3.アマイココロ
暑さ満点の夏が過ぎて、暦の上ではもう秋の季節。
まだまだ夏の暑さは冷め切らず。
かと言って、涼しくない日が無い訳ではない。
暑かったり涼しかったりの繰り返しで、ニュースでは気温の変化で体調不良を訴える人がいっぱいいるらしい。
その内の一人が、今わたしの目の前にいる。
わたしやお父さんの再三の注意を軽く見て、お昼と夜の気温差にやられた29歳と28カ月の男性が。
「栄一さんはもっと自分を大切にしてください。お父さんも呆れてましたよ」
「面目ない。咲良先生にも似たような事を言われました」
パイプ椅子に座っているわたしは栄一さんに注意をするけど、体調不良になった当の本人は、病室のベッドの上で申し訳なさそうに苦笑いをするばかり。
初めて会った時より生きているって感じはするし、実際に目の下にあった隈は消えている。
なのにここ最近、元気が無いというかぼーっとしているというか。
声をかけても反応が鈍いときが多い。
今も栄一さんはわたしと話をしているのに、ふわふわ視線が浮いている時がある。
そんな態度を取る栄一さんを見ていると、ほんの少しだけ心にチクリと痛みが走る。
「栄一さん、聞いているんですか。わたしの話をちゃんと――」
「禁煙頑張ってるらしいし、少しは大目に見てあげたら? ここちゃん」
「ふぅぇ……!? 知秋さん? 何か知ってるんですか」
心に広がるチクチクとした痛みは、次第に熱い苛立ちに変わっていく。
もうこれ以上は我慢できないと爆発しかけたところで、わたしの頭の上にポンと誰かが乗りかかってきた。
驚いて上を見上げると、そこにいたのは茶髪をお団子ヘアにした女の子。
わたしよりもちょっと年上で、この場の誰よりも元気に満ちた茶色い瞳からは、見ているだけでも元気をもらえる気がする。
わたしの頭を両腕で押さえて乗っかっている彼女は、片手に花束を持っていて、たぶんお見舞いの品だと思う。
桜居千秋ちゃん。
私とは対照的に小麦色の肌をした、唯一の昔からのお友達。
「あの……そのわたしの頭に乗っかる癖、いい加減治してくれませんか?」
「んー、何か座ってる時のここちゃんって、丁度良い高さに頭が来るんだよね。だからつい」
「わたしの身長が伸びにくいの、やっぱり知秋ちゃんのせいですよね、これ」
身長の伸びが悪いのを知秋ちゃんのせいと疑いつつ、わたしは彼女が持っている花束の中身が気になっていた。
たった六本の黄色いコスモスを包装した花束。
部屋に飾るにはやけに少なく、華やかさが足りない気がする。
「……なんか、知秋ちゃんにしては少ないですね。いつもというか、わたしの時は抱えきれないくらいの花束を持ってきましたよね」
「あれは先生たちに怒られたし。今回はそういうつもりで持ってきた訳じゃないし」
「そうなんですか?」
「あっ、お見舞いなのは合ってるよ」
いまいち話が見えないわたしが首を傾げると、それに合わせて知秋ちゃんも体を傾ける。
「もしかして花言葉って奴かな。本で見たことあるよ」
「そうそう、それそれ。松永さん正解。……まあ、他にもあるんだけどね」
「花言葉……」
家がお花屋さんだけあって、知秋ちゃんは花が絡むことなら色んなことを知っている。
聞くとコスモスは、調和――色んな物のバランスが取れていることも意味するらしい。
"も"って言ってたので他の意味を聞こうとしたら、全部は覚えてないとはぐらかされてしまった。
「じゃあコスモス。ここちゃんが松永さんに渡してあげて」
「なら早くどいてください。花びんを持ってきますから」
「おおっと。ごめんごめん。それじゃあよろしくねぇー!」
からからと笑いながら、やっとのことでわたしの頭の上から離れてくれた知秋ちゃん。
六本しかないコスモスに合う花びんを探しにわたしが席を外すと、知秋ちゃんの言っていた花言葉を調べていたのか、スマートフォンを操作していた栄一さんが咳き込んでしまう。
「ぶっ……! ゴホッゴホッ……。ちょっと桜居さん!? 冗談にしてはキツ過ぎますよ」
「おいおい松永さん。女子中学生のちょっとしたお遊びだと思って、華麗にスルーするのが大人の余裕ってものでしょう」
「さっき、全部の花言葉は覚えていないって言ってませんでした?」
「全部は覚えてないですよー。全部は」
わたしが座っていた物以外にも椅子は用意されているのに、知秋ちゃんはわざわざ栄一さんのベッドへ腰かける。
パタパタと足を宙に浮かせて彼を笑う知秋ちゃんを、栄一さんは苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。
「それはさておき。禁煙頑張り中の松永さんに一つ。ここちゃんを気遣うなら、親友として言っておくことがあります」
「自分で親友って言っちゃうんですね」
「アタシが親友じゃなかったら、親友のハードル高すぎない!?」
「それで、いったい何ですか?」
出鼻をくじかれた知秋ちゃんだけど、その表情はいつになく真剣で。
一緒に笑っていた栄一さんも、自然と余裕のない顔つきに変わっていく。
「倒れた理由。ここちゃんには、ちゃんと自分から言った方がいいですよ。アタシはメンドウだったから、先生に聞いちゃいましたけど」
「それはまあ、私の体調が落ち着いたら、話すつもりだったんですが」
「ホントに? あれだけ吸ってた煙草を突然止めた理由も言ってないのに」
「言うタイミングが、無くてですね……」
段々と。
栄一さんを見る知秋ちゃんの視線が鋭くなるにつれて、彼の呼吸が浅くなっていく。
右手で胸を押さえ、まるで息を吸えないかのように。
必死に酸素を求めて、わずかな呼吸を何度も何度も――
「……ああもう! ヤメッヤメッ! 辛気臭いの無し無し!」
陰鬱な空気に耐え切れなくなった知秋ちゃんが、ベッドから飛び降りた。
重い雰囲気を蹴散らすためにわざとらしく騒ぎ立てる彼女は、ぐしゃぐしゃと頭をかいて息を切らせる。
「とーにーかーく! 松永さんはキッチリここちゃんと話すこと! でないと、小六の女の子からベッタベタに懐かれてますって、診療所のお客さんに言い触らすよ」
「あの、下手すれば社会的に抹殺されそうな事しないで欲しいな。最悪咲良先生に顔向け出来なくなる」
今度は別の意味で汗をかき始める栄一さん。
けれど引きつった笑顔からは嫌な感じが消えて、乱れていた呼吸も収まりを見せ始める。
「んで。なんで松永さんは、ここちゃんを名前で呼ばないの?」
「ぶっ……! ゴホッゲホッゴッ……!」
ふいに、これまでに無いくらい真剣な眼差しで話題を変える知秋ちゃんに、栄一さんは再びの呼吸困難に陥る。
「……げほっごほっ。な、何でって。逆に何でですか」
「いや、何ていうか距離感が妙というか。松永さん、ここちゃんから変に距離を開けてる感じするんだよね」
「変、ですか。私としては普通にしているつもりなのですが」
うまく言葉にできない感覚に首を傾げる知秋ちゃん。
また変なことを言い出したなって顔で彼女を見る栄一さんは、心なしか視線が泳いでいた。
「普通、普通ね。なら名前呼びを普通にしちゃおう。ということで、試しに呼んでみよう!」
「何がどうしてそうなるんですか。……はあ、もう。言わないと納得しませんよね」
「そうだね、たぶん」
自分の感覚のことなのに曖昧な返事をする知秋ちゃんに、栄一さんは深いため息をつく。
ワクワクとその時を待つ知秋ちゃんは、まるでショーが始まる前の子どもみたいだった。
「――こころさん」
淡い色彩の花が散り、覆い茂っていた新緑の葉っぱも色味を変えた桜の木。
窓際から見える一本の木に視線を移した栄一さんは、ポツリと言葉をこぼす。
並ぶお日さまと一緒に、そこにいるはずの誰かへ向けて。
「……ん? えっ、まさかもう言った!? ちょっともう一回! アンコール!」
「桜居さん。ここ診療所なのは知ってますよね。そろそろ静かにしないと怒られますよ」
「あっ、はい。ごめんなさい……」
栄一さんの一言で、シュンと膝を抱えて縮こまる知秋ちゃん。
やれやれと栄一さんは今まで起こしていた体をベッドに横たわらせ、芯の通った瞳で天井を見上げる。
「でもまあ、確かに。手術をするって咲良さんに言い難いのは、認めます。煙草もそのために禁煙中で――」
「手術……? 栄一さんが……?」
ちょうど花びんを見つけてコスモスと一緒に持ってきたわたしは、たったの一言でその場に固まってしまう。
栄一さんの声が、言葉が。
穏やかに動いていた心を揺さぶって、全身の血の気が引いていく。
両手で抱えていた花びんが床に落ち、ガシャンと割れて水と一緒に黄色のコスモスがバラバラになるけれど、そんなことすらどうでも良くなる。
「ここちゃん、まさか聞いちゃ……てるよね」
「咲良さん落ち着いてっ……! 手術と言っても、すぐ、にはっ……」
音に驚いて振り向いた二人は、緩んでいた空気を一変させる。
慌てふためく知秋ちゃんに、急に起き上がったかと思うと胸を押さえて苦しみ始める栄一さん。
そんな二人を前にして、わたしは胸に広がる痛みと、全身を駆け抜ける寒気に立っていることもやっとで。
遠のいていく知秋ちゃんの声、ぼやけていく二人の姿。
息ができているのかすら分からなくなり、暗くなる世界に残ったのはたった一つ。
ドクンドクンって。
他の誰でもないわたしのココロが、イタイイタイって泣いている音。
もう、それしか聞こえない。