Cafe Shelly バレンタインの思い出
「麻美、あんたってある意味天才よね。どうやったら溶かして型に入れるだけの手作りチョコレートがこんな味になるのよ」
「えーっ、だって先生カレーとキムチが好きだって言ったから、ちょっと工夫して味付けしてみたんだけど…」
そう言って私が作った手作りチョコの試作品を口に入れ、味を確かめてみる。うっ、やっぱマズイ! そう思ったところで目が覚めた。
久しぶりに見たな、この夢。中学二年の時に友達の芳恵の家で作った手作りチョコ。私が憧れていたヒロ先生に、バレンタインのプレゼントとしてあげようと思って、芳恵と一緒に試行錯誤してつくったことがある。
この季節になると思い出すな。あの頃、バレンタインデーってすごく特別な日だった。芳恵はずっと片想いの先輩にあげるんだって、トリュフっていうやつを作ってた。私は不器用だし料理も下手だから、溶かして型に流し込むだけのチョコレートだったけど。それでも失敗するなんて、ある意味天才的よね。その天才ぶりは今も顕在だけど。
あのときは結局、芳恵がもう一度手伝ってくれて、というか監視をしてくれて余計なことをしないようにして、なんとか完成したんだったな。それにしても、ヒロ先生はどうしてるかな?
私は今、二十六歳になった。地元のドラッグストアに就職し、販売員として働いている。
夢に出てきた中学のバレンタイン。あのときに私がチョコレートを渡そうとしたのは、当時担任だった通称ヒロ先生。あれ、本名なんだったっけ?
ヒロ先生は新任で入ってきて、そんなにイケメンでもなかったけれどとても面白くて生徒思いの、熱い情熱を持った先生だった。私はヒロ先生に次第に心を惹かれて、バレンタインの時に思い切ってその想いを告白しようと思って、親友の芳恵に手伝ってもらった。
芳恵はお菓子づくりとかが得意だったから、かなり手ほどきを受けたんだけど。それでも、私の不器用さのほうが優っていたみたいで。でも、熱い想いを込めたチョコレートと手紙を渡し、私の気持ちは大満足だった。
私にもわかっていた。所詮は中学生の時期にある、大人への憧れだってことが。何しろ年齢差が九つもあるんだから。でも、今私は二十六歳だから、ヒロ先生は三十五歳か。そう考えたら、そんなにおかしくはないよね。ヒロ先生も結婚して、きっと幸せに暮らしているんだろうなぁ。
卒業してからはまったく音沙汰ないし、それにいつの間にか転任してどこか別のところに行ったみたいだし。ヒロ先生はともかく、今年もバレンタインの準備をしなきゃ。
会社の男性たちに配るチョコレート。これっていつの頃からなんだろう、感謝の気持ちだとか言って半ば強制的に女性社員が男性社員にチョコレートを贈るようになったのは。
それと、友達にもあげなきゃ。友達といっても男性じゃない、女の子に向けてだ。むしろ、こちらのほうが奮発をしてしまう。これも友チョコって感じで、大学時代からやりとりしているな。本命チョコなんて、中学のあの時以来あげていない気がする。
バレンタインデーって恋の儀式だったはずなのに。あのときのトキメキなんて、もうどこかに行っちゃったな。
「おはよー、ねぇ、今日終わったらチョコレート買いに行かない?」
出勤するなり、同僚のサチからそんなお誘いが。今、街に出るとどこもかしこもバレンタイン一色。うちの店にも店頭には色とりどりのチョコレートが並んでいる。高級なのから安い板チョコまで。
中学以来手作りチョコレートを断念した私は、毎年値段もそこそこの見栄えのいいものを購入している。特に男性社員向けなんてお金をかける必要もないし。自分の店で買えばいいものを、わざわざよそに買いに行くなんて。なんか変よね。
そんな毎年恒例の、トキメキもなくなったバレンタインに今年は変化が起きてしまった。
「すいません、この商品はどこにありますか?」
お店で商品の整理をやっていたところに、広告を片手にした男性から声をかけられた。
「はい、どれでしょうか?」
私が振り向いて対応をしようとその男性に目を向けたとき、心臓が一瞬止まるかと思った。
ヒロ先生!
けれど、ヒロ先生は私に気づかない。そうだよね、あれから十年以上も経っているんだし。それに、そもそも私のことなんか覚えているわけないか。
「あの、これなんですけど」
「あ、は、はい」
私は平静を装いながらも、ヒロ先生の対応をする。その商品の棚まで一緒に案内。普通の客なら、通路の場所を教えて終わりなんだけど。もう少しヒロ先生のそばにいたくてサービスしちゃった。
「あ、これだこれだ。ありがとうございます」
ヒロ先生はそう言ってその商品を手に、レジへと向かっていった。
今までこの店でヒロ先生を見たことなかったのに。こっちに赴任しているのかな。それとも、たまたま通りかかっただけなのかな。もう結婚しているのかな。いろんなことが一瞬にして頭をよぎった。
「麻美さん、どうしたの? なんだかボーッとしちゃって」
同僚のサチが私の姿を見てそう声をかけてきた。
「えっ、あ、なんでもないよ」
「うそーっ、さっきのお客さんを見つめちゃって。そんなにいい男だったの?」
サチはわたしをからかうようにそう言った。が、私にとってはそれは冗談ではない。
「ヒロ先生だった」
私はぼそり、そうつぶやく。
「ヒロ先生?」
「うん、中学の時の担任」
「へぇっ、じゃぁ声かけたの?」
「ううん」
私は買い物を済ませて店の外に出て行こうとするヒロ先生を見つめながら、サチの言葉にそう返事をした。すると、サチが信じられない行動に出た。なんと、ヒロ先生のところに駆け寄っていくじゃない。何をしようというの?
すると、今度はサチが私を手招きでよぶ。
「麻美、早く早く!」
このとき、店長の視線がちょっと気になった。サチはそんなのお構いなしに私を呼ぶ。
「ほら、憧れのヒロ先生だよ」
私、憧れだなんて一言も言っていないのに。
「あーっ、上代麻美さん! うわぁーっ、綺麗になって全然気がつかなかったよ」
うそーっ、ヒロ先生、私のこと覚えてくれてたんだ。この言葉には正直びっくりした。
「いやぁ、この店員さんが声をかけてくれなかったら、麻美さんだってわかんなかったよ。久しぶりだね」
「は、はい。お久しぶりです」
私はつい照れてしまい、それ以上言葉が出なかった。
「ボクも今年、五年ぶりにこっちの中学に戻ってきてね。この店に来たのは始めてなんだよ。たまたま広告に欲しいのが載ってたから。それにしても、教え子になかなか会えないものだね。麻美さんが始めてだよ」
陽気な笑顔で私にそう語りかけてくれる。この日は社交辞令的にそう挨拶をしてその場を別れた。
「麻美、久々の再開どうだった?」
仕事が終わってサチとチョコレートを買いに行くときにそう聞かれた。そこでサチは、買い物そっちのけで私にいろいろと質問をしてくる。私はつい、中学の時のチョコレート事件のことまで話すハメになってしまった。
「じゃぁ、恋焦がれてた先生だったんだ。あの先生、見たところまだ独身よ」
「えっ、どうしてわかるの?」
「今日買った商品、あれは一人用のお鍋のセットよ。家族持ちはあんなの買わないわ。それに指輪もしてなかったし」
「でも、奥さんがたまたまいなくて買いに来た、とか…」
「大丈夫よ。あの先生が来店したら、真っ先に麻美に教えてあげるから。いろいろ聞いてみなさいよ」
どうやらサチは私の恋を応援してくれているつもりのようだ。サチはヒロ先生用のチョコレートを買いなさいって私をそそのかすけど。でも、買ったところで渡せることもないだろうし。結局、この日は会社用と友チョコをいくつか買っただけ。
なんかため息出ちゃうな。この日は悶々として、なかなか眠ることができなかった。
次の日は眠い目をこすりながら出社。
「麻美、なんかフラフラしてるけど大丈夫?」
「ん、大丈夫だよ…」
そう言いながらも、気持ちは上の空。昨日再開したヒロ先生のことがどうしても頭から離れない。そんな調子で仕事をしていたものだから、なんかミスが多くて。レジ打ちも間違ってしまってお客様から怒られたし。棚の整理もボーッとして手が進まない。今日は店長が休みだから怒られなくて済んだけど。
そして夕方。そろそろ帰る時間というときに、驚くことが起きた。
「麻美さん」
商品の整理をしていたら、ふいに声をかけられた。振り向くと、なんとそこには…
「ひ、ヒロ先生!」
「あはは、そんなに驚かないでよ。さっき、昨日いた店員さんに麻美さんがここにいるって聞いたから。何かボクに聞きたいことがあるんだって?」
サチのヤツ、変に気を回してくれちゃって。ヒロ先生は買い物かごに食料品をいろいろ入れている。その買い物かごを見ると、カップ麺やレトルト食品、あとは男性化粧品などしか入っていない。どう見ても家族の匂いはしないな。
そんな中で、コーヒー豆がたくさん入っているのが印象深かった。そこで思わず、こんな質問をヒロ先生にしてしまった。
「せ、先生はコーヒーお好きなんですか?」
「あ、コーヒーか。うん、結構飲むんだよ。家では本格的に豆をひいて飲んだりもするけど、職場ではそうもいかないからね。こいつは学校で飲むためのものだよ。そうそう、この前おもしろい喫茶店を見つけてね。麻美さんはお休みはいつかな? ぜひ連れて行ってあげたいな」
その言葉に私はパッと目が開いた感じがした。私を連れていきたいってことは、まだ独身ってことよね。これってデートの誘い?
だが、次の一言にはちょっと落胆。
「よかったらあの店員さんも一緒にどうかな?」
なんだ、私一人を誘ったわけじゃないのね。でも、そう言ってくれてとてもうれしい。
「休みはシフト制で平日休みとかが多いんですけど。今度土曜日か日曜日に休みになったときにお知らせします」
こう答えるのが精一杯。
「だったら、連絡先を教えてくれるかな」
「は、はい!」
これでヒロ先生の連絡先ゲット!
「麻美、やったね!」
サチも喜んでくれた。憧れのヒロ先生と出かけられるんだ。でも、ヒロ先生はどういう気持で私を誘ってくれたんだろうか。昔が懐かしくて、それでなのか。それとも私を女性と見てくれたのだろうか。このとき、またあのバレンタインデーのことが思い出された。
「先生、これ、受け取ってください」
まだ新任だったヒロ先生に、私は放課後思い切ってチョコレートを手渡した。けれど、それは私だけではなかった。クラスの多くの女子に混じって、私はチョコレートを手渡した。だから、ヒロ先生は私のことは女子生徒の一人としてしか見ていなかったはず。
周りの女子と唯一違うのは、私は自分の思いを込めた手紙を添えていたこと。あの手紙、ヒロ先生はちゃんと読んでくれたんだろうか。そして、何を感じてくれたんだろうか。
残念ながらその後、ヒロ先生からは何のアクションもなかった。バレンタインデーの翌日に、先生の口からみんなへのお礼の言葉があり、さらにホワイトデーには女子だけでなく男子にもちょっとしたお菓子をプレゼントしてくれた。私だけが特別、なんてことはなかったな。
「で、喫茶店に誘われたんだよね」
サチの言葉が私を現実に引き戻す。
「う、うん」
「喫茶店といえばね、高校の時の友達から面白いところに誘われているんだ。喫茶店なんだけど、今度そこでバレンタインの手作りチョコクッキーの教室があるんだって。ちょうど私と麻美の休みが一緒の時なんだよ。ね、行ってみない?」
突然のサチの誘い。私はそういった手作り系は苦手なのに。でも、サチの次の一言が私の行動を決心させた。
「そこでつくったチョコクッキーをヒロ先生にプレゼントしちゃいなよ。きっと好感度アップだよ」
手作りの悪夢が一瞬よみがえってきたが、一人で作るわけじゃないしきっとうまくいくはず。
「うん、行ってみようかな」
「よし、決定! じゃぁ申し込んでおくね」
そうして私は手作りクッキーの教室に行くことになった。それから三日後、私とサチはその喫茶店に足を運んだ。
「へぇ、この通りにそんな店があったんだ」
サチに連れられてきたのは、私のお気に入りの通り。道幅は車一台が通るくらい。道の両側にはブロックでできた花壇。道もパステル色のタイルで敷き詰められている。狭い通りの両側には、ブティックや雑貨屋、歯医者なんてのも並んでいる。
私はここによく来るのに、その喫茶店は知らなかった。
「あ、ここよ、ここ」
「CafeShelly…?」
「カフェ・シェリーって言うの。もう友達は来てるはずだから。さ、行こう」
サチは軽快に階段を上がっていく。私もサチの後を追って駆け足で階段を上がる。
カラン、コロン、カラン
心地良いカウベルの音が響く。同時に奥から「いらっしゃいませ」の女性の声。店に入ると同時に、クッキーの甘い香りとコーヒー独特の香りがブレンドされた空気に包まれた。
「あのー、クッキーづくり教室に来たんですけど」
「はい、お待ちしていました。これで全員揃いましたね」
店の中にはすでに三人の女性が待ち構えていた。今日は合計五人の生徒がいるみたいだ。
「紹介するね、私の友達の香織、そしてその友達」
その友達と紹介された一人を見てビックリ!
「えーっ、芳恵じゃない」
「うそー、麻美!」
なんと、中学の時にヒロ先生のバレンタインのチョコレートを一緒につくってくれた芳恵の姿がそこにあるじゃない。芳恵とは高校が別になったので、それ以来疎遠になっていたが。
「えー、二人は知り合いだったんだ」
「うん、中学の時の同級生。ほら、ヒロ先生のバレンタインのチョコレートを一緒につくってくれた友達だよ」
私はサチに芳恵のことを説明した。
「えーっ、じゃぁこれはヒロ先生とはやっぱり運命の再会だってことじゃない。麻美、今日のクッキー作りは気合を入れなきゃ」
「え、なになに、ヒロ先生と再会したの?」
芳恵が興味深そうに聞いてくる。すると、私よりもサチのほうが熱心に今の状況を説明。そうしたら、今度は芳恵のほうが気合を入れてきた。
「よし、麻美、今度はあんな失敗しないように、今日ここにいるみんなで全力であんたをサポートしてやるから。頑張るんだよ」
周りにいた人たちも、今の話を聞いてなぜかノリノリに。気がついたら、今日は私のためのクッキー作り教室になってしまった。
「はーい、じゃぁそろそろ始めますね。私はこの喫茶店でクッキーやお菓子をつくっているマイといいます。今日は私の師匠でもあります、この店のマスターの妹さんの文子さんに来てもらいました。文子さんは以前はパティシエをやっていて、お店もやっていたことがあるんですよ」
今日はプロの指導が受けられるんだ。気合を入れなきゃ!
こうして始まったクッキー作り教室。今日はみんなの目的が一致したためか、やたらと団結して協力的に進んでいった。
「麻美、ここはこうやってしぼり出すのよ」
私はあいかわらずのドン臭さ。みんなに迷惑をかけながらも、なんとか作業をこなしていく。
「はい、ここでいよいよクッキーの型作りに入ります。じゃぁマイちゃん、最大のポイントを教えてあげて」
今まで指導をしていた文子さんが、突然喫茶店の店員さんに説明係を振った。最大のポイントってなんだろう?
「バレンタインの贈り物って、みなさんはどんなイメージを持っていますか?」
その質問、真っ先に頭に浮かんだのはヒロ先生の笑顔。ここで私は中学の時を思い出した。
「ヒロ先生、これ、受け取ってください」
私の想いを込めて作ったチョコレート。包装も不器用だったけど、なんとか可愛らしく出来上がったと思っている。
「ありがとう。大切に食べさせてもらうよ」
私のチョコレートを受け取ったときのヒロ先生の顔。とても素敵な笑顔をしていた。この笑顔を見たくて、私はチョコレートを作ったんだ。
そのことが頭の中で思い出されていた。
「麻美、なんか一人でニヤニヤしちゃって。またヒロ先生のこと思い出してたんでしょ」
サチが私に小声で突っ込む。
「え、そ、そんな」
慌てて否定するけど、どうやら周りのみんなには見え見えのようだ。
「うふふ、その気持が大事なんですよ」
マイさんは話を続けた。
「クッキーに限らず、手作りのものを美味しくさせる一番のポイント。それは相手への愛情なんですよ。これを抜きにテクニックだけいくら上達しても、表面上のおいしさにはなります。けれど、それだと機械で作ったのと大して変わらないんです。手作りの本当の良さ、それはどれだけそこに心を込めるか。さ、ここからはクッキーを贈る相手のことを考えて作業してみてください」
マイさんの言葉に私はいたく感激した。
そう、そうなのよ。中二の時に私が必死になってヒロ先生のためにつくったチョコレート。見た目は不恰好だったけれど、そこには私の愛情がたくさん詰まっていた。そんな愛情たっぷりのものを作ったのは、後にも先にもあのときだけだ。今じゃバレンタインなんてただのチョコレートを渡す儀式にしか過ぎない。
私、愛情をあの時に置いてきてしまった。あの時から恋は何度もした。でも、今思えば形だけを追っていた気がする。好きになった人に嫌われないために、ファッションに凝ったり食べるものに凝ったり。けれど、それはすべて出来合いの物。私の愛情は二の次だったな。
マイさんに言われて、私はそれからはずっとヒロ先生の顔を想いながらクッキー作りに励んだ。
「はーい、ではあとはオーブンに入れて焼き上がるのを待つだけですね。ではその間はコーヒーを飲みながら待ちましょう」
クッキー生地もできて、あとは焼き上がりを待つだけ。その間、マイさんからコーヒーブレイクの提案。私たちは片付けを行い、コーヒーの到着を待った。
今まで気付かなかったが、店のカウンターには渋い男性がいたんだ。この店のマスターらしい。マスターは待ってましたとばかりにコーヒーを入れ始める。ここで芳恵は私にこんなことを話してくれた。
「このお店のマスターとマイさん、夫婦なんだよ。二十歳くらい歳の差があるんだって。麻美とヒロ先生なんか大した歳の差じゃないわよ」
へぇ、そうなんだ。でも、二人の様子を見ていると違和感が全くない。むしろ歳の差なんか感じさせない安心感がある。
「で、もちろんヒロ先生に今日のクッキーを渡すんでしょ」
サチの言葉に、ちょっと恥ずかしさもあったが首を縦に振る。
「ねぇ、みんなで麻美を応援しようよ」
「いいね、どうやったら成功するか考えよう」
なんだか私抜きでみんなは勝手に盛り上がり始めた。このノリは中学時代以来だな。あのときも芳恵がいろいろと考えてくれたんだ。なんだか懐かしいな。
「はーい、コーヒーできましたよ。みなさん、飲んだ感想をぜひ聞かせてくださいね」
マイさんがコーヒーを運んできてくれた。私たちはそのコーヒーを手に取り、早速口に運んだ。
「んっ、おいしいっ」
今までコーヒーなんておいしいとは思わなかったけれど。ここのは掛け値なくおいしいと言える。と同時に、私の口の中には甘酸っぱいものが広がっていった。
そうだ、あの中学生の時に感じた恋の味だ。思えば、ヒロ先生以来こんな恋の感情って味わったことがなかったな。まだ子どもだったといえばそうなのかもしれないけれど。
あのときから味わった恋って、なんかどこかで我慢を強いられていたような感じがする。好きになった人に気に入られようと、背伸びをしていた自分がいたんだ。素直に私のことを受け入れてくれる。そんな甘えられるような恋がしたかった。
ヒロ先生なら、なんか私を包みこんでくれるような、そんな気がする。
「お味はいかがでしたか?」
自分の世界にはまり込みかけていたときに、マイさんの声でハッとさせられた。その問いかけにまず答えたのはサチだった。
「なんか不思議な味がする。コーヒーなのに苦くなくて、体の奥から熱いものが込み上げてくるんですよ」
サチの言葉をかわきりに、他のみんながコーヒーの感想を口にし始めた。
「私は逆に爽やかな感じがしたわ。気持ちが涼しくなるって感じ」
「えーそうかな。ちょっと甘い感じがしたよ。私の彼氏といる時みたいな」
こんな感じで、みんな感想を口にしている。これってどういうことなの?
「ふふふ、それぞれに違った味がしたみたいですね。実はこのコーヒー、シェリー・ブレンドは魔法のコーヒーなんですよ。このシェリー・ブレンドは、今自分が欲しい物の味がするんです」
うそーっという言葉が思わずみんなから漏れた。が、そう言われると納得する。ヒロ先生が私を包みこんでくれる、そんな恋の甘酸っぱい感じを私は望んでいたんだ。
念のため、もう一度シェリー・ブレンドを口にしてみる。すると、今度は鮮明にヒロ先生の顔が思い浮かんだ。優しく私に微笑みかけるヒロ先生。その微笑みに包まれて、私は幸せな気持ちを感じている。そんな映像が頭の中に思い描けた。
「麻美はどんな味がしたのよ?」
芳恵からそう言われて、私は現実に引き戻された。
「どうせヒロ先生のことを思い出すような味なんでしょ」
芳恵は意地悪そうに私にそう言う。が、当たっているだけに私は何も言えない。
「麻美さん、でしたよね。今回みなさんがいろいろと協力をしてくれたみたいだけど。今、想いを巡らせている人がいるんですよね」
マイさんが私にそんな言葉を投げかけてきた。私はそれに対してこっくりと首を縦に振った。
「恋っていいですよね。今、目の前にあるものがすべてバラ色に見えちゃうんだから。でも相手のことを思うと苦しくなる時もありますよね。特に片想いの時は」
さらに続いたマイさんの言葉に、さらに私は大きくうなずいた。
「でも、片想いがダメだったらどうしよう。そんな不安もあるんじゃないですか?」
マイさんは私の心をどこまで見抜いているのだろう。
今回、みんなの協力でつくることができたチョコクッキー。これは当然ながらヒロ先生に渡すつもりで一生懸命作った。けれど、今この段階になって怖くなっているのも確か。また中学の時みたいに、何も無いまま終わってしまうのだろうか。あの頃はそれでもよかった。けれど、今は…
「麻美、あたって砕けろよ。とにかく告白してみなきゃわかんないじゃない」
「あら、砕けてもらっちゃ困るわよ。大丈夫よ、みんな応援してるから」
周りのみんなは口々に好き勝手なことを言う。けれど、逆に不安が襲ってくる。
中学の頃は、所詮はかなわない恋だと思っていた。でも今、私ももう大人。単なる憧れで恋をしてもダメ。そもそも私は本当にヒロ先生のことが好きなのだろうか?
中学のあの頃に気持ちを戻したい。ただそれだけなんじゃないだろうか。私の不安は自分自身の心に向けられていることに気づいた。
「大丈夫?なんだか不安そうな顔してるけど」
マイさんがあたしの顔色を察知してそう言ってくれた。
「はい…私、本当にヒロ先生のことが好きなんだろうかって、そう思っちゃって」
「えーっ、今さらそれはないでしょう。みんなここまで協力したのに」
芳恵はそう言うが、ホントに今の私の気持ちが自分でもよくわからない。すると、カウンターの奥からマスターが声をかけてきた。
「クッキーが焼けたよ。麻美さん、自分が作ったクッキーとシェリー・ブレンドを一緒に口にしてごらん。きっと今の答えが見えてきますよ」
本当にそんなことができるのだろうか? でも、さっきシェリー・ブレンドを飲んだときには私が欲しかったものが感じられたらんだから。
マイさんができたてでアツアツのクッキーを持ってきてくれた。私が作ったのは形が不格好だから、一目でわかる。その中の一枚を手にした。こんなへんてこな形のクッキーをもらってもうれしいものなんだろうか。そう思いながらそのクッキーを口に運ぶ。
パリッ
程よい硬さと舌触りの良さ。そして口の中でチョコレートの香りが広がっていく。さらに、残っていたシェリー・ブレンドを口に含ませる。クッキーの甘みとコーヒーの苦味がうまく混ざって、なんともいえない味わいを見せる。
あ、なんか私、包まれてる。このとき、私は中学時代の私になった。
「よくがんばったな」
そう言って頭をなでてくれる人がいる。ヒロ先生だ。思い出した、私がどうしてヒロ先生を好きになったのか。
中二の二学期の期末試験。このときに私は苦手な英語を受けたことがない必死で頑張った。
ヒロ先生は英語の先生。わからないところをヒロ先生に聞きに行き、一生懸命勉強した。その結果、いい点数を取ることができた。そのとき、ヒロ先生は私の頭をなでてそう言ってくれたんだ。大人の男の人に包まれている。そう思えたんだった。
あれ以来、恋をしても包まれているって感じを受けたことがない。私がヒロ先生に望んでいるのはそこなんだ。時を経て再会したヒロ先生からは、まだあのときの雰囲気が感じられる。
「私、包まれたかったんだ」
「えっ!?」
私がぼそり吐いた言葉に、みんなの目が集中した。
「包まれたかったってどういうこと?」
サチの質問に私が答えようとする前に、マイさんが言葉を発した。
「麻美さん、包まれるってとても気持ちがいいものですよね。そんな愛情のある状況を望んでいたんだ。愛っていろんな形や表現があるでしょ。麻美さんの包まれたいっていうのも、その表現の一つじゃないかしら。だから、自分の気持に自信を持っていいんですよ」
私の中でモヤモヤしていたものが、マイさんの言葉ではっきりとした。今、ヒロ先生に求めているのは包まれるって感情なんだ。ヒロ先生が包んでくれるのなら、私はそこに身をゆだねてみたい。そんな気持ちが心の奥から一気に湧いてきた。
「麻美、おもいっきり包まれておいでよ。あーっ、私の彼もそんな大人になってくれないかなー」
「芳恵、あんた彼氏いないでしょっ」
場は大笑いに包まれた。
あぁ、包まれるってこういうことなんだよな。安心して自分の感情を表に出せる。私はこういう毎日を送りたかったんだ。このカフェ・シェリーって私たちを包みこんでくれるところだなぁ。こうしてバレンタインのクッキー作り教室は笑いと盛況のうちに幕を閉じた。
そうして迎えたバレンタインの日。私はラッピングをしたチョコレートクッキーを手に出社。
あれからヒロ先生は二、三日に一度の割合でお店に顔を出してくれる。昨日は来なかったので、今日は来てくれるかな。そんな勝手な想いを持って今日の日を期待した。
「麻美、いよいよだね。ヒロ先生が来たらすぐに知らせるから」
サチの方がなんだか気合いが入っている。
そうして迎えた夕方。いつもだと学校帰りのこの時間に訪れる。私はそわそわしながら、ときおり時計と入り口を眺めて憧れの人を待つ。このとき、また中学時代の私がよみがえってきた。
ヒロ先生にチョコレートを渡したあの日。私は放課後の職員室の前で、ヒロ先生の仕事が終わるのをじっと待っていた。あのときは芳恵が一緒にいてくれたんだった。
職員会議が終わるのをずっと待っていたときに、時計と職員室の出口を交互に眺めては、胸のドキドキを感じつつその時を待った。
あのとき以来だな、こんな気持ちって。
「先生、受け取ってくれるかなぁ」
私の頭の中で、思い出となった中学の時の自分と今の自分が同時にこのセリフをつぶやいた。その二人のつぶやきが私の気持ちを揺さぶる。
やっぱ私、自信がないよ。ヒロ先生、来ないで。でも来て欲しい。この二つの気持ちが交互に私に襲ってくる。
「ヒロ先生、今日は遅いね。女の子にとって大事な日だってわかってるのかなぁ」
サチは人ごとだからそんなふうに言えるんだろうけど。私はさっきから胸がドキドキしっぱなし。
「あ、きたっ!」
サチが待ってましたとばかりに入り口に駆け寄る。そこにはヒロ先生の姿が。
「い、いらっしゃいませ」
いつになく緊張した顔で私はヒロ先生を迎えた。
「やぁ、今夜は同僚の先生がウチにくるんでその食材を買いに来たよ」
気軽に話しかけるヒロ先生。このとき、一瞬嫌なイメージが私を横切った。同僚の先生って、まさか女性じゃないのかな。バレンタインだから、その女性の先生がチョコレートを持ってやってくるとか。そう思った瞬間、私はそこから身動きがとれなかった。陽気に買い物をするヒロ先生の後ろ姿を見守ることしかできなかった。
「麻美、なにやってんの。早くチョコクッキー渡しなさいよ」
サチは私にそうけしかけるが、怖くて渡せない。
「今夜、家に同僚の先生が来るんだって…」
サチにそうボソリとつぶやくしかなかった。
「だからどうしたのよ。あ、その同僚が女性だって思っているんでしょう」
私はサチの言葉にこっくりとうなずいた。
「そんなの決まったわけじゃないでしょ。それに、仮にそうだとしても麻美がヒロ先生を奪い取っちゃえばいいだけの話よ。さ、いくよっ!」
サチは私の背中を押して、強引にヒロ先生の前へと連れて行った。ヒロ先生は冷凍食品のコーナーで何かを物色中。
「ヒロ先生っ、麻美がお話があるそうです」
「えっ、なんだい?」
突然現れた私たちにヒロ先生はちょっとびっくりしていた。
「ほら、麻美っ」
サチに促され、私はエプロンのポケットに入れていたクッキーをゆっくりと取り出し、そしてヒロ先生の前に差し出した。
「あ、あの、これ、よかったら受け取ってもらえませんか」
小さな声でそういうのがやっとだった。
「えっ、オレにくれるの? いやぁ、うれしいなぁ。今日も学校では子どもたちにチョコをもらったけど、大人の女性からこうやってもらうのは久しぶりだよ」
ヒロ先生のその言葉で、ちょっと希望が見えてきた。なんかうれしいな。そのとき、思いがけないことが起こった。
「麻美さん、ありがとうね」
そう言ってヒロ先生は私の頭をポンポンっと軽く叩くようにしてなでてくれた。
このとき、また中学時代の思い出の私が出てきた。
「先生っ」
私は空想の中でヒロ先生に抱きつき、そして眠りについていた。安心すると、ドキドキもあるけれどこうやって眠ってしまうこともできる。好きな人の愛情に包まれて、幸せな気持ちを体いっぱいに感じて、ずっと過ごしていたいなぁ。
これが中学の時に抱いた私の夢。残念ながらまだそんな恋愛にたどり着いたことはない。けれど、さっきのヒロ先生の行為で、ほんの一瞬だけどそれを味わうことができた。
「先生…私、中学の頃から先生のことが好きでした。今も好きです、大好きです」
自分でも信じられない言葉が口から自然に出てきた。どうしてそんな大胆なことが言えたんだろう。ヒロ先生は黙って私を見つめている。
そして…
「麻美さん、その返事は今度一緒に喫茶店に行ったときにさせてくれないかな」
ヒロ先生はいつになく真面目な表情で私にそう言った。
「はい」
そう返事をするのがやっとだった。
この日はそれでヒロ先生とは別れることに。まだ喫茶店に行く日は決まっていない。今度の土日は私は出勤だし。シフト表を見ても、二月いっぱいは実現できそうにない。
あー、早くヒロ先生の返事が聞きたい。けれど聞くのが怖い。でも、どうして喫茶店に行くまで待つんだろう?
そうして数日が経った。あれからヒロ先生は何度かお店に買い物に来てくれているけど、なんとなく態度がよそよそしい。むしろ私を避けているようなところもある。この前も、私の顔を見て軽くあいさつをすると、買い物かごを抱えてすぐに食料品のコーナーへと消えて行った。
ようやく三月のシフトができて、ありがたいことに第一週の土曜日が休みになっていた。サチは残念ながら出勤だが、思い切ってヒロ先生へメールをしてみた。すると、すぐに返事が帰ってきた。
「じゃぁ土曜日に喫茶店に行きましょう。十時に駅前で待ち合わせでいいかな」
あれだけ私を避けているようなところがあったので、半分諦めていたんだけど。サチにもそのことを報告すると、こんな言葉が帰ってきた。
「麻美、ヒロ先生はあんたのことどう思っているかわかんないけど、麻美の気持ちが変わらないんだったらもう一度思い切ってアタックしてみなよ」
そう言われて、私はもう一度自分の気持を整理してみた。
私は包まれたい、ヒロ先生の優しさに。今はちょっとよそよそしい態度になっているけれど、でも顔を見ると安心するし。やっぱヒロ先生のこと好き。でも、この気持ちを上手く伝えられるだろうか。
そして迎えたヒロ先生と喫茶店に行く日。世間一般ではこれをデートと言うんだろうけど、ヒロ先生はどう思っているのだろうか。
ドキドキしながら駅前で待っていると、ジーンズ姿のヒロ先生が登場。こんなラフな姿は始めて見た。いつもはスーツかジャージだもんね。
「麻美さん、お待たせ。さ、行こうか」
私はヒロ先生について行く。ヒロ先生は今学校で起きていることとか、おもしろい話をしてくれる。私はそれをうなずいて聞いているだけ。でも、ヒロ先生の話を聞くのは面白い。
そうしているうちに、ヒロ先生はある通りへと私を導いてくれた。
「あっ」
思わずそう口にしてしまった。ここ、カフェ・シェリーのある通りじゃない。ってことはもしかしたら…
「ここの通りにあるカフェ・シェリーっていうお店がおもしろいんだよ。ここには魔法のコーヒーがあってね。飲んだ人が望む味がするんだ」
びっくり。まさか、ヒロ先生もカフェ・シェリーファンだったとは。でも、私も来たことがあるなんて言わないほうがいいのかしら。
迷っていると、ヒロ先生は階段を上がってお店へと入っていく。私もあわてて追いかける。
カラン、コロン、カラン
カウベルの音と共にいらっしゃいませの声。マスターとマイさんは私がヒロ先生の後ろについているのを見て、にこりと笑ってくれた。
大丈夫、任せて。そんな合図にも思えた。
「マスター、今日はお願いします」
ヒロ先生がマスターにそう言う。どうやらヒロ先生はここの常連みたい。三人がけの丸テーブル席に腰を落として、私はヒロ先生を見つめた。いつもよりソワソワしている。そして、何か意を決したように私の方を向いて話を始めた。
「麻美さん、今日ここに連れてきたのは、自分の気持を確かめたいからなんだ。君に再会してから、なぜか気持ちが落ち着かなくて。その気持を確かめたくて、今日はここに来たんだ」
私と同じだ。ヒロ先生、シェリー・ブレンドに頼ろうとしているんだ。
ヒロ先生はここでシェリー・ブレンドの説明を始めた。私はそれを知らないふりをして聞く。
「お待たせしました」
いよいよ緊張の時がきた。ヒロ先生は意を決したようにコーヒーを飲む。私はヒロ先生の言葉を待つ。そして…
「麻美さん、わかったよ、自分の気持が」
そのあと、私は自分がこんなに泣き虫だったのを自覚することになる。悲しい涙ではなく、うれしさの涙であふれる自分を。
もうすぐ春になるんだ。そう感じる日の出来事だった。
<バレンタインの思い出 完>