい感触を確かめる。

「ジョーイ・スカレッティ…ひとつだけ、聞きたい。お前は…俺の父、フランコ・コリーニの情報——彼の日常のルートや、護衛の数——を、タッタリアに流した。その代償として、あの白い粉を貰ったというのは本当か?」


彼の声は低く、平坦で、一切の感情の襞が見えなかった。それは、取引先と契約条件を確認するビジネスマンのような口調だ。


スカレッティは一瞬、たじろいだように見えたが、すぐに開き直って、慣れっこい嘲笑を浮かべた。彼はまだ、ドミニクを「大学に行ってたガキ」としか見ていなかった。

「はっ!なにをほざいてやがる、この青二才が!いいか、小僧、お前が誰だろうと、ここはもうタッタリア様の縄張りだ! コリーニなんてのは、過去の遺物だ! お前みたいな乳臭いガキは、大学にでも戻って、お勉強でもしてなさいってんだ! フランコさん?あの律儀者?あいつはな、自分がどこの世界に足を突っ込んでるか忘れてたんだよ!“紳士”気取りでっ!」


スカレッティは、ドミニクが無力だと思い込み、彼の顎を掴み、顔を近づけて威嚇した。その息は、安いウイスキーと歯周病、そして微かに甘いコカインの臭いがした。

「フランコさんか?あの時代遅れの爺さんか?あいつはな、このビジネスの流れに——」


その瞬間、ドミニクの中で、我慢の糸が切れた。祖父の「道理」も、父の「名誉」も、大学で学んだ「倫理」も、全てが色あせ、崩れ落ちた。彼の目の前には、父を死に追いやった“悪”の一端をなす、矮小で醜い一部がそこにいるだけだった。この男は、理念でもなければ、強大な敵でもない。単なる、三文安の裏切り者だ。だが、その裏切りが父を殺した。ならば、この穢れた魂から始めるのが相応しい。


「…お前のその口が、父を殺した」


ドミニクの動きは流れるように素早かった。コートの内側から拳銃を抜き出すと、ためらいなくスカレッティの腹部に銃口を押し当て、そのまま引き金を引いた。リボルバーは大きな音を立てず、むしろ鈍い「ドン!」という衝撃音が部屋に響いた。サプレッサーはついていない。埠頭の騒音が銃声をかき消すことを計算しての行動だ。


フラッシュが一瞬、ドミニクの無表情な顔と、スカレッティの驚愕と苦痛に歪んだ表情を照らし出した。スカレッティは、腹部に灼熱の衝撃と激痛を感じ、「ぐぁっ…!」という唸り声とともに血を吐き、床に倒れ込んだ。彼の目には、信じられないという色が浮かんでいた。この“ガキ”が、本当に撃つとは思わなかったのだ。彼はこれまで、コリーニ家の「旧き掟」——子供や非戦闘員を極力巻き込まないという不文律——を甘く見ていた。死の瞬間、彼は初めて、ドミニクの瞳に宿る、感情を殺した者の冷たさ——それは、かつてのコリーニとは全く異質な、新しい世代の“凶暴性”——を見て、心底から恐怖した。


ドミニクは、倒れ伏し、痙攣するスカレッティを見下ろした。彼の手は微かに震えていたが、心は驚くほど冷静だった。返り血がコートの袖に飛び、黒い布地にさらに暗い染みを広げている。彼はその血の染みを、新しい自分の皮膚が生まれた証のように感じた。

「お前の父さんの理想を殺した連中と同じ泥沼に、俺は堕ちていく」

彼は静かに、しかし確かに宣言した。それは、彼自身への宣誓でもあった。

「だが、この泥の底から這い上がり、お前たち全員を、地獄の底まで引きずり下ろしてやる。タッタリアも、ファルコーネも、そして…この“汚れたカネ”の流れそのものを断ち切ってみせる」


彼は震える手を抑え、冷静に拳銃をコートにしまった。床に広がる血溜まりは、闇の中で不気味に光り、彼の新しい人生の、暗くも確かな門出を告げるようだった。彼はスカレッティのポケットから財布と携帯電話を抜き取り、強盗目的の犯行に見せるため、室内をわざと荒らした。彼の頭脳は、優秀な学生だった頃と同じ明晰さで、この殺人を「組合員同士の金銭トラブルによる事故死」として処理するための、証拠隠滅と状況設定の方法を、瞬時に計算し始めていた。


『これで終わった…優しかった少年、ドミニク・コリーニは、今夜、ここで死んだ。この血は、俺の洗礼だ。これから俺が歩む道は、復讐者アヴェンジャーとしての道だ。コリーニの名を、血と鉄と、そして…“金”で再び刻みつける者の道を。感情は…もういらない。必要なのは、冷徹さと、計算だけだ。父さん…見ていてくれ。お前の息子は、お前が守ろうとした世界を、お前が拒んだ手段で守り抜く』


翌朝、ヴィンセント・ロマーノのオフィスは、相変わらず安葉巻の煙で霞んでいた。ドミニクは、一切の動揺を見せず、淡々と経緯を説明した。スカレッティが侮辱し、顎を掴んできたこと、そして自分が“ジョーク”を働いて殺したこと。その口調は、天気について話すように平坦だった。


ロマーノは、ドミニクの目をじっと見つめた。そこには、悲しみも後悔も、あるいは初めて人を殺した者の動揺もなかった。あるのは、鋼を鍛え上げたような冷徹さだけ——それは、あまりに早く、あまりに深く彼が変わってしまったことを物語っていた。フランコの面影は、もうそこには微塵もない。

「ネズミは始末した、ヴィンセント」

ドミニクの声には、わずかな熱もなかった。

「次は、ファルコーネだ。そして、その背後のタッタリア全体を。だが、単純な暗殺ではない。彼らの基盤——麻薬の金の流れを断つことだ。」


ロマーノは深く、苦い溜息をついた。彼の目には、かつての友、フランコの笑顔がちらついた。あの、暴力を厭い、家族を愛した男の面影が。

「お前…すっかり変わってしまったな、ドム。」彼の声には、哀悼の念がにじんでいた。それは、スカレッティへの哀悼ではなく、失われてしまったかつてのドミニクへのものだ。「お前の父さんが持っていた…あの、人を信じる優しさが、お前の目から完全に消え失せた。まるで別人だ。フランコは…お前がこうなることを、最も恐れていたんだぞ」


「優しさが、父を殺した」

ドミニクの返答は、鋭く、そして断定的だった。それは、全ての感傷を拒絶する刃のようだ。

「俺は、父とは違う。父が守ろうとしたファミリーそのものを守るためには、父が選ばなかった道を進む。タッタリアには、単なる暴力以上の“力”がある。麻薬の金という力だ。それに対抗するには、暴力だけでは不十分だ。彼らと同じ土俵で、しかし彼らよりもはるかに“効率的に”戦わねばならない。…“知恵”が必要なんだ。リッツィの言う“数字”と“方程式”がな」


ロマーノは、その言葉に、はっきりと新しい時代の気配を感じ取った。古き良き時代の「掟」と「義理人情」が色褪せ、「合理性」と「冷徹な計算」が支配する、より危険で容赦ない新時代の到来を。そして、その波頭に立とうとしているのが、この若者なのだ。彼はもはや、「兵士」ではない。戦略家の卵だ。

「…わかった、ドム」

ロマーノはうなずいた。彼は忠誠を誓うのはドン・アンジェロだが、未来はこの少年にあることを直感した。

「タッタリアを倒すには、血の覚悟と、もうひとつ、鋭い“知恵”が必要だ。そのためには、あの男に会うがいい。アレックス・リッツィだ。あの男は…危険な男だが、お前が求める“知恵”の全てを持っている。彼は蛇のように狡く、蠍のように毒がある。だが、その頭脳は…ニューヨーク全体を動かすには十分すぎる。彼が、お前の“師”となるだろう。いや…すでにお前は、彼の“教え”を内面化しつつあるのかもしれん」


ロマーノは、ドミニクをリッツィのもとへと導いた。リッツィ——麻薬ビジネスへの参入を声高に主張し、ドン・アンジェロと何度も衝突してきた、コリーニ家で最も危険な知性の持ち主だ。彼のオフィスはミッドタウンにあり、窓からはセントラルパークが一望できた。室内はモダンなデザインで、法律書と経済誌が整然と並び、コリーニ家の本拠地とはまったく異なる、「クリーン」な空間だった。しかし、その「クリーン」さの裏に、最も「汚れた」ビジネスの計画が練られているのだから、皮肉なものだ。


ドミニクはよく理解していた。リッツィの知恵を借りることは、父フランコが命を賭して拒否した「汚れたカネ」の世界に、自ら足を踏み入れることに他ならない。それは、父への裏切りですらあった。父の亡骸に刻まれた絶望を、さらに深める行為かもしれない。


しかし、彼の胸中に燃え盛る復讐の炎と、ファミリーを再興せねばならないという義務感は、もはやそんな道徳的逡巡を許さなかった。スカレッティの血が、彼の道徳の枷を溶かしてしまった。


『たとえ地獄の業火に焼かれようとも、もう構わない。俺は、コリーニの名誉と未来を、タッタリアと同じ“カネ”と“血”で、しかし彼らよりもはるかに“冷徹な計算”で、買い戻してみせる。父さん…許せ。お前の息子は、お前が憎んだ怪物となる。だが、それは、お前の敵を地獄に落とすためだ。リッツィという“悪魔”と手を組むことが、唯一の道だ。祖父の“尊敬”はもう通用しない。ならば…“恐怖”と“資本”でいくまでだ』


ここに、コリーニ・ファミリーの「伝統」と「感情」は終焉を告げ、「冷徹な合理性」と「計算ずくの復讐」を武器とする新しい怪物——ドミニク・コリーニが誕生した。この誕生こそが、やがて香港の三合会、日本の極道、そして南米の麻薬カルテルをも巻き込む、全球規模の「血とカネの螺旋」という巨大な戦争の、不可避の始まりとなるのであった。


リッツィは、ドミニクを迎え入れ、冷ややかな笑みを浮かべた。

「ようこそ、現実の世界へ、ドミニク・コリーニ。君がスカレッティを始末したとの報告を受けた。…“効率的”だったそうだな。どうやら、君はすでに“授業”を始めているようだ」

彼はグラスにスコッチを注ぎながら言った。

「では、次の“講義”に移ろう。テーマは、“如何にして麻薬マネーを洗浄し、合法的な投資に回すか”——だ。敵を倒すには、まず彼らを深く知れ。そして、彼らの武器を奪い、我が物とせよ。これが、新しい時代の“戦争”だ」


ドミニクは、リッツィの言葉を静かに聞いた。その目には、もはや迷いはなかった。ただ、深く、暗い決意の光だけが宿っている。彼の旅は、まだ始まったばかりだった。そして、その旅路は、血と金で舗装された、果てしなく暗い道なのである。

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