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プロローグ・0



 子供の頃の夢が何だったかなんて忘れてしまったが、無邪気な少年だったあの頃に会社勤めの現実的な苦労なんて想像もしないし、ニチアサを見てなんとなくヒーローになりたいとか、それくらいのことを考えていたと思う。


 かっこいい何者かになりたいと思っている期間は悲しいかな、それほど長くはなく、俺が現実的な方向を向いて将来設計を始めたのは、小学校の低学年の頃だった。


 できれば公務員。できればサラリーマン。サラリーマンってなんだろう。


 サラリーとは給料のことだ。労働しなければ対価は得られない。じゃあせめて、自分の好きなことをやろう。


 そうやって自分の身の丈に合った生き方を選び、必要な収入を得て、そのうち素敵な出会いがあったりしないだろうかと考えたり考えなかったりしながら日々の仕事に負われ、徹夜残業明けの会社で黄色い朝日を見ながらぬるい無糖の缶コーヒーを飲み、「ああ、生きてるな」と思う。


 そんな人生に、特に不満を抱いていなかった。自分の興味を持てることを仕事にするというのは、何とか目標通りになっていたから。


 しかし、今になって思う。


 まだ俺は「かっこいい何者か」になりたいという気持ちを、どこかで諦めきれていなかったんじゃないのかと。


 それは別に、世界を守るヒーローなんかじゃなくてもいい。


 自分のことを想ってくれる誰かを守れたら、それでいい――なんて。


 格好をつけてみたって、俺は俺でしかない。


 たとえ異世界に行ったとしたって、何も変わらないと想っていた。




「……さん。タクミさん、起きてください」

「ん……」


 誰かが俺のことを優しく揺すっている。


 朝の光を背に浴びて、誰かが俺を覗き込んでいる――亜麻色の髪を持つ女性。


 けれど俺がまた目を閉じてしまうと、彼女は仕方ないというように笑う。


 その気配が、そっと近づいてくる。こんなに近くていいのだろうかと、まだ半分まどろんでいる頭で考える。


「……朝ご飯の支度を、一緒にしたいっておっしゃってくれましたよね?」


 ささやくような声が耳を甘やかし、俺の意識は徐々に覚醒していく――そうだ、俺はこの家の居候なので、朝から何もせずに食事が出てくるなんて、甘えた生活をしていてはいけない。


 しかし、この昨日作ったばかりの毛布が想像以上に使い心地が良く、陽気も温かくて、なかなかベッドから離れられない。


「うーん……あと五分……」

「まあ……タクミさんったら。教会の鐘が鳴ったら起きないといけないんですよ? ほら……」


 優しく揺すられるが、無理やり起こすという感じではない。このまま粘っていたら、きっとお人好しの彼女は、俺をこのまま寝かせておいてくれるだろう……だが。


「……タクミさんは、その……ゆうべ、ご遠慮なさっていましたが。私は……無理をしているというわけではなくて、本当に、嬉しかったから……」


 それはどこか言い訳のようで……けれど言い訳だとしたら、あまりに俺に都合が良すぎて。


 やっぱり俺は夢を見ているんじゃないかと思う。彼女の気配は離れていかずに、耳元で囁くくらいの距離から、さらに少しずつ近づいてくる。


「…………」


 震えるような吐息を押し殺して、彼女は背中を向けて寝ている俺のすぐ後ろにぴったりと寄り添っている。


 温かい――なんてことを平和に考えている場合ではないような気がしてくる。


「……ん……」


 あと少し彼女が近づいてしまったらどうなるのか。


 そう思った瞬間に、カランカラン、と音がする。


 これは、工房の入り口につけられたドアベルの音だ。


「っ……す、すみませんタクミさん。こんな時間にお客さんなんて……」


 俺が薄く目を開けると、彼女は服を整え髪が乱れていないか確認し、寝室の扉を開けて出ていくところだった。


 寝ぼけ眼でも、彼女が異世界の住人・エルフであるということがわかる。


 俺が異世界に来てから、初めて恩人と呼べるほどの恩義を受けた女性。


 居候先の家主でもあり、この家の一階で開いている工房の工房主でもある。


 勇者召喚というやつでこの世界に飛ばされた俺が、どうして工房で働いているのか。説明すると長くなるのだが、勇者のわりに生産系のスキルを与えられたために、職人といえるようなことをやっている。


 毛布を作ったというのもスキルによるものだ。


「っと……ぼんやりしてる場合じゃないな」


 だんだんと意識がはっきりしてきたので、俺は着替え始める。


 この世界に転移してきたときに着ていたスーツは、この工房に住むようになってからはもう着ていない。


 シンプルな服を着るだけでは町人Aという感じの俺だが、工房の職人ということで前掛けをつけるようになった。


 これは先ほどのエルフの女性、ロコナさんがくれたものだ。『メイド』という職業の彼女は、手縫いのスキルを持っているので、これくらいはお手のものだという。


 駆け出し職人の俺と、メイドのロコナさん。初めは、この二人で工房が回るのか不安もあったのだが、色々と幸運も重なって明るい兆しが見えてきている。



 一階に降りると、ミルクや卵といった食材を届けてくれた近所の奥さんが、ロコナさんと話しているところだった。


「ロコナさん、すみません、起きるのが遅くなって」

「い、いえ……ゆっくりなさって大丈夫ですよ。でも、起きてきてくれて嬉しいです。おはようございます、タクミさん」


 亜麻色の髪を持つエルフ――そんな神秘的な容姿なのに、ロコナさんの笑顔は人懐っこく、俺の心をいつも明るくしてくれる。


 なんとなく笑い合って和んでしまう俺たちのことを見ていた奥さんはというと、何というか、とても嬉しそうというか、楽しそうというか、そんな顔になっていた。


 そして挨拶がわりに何を言うかと思えば――


「あら、この方が噂の旦那様? 優しそうでいい方ねえ」


 よりによってという内容。


 俺たちのやりとりはそういうふうに見られてしまうことが多い。


 俺が居候というよりも、ロコナさんの夫のような位置づけでいなくてはいけない止むをえない事情というものがあって、旦那様と言われても簡単に否定してはいけないのだが――。


 当のロコナさんは、エルフと人間のハーフの特徴である少し長い耳を先まで真っ赤になって、しどろもどろになってしまう。


「え、ええと……何というか、ロコナさんは照れ屋なので、お手柔らかにお願いします」

「タ、タクミさん……いえ、あ、ああ、あな、あなた……ああっ、駄目ですやっぱりそんな……っ」

「ああ、住み込みの職人さんとして親方に腕を認めてもらえたら正式に……っていうことかしら? そういうことなら、少し気が早かったわね」


 一番助かる解釈をしてくれて、俺としてはかなり安心する。


 誤解が近隣の奥様方に話が広まってしまうと困ったことになる。


「私は近くに住んでるマドレーヌと言います。よろしくね、タクミさん」

「はい、よろしくお願いします。すみません、食材を届けてもらって」

「いいのよ、挨拶のついでだから。今日はお祝いだけれど、代金をもらえたら朝市のある日は毎回届けられるわよ。そういう仕事もしているの」

「分かりました、二人で相談して決めさせてもらってもいいですか」

「うふふ、そうね。朝市を二人で見に行くなんて、新婚さんにはよくある風景だものね」

「っ……い、いえ、私たちは、まだ、そんな……」

「そうだったわね、ごめんなさい。ロコナちゃんの反応があんまり可愛いから、楽しくなっちゃって。それじゃ、また近いうちに挨拶させてね」


 マドレーヌさんは終始楽しそうに話して、俺にウィンクをしてから帰っていく。


 変な男が住み着いたとか、そういうふうに思われなくて何よりだ。


「卵にヤギのミルク、それにパンも。あとは家にあるもので、スープとサラダを……ってロコナさん?」


 まるで石化でもしてしまったかのようにロコナさんが動かないので、あまり気安く触れたりするのはいけないと思いつつも肩を軽く叩く。


「ひゃぃっ……!?」

「す、すみません驚かせて。ロコナさん、朝食の準備は俺に任せて、休んでいていいですよ」

「い、いえ……大丈夫です。その、タクミさんのほうが、旦那様なんていうふうに言われてしまって、気を悪くされていないかと……」

「い、いや、俺としては、何というか、まったく気を悪くしてはいないというか、むしろ良……」

「少し早く来すぎたかしら? それで二人とも、何の話をしてるの?」

「ひゃぅっ……あっ、ミ、ミリティアさん、おはようございます……っ!」


 マドレーヌさんが帰ったあと開いたままだった玄関のドアに、次の来客が来ていた。


 俺がこの工房に置いてもらって、初めてのお客さんになってくれた人だ。


 銀色の髪を持ち、革の鎧に身を構え、剣を携えた冒険者。


 冒険者ギルドでは中位にあたる7級の一歩手前、8級の冒険者だが、普通はパーティを組むところを単身でこなすことも多く、その腕は知る人ぞ知るものになりつつあるらしい。


「すみません、今朝食の材料を届けてもらったところだったんです。ミリティアさんもどうですか?」


 ミリティアさんは、前にも家で食事をしていったことがある。


 そのときは俺とロコナさんで料理をしたのだが、俺の『レシピ』で異世界では珍しいものを作ったところ、かなり気に入ってくれたようだった。


 俺の『レシピ』で作る料理は、珍しいというだけでなく、ある特別な効果があり、冒険者のミリティアさんにとっては何かの助けになるかもしれない。


「ま、まあ? どうしてもって言うなら食べていかないこともないけど? あ、別にタクミくんの料理目当てでで、宿の朝食を食べなかったとかじゃないから」

「ふふっ、分かりました、三人分用意いたしますね。お店の中に入って待っていていただけますか?」


 ロコナさんがミリティアさんを案内する。


 俺は玄関の戸締まりをしっかりしたあと、キッチンに入って材料のストックと今届けてもらったものを見やる。


 これはすべて、『使ってもいい』材料だ。


 そう考えた瞬間、俺の脳裏に『レシピ』が浮かぶ。


「タクミさん、今日は何を作りますか? 『カルボナーラ』でしょうか」

「いえ、今日は別のものを作ります。ロコナさん、手伝ってもらえますか」

「はい、何なりとお申し付けください、旦那さ……い、いえっ、タクミさま……いえ、タクミさん」


 気を抜くと、『メイド』という職業ならではの破壊力高めな言い回しで、うっかり話しだすロコナさん。


 ずっと年下だが、基本的にはしっかりしている女性で、俺にとっては上司であり、家主でもあり、守りたいと思う人でもある。




 なぜ、勇者召喚されたサラリーマンの俺が、ロコナさんの工房で働いているのか。


 この異世界に来てから、決して順風満帆ということはなく、むしろその逆だった。


 勇者としては役に立たない職業に就いてしまった俺は、同時に召喚されたパーティの皆から信頼を得ることができず――言ってしまえば、追放された。


 そのどん底から、屋根のあるところで眠り、こうやって食事を一緒に作ったり、食べたりできる相手がいるようになるなんて、あの時はまったく想像できなかった。


「タクミさん、スープの味見をしていただけますか?」


 そう言って笑う彼女――ロコナ・クラウディールに出会うまでは。





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