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谷川岳の太宰治

作者: 十二滝わたる

 谷川岳マナイタグラを真正面に見据えた小さなレストランのテラス席からは、雲で覆われた頂きに向かって幾つもの小さな雲の塊が頂の雲に誘われるかのように吸い込まれて行くのが見える。魔の山に向かう魂がまるで昇っていくかのようだ。両側を谷で挟まれたマナイタグラの急峻な山肌には三筋の雪渓をともなった谷川の筋が刻まれており、この僅かに見いだせる谷川温泉の平地の下に谷川となりごうごうと小石を交えた流れとなって注いでいる。太宰もこの魔の山の光景と谷川の恐ろしい流れの音を記憶に留めているに違いない。


 太宰が山深きこの温泉の宿には数回足を運んでいる。太宰治の一人称告白体の凄まじい迫力のある文体と私小説は私の太宰としていまだに多くの虜となる読者を持ち、最近においても何度もドラマ化され映画上映となっているが、今、隣に太宰がいたならばどのような思いで見つめることになるのだろか。女ったらしのペテン師、世間知らずのボンボンの穀潰し、嘘つきの軟弱ものの酔っぱらい、およそまともに隣人として付き合える人間ではないだろう。太宰は己の死に物狂いの感性と孤独の中で原稿に向き合い書き上げた主観的な彼のそして全人類の本質に触れた病的な真実の世界である小説においてのみ太宰となるのだ。


 心中未遂としては二回目となる最初の妻初代との心中もこの温泉地であり別れもこの温泉地なのだ。初代が太宰の舎弟と過ちを犯したことを知り自暴自棄となる上でだが、その前に太宰は銀座の女給と心中未遂している。そして名作を残す。芸子上がりの初代が太宰の信頼するしかしひ弱な画家の自殺志願の弟分と過ちを犯しても太宰に責める正義はないはずだか、太宰にとっては、初代には何でも許してくれる聖母のような清らかさと包容さという人間にはあり得ないそれ以上のものを求め過ぎている甘さがあり、それを子供の如く舎弟も含めての周囲に吹聴し自慢していたことで、さらに裏切られ感が募ったというのも自分勝手なものであるが、彼には心の中心的な真実であったのだ。


 しかし、ここでも第一回芥川賞のゴタゴタを踏まえた破天荒な文章と作品で名を残す。川端、佐藤と賞を巡る言い争いがあるも、レッスルするかのような文壇の不可思議もあり、列車駅から歩いて一時間もかかるこの谷川の温泉を紹介したのはくだんの川端だという。開通したばかりの清水トンネルは、大きな娯楽も少ない当時の東京に住む有閑族にはイベント的な出来事であり、トンネルを越えての旅はまだ見ぬ異郷の地への憧れ誘いとなるはずだ。川端はこのトンネルを越えて越後湯沢の温泉地を何度も訪れ、かの名作を残すこととなる。なぜ、川端は太宰にトンネルを越えるこを薦めずに魔の山の谷川岳の険しいマナイタグラを望む地を薦めたのだろう。


 その後、太宰は天下茶屋での名作を経て、精神のバランスの乱高下を繰り返しながら、本妻と数人の愛人の堕落的な生活を繰り返しながら名作を創作し続け、多摩の心中の水に消えた。


 翌朝、四十雀の清涼な鳴き声を上書きするような谷川の瀬音で目覚める。太宰もこの谷川に吸い込まれるような瀬音を聞いたであろう。谷川岳マナイタグラの山肌に刻まれた三筋の谷川は太宰と心中を決意した三人の女性達の爪跡のように感じとれる。太宰は谷川の瀬音に呑み込まれてはいけなかった。太宰が登り詰めようとして失敗した残骸のようなマナイタグラの斜面は悠然としてそこにあった。太宰はあの尾根のたたずんでいなければならなかった。どてら着を振り乱し、恋と革命を掲げ尾根を滑走する太宰を夢想する。


 山頂で乱舞し騒がしく鳴き続ける蝦夷春蟬の姿を覗き見した時、蝦夷春蟬がつつつと不恰好に視線から外れ逃げようとする姿を見つける。太宰はヤシの木に隠れて見ている臆病な人の姿こそ芸術家の姿だといっている。それは太宰自身であり、また、舎弟である小舘への揶揄だ。太宰も蝦夷春蟬と戯れていたのかもしれない。この地でまたは夢の中で。  

 

 太宰には谷川岳がよく似合う


 

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