序章 「こういう人生は望んでなかったよ、多分」
もし、自分が『自分』じゃなかったら、僕はどんな人生を歩めただろう。
元々疲れ切っていた上に、事故で頭を強く打ったせいか、酷く意識が朦朧とする中で、僕は割と冷静にそんな事を考えていた。
いや、少しだけ、やっとこんなどうしようもない人生が終わるのだと、すっきりした開放感を感じていた。
もうこれで、終わりなんだ。
どれ程頑張っても、何一つ得られない人生が、やっと終わるんだ。
努力したら何かが返ってくることもない、むしろ何一つ手元には残らない。必死に頑張って、昼も夜もなく、楽しいと感じることなどなくても、ただひたすら頑張って……。
「当然でしょ」
いつか、僕を見てくれたらいいと願っていたのだが。
死の間際になって、僕はあの人が僕の死を決して悲しむことはないと思った。
……自分でも分かっていた。僕の価値など、何もないって。
結局、家だけではなく外でも僕は何の価値もなかった。
雨の中、僕を轢いた車は戻って来る様子も、救急車が来る様子もない。
熱を持った体に当たる雨が僕から余分に熱を奪っていくし、流れる水がどんどん血も流していく。
もう、このままでいい。
このまま、終わりたい。
不幸な人生が終わるなら、もう何だっていい。
徐々に眠たいような気分になってきた。本格的に死に向かっていることを感じている中で、僕は不意に笑ってしまった。
次の人生は、誰もがうらやむお金持ちがいいだろうか?
世界を動かす天才とかもいいな。
僕の気持ちはどうしようもなかった今の人生の回顧から、次の人生への期待に移っていった。
それとも、女性が離れることもない美青年?
いや、もうどうせならファンタジー的な騎士や魔法使いもいいな……。
でも、結局、意識の消えゆく最後に選んだのは、
「次は、誰かから愛され、必要とされる人間になりたいな……」
と、思ってしまったことを、僕はその後に死ぬほど後悔することになる。
始まりは、闇だった。
何の始まりかは分からなかったが、真っ暗闇でも温かく穏やかな場所で、もう一度眠りにつこうとしたのだが、ある声が呼びかけてきた。
「さぁ、新しい朝だ。起きないと」
朝が来たのか。
なら、起きるしかないな。
その朝は、『俺』の新しい人生が始まった瞬間であった。
目を開けてすぐ、何が起きたのか理解できずに俺は硬直した。
かつてなくすっきりした気分と頭で目覚めていたので、まだ夢の中とかそういうことはあり得ないと思う。
ただ、いわゆる天蓋付きベッドなんて物を見たこと自体初めてだったし、ましてそれに自分が寝ているなんて状況を想像したこともなかったので、非常に驚きすぎて声も出てこなかった。
……どういうこと?
どきどきしながら周囲を見渡すと、もっと想像の範疇を逸脱した部屋であることに気がついてしまった。
この部屋は、自分が暮らしているワンルームの部屋よりも明らかに広かった。
行き来するだけの通路分を確保しても、今寝ているベッドが6つくらい置けそうな広さがあると思った。
こんな広すぎる部屋にベッドとサイドテーブルだけなんて、普通なら寂しい感じになりそうだが、この部屋はとてもそういう雰囲気はなかった。
掃除の行き届いた綺麗な部屋は、クリーム色の薄い素材で出来たカーテンを通し、適度に入ってくる柔らかい光で明るかった。しかも、仄かに優しい香りで部屋中包まれている。
自然ながらも気遣いと思いやりがそこかしこに溢れ、ここはとても気持ちのいい寝室であった。
……どういうこと?
部屋のことが分かっても、何で自分がここにいるのかは結局分からない。それどころか、そんな立派な部屋に何故自分がいるのか、余計に分からなくなってくる。
寝たままもう一度周囲を見渡すと、ベッドサイドのテーブルには、ガラス製の水差しが置かれていることに気がついた。
物珍しさから更によく見ると、中には水と氷の他に薄くスライスされたフルーツが浮かび、窓から差し込む光で全体がキラキラ輝いていた。
……ここは、どこの国でございましょうか?
少なくとも日本でベッドサイドに水差しを用意する文化があったなんて聞いたことがないのだが。
とは言え、やけにオシャレな水が入った水差しは置かれている訳で。
半身を起こして水差しに手を伸ばすと、氷が小さくカランと音を立てた。
結露の水でテーブルを濡らさないように配慮したか、下に受け皿が置かれているものの、見たところ皿はあまりぬれてはいなかった。水差しの表面自体にも結露はほとんどなく、どうやらこの水差しが置かれてからあまり時間が経っていないようであった。
とりあえず、自分の目覚める前に誰か来たっぽいってことか?
そう言えば、誰かに呼びかけられて起きたから、その人が水差しを置いたのだろうか?
俺は首を傾げた。
何もかもがよく分からない。
ついでにこの水を飲んでいいのかも分からない。
頭も意識もはっきりしている割に、すっきりした状況とはとても思えない状況なので、気分的には冷たい物を飲んで体だけでもすっきりしたかった。
しばらく思い悩んだが、
「枕元に置いてあるのだからな……いいよな?」
実はこの時、自分の声に少し違和感を覚えたものの、今の訳の分からない状況に内心相当動揺していたので、大して気にはならなかった。
水差しの隣には、やはり見たこともない美しいカッティングの施されたグラスが置かれていた。
明らかに今までの人生では無縁だった高級なグラス使うことには、思わず躊躇したものの、他に代わりになりそうな物はなく、意を決してグラスに水を注いだ。微かに柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
水はそりゃあ前々から当たり前に飲んでいたけれど……こんなフルーツまで入った水ってなんだよ。それに、グラスのおかげか、水がやたら光っていて特別感出してるし……。
細かいことがいちいち気になる性格なので、やたら立派な水を飲むこともかなり戸惑ったが、結局、恐る恐る口をつけた。
とりあえず一口水を含む程度にするつもりだったが、柑橘系の爽やかな酸味と僅かに甘みのある冷たい水が舌に触れたら、あっという間にグラスの水を飲み干した。そして、そのまま2杯目、3杯目と一気に飲み干して、自分がとても喉が渇いていたことを知った。
こうしたことは初めてで、自分でも驚いた。
何だか自分がおかしいような。
具体的にどうおかしいかは分からないのだが……敢えて言うなら今までと勝手が違うような?
大体、俺は事故ったんじゃなかったっけ?
冷たい水を補給したことで、少し脳が落ち着いたらしく、俺はようやくそもそもの自分の前提を思い出した。
自分は事故に遭った。しかも、死んだ筈。
手の中のグラスをじっと見つめる。
死んだ後、喉が渇くってあるんだろうか?
ますます状況が分からなくなって、本当に困惑していた。
不意に視界の隅で、ふわりとカーテンが揺れた。すると同時に、外から心地の良い香りを伴う風が入ってきた。
カーテンで見えなかったが、どうやら窓は開いているようだ。
多分、この部屋で寝ているままでは何も分からない。
寝過ぎなのか少し重い体でベッドから起き上がり窓に向かって歩き出すと、ガシャンと大きな音がした。
見ると、足下に大きな緑色の宝石が一粒はめ込まれた変わった装丁のノートが落ちていた。
何だろうと、反射的に拾うと、
『じゃあ、これから頑張れよ。何かあったら、ノートを見るといい』
どこからか声がした。
慌てて周囲を見回したのだが、部屋には自分以外誰もいなかった。
……どういうこと?
もう、何の疑問も解消されないまま、次から次に疑問と困惑だけが積み重なっていくので、何だか一周回ってどうでも良くなってきた。
ここまで来たら、もう何が起こっていても驚かないぞ。
小さなノートだったので、手に持ったまま揺れるカーテンを押しのけ、部屋の外へ踏み出した。
部屋に入ってくるより強い香気にまず驚いた。
中庭らしいそこは、一面白やピンク、赤と言った花々が咲き誇っていた。
テラスの端まで行って近づくと、色は違えど皆同じ種類の花だと言うことが分かった。
花の種類に詳しいわけではないので、何の花かは分かるわけがない。ただ、見渡す限り同じ種類の花で埋め尽くすなんて、花好きな人でも普通ここまでやるとは思えない。
「……アルゼリオ様?」
消え入りそうな小さな声が聞こえた。
振り向くと、花々の生け垣の奥に少女が立っていた。
何か信じられないものを見るような目で、呆然としていた。
君は?と、問いかける前に、もう一人の声がした。
「え、嘘? ……ほんとにアルゼリオ様?」
違う方向からした声の方を見ると、別の女性がいた。
こちらも信じられないものを見るような目をしていたが、若干潤んでいるようだった。
「アルゼリオ様! 良かった、目覚められたんですね!」
また別の方向からも、女性の声が。
こちらはもう泣き出していた。
……んんんん?
どういうこととか、どうなっているんだとか、そんなことなど口に出来ない、何かちょっと異様なことになってきたような。
「アルゼリオ様?」
「アルゼリオ様ぁ……」
「……アルゼリオ様!」
増え続ける声は女性が多かったが、男性の声もちらほら聞こえた。
他に「良かった」だの、「心配していた」だの口々に言っていたが、とりあえず……自分が『アルゼリオ』って呼ばれていることに気がついた。
「アルゼリオ様! 私達はきっと目覚めてくれるって信じてました!」
そう言った女性の、強い信頼と憧憬のこもった目。
唐突に合点がいった。
頑張れよって……。
あの声の主こそが、本物の『アルゼリオ』なんだろう。
曖昧な記憶しかないのだが、目覚めろと呼びかけてきた声も、多分『アルゼリオ』だ。
『アルゼリオ』がどういうつもりだったのか、俺には分かりようもないが、俺に唯一分かることと言えば、俺はどうやら『アルゼリオ』として転生したらしい……。
異世界転生は漫画や小説で読んだ事はあるが、俺は少なくとも自分がその身になりたいなんて思ったことはないんだが。
どうやってもイージーモードにならない自分の人生は、新しい自分になっても継続中な気がした、異世界一日目であった。




