2年前と現在
父親の殺人罪。
そして、その夜通りすがりの一般人に大怪我を負わせた罪。
それによって正之助に与えられた刑期は3年だった。
つかさは正之助が少年院にいる間、掛け持ちで格闘技の教室に通い詰めた。
これからは1人で自分の身を守れるように。
正之助にもう負担をかけないために。
そして約束の3年後。正之助は17歳になり、きっちり少年院から出所した。
しかし彼からつかさに連絡がくることはなかった。
それをきっかけに、2人は一時疎遠になる。
5年後、21歳になったつかさが偶然入ったシルバーアクセサリーショップで再開するまで。
正之助はそこの彫金師として働いていた。
子どもの頃と違ってつかさは大人になっていたし、正之助も更に身長が伸び、首から肩を通って左手の甲まで龍の刺青が入っていた。
最初はお互い声が出なかった。
何を言い出せばいいかもわからなかった。
結局つかさがアクセサリーを1つ買い、会計の際に連絡先が変わってないかだけ聞いたのだった。
それだけは聞かずにはいられなかったのだ。
そうして2人は、たまに連絡を取り合う仲にまでゆっくりと戻っていく。
1年が過ぎたある日、つかさが仕事を辞めて正之助の家に転がり込んでくるまでは。
*
ザーザーと雨の降る、初秋の夜だった。
正之助とつかさが再び連絡を取り出して1年ほど経った日。
つかさから正之助に連絡があった。
ーー誕生日に贈り物をするから今の住所を教えてくれない?ーー
正之助が少年院に入り、つかさの家の隣には新しい入居者がすぐに入った。そのためつかさは彼と再会したものの、家までは知らなかったのだ。
正之助はそのメールに、自分の誕生日まで1ヶ月以上もあるのに随分と気の早いことだ、と思った。そもそもお互いプレゼントなんて渡したことはない。
それが急にどうした。正之助はすぐに返事を思いついた。
ーー別にいらねぇよ。それより今度飯付き合え。ーー
ーーご飯も行く。けどもうプレゼント買ったから住所は教えて。ーー
早々に帰ってきた返事に、それなら飯の時でいいだろ、と返した。
つかしつかさは今すぐ送りたいからなどと言って頑なに諦めようとしない。
面倒になった正之助は結局、住所だけ書いた簡素なメールを送った。
それから数時間が経った頃だ。
玄関のチャイムが鳴った。
もう夜も遅い。それに外は大雨だ。
そもそも正之助に知り合いなんてケンカした相手くらいしかいない。
正之助はため息をつくと気だるげにベッドから起き玄関へ向かう。覗き穴から一応外にいる人間を確認した。
そして驚く。
外にいる人物がつかさだったからだ。
なんで今ここに? いやそんなことより外は雨だ。
とりあえず家に入れなければ。 いや、入れていいのか?
そんな考えが一瞬頭のなかを駆け巡るも、結局正之助は扉を開けた。
「お前、なにやってんだよ。」
思っていたより戸惑いのこもった声が出てしまった。
つかさを見るとロングスカートはずぶ濡れで上半身もところどころ雨に濡れているように見える。
以前会った時よりかなり疲れた顔をしているのが気になったが、つかさの声が正之助の思考を遮った。
「はい、プレゼント。」
「はぁ?」
つかさが手渡してきたのは小さな紙袋だった。が、正之助は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「こんな雨んなか渡しにくるか、普通。」
礼より先に呆れた声が出た。
「急にごめんね。要らなかったら捨てて。じゃあ。」
力なく笑ったつかさは化粧をしているのだろうが、それでもうっすらと目の下にクマがあるのが見てとれる。
方向転換して帰ろうとする彼女を思わず正之助は引き止めた。
「おい、上がってけ。そんでお前、風呂入れ。」
その言葉につかさの体は固まる。
「は。」
「は、じゃねーんだよ。その服でまた今から帰んのダリーだろ。せめて俺の服来て帰れ。風邪ひくだろうが。」
「いや、風呂入ってから外出る方が風邪ひきそうなんだけど…。」
「なら泊まってけ。」
「いや、は?」
つかさは困惑した。正之助はこんな軽々しく女を招くような男だっただろうか、と。自分を部屋に上げるということは彼女はいないのだろう。彼が昔と変わっていなければ、そういう男のはずだ。
しかしお互いフリーの身だからといって、一つ屋根の下で過ごすのも如何なものだろう。もう昔のように子どもではないのだ。
男と女には、万が一、ということがあるではないか。
そんなことを考えていたのがつかさの顔に出ていたのだろう。
正之助は彼女に現実を突きつけた。
「安心しろ、そんな疲れきった顔の女には興奮しねぇから。」
「あ、そう。」
その言葉になんとも言えない安心感を覚えたつかさは躊躇いなく玄関へ足を踏み入れた。
つかさは正之助に言われるがままタオルで体を軽く拭き、脱衣所へと案内される。
彼はすでに浴槽にお湯を張ってくれているらしい。ここ最近忙しくてシャワーで済ませてばかりだったつかさにとって、久しく聞いていない水音に懐かしさを感じた。
「湯、溜めてる間にシャワー浴びとけ。今着替え持ってくっからまだ脱ぐなよ?」
わかった、と返事をしたつかさは脱衣所から出ていく背中を見送る。そして手持ち無沙汰になり、脱衣所を見渡した。
男の一人暮らしらしく、ところとごろ汚れや埃が見てとれる。
それでも昔住んでいた所よりは子綺麗なアパートだ。
「ほらよ。」
脱衣所の扉からひょっこり顔を出した正之助は上下セットのスウェットを手渡した。
「ありがとう。」
「シャンプーとか男物でいいなら勝手に使え。タオルはそこの。使ったら洗濯機ん中な。」
言うだけ言って、正之助は扉を閉めた。
つかさがシャワーを浴びている間、その水音に正之助はなんとも言えないむず痒さを感じた。家に自分以外の人間を入れたのなんて初めてだし、まさか、風呂を貸すことになるとは。
しかし相手がつかさだからこそ、嫌な感情は1つも湧いてこなかった。そんなことよりも、あの疲れきった顔の方がよほど心配だった。
それから30分ほどして、つかさは脱衣所から出てきた。
正之助は換気扇の下で吸っていた煙草を消し、グラスに適当に水を入れてテーブルに持っていった。
身長差があるから想像してはいたものの、自分のスウェットでは無理があっただろうか。と正之助は思う。
「デケェな。服。」
「まぁね。でもさっきより暖かい。ありがとう。」
「おー。」
つかさはスウェットの裾を引きずりながら、正之助が座っているローテーブルの向かいへ座る。
正之助は単刀直入に思っていたことを聞いた。
「で? お前なんでそんな顔してんの。」
「…あー。やっぱりわかるか。」
「当たり前ぇだろ。つーか、化粧とれてさっきより更にひでぇわ。」
「だよね。」
つかさはカラリと乾いた声で笑った。そしてゆっくりと話し出す。
「仕事が忙しいのと、疲れが全然とれなくてさ…。人の多い部署に移動になって、それからずっとこんな感じ。」
「お前、昔から人が多い場所苦手だもんな。」
「そうなんだよね…。もう、毎日頭痛がするし、吐き気もあるし…、最悪…っ。」
言いながら、つかさは声が震えるのを抑えられなかった。
最後は涙まで流れる始末だ。
こんなはずではなかったのに。
これではまるでただ慰められにきた女じゃないか。
そう思い、つかさは急にこの場から去りたくなった。
「ごめ、お水ありがとう。飲んだら帰る。」
「お前、その仕事やめろよ。」
気付いた時には、そう口走っていた。正之助は自分の口から出た言葉に驚きながらも妙に納得した。1つのアイディアを思い付き、そうだよな、それが1番良いわ、などど思ったのだ。
ふとつかさを見ればもう涙は止まっていた。
しかし俯いた瞳は何を考えているかよく分からない。
ゆっくりとつかさの唇が動いた。
「そうだね。新しい仕事探して、決まったらーー」
その言葉を正之助は遮った。
どうしても言いたいアイディアがあったからだ。
「そうじゃねぇよ。今すぐやめて、ここに住めば良いだろ。」
「え…ん?」
つかさは今にも停止しそうな思考をなんとか動かしてその言葉の意味を考える。
一緒に住むと言うことは同棲になるのか?
いやでも、そもそも付き合ってすらないのに?
それともこれは遠回しな告白なのか?
などと思っている間に正之助は更に言葉を続ける。
「そのかわり贅沢はできねぇぞ。けど俺は掃除も料理も苦手だからな。お前がここに住む代わりにやってくれれば丁度いいわ。それがお前の仕事でどうだ?」
「ど、どうだって…。ここ、二人暮らし用には見えないんだけど。」
「だな。嫌なら別に良い。お前が言う通り狭ぇルームシェアになるからな。」
「いや、ルームシェアって…私たち、仮にも男女…じゃん。マサは良いの? 彼女とか、さ。できるかもしんないじゃん。」
「……。今んところ誰かと付き合う気はねぇよ。仕事もようやくまともに出来るようになったばっかだしな。」
誰かと付き合う気はない。その言葉に、つかさは安堵と少しの胸の痛みを覚えた。
しかし正之助が誰とも付き合う気がないならば、その気が変わらない内は、つかさにとってとても条件の良い提案だった。
もちろん全く働かずに家事だけして住まわせてもらうつもりもない。仕事の時間を減らしてアルバイトでもしてみようか、とつかさの中の天秤がルームシェアへ傾きかける。
人間関係が壊滅的に苦手なつかさにとって、社会に出てフルタイムで働くいうことは大きなストレスだった。
人と会うたびに次の日どこか体調を崩す。人混みなどに行けばたちまち頭痛や吐き気が襲う。これはもはや一種の呪いではないのかと思うほど、彼女にとって他人と共に過ごす時間は苦でしかなかった。
ただ1人、正之助を除いては。
その正之助となら、一緒に暮らすことは可能だろう。
ただ、それはしていいことなのか。と、つかさの中の常識人が彼女に訴えかける。
「なぁ。俺があの日お前に言ったこと覚えてるか。公園の、ブランコで。」
ふと呟くように言う正之助に、我に帰るつかさ。
あの日、公園のブランコ。
公園での思い出は数えきれないほどあるが、その言葉で思い当たるのは1つ。
彼が父親を刺した日のことだろう。
ーーお前と離れたくねぇなぁ。ーー
「……。」
あの言葉は今でもつかさの心の中に大切に仕舞われている。
苦く、辛い、思い出。しかし、ほんの少しの幸せが混ざっている、その言葉。
つかさの返事を聞くまでもなく、正之助は話しかける。
「今も、その気持ち変わってねぇから。だから他の女と付き合う気はねぇ。ただお前に俺と付き合えとも言わねぇ。良い男なんて他にいくらでも居るしな。だから手も出さねぇ。けど、お前が今の俺を嫌いじゃないなら、幼馴染同士のルームシェアぐらい、許されんだろ。お互い利害も一致してるわけだしな。」
珍しく饒舌なのは、緊張からか。はたまた自分の本心を悟られないためか。つかさは正之助の真意を分かりかねていた。
"気持ちは変わっていない"。その言葉はつかさを一瞬天国へ連れて行った。
しかし、その後に続いたのは"自分と付き合えとは言わない"、と言う言葉。それはつかさを一気に現実へ引き戻す言葉だった。
つかさは正之助の言葉の真意を考察した結果、"自分のことはそばに置いておきたいが付き合う気はない"という結論に達した。
正之助が自分と付き合いたがらないのは、恐らくあの事件が原因だろう、とつかさは推察する。
付き合ってしまえば、お互いあの過去から逃れられなくなるから。
いや、本当はもう分かっているはずだ。
あの過去を無かったことになど、出来はしないのだと。
*
正之助が出所してもつかさに連絡をしなかったのは理由があった。
いったいどのツラを下げてつかさに連絡すると言うのだ。という気持ちがあったからだ。
彼女が一生癒えない傷を負ったのは、他の誰でもない自分の父親のせいだ。
父親と同じ血が流れているこの体では、つかさに会うどころか、連絡することさえ憚られる。
そう考えていたのだ。
それなのに何故だろうか。
正之助は自分にプレゼントを渡しに来たつかさを見て、もう離したくないと思ってしまったのだ。
今まで遠ざけようとしていたのは自分だというのに。
しかし一緒に住んだところで、根本的な部分は変わらなかった。
つかさが正之助を責めていないことは、正之助もわかっていた。
だが父親と同じ血が流れる自分を正之助自身が許すことが出来ない。
だから正之助が不必要に彼女に触ることはなかったし、幼馴染以上の関係を求めることもなかった。
ただ昔のように、一緒にいれたなら。
正之助はそれだけで満足していたからだ。
それでも、いつかは離れなければ。と思っている。
いつか、つかさがどこかの良い男と結ばれて幸せになる時には、自分は潔く身を引いて彼女を送り出そう。
それが正之助がつかさと一緒にいることを、自分に許す条件だった。
*
つかさは鬼に襲われたことよりも、昔の事を思い出して傷ついていた。その様子を見た時、正之助は思った。
潮時だ、と。
三週間後、無事に日本へ帰ったら、つかさとは離れよう。
つかさにとってはそれが一番良いはずだ。
そう考えたのだ。
そして沈黙の流れる部屋にしばらく2人で座り込んでいた時。
襖の外から伊吹の声がした。
「つかささん、マサさん。今よろしいですか?」
その声にハッとしたつかさが答える。
「はい、どうぞ。」
襖を開けた伊吹は驚いた。
2人の表情が伊吹が見ても分かるほど暗くなっていたからだ。
伊吹からしてみれば、2人とも無事だったのに何故そんなに暗いのか…という疑問が湧く。
特に、つかさはともかくあの正之助が、だ。
「……えぇと。五十嵐組長が、お二人に組長室に来るよう言っておられますが……大丈夫ですか?」
「……大丈夫です。今行きます。」
そう言って立ち上がるつかさと正之助。
伊吹の後をついて組長室に行く間も2人は無言だった。
組長室に着けば、2人の表情に五十嵐も気付いたらしい。
申し訳なさそうに謝る五十嵐。
「すまないな。2度もここへ呼んでしまって。」
もっとも、その謝罪は的を得てはいなかったが。
「いえ、大丈夫です。それで、何かお話があるんでしょうか?」
つかさは気を取り直して五十嵐に向き合った。
「うむ。実はな。つかさくんを襲った男が例の通り魔だと確定した。そのため上へ報告したところ、鬼ヶ島の島長"鬼塚"様が君達に会いたいと言っているんだ。」
「島長ぁ…?」
正之助が五十嵐に書き直す。
「この鬼ヶ島を統べる長だ。わたしは今日で、ちょうど謹慎が終わる。君達が良ければ明日にでも会いに行こうと思うが、どうだろうか?」
その言葉に正之助は納得がいかないようだった。
「会ってどうすんだ? まさか、仲間殺されてキレてんじゃねぇだろうな?」
「それはない。安心してくれ。つかさくんは我々の問題を解決してくれたと言っても過言ではない。長はその礼が言いたいとのことだ。」
「へぇ、礼をねぇ。」
正之助は至極つまらなさそうに呟く。
今はつかさとのことで良い気分ではない。
しかしそれを知らない伊吹は、いつもよりも棘のある正之助の言い方に疑問を覚えた。
「私たちは明日でも大丈夫です。」
つかさは正之助を咎めるでもなく、冷静に五十嵐に答える。
五十嵐はそれに対して顔を綻ばせた。
「そうか。それは良かった。では明日の午前中にでも向かうとしよう! そうと決まれば2人とも、今日はゆっくり休んでくれ。」
労いの言葉をかける五十嵐につかさが礼を言うと、2人は組長室から客室へと戻ることとなった。
部屋に戻って、風呂に入っても、2人の重苦しい空気は変わらない。
正之助はつかさのために離れることを曲げたりは出来ないし、つかさは隣にいる事で正之助を傷付け続けてきたことを後悔してもしきれない。
それぞれの暗い思いを抱えたまま、夜は明けてゆくのだった。