了司
携帯電話のヴァイブレーション、ことねから。
「あっ、安津見君」
「今迎えに行くところだ。早く終わっちまったのか?だとしたら予定外だ。すまない」
「うん。でも、現場に行かなくていいよ」
「なぜだ」
「新堂さんとお茶飲んでるから、安津見君も来たら?」
雷光――頭が粉々になるかと思った。
新堂了司、俺の師。俺の王。ことねと会っている。
恐怖、羨望、畏怖、尊敬――混ぜこぜになった。濁流となって俺の心をかき乱す。脳神経の電流がスパークしている。
「……すぐ行く」
ハンドルを握り締めた。車のスピードがあがった。手の震えが止まらなかった。
了司、ブラックのオーダースーツ、金むくのロレックス、オールバックスタイル、ブラックサングラス。
涼やかな立ち振る舞いを持つ細身の優男。三十代後半、日本刀のような涼やかさと鋭利な雰囲気を持っている。
今は隠されているが暴虐のオーラを身に潜めている。
「どうした、ボケッとしてないで座れよ」
「ええ――久しぶりですね了司さん」
ことねは帰らせた。適当なことを言ってこの場から追いやった。了司も口裏を合わせた。喫茶店の椅子に座った。
「少しはマシになったじゃねぇか」
「何がでしょうか」
「筋肉が鍛えられてる。立ち振る舞いに余裕ができている。口調が落ち着いている」
サングラス――外された。蛇の目が俺の眼前に現われた。暗く暗く深い闇の目。邪眼。体が震えた。
「俺も少しは成長できたでしょうか」
「まだクソガキだ」
怒り――表には出さない。
「イタリアブランドのスーツ、張りつめた筋肉、胸ポケットの煙草、くだらない虚栄だ。本当は煙草も吸いたくなんかねぇんだろ。格好つけたいだけ だ」
空気が薄くなる。凍っていく。師の暴虐のオーラが滲みでてくる。師のギョロリとした目が俺を見透かそうと している。
「了司さん――」
「なのに、靴は安物だ。履き潰してるんだろうがスーツと合ってねぇ。チグハグな安っぽい虚栄だよな。見栄 ばかり先行して物を利用できてねぇ。馬鹿が」
「了司さん――」
「いま、出口のある方に眼球が数ミリ動いた。逃げたいのか。頬の筋肉が震えたな。恐怖してるな。俺が怖い。 また心が凝視されている。気が狂いそうだ、ってか?」
「了司さん――」
俺が解体されていく――気が狂いそうだった。
「引きつった笑み、媚びろうとしている。許しを乞おうとしている。だが、それは俺に通じないことを経験則からわかっている。 葛藤、逃げることも戦うこともできず、奴隷のような顔つきを見せ続ける」
「了司さん――」
「お前はいつだって格好つけたがった。学生時代、お前は女の気をよく引けた。安っぽい優しさを見せ続けた。 無意識に、お前は女の身体を欲しがっていた。くだらない奴だよなぁ」
「了司さん――お願いします」
「愛情が欲しかったか?お前の家庭は両親が家にいなかっただろ?いつも強がっていた。誰か居たな。妹か? 弟か?強いふりをする必要があった。中身なんか伴ってねぇのに」
「もう、もう……お願いします。許して下さい」
常軌を逸した洞察力。声が震えた。恐ろしかった。
「だったらそんな顔するんじゃねぇよ。ぶっ壊したくなっちまうだろうが。俺がお前と会わなかった一年と六ヶ月。俺 を失望させるとどうなると思う?」
「俺は……破滅します」
「そうだ、お前は俺が組み立ててやった機械だ。正常に動作しないならスクラップにしてやる」
屈服するしかなかった。何かもが違いすぎた。俺とはレヴェルが違いすぎる。唇をかんだ。悔しかった。
だが、師は師のままだった。紛れもなく、俺の暴虐の王だった。
「総一、三時間後に酒を飲みに行くぞ。ついて来い」
「わかりました」
頭を下げた。絶対服従するしか道がなかった。
ぶっ壊れそうな思考回路――了司の帰還、また俺は拷問に遭う。磔刑に処せられる。毎日のよう に精神を刃物で削り取られる。
期待と不安。ゾクゾクする。身を蝕まれるとわかっていても止めらなかった。毒を飲み込むというのに頬が 緩んでしまう。
了司――異端者、同じ人間だと思ったことがなかった。生物ではなかった。闇そのものだった。
「こぇえよ……こぇえよ了司さん」
だが笑い声がこみ上げてくる。口元が歪んだ。笑った。笑い声が止まらなかった。トチ狂ったように笑った。俺はトチ 狂っていた。
知性という暴力、この世の全ての暴虐を司る魔力。たまらなかった。あれがいずれ俺のものになるかと思うと 心底震えた。俺は了司になりたかった。悪魔になりたかった。魔王になりたかった。
そうなれば――今、俺が住む地獄さえも心地いいだろう。
ことねからまた電話があった。
「仕事もレッスンもありませんっ!明日も午後からですっ!これはらぶらぶタイムではないでしょうか!?」
「……了司さんと飲みに行かないといけないんだよ」
「うぅ~……新堂さんに電話してまた今度にしてもらいます」
「止めてくれ。俺がイジメられる」
「安津見君を?まさか、あの人、そんな人じゃないですよ」
ことね――何も知らない。俺の本性を知らないように了司の本性を知らない。
了司、ことねには優しかった。態度が違った。なぜかはわからなかった。了司の思考回路は読めない。読めた ためしがない。
「たまには私を優先してくださいよ」
「ああ、数時間で切り上げるよ。夜に会わないか?」
「えっと……その、そういう意味?」
恥かしがる声――悪くはなかった。
「どういう意味かは君の頭の中で完結してくれ」
「うぅ……自己嫌悪」
「君は――美しすぎる」
携帯を切った。胸ポケットにしまった。ハンドルロックを解除した。キーを回転させた。エンジンが回転した。
待ち合わせの時刻、待ち合わせの場所、わかっている。いつものところで、いつものように了司は俺をなぶって 楽しむ。
俺の善良を破壊し、邪悪を育てる。
面白れぇよ了司――なぜか、魅せられている。
冷静に、快楽に酔う。
アルコールに、女に、ギャンブルに、酒に、煙草に、暴力に。溺れていても正常な呼吸をし続ける。海の中 だというのに自由自在に歩きまわる。
魚ではなかった。海水だった。俺は人間を捨てて海水になった。何も考えず、動じず、流動する海水。
俺は浅瀬に居る。了司は深海に居る。真っ暗闇の向こうで俺を見ている。こっちに来いと訴えかけている。俺達 は交じり合って腐りあう。
「今日はライフエッセンスはつけてねぇのか」
「えっ」
バーボンを片手に了司は俺を見ていた。つまらないものを見るような平坦な瞳。薄暗いバー、バーテンがカクテル をシェイクしていた。闇の中で男女が睦言のような言葉を応酬していた。
了司は目を細めた。
「香水だよ。自分のつけている香水の名前すら忘れちまったのか」
「いえ……」
「これから、清川ちゃんを抱きにいくんだろ。少しぐらいおめかししろよ馬鹿」
見透かされている――悪魔が。
「だから、つけてないんですよ」
「まだ女がどれも同じに見えねぇのか。さっさと別れろって言っただろうが。あの女は害悪だ」
「すいません。それだけが俺の存在理由なんで」
舌打ち、了司の言っていることはいつだって正しかった。闇にとって光は天敵だった。
だが、その言葉だけには 従うわけにはいかなかった。従う時は、俺が俺のクビをはねる時だ。
「何十、何百か、今まで抱いた女の数は?香水をつけ、言葉を選び、快楽に狂わせ、自分に酔わせ、食った後に利用する。少しは できるようになったみたいだな」
「ええ……ヘドが出そうですけどね」
「楽しめよ。なんで楽しまない」
そうなれ――俺のようになれ、了司の視線、声、雰囲気、まだ到達できない。
「所詮は作業ですよ。女の体がくれる快楽なんて微々たるものじゃないですか。天秤をかければ肉体の疲労 のほうが傾きます」
「言うようになったじゃねぇか……ところで、総一。なんで俺がお前に会っているかわかるか?」
会う理由――計算なしでは動かない了司。気になってはいた。
了司は口元をゆがめた。
「総一、お前は出来損ないだ」
「薄々――気づいていました」
心臓の鼓動、激しく脈を打ち始める。
「完成させてやるよ。最後のパーツをはめてやりにきた。そしたら、俺と共に来い」
「了司さん――ことねにだけは手を出さないで下さい」
「あんな女、興味ねぇよ。俺はアーティストだ。お前という芸術品にしか興味がねぇ」
「俺は――」
「心配するんじゃねぇよ。きちんと仕上げてやるよ。お前も望んでいるんだろう?」
悪魔の声――言葉の裏の意味、真意、まだ読みきれない。俺の貧弱な思考回路では目の前の男の 言葉は理解できない。
だが、俺は頷くしかなかった。騎士である俺は了司という王に服従するしかなかった。