第五話 醤油の味 その2
夕食の時間帯にはまだ早いが、食料を売っている市場が昼休憩を終えて再開しているとのことで、ロコナさんと一緒にやってきた。
外を歩くということで、ロコナさんは耳のあたりまで隠れるような帽子をかぶっていた。
彼女がエルフだということを隣人は知っているが、街の人すべてがエルフに対して好意的というわけではないとのことだった。
まず、ロコナさんは金貨を銀貨に崩したいというので、途中で両替をしてもらってきた。お金を持っているところをバルトロ一家に見られると危険なので、細心の注意を払って行動したが、その道中からロコナさんは楽しそうにしていた。
「どうしたんですか、ロコナさん」
「タクミさんと内緒のことをしていると、何だか子供の頃に戻ったみたいで楽しいんです」
ほんわかとした受け答えをするロコナさん。こんな彼女を借金の取り立てで困らせている男たちは、やはりどうにかしなければと思う。
工房の経営を軌道に乗せたら、利子を払ってしまうのがいいだろうか。いや、不当に請求されているものを払ったら必ず向こうを調子に乗せることになる。
騎士団のアレクトラさんに相談するというのは――いや、勇者候補生が自分の力で人を守ることができないというのは彼女を失望させるだろうし、遼樹たちのパーティを追い出されたと言わなければ、まず彼らに協力を求めてはと勧められるだけだろう。
「……タクミさん?」
「え……」
気がつくとロコナさんが俺の正面に回って、こちらを見上げてきていた。
俺は思わず一歩下がりそうになるが、彼女の澄んだ瞳を見ていると動けなくなる。
「タクミさんは、時々ここではないどこかを見ているような目をしています」
彼女を助けたい。守りたいと思っても、今の俺の力だけじゃ足りていない。
方法を選んでいる状況じゃないことを考えると、俺が遼樹たちに頭を下げて力を貸してもらえるように頼むべきなのだろう。
「私は……タクミさんがお料理を作ったり工房の材料を使ってものを作ってくれたり……それだけでとても、その……嬉しいと思っているので。タクミさんが無理をせずに楽しいと思うことをして、毎日過ごしてくれたらいいなと思っています」
――こんなに、ロコナさんは俺のことを心配してくれている。
工房に置いてもらった恩はあるが、俺が彼女のために何かをしたいと思っているのはそれだけが理由じゃない。
今はその気持ちが何なのか、確かなことは言えない。けれど、ロコナさんも言葉を探しながらでも、俺のことを考えてくれている。
お互いに同じような気持ちでいるのならば、それはとても嬉しいことだ。出会ったばかりでも関係ない、俺はロコナさんを助けるために、できることを全力で考えたい。
「実は、勇者候補生としてパーティを組んでいた仲間に、助けてもらおうかと考えていました」
「……タクミさん」
「でも……簡単に頼りたくない。薄っぺらなプライドかもしれませんが、今彼らを頼るようなことをしたら、俺は……」
遼樹は『やっぱり俺一人ではそんなものか』という顔をするだろう。一条さんは雑用しかできない男だと思うだろうし、助けを乞う俺をどんな目で見るか――あまりいい想像はできない。
漆原さんは――情けない姿ばかりを見せて、俺を蔑まなかったからといって彼女に頼ろうとするのは申し訳ない。彼女にも彼女の考えがあって、勇者候補生として実績を積もうと努力している。俺は、その足を引っ張ってしまっていたのだから。
でもそれは言い訳だ。本当にロコナさんを助けたいなら、俺がすべきことは――。
「……タクミさん、また別のところを見てしまってます」
咎める言葉でも、その響きは優しかった。
頬にひんやりとした手が触れる。
ロコナさんは俺を自分の方に向かせて、そして微笑みながら言った。
「私はここにいます。不安で仕方がなくて、すぐにでも知らない誰かに助けてほしいって、そうやって悩んでいるように見えますか?」
それが強がりであっても、彼女がそう言うのなら疑うことはすべきじゃない。
それに――ロコナさんの言う通り、本当に不安で仕方がなかったら、そんな顔はできない。
彼女は俺との距離が近いことに気づくと、顔を赤らめて一歩下がり、そして言った。
「私は……その、少し恥ずかしいですが……、タクミさんのお料理が、とても美味しかったので……夕食も楽しみ、って思っているだけなんです」
「……そうですね。心配なことはありますが、だからこそ食べて元気を出さないと」
「はい。タクミさんの食べたいものを作りましょう。それでお腹いっぱいになったら、少しお話をして、ぐっすり眠るんです。そうしたら、二人とも元気になります」
「はい。ありがとうございます、ロコナさん」
「っ……い、いえっ、そんな、お礼を言われるようなことは……」
「してますよ。どれだけ感謝しても足りないくらい」
「あ……」
ロコナさんが少し驚いたように目を見開く。その理由は俺が言ったことが意外だったからとか、そういうことではなかった。
「……タクミさん、笑顔は可愛いんですね」
「え……い、いや、俺みたいなのが可愛いなんて、そんな……」
「いいわねえ、旦那さんが一緒に買い物に来てくれるなんて。うちの人なんて全然だもの」
「ジェラルドさんのお孫さん、いい人ができたのねえ」
俺たちは大事なことを忘れていた。
ここは人通りのある市場の入り口。ロコナさんのことを知っている主婦の人たちに、通りすがりに声をかけられて、俺たちはハッとさせられる。
「……あ、あの。私と一緒にいると、今のように言われてしまうことが多いかもしれませんが……ご迷惑ですよね、私、エルフなので……」
「あ、いや、俺は種族のことは気にしません。その、エルフには神秘的なイメージがあるとか、勝手な印象は持ってしまってましたが」
「そ、そうですか……耳が尖っていたりするのは、気になりませんか?」
「気にはなりますが、その……何というか、全く悪い意味ではないですね」
エルフの耳に惹かれてしまうのは、元の世界でのファンタジーの影響が少なからずある。まして俺は元の世界において、ファンタジー系のゲームを作りたくて会社に入ったわけだから、エルフに対する興味は人一倍だ。
だが、触ってみたいとか言ったら――さすがに引かれてしまうだろうか。
「……よかった。タクミさんが私に遠慮をしているんじゃないかって心配だったんです」
そしてロコナさんは、やはり自分の容姿に対して謙遜しすぎている。美人だから狙われやすいなんていうのは迷惑な話だが、バルトロ一家がロコナさんに拘るのは、明らかにそれが理由だ。
「その、ロコナさんの種族のことは、外ではあまり言わないほうがいいんですよね」
「は、はい……お気遣いいただいてありがとうございます。でも、私、タクミさんがエルフのことをどう思っているか、どうしても今聞いておきたかったので……」
ロコナさんは帽子を深く被り耳カバーを引っ張ると、前が見えないような状態になる。
そんな仕草を見ていると、彼女はしっかりしているが、何より純朴なのだと思う。
「時間的に市場が混んできそうですね。早めに買い物を終えたいところですが……ロコナさん、行きつけの店とかはありますか?」
「いつもお世話になっていますから、ほとんどのお店さんと知り合いです。おまけをしてくれたりもして……あまり甘えてはいけないですが、とても助かっています」
市場に集まっている数十の露店。ロコナさんはそのほとんどと知り合いらしい。一通りの食材を利用したことがある、ということか。
――スキル『合成』に必要な『レシピ』を作成
視界に映っている食料品や香辛料などの露店。そこで売っている食材全てが、夕食の献立の材料として選択肢に入る。
そう認識した途端に、頭の中に無数のレシピが浮かぶ。かなりの情報量が一気に頭に流れ込んできたのだが、その中に思わず驚くようなものも含まれていた。
『あれ』が本当に作れるとしたら、それはある意味で革命だ。
特に『あれ』を調味料として使う国から召喚された勇者候補生たちは、異世界で『あれ』が作れたとなれば目の色を変えるだろう。
『異世界の食事にも慣れてきたけど、ときどき和食の味が恋しくなるわ』
一条さんの言葉を思い出す。
そう。異世界にはなく、求めても見つかりようがないもの。
それが、和食だ。
今まで召喚された勇者候補生たちは、地球の食文化を少しは異世界に伝えたようだったが、このクラウドバークで地球の料理が食べられる場所はない。似たものはあっても、違うものだ。
しかし俺が作った『カルボナーラ』は、食材こそ違えど地球のものにかなり近かった。
たった今、俺の頭の中に浮かんだレシピにも異世界料理らしきものはあるが、その多くは地球の料理だった。
つまり、この市場に売っている材料で地球料理に近いものを再現できるということなのだろう。
だが材料があっても、本当にできるのかまだ信じられない。『あれ』を作るのは家庭ではとても難しく、時間のかかる発酵過程が必要になるからだ。
しかし、ロコナさんの許しが得られるなら、ぜひ試してみたい。俺の『合成』で、『あれ』が作れるのかを。
「ロコナさん、料理の材料と一緒に、調味料の材料を買ってもいいですか?」
「はい、もちろんです。調味料の材料というと、どういうものでしょうか?」
クラウドバークの料理で味付けに使われるのは、岩塩と数種類の香辛料くらいだ。砂糖の原料はあるが酒の材料に優先して使われるため、精製された砂糖は売っていない。
野菜や動物性のダシなどを使って作るソースは、通常食卓で目にすることはない。あれを店頭でいくらでも買えていたことがどれだけありがたかったか、この世界に来てから痛感していた。
その状況が、俺たちの食卓においては変化する。
ロコナさんにもきっと喜んでもらえるはずだ。
「俺もまだ成功するか分からないので、食材を無駄にしてしまうかもしれませんが……」
「そのときは、倹約してなんとか乗り切りましょう。パンと塩、野菜のスープがあれば大丈夫です。タクミさんにはお肉や魚、豆を食べてほしいですが」
この世界でも豆がタンパク源になるというのは知られている。小麦にもタンパクは含まれているが、白いパンの材料となる小麦は貴重品だ。この市場で売っているのは『クレール小麦』といって王国内では広く流通しているものだが、それなりの値段がする。
だが、全く手が出ないわけではない。金貨一枚も使わず『あれ』の材料は揃えられる。
俺はロコナさんと相談しながら、食材を揃えていった。
あとで必要となる小さめの容器については、ロコナさんの家にあるとのことだ。
◆ ◇ ◆
帰宅後、俺は台所を借りて、さっそく調味料作りを始めた。
「タクミさん、お豆と小麦が調味料の材料になるんですか?」
「ええ、そうです。岩塩は使いやすいように砕いて……これで準備はよしと。本当なら、もっと手が込んでるものなので、自分でも本当にできるかどうか……」
まず、小さな陶器の壺に小麦と塩を適量入れ、水を入れる。普通はこんな方法では作れないのだが、『合成』を使えばできるという、不思議な確信がある。
「では、いきます……!」
「はいっ……!」
俺の気合いに引っ張られるようにロコナさんも言う。
興味津々といった表情で見つめている彼女の期待は裏切れない。
――使用素材1「クレール小麦」
――使用素材2「岩塩」
――使用素材3「井戸水」
――レシピ『クレール麦麹』合成成功 完成度B
――スキル使用経験を取得
「……できた……!」
俺は壺の蓋を開ける。ロコナさんに木のスプーンを借りて、生成されたものを掬う――実はこの目で見るのは初めてだが、これが『麹』というやつだ。
「これは……母から聞いたことがあります、あえて食べ物にカビを生えさせて、それで作るものがあると。でも、もっと時間がかかるものだと思っていました。タクミさんの力で、時間が短くなったんでしょうか?」
はロコナさんは麹の見た目に抵抗がないようで、そこは安心する。
まだ合成は終わっていない。この麹は次のステップに進むための過程だ。
「今度は、これと豆を合わせます。ロコナさんの言う通り、俺のスキルを使うと熟成にかかる時間が必要なくなるみたいですね」
「あ、あの……すみません、さらりとおっしゃっていますが、それはとても凄いことなのではないでしょうか」
「確かに凄いですね、他にも応用が効きそうというか『レシピ』が浮かびさえすれば、熟成が必要なものを何でも時短で作れますから」
時短というかノータイムでできてしまうのだが、魔力の関係で大量生産はできないし、そもそもここは鍛冶工房なので調味料を売るのは少し違う気がする。商品としての価値は、分かる人には分かってもらえそうではあるが。
「では、次の工程に進みます。塩と水を適量足して……」
「タクミさん、続けてスキルを使うと魔力が……私、もう回復していますので、もう一度魔力を分けますね」
――スキル『心の支え』を発動
――『ロコナ』の魔力を半分『タクミ』に供与
傍で様子を見ていたロコナさんがそっと寄り添ってきてスキルを使用する。
魔力が一気に流れこんできて、それだけではなく身体が熱くなる。
「タクミさんは職人さんですから、私は助手のようなものだと思ってください」
そう言いながら、ロコナさんが穏やかに微笑む。
これは半分、俺の趣味みたいなものなのに、それに真剣に付き合ってくれている。
「ありがとうございます、ロコナさん……では、行きます……!」
――使用素材1「クレール豆」
――使用素材2「クレール小麦の麦麹」
――使用素材3 岩塩
――使用素材4 井戸水
――レシピ『クレール麦味噌』合成成功 完成度B
――レシピ『クレール醤油』合成成功 完成度B
――スキル使用経験を取得
一度目の『合成』よりも消耗が大きく感じられた。
『合成』したものをさらに材料にしたからなのか、それとも、レシピによって消費する魔力が異なるのだろうか。
まあ、経験を積んでいけばこういうことも分かるようになるだろう。
「お疲れさまです、タクミさん」
ロコナさんは俺の額ににじんでいた汗をハンカチで押さえてくれる。
汚れてしまうのでと遠慮するものの、にっこりと笑われては俺も笑顔を返すしかない。
それはそうと、本当にできてしまった。
日本人の転生者が恋い焦がれるものの一つ、『味噌』と『醤油』が。
壺を開けてみると上澄みとして醤油ができており、底には味噌ができている。
「……な、何だか……タクミさん、不思議な香りですね……」
「だ、大丈夫ですか? ちょっとクセがありますかね、俺はこの香りには慣れてるんですが」
「い、いえ、大丈夫です。どんな味がするのか、気になります」
味噌や醤油は異世界人には受け付けないのでは、という心配が頭をよぎったが、そうではないようだった。むしろ、かなり興味を惹かれているみたいだ。
「……タクミさん、もう、作ってしまいます?」
「つ、作るというのは……って、料理のことですね。夕食にはまだ少し早い時間ですから、工房の整頓をしようかなと思ってます。仕事場として使わせてもらうことになりますし」
「そ、そうですよね……」
なぜかしゅんとしているロコナさん。
もしかしてそんなに楽しみなのだろうか。
「ロコナさん、よかったら味見をしてみますか?」
「っ……そ、そんな、味見なんて……いいんですか?」
「俺も仕上がりを見てみたいので。ロコナさんの口に合わないと、料理には使えないですし」
ロコナさんの表情がぱぁっと明るくなる。
ここまで期待されて美味しくないなんてことになったら残念だが、そのときは俺が個人で消費していくしかない。
スプーンに少し醤油をすくう。
赤みのある、鮮度抜群の醤油。匂いは本物と変わりないように感じる。クレール豆が大豆と遠く離れていなかったということだろうか。
「どうぞ。味が濃いので少しだけ試してみください」
「では……味見させていただきますね。んっ……」
スプーンを口元に運んで、ロコナさんはごく少量の醤油を味見する。
「……ふぁっ」
「っ……ロ、ロコナさん、やっぱり口に……」
合わなかったですか、と最後まで聞く必要もなかった。
ロコナさんは頬に手を当て、恍惚としてほぅーと息をついている。
およそ醤油を舐めたときの反応とは思えないが、これは間違いなく――大当たりだ。
「……大精霊様のしずくは、小麦と、お塩と、豆から作れるのですね」
それがロコナさんにとっての最高級の美味の表現であることは、彼女の表情を見れば分かった。
そしてもう一度スプーンに残った醤油をぺろっと舐めると、彼女の耳まで真っ赤になっていく。
こんなに好評だとは思いもよらず、そしてやたらとロコナさんが全体的に色っぽくなってしまい、俺は嬉しいと思いつつも当惑するしかなかった。




