ある老人の回想1
ある老人の回想
目が覚めると、私は両端に対になるように設置された列車の席に座っていた。辺りを見渡すと自分と同じように4人ほどが座って眠っている。窓の外には暗闇が広がっていて、そこに光が反射して車内の様子が映っている。列車は静かに進んでいた。時折来るガタンゴトンという揺れも心地良い。その揺れの心地良さに身を任せて、私は若かりし日の情景を思い浮かべながら再び目を閉じた。
水無月 清次郎。それが私の名前だった。
生まれも育ちも関東だが、都会とは縁遠い田舎の生まれ。家の扉を開ければ道路を挟んで田んぼが一面に広がり、その奥に山々が見えてその上に空がある。子供の頃からそればかり見て育ったものだから、テレビで見るようなビルやお洒落なカフェが並ぶ都会への憧れは当然だったのかもしれない。大学進学と同時に一人暮らし用のこじんまりとしたマンションの一室を借り、私は都会への進出を果たした。
その後順調に大学を卒業し就職をした私に待っていたのは、大都会特有の朝の通勤ラッシュによる満員電車だった。席に座るどころか乗り込むことすら困難なぎゅうぎゅう詰めの中になんとか入れたかと思えば、そこから目的の駅まで足がついているかも危うい状態でガタゴトと揺られ続ける。初日にして私の心は既に折れかかっていた。
「こちらが君の先輩で教育係をお願いする佐藤 玲子さん」
「佐藤 玲子です。よろしく、水無月くん」
「あ、はい、よろしくお願いします」
入社式を終えてすぐに案内された自分のデスクで、1人の女性の先輩を紹介された。柔和な表情を浮かべながらハキハキと喋るその女性は、パンツスーツをスラリと履きこなし、見ているこちらまで背筋を正さなければいけない気にさせる姿勢の良さが印象的だった。第一印象としてはやさしそう。だけど、その中に「この人に逆らってはならない」と直感させる何かがあった。
「この資料、こことここが間違ってるから直しておいて。あと先週お願いした資料はまだ? 出来ていないならそっちの方が優先度高いから先にそっちをお願い。それと……」
1時間後、同僚に向けて淡々と指示を飛ばす様子と、上司であってもズバズバと意見する玲子さんの姿がそこにあった。昼休みになって玲子さんを私に紹介して来た上司から聞いた話によれば、彼女は若手のエースらしかった。意見は的確、行動に無駄がなく、不要な忖度が嫌い。そんな彼女に意見するのは、10近く歳上の上司さえも緊張するらしかった。その話を聞いて私の直感は正しかったと確信した。
「初日はこれで終わるけど、何かわからなかったことはある?」
「いえ、丁寧に教えていただいたので大丈夫そうです」
「そう、じゃ明日もよろしくね。お疲れ様」
初日を終えて、玲子さんはそう言って笑いながら私の肩を叩いて去っていった。仕事中の威圧感さえ漂う真剣な表情とのギャップに呆然としながら、私はその日帰路に着いた。
入社してから1週間後、私を含めた新入社員の歓迎会が行われた。新入社員たちが挨拶を終えて幹事が乾杯の音頭を取る。新入社員は私以外にも7人いたが、豪快にジョッキを仰いだ1人を除いてまだ少し緊張しているようだった。先輩たちに囲まれた新入社員用の席で何を話そうか考えていると、隣に玲子さんが座った。
「こんにちは、こちらの水無月くんの教育係の佐藤 玲子です。どう? みんな、仕事は慣れて来た?」
「ええ、まぁそこそこ……」
仕事モードとは違い柔らかな表情を浮かべた玲子さんだった。玲子さんはお酒にあまり強くないようで、ジョッキに入ったビールは半分ほどしか減っていないのに既に顔を赤くしていた。ただ意識はハッキリしているようで、飲めないというよりは「これ以上酔わないように自分でセーブしている」という感じだった。
「で、どう? 水無月くんも慣れて来た? 何か不安なことある?」
「え、えぇ、だいぶ慣れて来ました。わからないことも佐藤さんがすぐに教えてくださるので、それほど不安もないです」
「ん、よかった」
仕事中の玲子さんはまさに「仕事人」といった感じで、自分にも周りにも無駄がなく適切な行動を求める。そのため周りには少なからず威圧感を与えているように思う。ただ、そのせいで彼女が避けられているとか怖がられているようなこともなかった。こうしたアフターケアのような部分も完璧にこなすからか、彼女は周りから慕われ信頼されている。
世渡り上手、というと彼女は怒るかもしれないが、彼女は世渡りが上手いのだと思う。単に勝ち馬に乗るのが上手いとかそういうことではない。彼女は自分の意思をハッキリと伝えつつも、そこに余分な感情や利己的な都合を挟まないし挟ませない。だから相手も素直に聴くことができるし、その結果として仕事が円滑に回る。それに、帰り際の一言などアフターケアも欠かさない。そこに彼女の上手さがあった。
続きは来週金曜(12/4)に投稿する予定です。
物語が動き出すまで気を長くしてお待ちください。