ある老人の回想7
大学を出てから40年近く勤め上げた会社を退職後、私は都内から1時間ほどの場所に小さな喫茶店を建てた。席数はテーブルとカウンターを合わせて16席。駅からも徒歩3分以内で立地も悪くない。窓からは近くの海も見えるこの喫茶店は、地元民の学生からお年寄りまで幅広い年代に愛され、時にはネットで調べてやって来た観光客も訪れるあたたかい店になっていた。
店の看板メニューは玲子特製のオムライスとミートソーススパゲティー。結婚する時に料理は不得手だと言っていたのに、長年の家事で培ったスキルとこだわり出したら止まらない性格が相まって、いつの間にか地元の地域新聞で取り上げられるくらいになっていた。
「どうせやるんならこだわらなくちゃ」
退職後、落ち着いた場所で喫茶店を始めたいと言い出した私に玲子が言った言葉だ。玲子は一切文句を言わず、何なら言い出した私よりも精力的に動いてくれた。この喫茶店を建てる資金や運営費用も、実は少しだけ玲子の実家から助けてもらっていた。
そして、今日は息子が家族を連れて遊びに来る日だ。
優太の息子、健太が6歳の誕生日を迎え、来年からは小学生になる。
そのお祝いをするために、今日は1日喫茶店を臨時休業にして夜のパーティーに向けて準備をしていた。玲子は昨晩のうちにローストビーフやポテトサラダなど時間のかかる料理の準備を済ませ、今日は息子一家と共に健太の誕生日プレゼントを選びに行っている。
ピロンとスマートフォンにメッセージが届いた音がした。
ちょうどプレゼントを買えたみたいだった。健太が大きな包みを抱えて嬉しそうに笑う写真が送られて来ていた。写真の中の孫の笑顔に画面越しでも思わず顔が緩んでしまう。おっと、いけないいけない。まだこっちは準備することがあるんだった。準備に戻ろうとすると再びピロンと音がなり、玲子からのメッセージが届いていた。
『あと1時間半ほどで到着する予定です』
私はそれに『こちらもあと30分ほどで準備が完了します』と返信し、地元で名店と言われているケーキ屋へ誕生日ケーキを受け取りに行った。受け取りの際に少し現物を確認させてもらったが、なるほど、名店と言われるだけあって見た目の華やかさも誕生日ケーキにふさわしい。
そして再び自分の喫茶店へ戻る。
あと1時間ほどでみんながやって来る。
店内の飾り付けも、料理の準備も万全だ。
健太が食べたいと言っていたチーズチキンナゲットもある。みんなの喜ぶ顔を想像するだけで顔が緩んだ。窓の外を見ると、太陽がオレンジ色に輝いていた。
私がケーキを受け取って帰って来てから1時間が経った。もう日は落ちて辺りは暗くなっていた。
玲子も、優太も、麻美さんも、健太も、そこには誰の姿もなかった。約束に遅れる時、玲子は必ず連絡をくれる。こんな風に何の連絡もないのは初めてだった。こちらから『もう着くかい?』と連絡してみても返信はない。
(思い出すな……それ以上先へ行くな……)
頭の中に不思議な声が響く。
私はそれを振り払うようにしてテレビをつけた。
いつもならニュースが終わってバラエティーが始まりそうな時間だったが、今日はそんな様子ではなかった。画面からはパタパタとヘリの飛ぶ音が聞こえている。ニュースキャスターが焦った様子で捲し立てるように喋っている。日常感が無い。まるで全部夢の中みたいだ。
(違う……違う、違う、違う、こんなことを思い出すために私は……)
だんだんと自分の息が荒くなるのがわかる。
上手く酸素が吸えない。視界がぼやける。
自分の脳がその世界を拒んでいるのがわかった。
こんな世界は望んでいない。
私は、こんな世界を思い出すためにここに来たんじゃない。戻れ、戻れ、戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ……戻れ!!!
「はぁ……はぁ……ッ、はぁ…………」
目が覚めると、私は両端に対になるように設置された列車の席に座っていた。辺りを見渡すと自分と同じように4人ほどが座って眠っている。窓の外には暗闇が広がっていて、そこに光が反射して車内の様子が映っている。列車は静かに進んでいた。時折来るガタンゴトンという揺れも心地良い。その揺れの心地良さに身を任せて、私は若かりし日の情景を思い浮かべながら再び目を閉じた。ただ1つ。異様に汗ばんだ手と額だけが不快だった。
ここでようやく物語が動きます。
そして次話、主人公が登場します。
1/15(金)に投稿予定です。