4.クライココロ
少し肌寒い春も、うだるような暑い夏も、夏の名残りを惜しむ秋も。
どこか遠くへ行ってしまった、寒い冬。
季節を代表する雪が降る訳でもなく、乾燥した冷たい風だけが吹き付ける寒気の時期は、わたしを――
ううん、わたしたちに加減を覚えることはなかった。
「ごほっ……ごほっ……」
「咲良さん。無理して起きようとしないで、寝て下さい。ンン……。私は大丈夫ですから」
枯れ葉の一枚すら残されていない桜の木。
それが見える101号室で、風邪をこじらせたわたしと栄一さんは、診療所でまとめて看病を受けていた。
栄一さんは手術のための禁煙で、何の気なしに過ごしていたら、風邪をこじらせてしまったらしい。
わたしもわたしで、少し前に倒れてから体調が優れなくて、結果として風邪に撒けてしまった。
同じ部屋なのは、わたしの我がまま。
だけど同じ部屋の方が楽だと言って、お父さんも許可を出してくれた。
「……むぅ。さくらさん?」
「……こころさん。お互い風邪なんですから、細かい所は気にしないで下さい」
ベッドに埋もれるわたしは、冷却ジェルシートを貼っても一向に熱が治まらない頭でも、隣から聞こえてくる栄一さんの言葉に敏感に反応してしまう。
起きているのがやっとで、栄一さんの言う通り、細かいことを気にしている余裕なんてないのに。
「だって……。えーいちさん、すぐ元に戻るんだもん」
「ゴホッ……勘弁して下さい」
パラパラと紙をめくる音を立てながら、栄一さんはわたしの話に相槌を打ってくる。
チラッと視線を向けてみると、栄一さんが持っていたのは一冊の本。
黙々と読み進めている栄一さんを、なぜかわたしはジッと見つめてしまう。
「ゴホッゴホッ……。――ああ、これは花の本ですよ。以前桜居さんが話していた花言葉が気になってしまって、つい買ってしまいました」
「図鑑ですか?」
「ええ、まあそうですね」
わたしが見ているのに気が付いたのか、そっとわたしに向けてはにかんでくる栄一さん。
トクンと熱が少し上がる感覚を覚えたわたしは、彼の顔じゃなくて本の表紙へと視線を移す。
花言葉。
前に知秋ちゃんがコスモスのそれを教えてくれたけど、全部は教えてくれなかった。
栄一さんなら教えてくれるかなと、淡い期待を抱いて声をかける。
「どんな……ごほっ、ごほっ。どんなお花が載ってるんですか?」
「そうですね。薔薇とか牡丹とか、カモミール何て言うのもありますね。ああ、桜もあります」
てきとうに目についたものを挙げる栄一さん。
バラは分かるし、ボタンも何となくだけど分かる。
カモミールはなんだっけ……。
桜は思い描くまでもなく、顔を反対側に向ければ花は咲いていなくても、堂々とした姿を見せている。
でも前のことを覚えていないのか、コスモスの花言葉を教えてくれる気配はない。
「好きな……ごほっ……。えーいちさんの、好きなお花。ごほっ……ありました……?」
「無理して話さなくても良いですよ、こころさん」
そんなことを言われても、好奇心が勝って自然と声が出てしまう。
そう言いたい、言いたいけれど。
ここは我慢してシーツを口元にまで上げて、口をキュッっと結ぶ。
「私が好き、というよりかはこころさんに送ってみたい物は幾つか。黒いチューリップとか、んんっ……黒いコスモス――チョコレートコスモスという物があるらしいです」
「わたし、黒とか青とか……。あんまり好きじゃないです」
栄一さんが選んだ花は、どれもこれも暗い色のお花ばかり。
わたしは黒と言ったらアレを思い出すから嫌なのに、彼はそれがいいみたい。
何度も何度も経験したあの暗い場所と、同じ色。
あの場所に行くたびに、お母さんもお父さんも、そして知秋ちゃんも。
みんなが暗い顔になってしまうから。
だから暗い色合いは、全部嫌い。
「私は好きですよ、黒。例えばですが、こころさんや貴女のお母さんの髪のように、綺麗で艶のある黒髪を、"烏の濡れ羽色"と言うんですよ。何かカッコイイじゃないですか」
「……よくわかんないです」
「こころさんの目も黒瑪瑙みたいで、いつ見ても飽きないです」
栄一さんが病気なのに生き生きと目を輝かせ始めるけれど、反対にわたしはモヤモヤとしたものが心を覆ってくる。
なんでだろう、どうしてだろう。
心のもやは晴れないけれど、分かったことは一つだけある。
「えーいちさん。楽しいことでもあったんですか……?」
「あっ、あー……。すみません。そう、ですね。この歳になって、ようやく本の良さが分かったと言ったところでしょうか」
栄一さんは漠然とした物言いをしたけれど、わたしは知っている。
秋が深まってきた、ある日から。
以前よりも診療所に顔を出す頻度が高まり、その影響なのか待合室の本を熱心に読んでいたことを。
待合室にある本のだいたいが、お母さんや看護師さんたちの趣味で埋め尽くされている。
わたしが面白いと思える物もあれば、そうでない物まで何でも。
「こころさんはやっぱり、ピンクとか赤とかの色が好きなんですか?」
こくりと、わたしは小さく頷く。
やっぱりって言い方に引っかかりを覚えるけれど。
白とか赤とか、とにかく明るい色は大好きなので否定はしない。
「私は嫌いでは無いのですが、少し抵抗がありますね。――特に赤が。駄目なんですよ、私。その……血がですね」
「それは、わたしも……ごほっごほっ。わたしもきらい」
恥ずかし気に血が苦手であると告白する栄一さん。
そう言われると、わたしの中で赤色のイメージが悪くなってしまう。
「なら、えーいちさんが好きなもの、なんですか」
「好きな色ではなく、ものですか。……んんっ。そうですね」
栄一さんは思い悩む仕草をしつつも、すぐに思い当たる節があったのか、視線を窓の外へと向ける。
その先にあるのは、温もりの足りない白いお日さまと、花も葉っぱもつけていない桜の木。
何度も見てきた代わり映えしない、冬の景色。
春もまだまだ先で、見ごたえのある物は無いはずなのに、栄一さんの瞳はなにかを映している。
「えーいちさん……?」
「ここの光景は、いつ見ても好きですね」
「光景ですか。あの桜、そんなに好きなんですね」
「……ゴホッ。そうですね。サクラも好きです」
桜も好きということは、別の何かが栄一さんには見えているのだろう。
熱で回らないわたしの頭はそれ以上のことは考えられず、彼の言葉は右から左へと通り抜けていく。
「――……こころさん。私の事は気にしなくて良いですから。もう寝ましょう。これ以上は体に障ります」
「……でも」
「大丈夫です。……ゴホッゴホッ。私は、どこにも行きません」
開いていた本を閉じ、微笑みかけてくれる栄一さんの言葉に、いつにも増して不安感が押し寄せてくる。
なにが原因で心がドクンドクンと動いているのか、もう分からない。
本当にどこにも行かないの?
本当の、本当に?
わたしがこのまま目をつぶって、またあの暗い世界に行っても。
また会えますよね。
「何処かへ行ったとしても、必ず戻ってきます」
目の前が真っ暗になり、どこまでも落ち続ける感覚が体を包む。
最後に聞こえた栄一さんの声は遠く、心にまで届かない。
その日から数日後。
栄一さんは風邪が治り体調が落ち着いたら手術をすると、それだけを言い残して診療所へは顔を出さなくなった。