クスクスと傘の下で悪役令嬢を想い独り嗤う。 ザァザァと水太く降りしきる雨の夜、夜の街。
「先方が今から来てほしいと言ってるんだ」
上司の苛つく声が響く。来た!私は喜々として耳を澄ませた。多分そう、きっとそう!
「でも明日の約束のはずです!勝手に決めないで下さい」
我が社の大切な取引先のお偉いさんが父親である先輩が、上役に向かい己の不機嫌を隠そうともせず、何時ものキンキンに甲高い声で反論をしている。
「予定が変わったそうだ!仕方ないだろう。おい!誰か、一緒に行ってくれ!」
終業時刻間迄あと1時間を切っている。そして陰で『悪役令嬢』と呼ばれる先輩との外回り、誰も手を挙げようとしない。おまけに冷たい雨が気合いを入れて降っていた。
知らぬ顔してノルマをこなしている同僚や他の先輩達。その様子を見て、仕方ない俺が行くかとぼやく上司。私はタイミングを見計らい、ハイ、行きますと手を挙げる。
「おお!悪いな、済んだら直帰でいい、報告はメール飛ばしてくれ、細かい事は明日でいい」
ハイ。私は立ち上がる。止めといたほうがいいって、皆の視線がそう訴えてくる。でも……。
――、今日を逃してはいけないとシックスセンスがそう語りかけてくる。
だんまりを決め込む悪役令嬢の代わりに上司と事務的なやり取りを終え、ムスッとした先輩とオフィスを出た。廊下を歩きつつ頭の中で計画を練り上げていく。
パン!先輩と共に傘を開いた。ザァザァ降る雨は地面に落ちると跳ねて上にあがる。少し歩けば靴もストッキングも濡れるのが見てわかった。そして時は夜が近い。
私が待っていた日。お洒落な先輩は今日も新しい靴を履いている。
『カワリナ!』
パシャン。軽く音立てたかのような一歩。外に出た時、あの日から私に取り憑いた、キンキンな声が聞こえた。
『カワリ ナ!』
あの日を思い出しながら声に背を押され、私は悪役令嬢の後ろをまるで召使いの様について歩く。
――、フェザーの様な雪が黒い空から次々にバサバサ、落ちて積もる。歩道に、アスファルト、コンクリート、植え込み、その上に上に重なり積もるベチャとした白。
折り畳み傘の下溜息。フワッと息が濃く白い。凍るように頬が冷たい。ひとつ身震いをした。身体に力が入る。せめてもの慰めは、手袋とすっぽり被れるフードがついたコートを着ていた事。
雪で遅れているのだろう。なかなか来ないバスを待つ列に並んでいる私。列は長く続いている。ジンジンと足の先が痛む。黒いローヒールの中は冷え切っている。
「これもお願い。ほら、雪降るって予報だし……、私、残業したくないのよ。だってね、新しいパンプスで来てるの、ほら見て限定品よ。フフフ」
悪役令嬢に余分な仕事を押し付けられたのは、終業迄あと僅かな時刻。カラカラ……、と椅子を滑らし私に近づきそう言ってきた。
軽く脚を上げ見せてくる靴。ブランド品のエナメル質のパンプスが艶っぽく光っている。困りますと言えば、後日しっぺ返しが待っている。なのでムカムカとしながらわかりました。と引き受けた。
定時に帰れると思ったのに、案の定、午後8時過ぎから夜の帷が降りた窓の外に、白い花片がハラハラと舞い始めた。
……、ひとり、またひとり。列を離れて歩く人の姿。しびれを切らしたのか、それともタクシーを拾うからか、雪降る中をそれぞれに進んで行く。
私もそれに習う。アプリで調べたら電車の遅延は無い様子だったから。家まで遠回りになるが、電車を使い最寄り駅からはタクシーを使って帰ってもいい。それならワンメーターで済むから。流石にここから自宅までは使えない。
午後9時過ぎの街の夜。しんしんと雪が降る。
午後9時過ぎの夜の街。もくもくと歩き進む。
―― 冬物セール 店内50%オフ ――
そんな貼り紙を見つけたのは、爪先が痛くてどうしようも無くなり、グネグネ動かすために立ち止まった時。小さな靴や雑貨の店の前だった。私は惹かれるように中へと入る。
ほっこりと暖かい店内。セール品がまとめられている一角には、マフラーに手袋、ニット帽、靴下、そしてムートンのショートブーツ。迷うことなくソレを買い求めた私。
「箱は要りません、ここで履き替えますから、値札外して下さい」
レジで伝えた。ついでにフリース素材の靴下も買う。そっちも同じ様にタグを外してもらった。レジ脇に置かれていた椅子をお使い下さいと言われたので、座り靴下を履くとパンプスからムートンに替える。
良かった!これで大丈夫。ホッとした私。ありがとうございます、足元に気を付けて下さい、ショップの店員に見送られて店を出た。
「……タラシイクツ ナ!」
キンと冷えた外に出てパンッと傘を開いた時、キンとした声が聞こえた。
何?キョロキョロとしたが空耳だったらしい。後ろに下げてたフードを被ると、シャーベットが広がる歩道を駅に向かう。
俯き歩く。定時で帰れると思ってたのにな、頑張って仕事したのに。子供みたいな意地悪ばかりする先輩。早く『寿』すりゃいいのに。目に入るのは真新しいムートン。右、左、右……。
そういやおばあちゃんだっけ……、夜に新しい靴を卸したらダメって。小さい頃によく言われた事を思い出す。
人通り多い駅までのタイル敷の歩道は雪が半透明に積もっている。ジャ!ジャ!耳に届く車道のタイヤの走行音、傘の上に着地するバサバサ雪の音。
しんしんと雪が降る。もくもくと歩いている。
右、左、右、左……。あれ?と気がついた。視界が白い。音が聴こえない。そんなにも降ったのかしらと顔を上げると……。
「え?ここどこ……」
何もない空は真っ黒、足元は真っ白な場所に立っていた。
「アタラシイ クツ ナ!」
キンキンな声が響く!
「ゴハン ナ!」
キンキンな風がゴウと吹く!
……、捕まったらダメ!私の中で声がした。逃げなきゃ!サクサクと雪を踏みしめ私は走り出した!
「アタラシイ クツ ナ!」
キンキンな声が私を追いかけて来る、捕まれば私はきっと!無我夢中で逃げる。モコモコ、ワサワサと足元が膨れ上がりあっという間にふくらはぎ迄、雪かさが上がる!
ズボ!ズボ!一歩一歩踏み込み駆ける、何処までも何処までも白!白、シロイクウカン!空は真っ黒。息を吸込めば氷の塊がグググッとねじ込み入る。
喉が痛い、肺が痛い。傘も荷物も邪魔だったが手放す余裕が無い!懸命に声から逃げる。片手に傘を掲げ、荷物を振り回し、さながらサーカスのロープ渡りの様に、バランスをとりながら先に先に進む。
雪かさがどんどん深くなる!息が弾む。いつしか膝上迄高さが来ていた!
「あ!」
ムートンが片方埋もれて脱げる。私の後ろで取り残された片っぽ。
「アタラシイ クツ ナ!」
キンキンな声が響く。凍える冷気が取り囲む。私はその場で立ち止まったまま動けない。片っぽ脱げたままで。片足を上げてフラフラと。
ガクガクと震えながらふと思いついた事を試した。店の袋から履いていたローヒールを取り出そうと、傘を手放したその時、
グラリグラリ……ボス……、ン。
バランスを崩して、大きく左右に身体を振りお尻から落ちた。鞄もドサリと埋まる。だけどそのままで、残ったムートンの方っぽと厚い靴下を脱ぎ捨て、元の靴に履き替えた私。おばあちゃんの声がする。
――、夜に履物を卸したらダメ。
こういう事だったの?怖い、助けて、ここはどこ?どこ?声は何なの?息を止めた。ドキドキとする。
「カワリ ナ!デテケ」
キンキンな声。助かったの?安堵する私。カワリ、ナって何?デテケ……、ここから出れるの?ホウゥと息を吐き出す。モワモワと煙の様にそれは広がる。これからどうなるの?じっとそのままいると。
「だけどお前の代わりを差し出せ!それ迄お前に憑く」
キンとした声に変わり、野太くガサガサなしゃがれ声がした。ゴウ!雪を巻き上げ風が吹き荒れる。目を閉じ身を硬くしてやり過ごした。気がつけば……、
何事もなく、元の場所に戻っていた。足先は温かった筈なのに、ジンジンと冷えて痛む。目に入る半透明な街雪。
そのまま家に帰った私。
それからだ。建物から外に出ると。
「カワリ ナ!」
声が聴こえる様になったのは。
――「ついでだからもう一箇所、近くだし回りましょ!」
仕事を終え外に出た。私が携帯で上司に報告をしている間、先輩も携帯を取り出し何処かに連絡をしていた。
「足元も濡れてますし、このまま帰っても良いって話ですけど……」
おずおずと意見を述べる。
「なによ!先輩に歯向かうの?」
ツン!と先に歩く彼女。私は黙ってついて歩く。表通りから一本、裏道に入ったところにある取引先のオフィスビルに辿り着いた。窓にはどの部屋もまだ灯り。
「ここで!傘持って待ってなさい!」
玄関前で先輩の傘を持って待つ様にと言われた。何時もの事。嫌がらせのひとつだ。私が傘を持ち、降りしきる雨の中で、言われるがままに立ってる姿を満足そうに眺めた後、中に入っていった悪役令嬢。
午後7時過ぎの街の夜。ザァザァと雨降る。
午後7時過ぎの夜の街。携帯を取り出す私。
位置アプリを開く、この辺りに確か……、小さいけどセレクトショップがあった筈……、あった!場所を確認すると、私はそっちに向かう。バシャバシャと走る。道中、先輩が好きそうなお洒落なカフェも見つけた。
――、上手く誘おう。靴が濡れてるからって、履き替えたらどうですかって、きっと先輩なら。だって濡れて気持ち悪いもの。この辺りはタクシーは通らない。先輩は歩いて大通り迄行かなきゃならない……。
私は駆けつけた店で、うんと奮発をしてお嬢さん育ちの悪役令嬢が好きそうな、今年の新デザインだという店員が薦めてきた艶っぽいエナメルのパンプスと、ベージュのストッキングを買った。
「箱は要りません。値札外して貰えます?」
ハンドタオルは鞄に入っている。戻って先輩に……。
「ちょっと何処行っていたの!待つ様にと言ったでしょ!」
「ごめんなさい先輩。足元が濡れてるから……、よかったらコレ、安物ですけど……」
顔をしかめてキャンキャン、キンキン吠える彼女におずおずと紙袋を差し出した。あら……、気がつくじゃない。袋の中を見てまんざらでも無い顔をした悪役令嬢。
「でもここで貰っても……、馬鹿じゃない?」
せせら嗤う彼女に、この先にカフェがありましたから濡れついでにそこまでいきませんか?そこで履き替えたら……、と勧める。
ザァザァと夜の雨。街灯に照らされ、透明に筋を引いている。
「そうね、そうしようかしら……、ああ、そうなればこの靴、貴方が持って帰りなさいよ!貴方が履き替えろって言うから替えるのよ!濡れた荷物なんて持ちたくないわ!」
はい、持って帰ります。と私はニッコリ傘の下で笑う。
――、雨は止まない。太く降り続く。
セレクトショップの袋はカフェのトイレを利用して、身支度を整えた先輩がそこで捨ててきた。濡れた荷物を受け取れと手渡された。
エコバッグを取り出し私はそれをしまい込んだ。この通りタクシー無いじゃない!ろくでもない店を探したわね、また歩かなきゃ……、まっ、貴方の靴だから濡れてもいいわね!家に帰ったら捨てたらいいもの。相変わらずの声を聞き流し、適当にお茶をすますと外に出る。
パン!傘を開いた時。
「ん?今、変な声聞こえなかった?『タラシイクツ』?」
先輩がキョロキョロとした。
「いいえ、別に。じゃぁ、ここで失礼します」
素知らぬ顔を作るとお辞儀をし、私は彼女と別れた。
キンキンな声ともこれでお別れ。
キンキンな声ともここでお別れ。
「カワリ ナ!」
フフ、何も聴こえない。身代りはちゃんと用意できたみたい。あの日は雪だったな。今晩は雨か……、だとすると。
「水がどんどん上がってくるのかな。そうだといいな。だって前に慰安旅行先を海にしようと盛り上がった時、私、泳げないとか言って変更させたんだから」
クスクスと傘の下で悪役令嬢を想い独り嗤う。
ザァザァと水太く降りしきる雨の夜、夜の街。
終。