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過去と後悔

つかさと正之助は、1週間経っても鬼ヶ島の町並みになかなか慣れなかった。


どこへ行っても頭上にズラリと並ぶ提灯。

建物から剥き出しのパイプ管。

高層ビルのような建造物はないが、どの建物も3階建て程度の階数がある。

そして、そのどれもがレトロな雰囲気を醸し出していた。

木造の建物は昔ながらの瓦屋根が多いが、鉄を使った建物は屋根や外壁などがカラフルに塗られていたりする。

そのチグハグ感が、ここが日本ではないことを見せつける。


しかし今の2人はどこか観光気分だ。

三週間後に帰れることが確定しているからだろう。


今日もレトロな町並みを、活気のある鬼達に声をかけられながら歩いて行く。

いつものように付き添いの伊吹が2人の先頭を行く。

今日は隊舎で隊員達が自炊する食材の、買い出しに付いて来ていた。

帰りはつかさも正之助も、荷物持ちだ。


「悪いな、何かしら理由つけて外に出させてもらってよ。」


正之助が悪びれる様子なく謝った。

もちろん、言っていることは本心である。


「構いませんよ。ずっと隊舎にいては気分も下がってきますからね。」


伊吹はいつもの柔らかい雰囲気で答えた。

しかし直後、その表情はキュッと引き締められる。


「ただ、私から離れないように気をつけてくださいね。最近この辺りで、いくつも通り魔事件が起きていますから。」


「へぇ。そりゃ気をつけねぇとな。まぁけど、俺もコイツもそれなりに護身は出来っから心配すんな。」


正之助がつかさを指差しながら言う。


「いえ、油断はいけません! 我々の仲間の中で屈指の戦闘員が、その通り魔に何人か殺されているのです。悔しいですが、奴の腕は強者に値します……。人を殺してまわる人間性はクズですが。」


珍しく、伊吹が忌々しいといった様子で吐き捨てた。

寝食を共にした仲間が殺されたとなれば、憎くて当然だろう。

つかさは悲しげに瞼を伏せて呟いた。


「それは…、辛い…ですよね。」


「……いえ。彼らは町を守るため命をかけた。私もそれに続かねばなりません。辛い、悲しい、などと言っている暇はない……、一刻も早く奴を見つけて裁きを受けさせます。」


その瞳には確固たる意志と共に、わずかに復讐の炎が宿っていた。

正之助には、伊吹という鬼の気持ちが少しだけ理解できる気がした。


少しの沈黙の後、すぐに市場に着いた。

伊吹は2人を振り返って微笑んだ。


「さぁ! では気を取り直して、買い出し……!!」


しかしその言葉は途中で途切れ、みるみる顔色が変わる。

それは先程見せた、わずかな憎悪を表したそれと同じものだった。


怪訝に思った正之助は振り返ると、その光景に愕然とする。

つかさの姿がなかったからだ。


「あの馬鹿……! どこ行った!?」


「……間違いありません…。この手口、奴です…! 間違いない!」


「……あぁ!?」


伊吹の言葉に、正之助は荒々しく聞き返した。


「先程言った通り魔です!」


「っなんだと…!?」


「被害者たち全員が、誰かといる途中で忽然と姿を消すのです! 急いで隊舎に戻り、捜索隊を出します!」


「俺は一人で今すぐアイツを探す!」


「それはいけません!! 貴方達の単独行動は認められていません! 私と共にーー」


「断る!! どうせテメェはつかさを迷子にした時点で罰受けるに決まってんだ、もう遅ぇんだよ! だったらアイツが助かるための最善を尽くすべきだ!」


「いいえ! それ以前に、貴方達2人が(・・・・・・)助かる道を探すべきです! 別れた後もしも貴方に何かあれば、私は後悔します!」


伊吹の言葉に、一瞬呆気にとられた正之助。

しかしすぐにいつもの無表情に戻る。


「……。それなら心配いらねぇ。俺は一回、人を殺してる。」


あまりに唐突なその言葉に、伊吹は驚きを隠せない。


「なっ……はい?」


そして少々混乱した。

正之助はそれを無視し、至って落ち着いた様子で話し続ける。


「さっきも言ったろ。俺の身の安全は自分で保証できる。お前は最短ルートで隊舎へ行け、分かったな? これが3人とも1番マシな結末を迎える最善策だ。いいな。」


その時伊吹は、なぜか自分より半世紀以上も歳下の正之助に言い返すことができなかった。

鬼ヶ島のルールを厳守しろ、と言えば言いだけのことだった。

しかし正之助の目は、有無を言わせない何かがあった。


「………。……っ分かりました!」


それだけ言うと、伊吹はすぐさま方向転換し五階建ての建物の屋根へと飛び乗る。


「ご武運を。」


そう一言、正之助に向かって呟き今度こそ最速で隊舎までへのルートを駆けていった。


それを見届けた正之助は来た道を走って戻る。

そして、"つかさは一瞬のうちに路地に連れ込まれた可能性が高い"、と考えた。

3人で大通りを歩いたとき、右側に寄って歩いていた。

つまり、右側の路地に連れ込まれたのだ。


「生きてろよ……つかさっ!」


正之助は片っ端から路地を覗きながら走った。










それは一瞬の出来事だった。


3人で歩いている時、つかさは向かいから来た鬼を避けるために少し路地に近付いた。その時、一瞬で路地の暗闇から伸びて来た腕に捕まったのだ。


こちらへ歩いてきた鬼を避けたために伊吹、正之助と少しだけ距離が離れていたことも災いした。

つかさが捕まった時のくぐもった声を2人が聞き取れなかったからだ。


後ろから口を押さえられながら、体を路地の奥の方へ引き摺られていく。

その間、つかさは肘で相手の脇腹を何度も殴った。


「うぐぅぅっ……、このヤロッ…大人しくっ、しやがれ…!」


しかしつかさを捕まえた男はかなり体格が良く、筋肉もしっかり付いていたーー鬼人の多くの男性がいかつい体をしているーーため、男は脇腹の痛みに耐えながらも動きを止めない。


気付けばつかさは人通りの全くない路地裏まで連れてこられていた。

そこでようやく口元を解放される。

その瞬間、つかさは男鬼の手に勢い良く噛み付いた。


「痛っぇえぇえ!!」


男はあまりの痛みに、体を抑えていた方の手が一瞬緩む。


つかさはその瞬間を逃さず男の腕から脱出し距離を取る。

口の中に男の血の味が広がったが、気にせずにそのまま走り出した。

戦わずに済むならそれが1番良いからだ。


しかし背が高い分、男はその脚の長さを利用しつかさとの距離を詰める。

走って逃げ切るのは不可能だと判断したつかさは振り返りざまに顎へ向かって拳を突き出した。


それはクリーンヒットしたが、男にとって多少体をよろけさせる程度の威力だった。

しかしそれを確認したつかさは、畳み掛けるようにパンチを繰り出す。


少し動けない程度に痛めつけてやれば、今度こそ走って伊吹と正之助に合流できるはずだと考えたからだ。


しかし、なかなか男は膝を付かない。

つかさは自らの拳の痛みに眉をひそめ出す。

おかしい、と思ったのだ。

目の前の男は見た目以上に打たれ強いらしかった。


つかさの表情に若干の焦りが見て取れるようになってきた頃、男はつかさによって付けられた傷だらけの顔をニヤリと歪ませた。

反射的に距離を取るつかさ。

そして男が喋り出した。


「なぁ姉ちゃん……、俺が何人殺してきたか知ってるか?」


息を荒くさせながら語りかける目の前の相手を、つかさは蔑むように見る。


「……。どうせ大した人数じゃないんでしょ?」


「はははっ、そうかな、どうだろうな? 全部で32人なんだよ……五十嵐組のやつらはその内の殆どを知らねぇだろうがなぁ……。」


「……っ!」


つかさは思わず息を呑んだ。

男の瞳は暗く淀み、正気を失っているように見えたからだ。

そしてどんどんその息遣いは荒くなる。

つかさは背中に冷や汗が流れるのを感じた。


「なぁ姉ちゃん!! お前はいいなぁ! 殺しは誰だって良いもんだけど、お前は強いし若くて、余計に殺しがいがありそうだぁ!!」


そう言って腰の後ろから短刀を抜いた男は、そのまま勢いよくつかさに短刀を振り翳した。

その軌道を横に避けたつかさは、守られていない顎を狙い再びパンチを入れる。

またも直撃するが、男はゆらりと体を揺らしただけで倒れはしない。

しかしつかさは男がバランスを崩している間に距離を詰め、その大きな体を背負い投げした。


「ぐっ…!」


男が苦しげな声をあげて仰向けに倒れるも、まだ手から短刀を離さない。

つかさは馬乗りになって短刀を握る男の右手を左手で押さえる。

男の自由に動く左手はつかさの右足で押さえられた。

そして上から何度も拳を振り上げる。


だんだん男のうめき声が小さくなってきて、短刀を握る手の力が抜け出した頃。

"そろそろ気を失うだろう"と考えたつかさはふらりと立ち上がり、走り出そうとした。


そう。走り出そうとしたが、出来なかったのだ。


男がつかさの足を掴んだからだ。

バランスを崩したつかさはそのまま地面へ倒れ込む。


「しまった……!」


男は先程まで気絶しかける演技をしていたのだ。

短刀を握る手から力が抜けるように見せたのもフェイクだった。

そして倒れ込んだつかさを男は自身の方へ思い切り引きずり寄せた。

そのままつかさを仰向けにさせると今度は自分が馬乗りになる。


その時、つかさの頭の中で、嫌な記憶が蘇る。


ーー…何でこんなこと……か!ーー


ーー……こらこら、……じゃないか。ーー


ーー……助けて!!……サ!!ーー


「や、やめろ!!」


思わず男に向かって叫ぶつかさ。

その声は僅かに震えている。

男はゲスな笑いを隠さずに短刀を振り上げた。


その時。


ふとつかさは自身の横にある大きな石を見つけた。

ゴツゴツとした、掌よりずっと大きな石だ。

考える時間は要らなかった。


その石を掴んで、男の振り翳してきた短刀を思い切り跳ね除けた。


「なっ…!?」


男の手から短刀が吹っ飛び、路地の奥の方へと落下する。

男がそれを唖然と見つめていた瞬間、つかさは石を両手で掴み男の頭に思い切り叩きつけた。


ゴッーー


という鈍い音が響く。

男は声にならない声をあげ、ゆらりと体が後ろへ倒れていく。

そのままつかさは全体重をのせて再び男の頭へ石を叩きつけた。


グシャリーー


嫌な音が、石の下から聞こえた。

前頭部を石で殴られ、その勢いのまま地面に叩き付けられた男の後頭部からは大量の血が流れていた。

その血は止まることを知らないように流れ続けた。


肩で息をするつかさ。

胃がムカムカとして吐きそうになるのを堪え、男の首へ手を添える。既に、脈拍は消えていた。


「ゔっ……げほっ……おぇ……。」


胃の中のものを吐き出して、しばらく座り込んでいれば少しばかり体は楽になった。

つかさは立ち上がり、自身が精神的に満身創痍であるため死体を置いたまま歩き出す。

隊舎に戻って五十嵐組長にこの事を伝える必要があるからだ。


つかさは何故か、無性に正之助に会いたくなった。





つかさが隊舎へ着けば、この一週間で知り合った鬼の隊員たちが彼女に駆け寄った。


「つかささん? どうしたんですかその格好!?」


「大丈夫ですか!? 行方不明になったって伊吹が言ったましたよ…!?」


「ボロボロじゃないですか…!」


地面へ倒れた時のせいで、借りていた浴衣は土埃でみっともなく汚れていた。

そのうえ顔色も悪いときた。

彼らが心配するのも無理はなかった。

つかさは嘘偽りなく事情を話す。


「鬼を1人……、殺しました。市場へ行く大通りの途中、右側の路地に連れ込まれて……。」


「……な…!? ……と、とにかく五十嵐組長に報告を! つかささんは…一旦着替えましょう…!」


つかさと正之助は五十嵐区では客人扱いになっている。

そのため2人の待遇はとても良いものだった。

しかし今回の件でこれから冷遇されるのでは、とつかさに一抹の不安がよぎる。


今の彼らは焦っているため、いつも通りよく接してくれているが。

つかさが同族を殺した人間だと冷静に考えれば、亀裂が生まれるかもしれない。

つかさはそのせいで正之助にまで迷惑がかかることが心配でならなかった。





着替えたつかさは五十嵐の組長室に来ていた。

そこで事の成り行きと顛末を伝える。


五十嵐は、つかさの予想を裏切って非常に安堵してくれていた。


なぜならつかさを狙った男鬼が、ほぼ間違いなく最近問題となっていた通り魔だったからだ。


「奴は我々が処刑対象として追っていた男だ。我々は君に借りができてしまったということだ。」


穏やかに笑いながら言う五十嵐に、つかさはようやく安堵することが出来た。


「しかしすまなかったな。恐ろしい思いをさせてしまったことだろう。」


「いえ。対人格闘は心得ていましたので。」


つかさは最大限の強がりを発揮して気丈に振る舞う。

しかしながら、その顔色はいまだ優れない。


「伊吹に君が戻って来たと伝達を送ろう。そうすれば、伊吹の探しているマサくんもすぐ戻ってくるはずだ。今は部屋でゆっくりしていると良い。」


「ありがとうございます。」


つかさは頭を軽く下げて礼を言うと、そそくさと組長室を後にした。

部屋に戻ると、とたんに座り込んだつかさ。

つかさにとって人殺しをしたことよりも堪えたことがあった。


それは男鬼に馬乗りになられた時、思い出したくない過去の記憶が蘇った事だ。

今もなお、目を逸らし続けている過去。

それを思い出すことは、つかさにとって何よりも苦しいことだった。


しばらく座り込んだまま呆然としているつかさ。

部屋に着いてから何分そうしていたか分からない。

もしかしたら数時間経っているかもしれない、と思ったその時。


いつかのように、スパァンと小気味よい音を立てて襖が開いた。


「つかさ!!」


正之助が戻ってきたのだ。

彼はつかさに駆け寄ると、強引に肩を掴んで顔を覗き込んだ。


「……!」


「マサ……。」


「話はだいたい伊吹から聞いた。大丈夫か?」


正之助は努めて優しくつかさに問う。


「大丈夫……。だけど……、昔のこと…思い出して……。」


それで全てを察したらしい正之助は、思わず彼女の肩から手を離した。


「そう…か。」


正之助は、まるで触れるのを我慢するかのように自らの腕を掴んだ。


つかさは思った。あぁ、いま彼を傷付けた…と。

つかさは思った。どうしてあの時、前から歩いてくる鬼を右側へ避けてしまったのか。

もしも、左側に避けていれば、路地で戦わずにすんだかもしれないのに。


やはり、つかさの人生は、後悔ばかりでできていた。








ーーそれは11年前、つかさが13歳の時に起きた事件だ。

その日は、うだるように暑い夏の日だった。ーー






つかさと正之助は2人が物心つく頃から同じアパートの隣同士に住んでいた。


つかさは母子家庭、正之助は父子家庭だった。

お互い似たような境遇だったこともあってすぐに仲良くなった。


小学生の頃、同級生の男の子にいじめられているつかさを正之助は何度も助けた。正之助のほうが一つ学年が上ということもあって、いじめはすぐになくなったかのように見えた。


しかしそれはより陰湿に、より気付かれにくいイジメへと変わっていった。


それは正之助のいない教室を狙って行われることが多かった。

例えば給食に鉛筆の削りカスを入れられたり、教科書や宿題のノートを隠されたり。小学生のわりには、バレないよう巧みに仕組まれたイジメだった。


初めこそ我慢していたつかさだったが、とうとう耐えきれなくなりわんわん泣きながら正之助に助けを求めた。

その時の正之助の怒った顔を大人になった今でもつかさは覚えている。


激しい怒りを秘めることもなく、正之助は走り出す。つかさは、待って、と言いながら追いかけた。しかし正之助は止まらない。


いつもだったら、つかさの事を無視なんて絶対にしないのに。

つかさは嫌な予感がして、必死で追いかける。


正之助の行き先はいじめっ子たちがよくサッカーをして遊んでいる公園だった。

少し遅れてつかさがその場所に到着すると、正之助がいじめっ子達に暴力を振るっている所だった。正確には、イジメに関係ない子も含めた5人が既に倒れていた。


そしてイジメを仕切っていた男の子が最後の1人として、正之助の前に立っている。というより、正之助の手によって胸ぐらを捕まれ立たされていると言った方が正しい。男の子はガクガクと震えて怯えていた。


そして正之助が拳を振り下ろす。その瞬間、思わずつかさは目を閉じた。正之助が、別人になってしまう気がして怖かったから。


何度も鈍い音が響き、ついにつかさの体まで震えてきた頃。つかさはようやく正之助に近づき彼を止めようと仲裁に入った。

ーーもちろん、仲裁というにはあまりに一方なケンカではあったが。ーー


つかさが何度も止めてと叫んでも、正之助は止まらなかった。どうにかしなければ正之助が"ヒトゴロシ"になってしまう。そう思ったら、つかさは正之助に抱き着いていた。


「ごめん!!ごめんマサくん!!もう私っ、もう大丈夫だから!!だからヒトゴロシにならないで!!!」


その言葉に、正之助はようやく動きを止めた。


しかし、その日から正之助の素行はたちまち悪くなっていった。小学校高学年の頃には既に側頭部を刈り上げ、年のわりに高身長だったため中学生とも平気で喧嘩をして帰ってきたりした。

それでもつかさとの関係は相変わらず良好な幼馴染のままだった。


だから正之助が近所で有名になるにしたがって、彼女のイジメもなくなっていった。

報復されるのが怖いからだろう。

ついでにつかさにほとんど友達ができなくなったのもそれが原因だった。

当の本人は昔から正之助といる時以外は1人のが楽だったので、特に気にはしなかったが。



事件はつかさが中学2年生の時に起きた。


当時、正之助がつかさとダベるのはもっぱら公園やゲーセンが主で、家に呼ぶことはほとんどなかった。

彼と父親にの間に確執があったからだ。実際に「親父とは会うな」と強く忠告されたこともある。だから、つかさは正之助が自分を父親に合わせたくないことを理解していたつもりだった。


しかし。

その日は、学校のプリントを正之助の家に届けなければならなかった。家を訪ねるのはまずいだろうから、アパートの下で正之助の帰りを待っていた。


それが良くなかったのだ。つかさが手持ち無沙汰で待っていると、仕事から帰宅した彼の父親と鉢合わせてしまった。


「つかさちゃん?」


名前を呼ばれてハッとするつかさ。たいしてちゃんと会ったこともないのに、しっかり顔を覚えられていたようだ。

そしてズカズカと目の前まで近づいてきた。正之助の父親の影が、つかさに覆いかぶさる。普通の大人と話す時よりだいぶ近い距離感に戸惑いながらも、彼女は挨拶をした。


「…あ、どうも。」


「どうしたんだい? こんなところで。」


一見、人好きのする笑顔を浮かべてたずねる父親。しかしその距離感のせいか、どこか不気味にも見える。

正之助と似てないな、と頭の端で思った。


「…あの、マサにプリント渡しにきて…。」


少し後退り、鞄を抱きしめながら言うつかさ。


「あぁ、またサボったのか。まったくアイツは。」


その言葉と同時に、父親の顔がひどく歪んだのをつかさは見逃さなかった。しかし次の瞬間、彼はまた不気味な笑みを浮かべてつかさを見る。


「……有難うつかさちゃん。行こうか。」


「は、はい。」


アパートの階段を登りながら、正之助のお父さんてこんな感じだったっけ。とつかさは思った。その戸惑いをどうにか抑えながら、プリントだけ渡してすぐ帰ろうと考える。

が、その考えを見透かしたように父親は言う。


「良かったら家に上がっていって。」


もう、アパートの一室の目の前まで来ていた。


「え。あ、いえ。プリントだけ渡します。親が待っているので。」


この時、既につかさの頭の中で警鐘が鳴っていた。そして親が待っていると嘘を吐いてでもここから早く逃げるべきだと判断した。


「そう言わないで。お茶飲んでくだけだから。ね?」


しかし、またしてもつかさの考えを読んでいるかのように父親はつかさの腕をグッと掴んだ。


「え、い、いえ。大丈夫です! 私は……っ!?」


言い終わるより先に、つかさは正之助の家の玄関へ引きずり込まれた。


「やっ! ちょっ、……離して下さい!!」


腕を振り払おうとしても大人の男性の力に敵うはずもない。

つかさは靴を履いたまま、あっけなく家のフローリングに叩きつけられた。


「きゃ!」


自分が倒れた音がやたらと大きく聞こえる。恐怖で心拍数が急激に上がるのを感じた。倒れた時に擦りむいたらしい膝小僧がズキズキとする。


つかさは本能的に後ろへ後ずさった。倒れた体勢のまま。靴が片方脱げ落ちるのも構わず部屋の奥へと逃げる。奥と言ってもそんなに広いアパートではないので、すぐそこに玄関が見える。

このアパートは、玄関を入ってすぐキッチンとダイニングがある。

その奥に和室の寝室。

隣同士の部屋だから、自分の家と間取りは変わらない。

それでも我が家ではない匂いが更につかさを不安にさせた。

かすかに正之助の匂いもしなくはない。


でもここに正之助はいない。

いたらすぐさま私の声を察知して助けに来てくれる。


つかさは絶望的な状況に冷や汗が流れた。

目の前に立ちはだかるこの男さえいなければ、玄関から逃げ出せるのに。

震え出した体を隠すように、つかさは大きな声で威嚇する


「何のつもりですか!? こんなことして、どうなるかっーー」


言い終わるより先に、正之助の父親はズイと距離を縮め、つかさの口を塞いだ。


「ーーんぐっ。んー!んー!」


「こらこら、大きな声を出しちゃダメじゃないか。ご近所さんの迷惑になってしまうよ?」


恐怖と、嫌悪と、困惑。それらがごちゃまぜになり、つかさは息が荒くなる。


「…ふー、ふー、ふー!」


口を手で押さえられているので、鼻から呼吸するしかない。その音はまるで威嚇する子猫のようだ。それが男をより喜ばせた。


そんな事を知らずにつかさは距離をとって逃げようともがく。

しかし男は片手でつかさの体をギュッと抱きしめるように抱えると、彼女の体を持ち上げて隣の部屋に敷かれたままの布団へ放り投げた。

つかさはその間も口を押さえられている。

そして男はそのままつかさに馬乗りした。


「んー!!んー!!」


なんとか抵抗しようと手足をバタつかせる。しかし上に乗られてしまってはそんな事は意味をなさない。

男はつかさの口元を押さえていないもう片方の手で、彼女の体を触り始めた。


「…ひっ!…んんんー!!」


その手つきにつかさは吐き気を催す。男はついにセーラー服の下へと手を入れた。

つかさの瞳から涙がこぼれ落ちる。


どうしてこんなことに。そもそも、あんな場所でマサを待たなければ…。いつもの公園で待っていたなら…。


そんな考えが過ぎるが、それは一瞬にしてかき消された。

自分の太腿に違和感を感じたからだ。

何かがそこに押し付けられていた。

ただただ、焦りと恐怖が増していく。


「んー!!!んー!!!」


悲鳴をあげようにも、くぐもった声しか出ない。涙が止まらない。

その時だった。


ガチャン!!


玄関の扉が開く大きな音がし、そちらを見る。

襖と襖の間から、正之助が焦りを含んだ顔でこちらを見ているのが分かった。

つかさは顔を勢いよく背けて口を塞ぐ手から逃れる。そして大きく叫んだ。


「ぷはっ! 助けて!! マサ!!」


正之助はその声にスッと顔色を変えた。

先ほどまでの焦った顔とは打って変わって、無表情だ。彼はゆっくりと靴を脱ぐと、そのまま玄関のすぐ隣にあるキッチンから流れるような動きで包丁を手にした。


「え……?」


「お、おい、待て。正之助。違うんだこれは……!!

 これはこの女の方が誘惑してき……ーー」


2人の戸惑った声を無視して正之助は父親へ近づく。

目の前までくると、一気に包丁を振りかぶり、一瞬にして父親の腹へとそれを沈めた。


「ーーギャッ!!!」


「お前、もう喋んな。」


父親の叫び声が響く中、正之助の冷たい声だけがやけに響いた気がした。


正之助は倒れた父親に何度も何度も包丁を突き刺す。悲痛な叫び声は次第に小さくなり、いつしか父親だったものから物言わぬ肉塊へと変わった。


その光景を、つかさは呆然と見つめる。

止めなければ、と思う反面、体は脱力し思うように動かなかった。


そうして呆然としているうちに、正之助はつかさを置いてフラリとどこかへ行ってしまった。

つかさが探し回って夜中になったころで、ようやくいつもの公園で彼を見つけた。


ブランコにダラリと腰掛けるその姿は、血で赤黒く染まっている。家を出ていく前よりも。拳の皮膚はめくれ、血で濡れていた。

誰かを殴ってきたのは明白だ。

それでもつかさは聞かずにはいられなかった。


「何があったの…。」


そう言いながら近づいて彼の目の前にしゃがみ込み、その拳に努めて優しく触れた。


「1人半殺しにしてきた。」


「なんで…。」


「……。」


何も答えない正之助に、つかさも沈黙を続けるしかなった。


「……。これからどうすっか……。」


沈黙を破った正之助を見れば、輝きを失った瞳がボーッと地面を見つめている。


「ごめん。私のせいで。」


つかさは震える声で呟くしか無かった。


「お前のせいじゃねぇだろ。どう考えても、あのクズ野郎が悪りぃ。前からあのクズはそういうキメェ趣味だったんだわ。」


「……そう、だったんだ。」


「お前に言っとくべきだった。俺が間違えた。」


再び2人の間に沈黙が訪れる。

お互いに考えていることは同じことだろうと感じた。

一緒に逃げるのか、正之助1人で逃げるのか、自首するのか。


「……。お前と離れたくねぇなぁ。」


ポツリと呟いた正之助の言葉に、つかさの涙腺は緩んでグズグズになる。わんわん泣いた。自分も離れたくないと。

ブランコに座る正之助の足の間にしゃがみ込み、その足に縋り付く。正之助はゆったりとした手つきでつかさの髪を撫でた。  




その次の日、正之助はつかさと一緒に警察へ行った。

夜が明けるまで、2人は公園のベンチで寄り添って過ごした。

警察署に着いても、2人は離れるまで握られた手を離すことはなかった。




ーーあぁ、ついに。私のせいで彼が人殺しになってしまった。

小学生の頃に思ったことが現実になってしまった。

どうして私はこんなに弱いのか。ーー


そうやって、つかさは自分を責めた。

自分が弱いせいで、いつも正之助が力を行使するしかなくなるのだから。


そもそも小学生の頃、つかさが正之助を頼ったことをきっかけに彼は不良へと身を落としていった。

あの時、自分がいじめられないような子供だったなら…。

あの時、自分1人でいじめに立ち向かえる強さがあったなら…。

今日、アパートの前なんかで待ってさえいなければ…。




11年前から、つかさの人生は、後悔ばかりでできている。




あの事件があってから、つかさは正之助の隣にいる事に引け目を感じてしまうようになった。つかさと居れば正之助は嫌でも思い出すだろう。自分や、自分の父親がしたことを。


つかさは、そうやって"遠回しに正之助を傷付け続けている"と思っている。

だから、つかさは正之助に好意を抱いてはいても、それを打ち明けられないでいた。


11年経った今でも。


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