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この国には、「娘を竜使いに嫁にやる」という言葉がある。
「取り返しのつかない大きな失敗をしてしまった」ことを揶揄することわざだ。
例えば、酒場で酔っぱらって大暴れし、その店に出入り禁止になった時、仲間たちはその男をからかって言う。
「おいおい、娘を竜使いに嫁にやるような粗相だな!」
初めてこのことわざを聞いたとき、幼いコートナーは怒りに震えたものだった。
全く、竜使いを一体何だと思っているの!
どれだけ竜が素晴らしいか、どれだけ竜使いが誇り高いか、知らないの!?
だが、長じるにつれ、このことわざがある背景が、(納得は到底できないにせよ!)少しずつ分かってきた気はする。
世界から神秘が、魔力が、薄まって久しい今の世では、魔力を糧に生きる竜を目にする機会なんてほとんどない。
大多数が魔法を失い、魔力がなくても使える魔道具による文明を発展させてきた人類とは違い、竜は、頑なに濃い魔力の残る秘境に棲むことで、神霊のような魔法力を保ち続ける稀なる種族だ。
竜の伝説は、この世界に溢れている。
曰く、竜は、魔法と背中の羽を用いて、巨大な体躯にもかかわらず空を自在に駆けることのできる、「天の覇者」である。
曰く、竜は、不死者のような知識量と、神秘の時代から続く叡智を受け継ぐ、「悠久の賢者」である。
曰く、竜は、その強大な魔法で、街一つ、国一つさえ炎に沈める、「灰塵の王」である。
どこまで真実かもわからないような、様々な伝説と二つ名は、多くの演劇や歌、書籍として流布している。
そんな竜と比べると人はあまりに小さく弱い。
人々にとっては、竜は畏怖の対象でしかなく、近寄りたくない存在なのだろう。
しかし、この国の人々にとっては案外身近な存在だ。
今も竜の活躍は、年に数回は、新聞の一面を賑わせる。
なぜなら、このエバーラスティング王国には、「竜使い」の一族がいるのだから。
―― プライベート・ドラゴン ――
「雪矢ーーーー!!!」
彼方まで届きそうな威勢の良い少女の声が響き渡ったのは、グロースステア侯爵家の玄関ホールである。
若々しく張りのある声は、持ち主の若さと活力を容易に想像させた。
少女が仔兎のようにぴょんぴょんと長い階段を駆け下りる度、背に伸びるたっぷりとした亜麻色の髪と、青いドレスのスカートが揺れる。
グロースステア侯爵家の屋敷は、全部で50部屋近くある広大な屋敷だが、吹き抜けになった玄関ホールは特に壮麗だ。
玄関ホールは、二階建ての民家がすっぽり入りそうな大きさで、入って正面すぐの位置に、落ち着いた色目のマホガニー材の大階段が鎮座し、深みのある赤い絨毯がひかれ、美しい調度品が磨き上げられて飾られている。
玄関ホールの2階の東の廊下は、天井まで届く丸窓が連なり、いつでも玄関ホール全体を明るく照らし出している。
今日も、燦燦とした初夏の陽光が窓から降り注ぎ、少女の亜麻色の瞳を優しい金色のように光らせた。
声の主は、コートナー・グロースステア。
グロースステア侯爵家の第五子にして末子である、16歳の少女である。
少女は、今まさに玄関を出ようとしていた人影に向けて突進し、立ち止まったその人物の背中に勢いよく激突した。
「いたっ!」
鼻が潰れて、少女の鼻の奥に、つーんとした痛みが走る。
用件も忘れて、鼻を抑えて涙目になる少女の頭上から、溜息交じりの声が降ってきた。
「何してるんだよ、コートナー。相変わらず落ち着きが無いな」
最高級の弦楽器のような滑らかな声音の持ち主は、呆れた表情を隠さず、頭一つ背の低い少女を見下ろした。
「だって、一大事なのよ!走りもするわよ!」
雪矢と呼ばれた少年は、霞んだ金髪の下の、新緑色の切れ長の瞳をふい、とそらすと、当初の予定通り玄関に向かって歩き始める。
体にゆったり馴染む裾の長い若草色の貫頭衣のようや丈の長いシャツが、歩みに合わせてふわりと揺れた。
「ちょっと、どこに行くの?」
コートナーは慌てて雪矢を追いかける。
「外。話は歩きながら聞くよ」
そう言うと振り返りもしないで歩き出す。
だが、歩調はコートナーの歩幅に合わせてくれているようで、コートナーは簡単に追いついて、横に並んで歩くことができた。
「あのね、ついにお許しが出たわ!!」
コートナーは興奮を隠そうともせず、勢いこんで言う。
「ふーん」
「ふーん、て!もっと感想あるでしょ!」
「僕は用事があって忙しいんだ」
グロースステア邸の玄関を出ると、丁寧に手入れされた庭と、煉瓦の敷き詰められれた歩道が広がっている。
屋敷から正門までは、歩くと5分程かかる道のりだが、雪矢は正門に用はないようで、程なく左の庭の小道に踏み込んでいく。
その道の先、庭の中で最も東にあたる場所に、樹齢300年を超えるクスノキがある。
胴回りは2メートルを超え、高さも20メートルを超える大木で、今のグロースステア邸が出来るより遥かに昔からこの地にそびえる古樹だ。
雪矢はクスノキに辿り着くと、新緑の葉が青々と茂るその樹に軽々と登り、中程の枝に寝そべり始めた。
「用事って、いつもの昼寝じゃない!」
雪矢の後に続いて、コートナーもすぐ側の枝まで身軽に登り、雪矢の顔の側で捲し立てた。
「一年も待ってた初仕事なのよ!今すぐ起きて!!」
コートナーは雪矢の右腕を掴み、なんとか体を起こさせようとする。
だが、雪矢は涼しい顔で一言言った。
「コートナー、鼻息荒すぎ」
コートナーは思わず鼻先を手で覆った。
さすがに年頃の少女としては、指摘されるほどに鼻を鳴らしていたなんて恥ずかしい。
雪矢はその様子を見て、ふ、と笑う。
「どうせカールが帰らないと詳細がわからないんだろ。今からそんなに興奮してどうするんだよ」
コートナーは雪矢を睨みつけて言う。
「カール兄様ならもうすぐ戻って来られるわよ。だから雪矢を呼びに来たんじゃない」
「なんだ、あの仕事人間が珍しいね」
「私達のためにわざわざ王城を抜けてくださるみたいなの。
だから、ちゃんと執務室で待っていないといけないのよ」
雪矢は肩をすくめた。
そして、数秒目を閉じてから、目を開けると同時に体を起こした。
「そう言うことは早く言いなよ。
炎が、もう正門の前まで来てるよ」
「え、嘘!じゃあカール兄様もすぐお帰りじゃない!」
コートナーは慌てて樹を下りようとする。
が、そのコートナーの手首を、雪矢が掴んだ。
「仕方ない。上から先回りで行こう」
言うなり、コートナーの腰に手を回し、軽々と抱き上げて、そのまま、枝から飛び下りた。
「きゃあ!いつも突然すぎ!」
コートナーは文句を言いながらも、雪矢の首元に手を回して、雪矢にしっかりとしがみついた。
落下する感覚は一瞬で、すぐに今度は浮遊感が体を包む。
ばさり、という羽音が耳元で響く。
雪矢の背中に生えた翼が羽ばたく度に、2人の体は高く舞い上がる。
翼といっても、鳥のような羽根が密集したそれではなく、蝙蝠のような、骨と皮膜でできた翼だ。
背の丈を超えそうな大きな翼が、いつの間にか雪矢の背中に出現して、2人を空に持ち上げたのだ。
歩いて5分以上かかった道のりも、空を飛べば一瞬だ。
初夏の、こんな晴天の日に空を飛ぶのは、気持ちが良くて最高だ。
コートナーは今まで腹を立てていたことも忘れて、笑い声をあげた。
「風が気持ちいーい!」
「泣いた烏がもう笑ったな」
「ちょっと、それ、小さい子に言うことじゃない?」
「君にはまだまだぴったりだよ」
「こんなレディを捕まえて、本当に失礼よね、雪矢って」
「レディって言葉の意味、知ってる?」
「ちょっと頭がいいからって馬鹿にしないでよね!どこからどうみても私はレディそのものでしょ!」
「自己肯定感が高いのはいいことだけどね」
途切れることのない減らず口を叩き合っていると、あっという間に屋敷の西側のバルコニーに着いた。
廊下に面した吐き出し窓を開けて中に入ると、早足でグロースステア侯爵の執務室に入る。
といってもすぐに執務室があるわけではなく、主人の補佐をする筆頭執事の部屋があって、そこにはこの屋敷を取り仕切る筆頭執事のセオドラー・セービンが机に座っていた。
綺麗なロマンスグレーの髪色をしているが、実は50代とまだまだ働き盛りの年齢で、白髪を染めもせずこの髪色にしているのは、その方が執事として貫禄が出るから、らしい。
「コートナーお嬢様、雪矢様。
カール様、炎様へのご面会ですね。
どうぞ、中でお待ちくださいとのことです」
「ありがとう、セオ」
コートナーはきちんと返事をし、雪矢も頭を下げて、セオの前を通り過ぎる。
筆頭執事は、主人の補佐、領地の運営、家政のことと担当領域が幅広く、子どもたちの教育にも携わる。
2人にとっては小さい頃からの教師の1人であり、頭が上がらない人物なのだ。
執務室は、本来なら父親である、オスカー・グロースステア侯爵が使っている部屋だ。
だが、グロースステア侯爵は職務が忙しく、王城に詰めていることがほとんどで、実質王城内の執務室を使用していることが多い。
そのため、グロースステア侯爵家の長男にして、次期侯爵であるカール・グロースステアが、グロースステア邸の執務室を使っていた。
セオドラーの手によってだろう、無人の部屋は、窓が開けられ、気持ちいい風と光が差し込んでいた。
コートナーは、部屋の手前にある応接セットのソファに座る。
この家の子ではあるが、執務室はあまり入ることが無く、コートナーは少し緊張していた。
雪矢も同様のはずだが、全く気負う様子もなく、執務室の、天井まで続く本棚の品揃えを確かめている。
「コートナー、これでも読んだ方がいいんじゃない?」
言葉とともに、背後から、コートナーの頭頂部に、一冊の本が置かれた。
コートナーは「何?」と言いながら頭上の本を下ろして見てみると、そこには「礼節と品格」というタイトルが書かれている。
「どう言う意図かしら・・・?」
コートナーは微笑んだままで、背後の雪矢を振り返る。
「怖い怖い」
「侯爵令嬢として礼節と品格が足りないってこと?散々言われてるそのこと?だとしたら、生まれた時からの対でもあるあなたにも一因はあるんですからね!!!」
コートナーが笑顔を貼り付けたまま、勢いよく言い切ったところで、笑い声が雪矢とは反対側から聞こえた。
「相変わらず仲がいいねコートナー、雪矢」
艶のあるテノールの声が、コートナーの動きを止めた。
微かに笑む姿さえどこか艶やかな、優しい顔つきの青年がそこにいた。
コートナーと同じ亜麻色の髪は、右の一房だけ伸ばされて、宝玉の付いた髪留めで留められている。
今の今まで登城していたからだろう、深緑の立て襟の騎士服を身に纏っていた。
「カール兄様!お帰りなさい!でも、笑い事ではないんですよ!」
カール・グロースステアは、当年とって、27歳。
コートナーと11歳も離れているとあって、コートナーにとっては、半分親代わりでもある。
「世間では、グロースステア侯爵家はみんな15歳で社交会デビューを果たすのに、末娘だけは礼節を弁えないあまりのお転婆ぶりに、表に出せないらしい、って、皆噂してるんですから!!
実際、父様から、なぜか社交会デビューを禁じられて、一人前と認められないまま、もう1年も経ってしまいました!」
半ば自棄になってコートナーは言い切った。
この一年、溜めに溜めていた悶々とした思いが、一気に爆発したのだ。
「それなら、ようやく社交会デビューできて、何よりだ」
カールは優しく笑った。
カールは厳格で忙しい父のとの仲立ち役でもある。
コートナーの気持ちを否定するでもなく、かと言って一緒になって父親を非難するでもなく、コートナーに優しく返した。
「社交会デビューは、正直ついでです。
私は、何よりも、やっと仕事が出来るのが嬉しいです!」
社交会デビューすること、それは、貴族にとって、一人前として認められることと同義だ。
グロースステア家の家業には、社交会デビューで王に謁見した後、ようやく参加できるものと取り決められていた。
カールはコートナーの向かいのソファに腰掛けると、静かに頷いた。
「そうだね、君たち2人は、きっと活躍してくれるだろうと期待をしているよ」
カールに背後に付き従ってい黒髪黒衣の鋭い朱眼の長身の男が、一枚の紙を、カールにひょいと手渡す。
「良かったな、コートナー!!」
空になった手はそのままコートナーの頭を乱暴に撫でる。
ぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、コートナーは「もう!子ども扱いしないでよ!」と、その男、炎に苦情を申し立てた。
「お前は俺の妹も同然だからな!そんな扱いできないくらい色気を身に着けてからいいな」
とにやりと意地悪く笑う炎に反論しようとしたコートナーは、兄の苦笑を見て慌てて姿勢を正した。
カールは表情を引き締めて、先ほどの紙をコートナーと雪矢に差し出した。
「コートナー、雪矢、3日後の王城での晩餐会に参加してもらうよ。そしてそのまま、そこで依頼者に会い、事件の解決に挑んで欲しい」
カールの目が鋭く光る。
「騎竜騎士団長でもあるグロースステア侯爵の名代として君達を、竜使いと、その守護竜として任じる」
カールが差し出した紙には、グロースステア侯爵の署名とともに、カールが読み上げた通りの命が記載されていた。
正式な竜使いの任命状だ。
コートナーはその宣言を聞いて、任命状を見て、胸がいっぱいになった。
そう、グロースステア侯爵家は、建国から続く竜使いの家系。
家長は騎竜騎士団長も兼任し、代々王国の守護を担ってきた。
カールとその守護竜である炎もまた、竜使いとして、そして騎竜騎士団の一員として、15歳からずっと活動している。
貴族社会でもその存在は異色で、社交会にもあまり出ることのない、謎めいた一族。
それもそのはず、竜という神秘の力を借りることができる、数少ない人間なのだから。
グロースステア一族は、生まれた時から、竜と契約して共に成長する。
コートナーも生まれたその日に、竜である雪矢と契約し、竜使いとなることを定められていた。
本来なら竜は、人の容易に近寄れぬ、険しい山脈の頂上付近に暮らしているが、竜使いの対となる守護竜となった竜だけは、竜使いの存命の間は人の世で暮らす。
そしてそのために、本来なら普通の民家よりも大きな体躯を持つ彼らは、例外的に魔法で人の姿を模して、龍使いと共に生きる。
コートナーの対である雪矢は、どう見ても人間の少年にしか見えないが、その本性は竜。
人々から恐れられる、伝説の存在なのだ。
「お任せください兄様!
この初仕事、必ず解決してみせます!
何せ、私の夢は、この世界で一番の竜使いになることですから!」
元気いっぱいやる気いっぱいに胸を叩くコートナーに対して、天を仰いで「ますます世話が焼けそう・・・」、とぼやいた雪矢の呟きは、もちろんコートナーの耳には入らないのだった。