2.アツイココロ
桜が散って、お日さまがわたしたちの真上に来る夏になりました。
過労で倒れた栄一さんは無事に退院できたけれど、不思議なことに何度も何度も診療所で顔を合わせる。
今日も今日とて。
新しいお仕事でお休みをもらったって言ってたのに、朝早くから"おはようございます"って、上機嫌に診療所の手伝いのために現れた。
手伝いと言っても、待合室にいる暇を持て余した患者さんたちのお相手をしている。
そんな栄一さんだけど、夏なのに水を飲んでいるところをあまり見たことが無い。
今朝もそうだった。
冷房の効いている診療所に入ったのに、外を歩いてきたせいでいっぱい汗をかいていた。
お父さんも気をつけてって言ってたのに、栄一さんは聞く耳を持ってくれない。
だから診療所のお昼休みになった今。
わたしは栄一さんに直接会って、ちゃんと水分補給をするようにって注意するため、2リットルのミネラルウォーターを抱えて診療所の中を探し回っている。
「ぅん……?」
今は誰も入院していない病室を一つ一つ見て回っても、栄一さんの姿は影も形もなかった。
お父さんがよくいる診察室にもいなくて、診療所のみんなが使う休憩室にもいなかった。
だったらどこにいるんだろうと、首を傾げてハテナマークを出しながら通路を歩いていると、ある病室から声が聞こえてきた。
「101号室だ。この声……お父さんに、栄一さんかな」
ボソボソとくぐもった声が聞こえる病室を覗き込むと、診療所全体と同じく冷房が効いているけど誰もいない。
ただし声は変わらず聞こえたままで、それは紛れもなく暑くてぐったりとする外からだった。
「お父さんたち外にいるの? なんで?」
不思議に思い日差しが入りこむ窓際へと、こそこそと近づく。
体を必要以上に温めてくるお日さまの光を我慢しつつ、そぉーと窓の外を見てみると、そこには二人仲良く座ってなにかを咥えている、お父さんと栄一さんがいた。
安そうな日除けの下に並べられた、銀色のパイプ椅子。
時折口から離して一息ついているのを見て、二人が何をしているか納得する。
「栄一さん、たばこ吸うんだ」
今までに見たことが無い姿を見れて、はしゃぎかけたわたしはパッと両手で口を塞いで声を抑える。
決して悪いことをしている訳じゃないけれけど、お父さんたちが何を話しているのか気になって、バレないようにわたしは聞き耳を立てることにした。
「――本当にすみませんね、咲良先生。その場の勢いで相談に乗って頂いた上、新しい仕事を紹介して頂いて。感謝をしてもしきれないですよ」
「いえ。乗りかかった舟でしたし、何より下手に相談を断ったりしたら、娘から嫌われそうな気がしたんですよ」
「あー、成る程。確かに咲良さんから嫌われるのは堪えますね。奥さんに似て美人に成りそうですし。あの顔立ちで泣かれると、どうにも」
棒が突き刺さった黒いケース――加熱式タバコを口から離した栄一さんは、隣に座っているお父さんに深々と頭を下げる。
お父さんもお父さんで話すときは一度、青いケースの加熱式タバコを口から離して、困った時はお互いさまと手を横に振りながら笑っていた。
やっぱり外は暑いのか、お父さんは仕事で着ている白衣を畳んで、背もたれにかけているし。
栄一さんも半袖のラフな格好な上で、ダラダラと汗をかいている。
「……正直に言うとですね。煙草もあるというか。花見をしながらの一服を分かってくれた人なら、まあいいかと思えたんですよ」
「正直過ぎますよ先生。でも確かに。ここで初めて吸った煙草は、今まで一番美味かった気がしますね」
栄一さんは咥えていた加熱式のタバコから白い本体を取り外すと、また新しい物を取り出してセットする。
慣れた手つきでタバコをセットする彼は、ぼおっと咲いていない桜の木を眺めて、加熱式タバコのランプが点滅し終えるのを待っていた。
「そうですよね。言っては何ですが、僕は松永さんと出会えて良かったですよ。今のご時世、風当たりが強いですし。中々共感してくれる人がいなくて」
「またまた大袈裟ですよ。ああいや、うぅーん……。ついこの間、ここの患者さんに親の敵のように睨まれた事あったので、強ち間違いじゃないかもですね」
「松永さんはちょっと災難に遭い過ぎです。過労といい、その件といい。ツイてなさすぎなんですよ」
わたしにはまったく分からない話で盛り上がっている二人。
何より楽しそうにたばこを吸っているお父さんの姿が珍しくて、声をかけようにもかけられない。
心のモヤモヤは晴れるどころか増えた気がして、声はかけられないけどジィーっとお父さんを見つめて、早く話が終わらないか念を送ってみる。
「返す言葉もありません」
「まさかとは思いますが、その運の悪さが原因でストレスが溜まって、吸い始めたとかあります?」
「流石に吸う切っ掛けは別ですよ。重いやつに変えた時は正にそれですが。――あっ、もしかして先生の切っ掛けはストレスですか」
「いやいやいや。僕も違いますよ。それにこころが生まれるに当たって、一度は禁煙してます。でもまぁ、毎日患者の診断をしていたらこの様です。心春からは、あまりいい顔はされてませんが」
肩をすくめるお父さんに、成る程と相槌を打つ栄一さん。
別に心春――お母さんは、仕方ない人ねって笑っていただけなのに、お父さんが怯える理由がちょっと分からない。
わたしはたばこの匂いとか嫌いじゃないのに、お父さん自身もわたしに隠れてたばこを吸ってる。
「それは仕方ないですね。加熱式と言っても煙草は煙草です」
「特にこころの前だと、絶対に吸えないですね。今は落ち着いてますが、あの子は生まれつき心臓が弱いので。害のある物は出来る限り遠ざけないと」
「小学校も休学中でしたっけ。咲良さんの事なので勉強は大丈夫そうですが、その……友達とかは……」
小学校での友達の話を持ち出した栄一さんは、途端に歯切れが悪くなる。
お父さんは間を開けるようにたばこを一回吸ってから、ため息混じりに話を続けだす。
「家に遊びに来るぐらいの子は、いないみたいですね。やはり先生を含めて、一歩距離を置かれているみたいで。よくうちに来る子は中学生ですし」
「何度かお会いした事がある桜居さんですね。私と同じく、診療所にもよく来られているみたいですが」
「どうも昔、インフルエンザの予防接種を受けに来た時、こころと仲良くなったみたいで。松永さんと同様に助けられてますよ」
「そんな。私からすれば咲良先生を始め、ご家族全員に命を助けられたも同然です。いつもご迷惑をお掛けしていると身の縮む思いです」
「もうそれは何度も聞きましたって。顔を上げてください。そんな姿をこころにでも見られたら……あっ……」
さっき以上に深々と頭を下げる栄一さん。
お父さんも慌てて顔を上げさせようとしていて、そんな時にふとお父さんと目が合ってしまう。
目線が泳ぎ始めるお父さん。
一瞬にして持っていた加熱式タバコを背中に隠して、引きつった表情になりながらバタバタと白衣を持って立ち上がる。
「松永さん。貴方を独り占めするなと愛娘に怒られそうなので、僕はここで失礼します。それじゃあ!」
「ちょっ、えっ!? 先生! えぇー……。行っちゃったよ。いったい何が――」
今度は後ろを振り向いた栄一さんと目が合う。
やっぱり栄一さんも、お父さんみたいに大慌てで加熱式タバコを背中に隠して、笑い切れていない表情で手を振ってくる。
お話をするために、わたしは窓の施錠を開けてカラカラと開けると、蒸し暑い空気が一気に病室へと流れ込んで来た。
「や、やあ咲良さん。もしかして結構怒ってる?」
「おこってないですよ」
「でも凄い睨んでるように見えますし、頬もパンパンに膨らませて。心なしか後ろに変なオーラも見えるんですが」
「おこってないです。暑いからそう見えるだけです」
怒っているつもりは無かった。
だけど栄一さんに言われて、自分の頬っぺたを触ると否定のしようがないほど膨らんでいた。
顔に熱さが込み上げてきて、わたしはぷいっと顔を横に向ける。
そうしている間に加熱式タバコを片付け終えた栄一さんは、ポケットからハンカチを取り出して、汗を拭いながら話しかけてきた。
「えっと……咲良さん。なんで喫煙所まで見に来たのかなぁーって、聞いても良いですか?」
「なんでって。だって栄一さん。あんまり水を飲まないから、コレを持ってきたんです」
窓枠にドンと2リットルのミネラルウォーターを置いたわたしは、栄一さんがしっかりと水分補給をしてくれることを期待して、さあ飲んでと相手の目を見てみる。
対して栄一さんは夏の暑さでかいた汗とは、また別の汗をたらりと流す。
「まさか、これを全部飲めとか言わないですよね」
「そうです。飲んでください。飲まないとまた倒れちゃいます!」
「そ、そう……。そうですね。水分補給はしっかりやらないと」
ミネラルウォーターを受け取ってくれた栄一さんは、ゴクリと喉を鳴らして蓋を開ける。
なぜかこっちをチラチラと見ていて、なかなか口をつけてくれない。
しばらく悩みに悩んで悩み抜いた栄一さんは、ついにゴクゴクと水を飲んでくれた。
「――……ぷはぁっ! いややっぱり、いきなりの2リットルは無理です!」
「大丈夫です! 栄一さんならいけます!」
「うんまぁ、折角貰ったから飲むよ。飲むけどね。今すぐは無理だから、咲良さんは早く窓を閉めて。冷房が効かなくなるよ」
「むぅー……。ちゃんと飲んでくださいね。今日だけじゃなくて、明日からも」
「分かってます、分かってますって。以後気を付けます」
ヘラヘラと笑っている栄一さんの言葉は、何となくだけど信用できない。
何てことの無い口約束だけど、破ったら明日も同じく水を持っていこうと、わたしは心に決める。
今度は自分の意思で頬っぺたを膨らませるわたしは、栄一さんの言う通りに窓を閉めて病室から立ち去ろうとした。
「ありがとう、咲良さん」
窓が閉まり切る瞬間。
流れ込む夏の熱風とともに入りこんだ、たったの一言。
振り返るともう声は聞こえないし、ミネラルウォーターを持った栄一さんは、とっくに背中を向けていた。
どこにでもある言葉は小さな心の鼓動を大きくして、夏の暑さとは違う温かさを体に溢れさせる。