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1.イタイココロ

 うっすらと白い病院のお部屋。

 閉じられたカーテンから、優しいお日さまの光が入っている。

 すこし寝苦しそうにしているお部屋の人がいるので、わたしはこっそりとカーテンのかかっている窓へと近づく。


 起こそうというつもりは無い。

 ただわたしは、窓の先にある物を見たいだけだから、寝ている人の邪魔をしたくない。


 ゆっくり、ゆっくり。

 一歩ずつ近づいて、音を立てないようにカーテンを開く。



「――……すごい」



 目に焼きついてくるお日さまの光。

 カーテンを開けた先から飛び込んできたのは、ヒラヒラと花びらを舞わせている桜の木。


 吸い込まれそうな白と桃色の光景に、トクンと小さく心が跳ねる。


 ポツリと言葉が漏れたのを慌てて両手で抑え、そっと後ろを振り返る。

 寝苦しそうにしているお部屋の人は、差し込んだ光が眩しかったのか寝返りを打つも、息を整えてまた眠りへと落ちていく。



「ちょっとくらいなら、いいよね」



 こちらに向けられた大きい背中を見て、わたしは独り言ちに口元を緩める。

 湧き上がってくる思いに突き動かされるのは仕方ないと、心の(おもむ)くままに窓の施錠に手を伸ばす。


 カラカラと窓を開け放って吹き込んでくるのは、冬の冷たさを名残惜しむ春の風。

 一緒に連れ添ってきたのは、舞い落ちた桜の花びらたち。

 彼らはヒラヒラと落ちていくのは、窓を開けたわたしじゃなくて、別のところ。


 お日さまにも、桜たちにも、そしてわたしも。

 全員に背を向けて寝ているおじさんに、そっと乗っては風が吹くたびにお部屋を飛び回る。



「……ぅぅん? あれ、私いつの間に寝たん……だ……?」


「えへへ。おはようございます」



 お日さまの光と、桜を連れた風で起きてしまったのか、目を擦りながら気だるげにおじさんは顔だけをこちらに向ける。


 目の下に黒い隈を作って、生えっぱなしのお髭にボサボサの黒髪。

 着ているYシャツはヨレヨレのしわくちゃで、いつもお母さんがアイロンをかけているお父さんの物とは、まったくの別物。

 暗い青のネクタイも同じで、ピシッと閉められずにゆるゆると雑につけられている。


 そんなおじさんの瞳は生きている感じがしなくて。

 でもわたしを見た途端に、光が射し込んだ。



「天使……? もしかして私、死んだのか……?」


「よく分からないけど、死んだとか言っちゃダメですよ、おじさん」


「いや私、29歳と22ヵ月なんで。おじさんじゃないよ。天使さん」



 やつれたおじさんは、開口一番に不思議なことを言ってきた。

 声に元気は無いけど、落ち着いた声で受け答えをしてくれる。



「あー……じゃあ、ここは何処かな。天国だったり」


「だから、死んじゃダメです。ここはサクラしんりょーじょの101号室です」


「さくら、しんりょうじょ……。――ああ、診療所。病院か。そうか私は、そういうことか……」



 右腕を持ち上げて目元を隠すおじさんは、乾いた笑いをこぼす。

 いまいち理解できないが自分がどうして診療所のベッドで寝ているのか、言わなくても分かっているみたいだった。


 泣いているのかと思ったけど、そういう訳でも無く。

 涙が出るどころか、引きつった笑いが漏れ出ている。



イタい(・・・)んですか?」


「ははっ……そういう訳じゃないよ。大丈夫。ちょっと眩暈(めまい)がしただけ」



 うそだ。

 本当だけど、本当のことを言っていない。


 前にお父さんが真剣な表情で、とある患者さんのお話をしてくれた。

 人間は疲れ切っていると、泣きたくても泣けないんだって。

 それは病気で苦しいのに笑って誤魔化してしまう、綺麗な黒い髪を持った女の子のお話だった。


 だからわたしは両ひざをついて、顔を隠しているおじさんの頭に手を伸ばす。

 転んで怪我をして、傷から広がる痛みをこらえている時に、そっと抱きしめて撫でてくれるお母さんみたいに。


 優しく、優しく――



「イタいなら、イタいって言わないと。本当にそう思ったときに、言えなくなっちゃいますよ」



 小さくトクントクンと鳴る心から、言葉が勝手に浮かんでくる。


 伝わらないかもしれない、呆れられるかもしれない。

 それでも言うべきだと思ったから、心を込めて思い思いに伝えてみる。


 イタくても、クルしくても、ナきたくても。

 できなくなってからじゃ遅いって、わたしは知ってるから。



「イタいって、ちゃんと言ってくださいっ……!」



 わたしのことじゃないのに、ボロボロと涙がこぼれ出てくる。

 心もキュッと萎んで痛くなって、すぐに声もちゃんと出せなくなる。


 だからなのかな。

 ゆらゆらする視界に映った光の粒が、ツゥーって下に流れ落ちたのを見たら、一瞬だけ息ができなくなった。



「……っぅ。……それは。それはズルいよ、天使さん。痛がってるのは貴女じゃないか」


「はい。イタいです。ここがイタいです。おじさんを見てたら、勝手にイタくなったんです」



 ズキンと主張する心を両手で上から押さえて、わたしはおじさんに訴えかける。

 おじさんもおじさんで、枯れていた声に潤みが混ざって来た。



「もう何だこれ。ぐちゃぐちゃだ。私はどうすれば良いんだ」


「わかんないです。わかんないですけど、おじさんはイタいって言わないとダメなんです!」


「言わないと駄目って。私はどこも痛くなんか――」



 ゆらゆらと。

 光の無いおじさんの瞳と、私の黒い瞳が見つめ合う。


 おじさんは言いかけた言葉をどこかへやって、続きを言うことは無かった。

 わたしも頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉なんかよりもイタいって気持ちばかりが溢れてしまう。



「痛くないです。痛くないですけど、これは……。ああ、やっぱりズルいですよ。天使さん」


「どういうことですか。本当にイタくないんですか?」


「――……そうですね。正直に言います。イタいですよ。できるのなら、ずっとここに。季節が変わるその時まで」


「うん? おじさん、やっぱりどこかイタいんですよね。変ですよ、かなり」



 目を細めてわたしを見るおじさんは、いったいどこを見ているのだろう。

 春の日差しが眩しいのか、花びらが散る桜をよく見たいのか、それともわたしには分からないものを見ているのか。



「すみません。確かに変ですよね、今の私。でもそう思えるくらいに、ここはイタい場所なんです」


「おじさん。もう一回お父さんに診てもらった方が良いです。イタくておかしいこと言ってます! 待っててください。すぐにお父さんを呼んできます!」


「ああ、待って待って! 呼ばなくていいから。むしろ呼ばれたら笑われる!」



 こぼれた涙を拭いながら笑っているおじさんは、やはりというかイタい場所があるらしい。

 それなら大ごとなので、お医者さん(お父さん)を呼んでこないといけない。


 なのにおじさんはわたしを必死に呼び止めて、その方がいいなんて言い出すしまつ。



「ほら、よく見て。私はもうどこも痛くないから。もう元気元気」


「むぅー。おじさん、さっきイタいって自分で言いましたよね」


「いやあれはね……って、そろそろおじさん呼びは止めて欲しいな。名前教えるからさ」



 大変なことになってからでは遅いのに。

 どうしてもと言うおじさんに、わたしは頬を膨らませて不満を伝える。


 そんなわたしの気持ちなんて知らないで、おじさんは顔を覆っていた腕でガッツポーズを決めている。

 もう片方の腕は点滴が打たれていて、おじさんも分かっているのか大きく動かすことはしていない。



「私は松永(まつなが)栄一(えいいち)。できるなら松永(まつなが)さんとかって、呼んで欲しいかな」


「まつなが、えーいちおじさん?」


「えっと。おじさんを入れるのも止めて貰って良いかな」


「えーいちさん。これならどうですか?」


「あれっ。無難な苗字でって言ったつもりだったんだけど、スルーか……」



 えーいちさん、えーいちさん。

 苗字の松永(マツナガ)は知っていたけれど、名前は知らなかったから小さく声に出して反すうする。


 うん、覚えられたとわたし自身に納得したら、わたしも涙を拭い落として笑ってみせる。



「わたしは咲良(さくら)こころです! よろしくおねがいします、えーいちさん!」


「天使さんは、サクラこころさんね。そうか、サクラ……。サクラってまさか!?」


「はい。良く咲くって書いて咲良(さくら)です! ここ咲良(さくら)診療所は、お父さんの病院です!」



 ペコリとお辞儀をするわたしの名前を聞いて、えーいちさんは目を見開いて、今までで一番の大声をあげる。



「確かに、さっきから病院なのにお父さんを呼ぼうとしてたもんな。こんな事も気付けないなんて、今の私駄目だな」


「ええっ! 待ってください。なんでいきなり落ち込むんですか、えーいちさん。やっぱりイタい所あるんじゃないですか。もう本当にお父さんを呼んできますね!」



 深くため息をついて、花びらが散る桜の木を遠く見つめるえーいちさん。

 自分でもおかしいところが分かっていないみたいだし、我慢ができなくなったわたしは、走らないように、でも急ぎ目でお父さんを呼びに行く。


 焦る気持ちを唇をキュッと締めて抑えるけど、心はどんどん先へ先へと進んでいく。



「……咲良(さくら)さん、止め損ねた。結構思い込み激しい子なのかな」



 わたしが病室を出て、一人取り残されたえーいちさんは、扉に向けて伸ばされた手をダランと力を抜いて床に着ける。


「本当に痛くは無いんですよ、不思議と。仕事は辞める事になりそうだなとか、上司もカンカンに怒ってるんだろうなって思っても。胸を締め付ける苦しさなんて無くて、(むし)ろスッとしてる感じで」


 あの扉の先には行けない。

 ボロボロになった今の体に鞭を打って、あの酷くおどろおどろしい世界に戻るなんて、もうできそうにない。


 意識が途絶える前の世界に名残惜しさなんて感じず、目を背けるえーいちさんが仰ぎ見るのは、お日さまの光と綺麗に咲き誇る桜の木。



「居たい場所なら、今できました。もうあの世界にはイタくない」



 痛かったから、ここに居たいって。

 他の誰でもないサクラに告げるえーいちさんに、温かい春風は桜を連れて歓迎する。

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[一言] すごく おもしろいです。
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