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ヒカリの国

作者: 水田青子

子どもは宝だ。この仕事就にいて、胸を張ってそう言えるようになった。これまでの私はひねくれもので、脚光を浴びる子どもが許せなかった。子どもよりアダルトな人間に肩入れする傾向があったのだ。

 それが顕著に出ているのが将棋だ。一対一の世界。それでいて勝ち負けがはっきりしている。よくいる大型新人が次々に名人をぶっ倒して昇進し、ついにはトップの大ベテランまで勝ってメディアを賑わせている。私は人知れずそれに待ったをかけていた。新人とベテランでは背負う荷物の重さが違うではないか。ドラマの台本の厚みだって違う。視聴率を競えば、ベテランが主演のドラマの方が勝つだろう。そう思っているからこそ、ベテランが新人に参りましたという姿は、首元を締め付けられている気分になるのだ。

 世間が年配の人よりも子どもを重んじているのが如実に出ているのがプロ野球のヒーローインタビューだ。

「見ている子どもたちのために、ホームランを打ちました」

「今日来てくれた子どもたちに、勇気を与えられたかなと思います」

 はいはい、もう聞き飽きたよ。おたくらに年配の人を敬う心はあるのかい? と彼らの胸に問うてみたくなる。年配者の票を集めるわけではないが、そこに一言、高齢者を敬う台詞も付け加えてみてもいいのではないか。例えばこれはどうだろう。

「今野球をできる環境を作ってくれたのは、まぎれもないご高齢の方々です。そんな方たちに感謝を込めて、ホームランを打ちました」

 もっと洒落た台詞があれば募りたい。

 私は目の前の美容液を手に取る。美容系ユーチューバーがこぞって宣伝している新商品だ。私は成分を確認し、商品を棚に戻した。  

それには発癌性物質が含まれていた。私の目は、発癌性物質が赤く光るように出来ている。この仕事に就いて、健康第一だと思い知らされる。喉が痛いだけで、内科にかかる。それでも風邪をひく。情けない。自分に腹が立つが、最近は一か月のルーティーンとして、病院通いも大事な一つだと受け入れている。 

これは大進歩だ。

 誰かが言っていた。諦めるとは、明らかに分かることだと。そう思うと、随分楽になった。欲しいときに欲しい言葉が再生される私の脳は、優れたCDプレイヤーだ。病院で処方箋とセットで渡してあげてはくれないだろうか。だが、残念なことに、私の周りで病院の受付をしている友達はいない。本当に残念だ。

 薬局のコスメコーナーを出て、大人しく諦めると、風邪薬を手に取ってレジに並んだ。

 学童の子どもがよく大口を開けてゴホゴホ咳をするたびに、律儀に風邪をひいていく。

 免疫細胞、がんばってくれ。私は私の免疫細胞の一番の応援団だ。胸を張っていえる。

 君たち細胞には、この孤独なエールが聞こえるか? 

 帰りに本屋に寄る。保育関係に自然に手が伸びてしまうが、支援方法を実践しても、教科書通りにいかないのが子どもたちだ。

 セオリーは一応頭に叩き込みながらも、その子に合った声掛けを探していく。ピタッとハマった時が爽快だが、たいていはモヤッとして帰ることが多い。

 家に帰り、コタツの中でパズルをする。卒会記念と言って、年度末に学童のクラスの子ども全員に渡すプレゼントだ。私のいる学童では、毎年集合写真を撮って、それを一枚のパズルにしている。一つ一つピースを当てはめていく。

 こうしてみると一人ひとりキャラが濃かったなー。毎年抱く感想だ。今年もやはり抱くのだった。私は一枚のピースを手に、固まった。

 脂肪カツサンド。

 私のことを、タオはよくそう呼んでいた。

 ゴルァ、と追いかけま子どもは宝だ。この仕事就にいて、胸を張ってそう言えるようになった。これまでの私はひねくれもので、脚光を浴びる子どもが許せなかった。子どもよりアダルトな人間に肩入れする傾向があったのだ。

 それが顕著に出ているのが将棋だ。一対一の世界。それでいて勝ち負けがはっきりしている。よくいる大型新人が次々に名人をぶっ倒して昇進し、ついにはトップの大ベテランまで勝ってメディアを賑わせている。私は人知れずそれに待ったをかけていた。新人とベテランでは背負う荷物の重さが違うではないか。ドラマの台本の厚みだって違う。視聴率を競えば、ベテランが主演のドラマの方が勝つだろう。そう思っているからこそ、ベテランが新人に参りましたという姿は、首元を締め付けられている気分になるのだ。

 世間が年配の人よりも子どもを重んじているのが如実に出ているのがプロ野球のヒーローインタビューだ。

「見ている子どもたちのために、ホームランを打ちました」

「今日来てくれた子どもたちに、勇気を与えられたかなと思います」

 はいはい、もう聞き飽きたよ。おたくらに年配の人を敬う心はあるのかい? と彼らの胸に問うてみたくなる。年配者の票を集めるわけではないが、そこに一言、高齢者を敬う台詞も付け加えてみてもいいのではないか。例えばこれはどうだろう。

「今野球をできる環境を作ってくれたのは、まぎれもないご高齢の方々です。そんな方たちに感謝を込めて、ホームランを打ちました」

 もっと洒落た台詞があれば募りたい。

 私は目の前の美容液を手に取る。美容系ユーチューバーがこぞって宣伝している新商品だ。私は成分を確認し、商品を棚に戻した。  

それには発癌性物質が含まれていた。私の目は、発癌性物質が赤く光るように出来ている。この仕事に就いて、健康第一だと思い知らされる。喉が痛いだけで、内科にかかる。それでも風邪をひく。情けない。自分に腹が立つが、最近は一か月のルーティーンとして、病院通いも大事な一つだと受け入れている。 

これは大進歩だ。

 誰かが言っていた。諦めるとは、明らかに分かることだと。そう思うと、随分楽になった。欲しいときに欲しい言葉が再生される私の脳は、優れたCDプレイヤーだ。病院で処方箋とセットで渡してあげてはくれないだろうか。だが、残念なことに、私の周りで病院の受付をしている友達はいない。本当に残念だ。

 薬局のコスメコーナーを出て、大人しく諦めると、風邪薬を手に取ってレジに並んだ。

 学童の子どもがよく大口を開けてゴホゴホ咳をするたびに、律儀に風邪をひいていく。

 免疫細胞、がんばってくれ。私は私の免疫細胞の一番の応援団だ。胸を張っていえる。

 君たち細胞には、この孤独なエールが聞こえるか? 

 帰りに本屋に寄る。保育関係に自然に手が伸びてしまうが、支援方法を実践しても、教科書通りにいかないのが子どもたちだ。

 セオリーは一応頭に叩き込みながらも、その子に合った声掛けを探していく。ピタッとハマった時が爽快だが、たいていはモヤッとして帰ることが多い。

 家に帰り、コタツの中でパズルをする。卒会記念と言って、年度末に学童のクラスの子ども全員に渡すプレゼントだ。私のいる学童では、毎年集合写真を撮って、それを一枚のパズルにしている。一つ一つピースを当てはめていく。

 こうしてみると一人ひとりキャラが濃かったなー。毎年抱く感想だ。今年もやはり抱くのだった。私は一枚のピースを手に、固まった。

 脂肪カツサンド。

 私のことを、タオはよくそう呼んでいた。

 ゴルァ、と追いかけま子どもは宝だ。この仕事就にいて、胸を張ってそう言えるようになった。これまでの私はひねくれもので、脚光を浴びる子どもが許せなかった。子どもよりアダルトな人間に肩入れする傾向があったのだ。

 それが顕著に出ているのが将棋だ。一対一の世界。それでいて勝ち負けがはっきりしている。よくいる大型新人が次々に名人をぶっ倒して昇進し、ついにはトップの大ベテランまで勝ってメディアを賑わせている。私は人知れずそれに待ったをかけていた。新人とベテランでは背負う荷物の重さが違うではないか。ドラマの台本の厚みだって違う。視聴率を競えば、ベテランが主演のドラマの方が勝つだろう。そう思っているからこそ、ベテランが新人に参りましたという姿は、首元を締め付けられている気分になるのだ。

 世間が年配の人よりも子どもを重んじているのが如実に出ているのがプロ野球のヒーローインタビューだ。

「見ている子どもたちのために、ホームランを打ちました」

「今日来てくれた子どもたちに、勇気を与えられたかなと思います」

 はいはい、もう聞き飽きたよ。おたくらに年配の人を敬う心はあるのかい? と彼らの胸に問うてみたくなる。年配者の票を集めるわけではないが、そこに一言、高齢者を敬う台詞も付け加えてみてもいいのではないか。例えばこれはどうだろう。

「今野球をできる環境を作ってくれたのは、まぎれもないご高齢の方々です。そんな方たちに感謝を込めて、ホームランを打ちました」

 もっと洒落た台詞があれば募りたい。

 私は目の前の美容液を手に取る。美容系ユーチューバーがこぞって宣伝している新商品だ。私は成分を確認し、商品を棚に戻した。  

それには発癌性物質が含まれていた。私の目は、発癌性物質が赤く光るように出来ている。この仕事に就いて、健康第一だと思い知らされる。喉が痛いだけで、内科にかかる。それでも風邪をひく。情けない。自分に腹が立つが、最近は一か月のルーティーンとして、病院通いも大事な一つだと受け入れている。 

これは大進歩だ。

 誰かが言っていた。諦めるとは、明らかに分かることだと。そう思うと、随分楽になった。欲しいときに欲しい言葉が再生される私の脳は、優れたCDプレイヤーだ。病院で処方箋とセットで渡してあげてはくれないだろうか。だが、残念なことに、私の周りで病院の受付をしている友達はいない。本当に残念だ。

 薬局のコスメコーナーを出て、大人しく諦めると、風邪薬を手に取ってレジに並んだ。

 学童の子どもがよく大口を開けてゴホゴホ咳をするたびに、律儀に風邪をひいていく。

 免疫細胞、がんばってくれ。私は私の免疫細胞の一番の応援団だ。胸を張っていえる。

 君たち細胞には、この孤独なエールが聞こえるか? 

 帰りに本屋に寄る。保育関係に自然に手が伸びてしまうが、支援方法を実践しても、教科書通りにいかないのが子どもたちだ。

 セオリーは一応頭に叩き込みながらも、その子に合った声掛けを探していく。ピタッとハマった時が爽快だが、たいていはモヤッとして帰ることが多い。

 家に帰り、コタツの中でパズルをする。卒会記念と言って、年度末に学童のクラスの子ども全員に渡すプレゼントだ。私のいる学童では、毎年集合写真を撮って、それを一枚のパズルにしている。一つ一つピースを当てはめていく。

 こうしてみると一人ひとりキャラが濃かったなー。毎年抱く感想だ。今年もやはり抱くのだった。私は一枚のピースを手に、固まった。

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 私のことを、タオはよくそう呼んでいた。

 ゴルァ、と追いかけま子どもは宝だ。この仕事就にいて、胸を張ってそう言えるようになった。これまでの私はひねくれもので、脚光を浴びる子どもが許せなかった。子どもよりアダルトな人間に肩入れする傾向があったのだ。

 それが顕著に出ているのが将棋だ。一対一の世界。それでいて勝ち負けがはっきりしている。よくいる大型新人が次々に名人をぶっ倒して昇進し、ついにはトップの大ベテランまで勝ってメディアを賑わせている。私は人知れずそれに待ったをかけていた。新人とベテランでは背負う荷物の重さが違うではないか。ドラマの台本の厚みだって違う。視聴率を競えば、ベテランが主演のドラマの方が勝つだろう。そう思っているからこそ、ベテランが新人に参りましたという姿は、首元を締め付けられている気分になるのだ。

 世間が年配の人よりも子どもを重んじているのが如実に出ているのがプロ野球のヒーローインタビューだ。

「見ている子どもたちのために、ホームランを打ちました」

「今日来てくれた子どもたちに、勇気を与えられたかなと思います」

 はいはい、もう聞き飽きたよ。おたくらに年配の人を敬う心はあるのかい? と彼らの胸に問うてみたくなる。年配者の票を集めるわけではないが、そこに一言、高齢者を敬う台詞も付け加えてみてもいいのではないか。例えばこれはどうだろう。

「今野球をできる環境を作ってくれたのは、まぎれもないご高齢の方々です。そんな方たちに感謝を込めて、ホームランを打ちました」

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 私は目の前の美容液を手に取る。美容系ユーチューバーがこぞって宣伝している新商品だ。私は成分を確認し、商品を棚に戻した。  

それには発癌性物質が含まれていた。私の目は、発癌性物質が赤く光るように出来ている。この仕事に就いて、健康第一だと思い知らされる。喉が痛いだけで、内科にかかる。それでも風邪をひく。情けない。自分に腹が立つが、最近は一か月のルーティーンとして、病院通いも大事な一つだと受け入れている。 

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 誰かが言っていた。諦めるとは、明らかに分かることだと。そう思うと、随分楽になった。欲しいときに欲しい言葉が再生される私の脳は、優れたCDプレイヤーだ。病院で処方箋とセットで渡してあげてはくれないだろうか。だが、残念なことに、私の周りで病院の受付をしている友達はいない。本当に残念だ。

 薬局のコスメコーナーを出て、大人しく諦めると、風邪薬を手に取ってレジに並んだ。

 学童の子どもがよく大口を開けてゴホゴホ咳をするたびに、律儀に風邪をひいていく。

 免疫細胞、がんばってくれ。私は私の免疫細胞の一番の応援団だ。胸を張っていえる。

 君たち細胞には、この孤独なエールが聞こえるか? 

 帰りに本屋に寄る。保育関係に自然に手が伸びてしまうが、支援方法を実践しても、教科書通りにいかないのが子どもたちだ。

 セオリーは一応頭に叩き込みながらも、その子に合った声掛けを探していく。ピタッとハマった時が爽快だが、たいていはモヤッとして帰ることが多い。

 家に帰り、コタツの中でパズルをする。卒会記念と言って、年度末に学童のクラスの子ども全員に渡すプレゼントだ。私のいる学童では、毎年集合写真を撮って、それを一枚のパズルにしている。一つ一つピースを当てはめていく。

 こうしてみると一人ひとりキャラが濃かったなー。毎年抱く感想だ。今年もやはり抱くのだった。私は一枚のピースを手に、固まった。

 脂肪カツサンド。

 私のことを、タオはよくそう呼んでいた。

 ゴルァ、と追いかけま子どもは宝だ。この仕事就にいて、胸を張ってそう言えるようになった。これまでの私はひねくれもので、脚光を浴びる子どもが許せなかった。子どもよりアダルトな人間に肩入れする傾向があったのだ。

 それが顕著に出ているのが将棋だ。一対一の世界。それでいて勝ち負けがはっきりしている。よくいる大型新人が次々に名人をぶっ倒して昇進し、ついにはトップの大ベテランまで勝ってメディアを賑わせている。私は人知れずそれに待ったをかけていた。新人とベテランでは背負う荷物の重さが違うではないか。ドラマの台本の厚みだって違う。視聴率を競えば、ベテランが主演のドラマの方が勝つだろう。そう思っているからこそ、ベテランが新人に参りましたという姿は、首元を締め付けられている気分になるのだ。

 世間が年配の人よりも子どもを重んじているのが如実に出ているのがプロ野球のヒーローインタビューだ。

「見ている子どもたちのために、ホームランを打ちました」

「今日来てくれた子どもたちに、勇気を与えられたかなと思います」

 はいはい、もう聞き飽きたよ。おたくらに年配の人を敬う心はあるのかい? と彼らの胸に問うてみたくなる。年配者の票を集めるわけではないが、そこに一言、高齢者を敬う台詞も付け加えてみてもいいのではないか。例えばこれはどうだろう。

「今野球をできる環境を作ってくれたのは、まぎれもないご高齢の方々です。そんな方たちに感謝を込めて、ホームランを打ちました」

 もっと洒落た台詞があれば募りたい。

 私は目の前の美容液を手に取る。美容系ユーチューバーがこぞって宣伝している新商品だ。私は成分を確認し、商品を棚に戻した。  

それには発癌性物質が含まれていた。私の目は、発癌性物質が赤く光るように出来ている。この仕事に就いて、健康第一だと思い知らされる。喉が痛いだけで、内科にかかる。それでも風邪をひく。情けない。自分に腹が立つが、最近は一か月のルーティーンとして、病院通いも大事な一つだと受け入れている。 

これは大進歩だ。

 誰かが言っていた。諦めるとは、明らかに分かることだと。そう思うと、随分楽になった。欲しいときに欲しい言葉が再生される私の脳は、優れたCDプレイヤーだ。病院で処方箋とセットで渡してあげてはくれないだろうか。だが、残念なことに、私の周りで病院の受付をしている友達はいない。本当に残念だ。

 薬局のコスメコーナーを出て、大人しく諦めると、風邪薬を手に取ってレジに並んだ。

 学童の子どもがよく大口を開けてゴホゴホ咳をするたびに、律儀に風邪をひいていく。

 免疫細胞、がんばってくれ。私は私の免疫細胞の一番の応援団だ。胸を張っていえる。

 君たち細胞には、この孤独なエールが聞こえるか? 

 帰りに本屋に寄る。保育関係に自然に手が伸びてしまうが、支援方法を実践しても、教科書通りにいかないのが子どもたちだ。

 セオリーは一応頭に叩き込みながらも、その子に合った声掛けを探していく。ピタッとハマった時が爽快だが、たいていはモヤッとして帰ることが多い。

 家に帰り、コタツの中でパズルをする。卒会記念と言って、年度末に学童のクラスの子ども全員に渡すプレゼントだ。私のいる学童では、毎年集合写真を撮って、それを一枚のパズルにしている。一つ一つピースを当てはめていく。

 こうしてみると一人ひとりキャラが濃かったなー。毎年抱く感想だ。今年もやはり抱くのだった。私は一枚のピースを手に、固まった。

 脂肪カツサンド。

 私のことを、タオはよくそう呼んでいた。

 ゴルァ、と追いかけまわすのも大人げないのかと思い、気に食わないあだ名ではあるが、さらっと受け流している。どういう受け流し方かというと、タオの顔に向かって指で作った鉄砲を向け、一発打ち込んでやるか、大げさに泣きまねをするかだ。どちらが効力を持つかと言えば、どちらもイマイチだ。ただ、「脂肪カツサンド」の連呼停止ボタンがバカになるのは、鉄砲のほうだ。

「先生は、太っているんじゃなくて、ふくよかなんだよ」

 と心に余裕があるうちに諭したい。

 自分の子ならば、一殴りしてしまうだろう。

 他人の子、という意識が抑制力となっている。

 先生としてガツンと注意できなくてどうする?という葛藤があるが、ここで注意をしたとして、陰で脂肪カツサンドと呼ぶ子どもになってしまってはいけない。本人の前で言う分には、心配ないのだ。少なくとも私は心配していない。そもそもうちの学童は、先生と呼ばせているが、子どもが次のステップに向かうお手伝いをするという意味でヘルパーの感覚に近い。だが、さすがに子どもにヘルパーの水田さんと呼ばせるのはこしょばゆいものがあるので、先生に落ち着いているといったところか。私たち指導員への呼び方は、全国で統一されているわけではない。その地方によって違っている。私のいる学童のように、先生と呼ばせているところもあれば、あだ名で呼んでもらっているところもあるのだ。私が呼び名を決められる立場なら、ミス水田、とでも呼んでもらおうか。普通じゃつまらない、と思ってしまう。若いうちは何事も挑戦だ。失敗したっていい。どんな失敗も自分の力になる。そう館長先生に言ってもらいたい。

 妄想ばかりに花が咲いてしまうが、現実に私が呼び名の決定権を持っているわけではないので、しっくりこないが先生と呼ばれてじっと忍び耐えている。

 私が初めて学童保育の指導員になったとき、初めましての指導員から、いきなり、

「先生は保育の経験はおあり?」

 と聞かれたとき、動揺した。この時初めて児童館の職員が、先生と呼ばれることを知った。まだ何もしていないのに先生と呼ばれることにかなり違和感があった。先生としての心構えや自覚が、入った当初はまるでなかった証拠だ。子どもはなじみが出てくると、先生と呼ばずに、勝手にあだ名を作って呼んできたリ、呼び捨てにしてこちらの反応を伺うことがある。そんなときに、毅然とした態度で、

「先生とお呼び!」

 と言える自信が私にはなかった。

ユーミンの歌詞ではないが、目に写るすべてがメッセージであって、子どもの目に写る私が、そのあだ名なら私はそうなのだ。

 脂肪カツサンド。

 最近バタバタしてジムにも行けてないからなぁ。去年お気に入りのアウターを買ったのを思い出す。白いモコモコのブルゾンで、白ウサギをイメージして着ていた。それなのに去年それを職場に着ていくと、先輩から羊と言われ、今年はなんと後輩からシロクマと呼ばれる始末だった。

 羊でも納得行かなかったのに熊だと?

 なるほど、大人から見ても私は脂肪カツサンドなのか。

 タオ。親が厳しすぎるから、学校や児童館で爆発しちゃうんだよね。爆発は言い過ぎたね。タオは爆発までは言ってない。ネジが外れているだけだ。

 爆発といえば、エイト。

 親が写真撮影用に選んだのであろう、こじゃれたカットソーの服を着てブイサインを作るエイトの写真を手に取る。

 エイトはすごく真面目。どんな時も、枠からはみ出すことがない。はみ出した方が楽なのに、と思う。宿題をしていても、エイトは何度も字を書き直す。それこそ一行書くのに何十分もかかる。発達障害の子どもで、こだわりが強い子は同じ傾向があるが、エイトの場合は少し違う。どれだけ頑張って書いても、汚いと言って母親に消されてしまうのだ。

 何十分もかけて書いた一行を見て、

「どうせ消されるんだけどね」

 とポソッと言った時にはこちらまでせつない気分になる。

 こんなに一生懸命書いている姿をお母さんに見てもらいたい。綺麗に書いた結果より、綺麗に書こうとする過程を認めてあげてほしい。

 それが、現場の指導員の願いだ。ただ、そんな私たちの願いと保護者の子育て論がうまく擦り合わせられることも多くない。建前上聞く耳を持つふりをする保護者もいるが、全てを受け止めて、そして受け入れてくれることはない。

 このエイトの親は、躾に厳しく、学童で育ちが悪い子どもに対して、我が子とのかかわりを持たせないようにしてほしいと指導員に言いにきたことがある。

 学童で、エイトに悪口を言う同い年のガキ大将的存在、マサルのことだ。

 確かにマサルはすぐ手も出るし独善的なところがある。物の良し悪しの分別もまだついていない。マサルはエイトよりも強いので、エイトは言い返すことができず、ストレスを溜めて、それが満タンになると爆発するのだ。

「こんな馬鹿な奴ばっかりいるところにいたくない! もう今日で学童止める!」

 エイトは爆発すると必ずそう言う。エイトの負け惜しみが悲しい。友達のこと、本心では見下しているのが哀れに映る。学校では評価、評価、評価の連続だが、それじゃ健全な育成は難しい。健全な育成とは評価から外れたところにある。友達の良いところを認めて、そして認められる経験こそが大事なのだ。例えばマサルは暴力的だが、困っている友達に対して必ず手を貸してあげている。マサルが輝いている長所を、尊敬できる関係が理想だ。それは決して数字には表せられない。今のまま周りの人を見下していると、必ずブーメランがくる。今の段階ではエイトの方が、勉強ができて、エリートかもしれないが、社会に出たらマサルの方が花開く可能性もあるのだ。そうして足元をすくわれる。そうなった時、ショックで自尊心を保てなくなったらエイトはどうなるのだろう。

 お母さんが、マサルやマサルの保護者を見下す姿勢を変えない限り、エイトも変わらない。綺麗ごとじゃなく、人は支えあって生きている。挫折をした時、再び立ち上がれるように、エイト親子は一刻も早く高台から降りた方がいい。

 学童は子どもだけ見ていればいいと思われがちだが、親との関係も非常に密接で濃いのだ。そして子ども以上に難しい。もう考えが凝り固まった大人だからだ。そして指導員よりも年上だったり、高学歴だったりすると、尚更難しくなる。

「あんた子ども産んだことないでしょ?」

 そう言われたら終わりだ。言葉にして言われなくても、どうせそう思ってるんだろうなってひるんでしまうこともある。実際の子育ては未経験でも、仕事をしているんだから、プロとして認めてほしい。今は昔よりも発達障害が認められてきて、子どもも多種多様なので保育も専門職になりつつある。知人に、学童で働いていることを言うと、

「子どもと遊ぶ仕事なんて、気楽でいいね」

 とか、

「パートでしょ? 半日仕事でしょ?」

 とか、言い返したくなるようなことを言ってくるが、それが周りから見た学童保育指導員に対する本心なんだろうなと思う。

 私も実際に働くまではそう思っていたから怒れない。だが、入ってみると、半日仕事でも子ども相手の仕事はすごくしんどいし、発達障害の子どもへの対応や難しい親との関係を考えると超専門職!パートとはいえ正職員並の責任感を持たせられ、給料だけは安く世間からの評価も低い仕事。もう少し、認めてくれてもいいのにな。大変だね、凄いねって思われてもいいんじゃないかな。と、寂しい気持ちになる。すごいねぇ、頑張ってるねぇ、が兎にも角にも欲しいのだ。周りの人から言われなくても、恋人とか家族は分かってほしい。恋人からの、

「いつも青子が頑張ってるの、知ってるよ」

 だけで心が満たされる。

 だけど、一番の応援団であってほしい恋人からこの職業を軽視されているのが分かると、私はこのまま付き合っていく自信がなくなり、迷いに迷った挙句、今年の夏に別れを告げた。それでも涙は出てこなかった。パートのエースが家庭の事情で辞めた時の方が号泣だった。体は正直だ。

 一番大変なのは、教師や保育士の保護者の対応。こちらが意見をしても、保育をする私の指導力不足と捉えられ、指導を受けることになる。

 教科書通りの伝え方をすればいいってもんじゃない。人はみな生きてきた環境が違うのだから、正解は人それぞれ違う。その正解を導き出すのは、今までのその保護者との関係の積み重ねだ。無論、一人で一クラスを任されているわけではない。私のいる学童保育は二人で一クラス受け持っている。だから、相手の指導員との情報交換も密に行わなければならない。

 この指導員同士の人間関係もよろしくやらなきゃいけないのが地味に大変なのだ。夫婦もそうだが、指導員同士もぎくしゃくしていては子どもの為によくないし、子どもはすぐ感じ取ってしまう。二人一組の仕事だと、つい何で私ばっかり仕事の負担が多いの? なんて思うこともあるし、あ・うんの呼吸がないと相手に苛立ちを覚えることも少なくない。

学童のように女性ばかりで、少数で運営する組織で雰囲気が悪いのは最悪だ。風通しよく、機嫌よく働くのは保育の鉄則だが、忙しいと人は心を失ってしまう。私ってもう少し優しい人間じゃなかったっけ? と自分に失望することもよくある。それに、学童という仕事に対して、パート感覚でやってる人もいれば、命がけで仕事してる人もいる世界。双方が仲良く分かり合えるはずがないのは、小学生でもわかるだろう。私の児童館のアイ先生は、時間外で児童館だよりを書いたり、工作を試作したり、児童館行事に参加したり。熱心さが頂点まで達した時には、衝動をこらえきれずに他の児童館まで保育の偵察に行っていた。だけどアイ先生と一緒に組んでいるトモ先生は、仕事は時間内だけ、定時に来て、終業も余韻を残さず定時ぴったりに帰るというパートスタイルを貫いていた。

「私、この休みの日に仕事は持ち込みたくないんです。この仕事以外にも二つ仕事をしてますから」

 トモ先生は、ベテランのアイ先生に、そのスタイルに苦言を呈された時、毅然と言い返したらしい。狭い世界、同じ屋根の下で働いている私の耳にもすぐ届いた。よくこの世界はラインいらず、と言われる。そんなこと言ったら翌週には全職員まで知れ渡ることになる。それ以来アイ先生は、

「もう話もしたくない」

 とトモ先生に対してシャットダウンの姿勢を見せているが、いい迷惑だ。オープンに色んなことを意見交換していかなければ、保育は成り立たない。余計な気を遣わせるな、と言いたい。トモ先生の言っていることも分かる。なにせ、私たちの立場はパートなのだ。責任だけは正社員のように背負わされるが、時給は安く、拘束時間は短い。それを時間外も働けとは契約内容に反している。トモ先生にとってはアイ先生がいい迷惑だし、アイ先生の行き過ぎた熱意には私だってついていけない。だが、子どもの命を預かるこの仕事、どうしても、パートの責任感では通用しないし、生半可な気持ちではやっていけない。三つのうちの一つの仕事、という捉え方では困るというアイ先生の思いも納得できる。時間外でも、私たちは子どものことを考えてしまうものだ。帰ってシャワーを浴びながら、あの声掛けは間違ってたなと思うことも多い。もっと違った声掛けがあったんじゃないかな、と思うこともある。私だって休みは休みで切り替えたいが、休みの日でも、頭に浮かんできてしまうものなのだ。自分でも分からないうちに、情熱を注いでしまっているもの。たまにしかこない臨時指導員でも、家に帰ってからよく考えてしまうと言っていた。トモ先生が母子家庭で三人の息子を育てているため、自分のようなお気楽な独身貴族とは状況が違うのは分かっている。ただ、お金だけなら違う仕事を選ぶべきだと思う。

 職員六人が六人とも同じ方向を目指すことはこんなにも難しいのかと思う。学童は、言い方を変えれば手を抜こうと思えばいくらだって抜ける。ここまででいいやと思えばそこまででいいし、職員同士気が合って、ここまで子どもの為にやってあげようと思えばそこまでできる。正直、仕事だからちゃんとしましょう、のちゃんとと言うのは、個人によってレベルが違う。これからもどんどん共働きが増えていって、学童の需要が増えていくっていうのに、職員が増えるとますます統一性はなくなり足並みをそろえるのが難しくなるよなって、まだ二十代の私でさえ懸念している。私はくじけそうな時もあれば投げ出したくなる時もあるけど、子どもが喜ぶことだったらできることはやってあげたいと思っていた。子どもの笑顔を見るためだったらなんでもしてあげたいという気持ちになる。自分が産んで育てた子どもでもないのに、こんな気持ちになるとは実に不思議なもんだが、この仕事に就いた指導員は全員そう思っているはずだと私は思っている。子どもの笑顔を作るには、自分一人では非力だ。指導員同士結束する必要がある。私の中で、普段からなんでも指導員同士が意見を交換することで、自分の中になかった意見が生まれ、その新たに生まれた意見を出すことで、また他の指導員に意見が出て、アイディアが活性化されていくという持論があった。だから、ミーティングで聞く人に徹する人が許せなかった。ある日私は、ネオ先生はどう思う? と聞かれているのにも関わらず、周りの意見に同調するだけのネオ先生に対して我慢の限界を超えて、こう言った。

「仕事なんだから、ちゃんと意見は出しましょう」

 その声は苛立ちを隠しきれていなかった。

 当然、そんな風に言われてネオ先生が自分の思っていることをペラペラと言えるはずもなく、微妙な空気で話し合いは終わった。

 友達同士じゃないんだし、仕事なんだから言いにくいことでもはっきり言わないと、割と正気で思っていた。この三月の卒会の時期になり、ようやく自分が意見を出しにくい空気を作っていたことに気が付いた。ネオ先生は黙っているが、一番子どもたちの変化に敏感だし、支援の方向性や時間のかけ方が不器用なだけで、熱意は人一倍持っていたのだ。

 指導員だって人間だ。つまり、子どもに対して配慮する点は同じなのだ。子どもに対して、その子が心を開いて話ができるように言葉がけをするように、指導員に対しても思いやりがいる。

 関係をよくするには、まず些細なことから感謝とお詫びを伝えること。それは、子どもたちが教えてくれたことだった。子どもたちは、時に指導員に背中で見せてくれ、時に思いやりを教えてくれる。大人の「ごめんね」と子どもの「ごめんね」は重みが違うかもしれないが、軽やかなステップを踏むような、子どもたちの前向きな「ごめんね」は、私にとって抗がん作用のある味噌汁同然だ。優等生タイプの三年生、ミキが、縄跳びで二十鳶を連続で跳びながら、

「あー! こりゃいいわ! ストレスが飛ぶわ!」

 と言うので、

「何があったん?」

 と聞くと、

「友達に嫌なことされて、それを謝ってもらってないけえ、ストレスなんよ」

 と言った。

 子どもでも、大人でも、謝ってもらうことで気持ちに一区切りつくことがある。相手に責任があるとか、相手が悪いとかじゃなくて、嫌な思いをさせたことに対しては、相手が子どもであっても大人であっても謝らなきゃいけない。習い事を沢山している子どもよりも、大きな声で挨拶ができて、ありがとうとごめんねが言える子どもの方が素晴らしい。どんなにトラブルメーカーでも太陽だ。

 ミキのように、胸のモヤモヤの理由がきちっと説明できる子は、内的言語が発達しているので感情のコントロールのスペシャリストだ。ミキのようにしっかり自分の中で、この苛立ちの理由を自分の中で理論だてて説明する能力が未発達だと、どうしても先に手が出てしまう。だから、保護者の方は、我が子が手がよく出るからと言って深刻に悩む必要はない。ただ、親が我が子に腹が立つ時があるのは分かるが、親が子を叩くと、子どもは学習して、人に叩くようになってしまうので、そこだけぐっと堪えて頂きたい。友達に対してつねる行為をする子どもがたまにいるが、それも親など近い大人が子どもをつねっている可能性が高い。私たちはどうしてもネグレクトを疑ってしまう。ネグレクトと言えば、学童でも春休みや夏休み、あるいは土曜日は全日なので、お弁当を食べる機会がある。その時に忙しいからと言ってコンビニ弁当だと、こちらは、ん? と首をかしげてしまうので保護者は要注意だ。その子に話を聞くと、昨日の夜もパンで今日の朝もパンで、今もパンを食べているという。もちろん、コンビニのパンだ。指導員が家庭に踏み込むなと保護者は思うだろうが、保護者が手をかけているほど子どもは落ち着く傾向にあるのは事実。毎日児童館に迎えに来た帰りにマックで夕食をすますというケンジは、常に落ち着きがなかった。お腹の中の虫が騒いでいるのは明白だった。食育を侮ったらいけんな、とひしひしと痛感する。自分の子どもが生まれたら、食育に力を入れようと思う。アイ先生が、自分の子どもが小さいときにアトピーだったのを、和食中心の手料理で直したと言っていたが、素直に尊敬した。学童に来るのは、疾病や介護で子どもを見れないお母さんか、働くお母さんの子どもだ。だからこそ、時間がなくて料理に時間がかけられないのだろうが、七夕の集いで書かれた短冊で、アトピーを直したいと覚えたてのつたない字を見つけると、やるせない気持ちになる。せつない思いで七夕の集いが終わると、いよいよ夏休み。夏休みは暑くてカリカリした子どもたちのクールダウンの意味も含めて、お昼寝の時間がある。そこでミサコが、

「先生、腕をさすって」

 と言ってきた。

 私が言われるままにさすっていると、ぎこちなかったのか、

「違う、もっとこっち」

 と私の手をアトピーのひどい肘まで持ってきた。

「ミサちゃんのママはね、いっつも寝るときにこうやってさすってくれるんだよ」

 そう言われ、ちょっと泣きそうになった。

 ミサコの短冊を見た後だったから余計に。

 学童にいると、どうしても、学童に任せきりにせずに、もっと宿題を見てやってほしい、とか、冷凍食品ばかりじゃなくて、一品でもいいから手料理を入れてやってほしいとか保護者に要求したくなることが多くなる。だけど、保護者は保護者で戦っているんだな、と思う。学童の指導員は、その子が卒会してしまうとそれきりの付き合いだが、母親は一生の付き合いだし、その子にとってたった一人の母親なのだ。保護者が、自分の方がこの子のことを考えている、と指導員よりも優位に立とうとするのは当然なのかもしれない。

 くなる。ただ、家にいる時の子どもと学校や学童で過ごす我が子の実態が、異なることが少なくないことを、知っておいてほしいと思う。保育園や学校に勤めている保護者の方は、学童での子どもの実態を話しても、

「家じゃそんなことないんで信じられませんが、あれですよね? 家じゃ良い子で学童じゃ暴れるみたいなやつですよね?」

 と話が通ることが多い。皆一対一で話すと良い子だ。それが集団になるとその子の悪い部分が出てしまったりするのだが、それは家で兄弟間だけではなかなか見えてこない。昔のように五人も六人も兄弟がいるわけではないので、どうしても過保護になりがちだし、比べる対象もいないと、我が子はどこかおかしいのかしら? と病院に連れて行くケースも少なくない。発達障害の判定を受けて、保護者自体が安心したい部分もあるのだ。学童保育をしていると、親の意識の問題だというのがよくわかる。

「この子も何かあるんでしょうが、女の子だから抵抗があるんです」

 と、言われる保護者の方もいて、この子は発達障害だから他の子と違っていいんだ、と安心したい方もいれば、認めたくない方もいて、どちらが正解とかはないと思う。

「先生、深爪が痛い」

「先生、今日学校で凧揚げしてそれが絡まってトモユキと喧嘩して、トモユキに嫌なこと言われてミナコに一緒に帰ろうって言われてね」

「先生、あのね」

一クラス四十人いる学童だが、色んな子どもがいる。発達障害の子どもと健常者という分け方ではなく、四十人が特別な個性を持っている。些細なことで指導員に報告に来る子、要領を得ない会話を長々続ける子、帰って来てからさよならまで、指導員に一言も話しかけない子、悪目立ちをして指導員にアピールする子、反対に良いことをして指導員にアピールする子。

 家でお母さんに話しかけるように話しかけてきてくれて、嬉しい反面、四十人の子の安全を守りながら、自分でも気づかないうちにトラブルが起きないか目をギラつかせながら何気ない会話を、母親のようにうん、うんと聞いてあげるのは難しい。学童に来ているのは仕事で忙しい保護者を持つ子どもだ。家でも風呂入りなさい、ご飯食べなさい歯磨きまだ? と急かされながら、もしかしたらゆっくり話を聞いてもらっていない子たちかもしれない。せめて学童では話を聞いてあげたい、と思うが、それができてないのが歯がゆい。

 指導員同士の会話の中で、子どもの悪口大会のようになってしまう悲しいことも起っている。だけど、子どもは指導員が自分をどのように見ているのかは伝わっている。指導力は先輩方に遠く及ばないが、子どもを信じることとか、全面的な子どもの味方でいることは、一番でありたい。

「アイカがアイカじゃなければよかったのに」

 トラブルメーカーのアイカの言葉は、これまでの指導員人生の中で一番濃く刻まれている記憶だ。

 いつも通りトラブルを巻き起こし、一対一で話をしていると、アイカが呟いたのだ。一年生の子からそんな言葉が出てくるのが、私には衝撃的だった。

「アイカがアイカでよかった」

 と心から思えるように支援しなくては。

 人はそういう自己肯定感がたっぷりある人間に魅力を感じる。私が個人的に応援していたアイドルは、

「自分が自分でよかった」

 と言ってグループを卒業していったからこそ、そう思う。

 アイカもそのアイドルのように輝きを放つには、急速に自己肯定感を高める必要がある。

 緊急性のある案件だなとぼんやり思いながら、更に私の口をあんぐりさせることをアイカは言ってのけた。

「あーあ。アイカはアイカって名前なのに誰からも愛されてない」

 ちょっと待ってくれ。その勘違いはどこからやってくるのか。お前さんが今こうして生きていられるのは、両親の愛があるからではないか。だがここであれこれ説いたところでゲームのレベルのようにアイカの自己肯定感がぐっと上がるわけではない。

 アイカはアスペルガーの気があった。

 言っていい事と悪い事が分からず、加えて両親の口が悪いことから、友達と喧嘩をした時に、ひどい言葉を吐いて、取り返しのつかない結果になることが多々あった。アイカとしては、思ったことを言っただけだ、と悪びれた様子はないが、言われた方の身になれば、アイカの特性を同じ七歳で理解できるはずもなく、アイカから離れてニコニコしている女の子の方に行ってしまうのも仕方がないと言えば仕方がない。でも指導員の立場として、このままにするわけにもいかない。

「モエちゃん別に友達じゃないし」

 アイカに言われ、真に受けて泣き始めるモエをなだめながら、

「アイカちゃん、心にもないこと言っちゃダメでしょ」

 と私が言うと、

「だってほんとだもん」

 とアイカが開き直ったため、モエはますます大声を上げて泣き始めた。

 モエを一旦教室に入れて、アイカに、

「そんなこと言ってると、皆離れていくよ」

 と訴えかけても、

「いいし。犬がいるもん」

 と意固地になる。

「犬は喋ったりしないでしょ? 人間のお友達とは違うじゃない」

「一緒だし。アイカがいなくなればいいんでしょ」

「誰もそんなこと言ってないでしょう!」

 ここで平手打ち! となったら大問題だ。

 今の子は触ったり当たったりしただけでも、

「あー、先生ボクを叩いたな?」

 と何かあればすぐに親に言うぞという体勢をとってくる。なので少し当たっただけでも過剰に心配し、恭しく謝るようにしている。

 話を戻すが、そういう理由があり、

「誰もそんなこと言ってないでしょ!」  

 と喝を入れ、目を覚ましなさいという平手打ちではなく、頭を撫でて、愛してるよというサインを送る。

アイカが、無条件で自分はここにいていいんだと思える存在なんだと自分を受け入れられるように、私は先輩に相談しながら、そして研修のテーマにして外部の児童館関係者や子育て専門家の教授の意見を仰ぎながら、あの手この手でクラスを運営してきた。

 指導員と子どもの一対一の関係も大事だが、それ以上にクラスを運営する中で、アイカの自己肯定感を高めることが大事だと思う。

 学童に係はなかったが、お楽しみ係を作り、アイカが皆の為に楽しい企画を作り、当日皆の前に立ってアイカを中心にお楽しみ会をした。アイカありがとうと言ってもらえる機会を作り、皆に受け入れてもらう雰囲気を作ろうとしたのだ。これにはアイカも大満足だったようで、次のお楽しみ会はいつなのか、しつこく聞いてきた。

クラスの新聞も作り、アイカが得意な編み物を写真に撮って、子どもたちに記事を書いてもらった。作り方が分からない一年生には、あえて私たち指導員が手を出さず、アイカを呼んでアイカに教えさせた。

「ほら、何ていうんかいね?」

 と私が一年生に言うと、恥ずかしそうに

「ありがとう」

 と言い、アイカも

「いいよ」

 とそっけなく返すのだった。アイカはズルもすれば口も悪いが、少しずつ目に見えて落ち着いていった。

 大人もそうだが、周りの温かい感情に触れれば本人も落ち着いてくる。クラスを良い方向に向かえさせるのも、悪い方向に導くのも、指導員次第なのだ。

 アイカ以外にも、自己肯定感が低い子供には、叱り方を注意しなければならない。

「どうせボクなんかいなきゃいいんでしょ!」

 と自己否定に走るのは黄色信号だ。

 子どもにとって、自己肯定感を育むことがどれだけ大事か。すべてはここから始まるように思う。次へのステップは、この土台がしいかり固まってからだ。俗に言う、「けれども行動」ができない子どもには、自己肯定をしっかり育んだ後、けれども行動ができるように支援をしていかなくてはならない。

児童館のものを取って持って帰ったり、児童館から家に帰る道中で万引きをしたりすることもあった。

 保護者は、

「おやつを買い与えていないわけはないのにどうして」

 ど呆然とし、号泣していた。

 子どもも、自分がどうして取ってしまったか、という動機は、欲しかったから、としか答えられないでいた。

「勝手に人のものを取ったらいけません!」

 と怒るだけじゃなく、子どもの自己肯定感の低さから、それを持っている自分に価値を見出している場合は、その子の自己肯定感を育んでいく必要がある。それは、具体的にはあなたはあなたのままでとっても素敵だよ、ということを伝えていく作業だ。

誰かにとって自分が一番の存在だと分かると、問題行動も随分少なくなるはずだ。

 マサルは一時期私の言うことをまるっきり聞かない時期があった。そうなると私も説教めいたことばかり口にするようになり、ガミガミ怒っていると、指導員が掃除をする時間になると、熱心に掃除を始めた。

「先生に頑張ってるところを見てもらいたい」

 と違う指導員にボソッと言った。

 子どもは本当に健気だ。その姿を見て目頭を押さえる指導員もいた。率先してお手伝いをしてくれたり、困っているお友達に親切にしている子どもは、褒められたい子どもだ。

そういう子どもにとって、

「今日もありがとう。〇〇ちゃんのおかげで、とっても助かったよ」

 という言葉は、魔法のシャワーだ。すくすくと健全な心が育っていく。

私はマサルを認めてあげてないことに気が付き、マサルのことを受け入れていることを伝える努力をした。マサルのことを怒らないようにするのではなく、マサルのことを信じたり、心配したり。一生懸命掃除をしているマサルに対して、私はありがとうよりもごめんねの方が大きくなっていった。

とはいえ、ひっきりなしに指導員に話しかける子どもや、手がかかる子どもにばかり関わるわけにはいかない。話しかけても返事しかしない子どもに対しても、

「今日学校楽しかった?」

と聞いたり、

「宿題頑張ってるね」

と声をかけるのを忘れないようにする。

自分をきちんと見てくれてることを子どもに感じてもらう。子どもは指導員が自分を、クラスの在籍児童数分の一として見ているか。

自分を百パーセントで見てくれているかというのは必ず伝わっているものだ。

「先生、遊ぼう!」

 と言われても、大人数がいる中で一対一で遊ぶのは難しい。手がかかる子どもの傍につかなきゃいけない時もあって、なかなかおとなしい子と遊ぶことができないが、その子が勇気を出して、指導員に遊ぼうと言ってくれたことは分かっている。三年生で、先生遊ぼうと言ってくれるのはこちらとしても可愛いし嬉しい。だから、手が空いている時には、必ず

「今、手が空いたから遊ぼう」

 と声をかけておく。そうすると、その子が乗り気じゃなくて断ったとしても、指導員はちゃんと約束を覚えててくれたんだ、と子どもは理解してくれる。

 発達障害の子どもばかり課題があるわけではない。実際に手がかからない子どもにも、課題は必ずある。一人ひとりの課題を、本人と保護者と一緒に考えていく必要がある。

 保護者に伝え方を間違えてしまい、

「ウチの子が悪者のようにしか聞こえませんけど!」

 と保護者を追い詰め、関係に亀裂が入ってしまったことがある。確かに、指導員三人で保護者を囲み、子どもについて話すのならば、一人は保護者の味方につかなければならない。

 誰だって仕事から疲れて子どもを迎えに来ている時に説教されるのは嫌だ。こちらも保護者にも気持ちよく帰ってもらわなきゃならないのに、プロ失格だ。信頼関係を作るのに膨大な時間がかかるというのに、壊れるときは一瞬だな、と思った。

 保護者や子どもと同じ目線で、子どもについて考えていく姿勢をもたなければ、保護者とはうまくやっていけない。

一年たって、ようやく形になってきたように思う。四月の頃は、一年生の保護者は不安がいっぱいで、我が子のことを連絡ノートに目いっぱい書かれることも多い。それは一年生が不安で学童を過ごしているからだ。つまり、本人が、

「今日学童楽しかった!」

 と笑顔でお家に帰って言っていれば、保護者がノートに不安なことや、時には苦情めいたことを書いてこなくなる。

児童館の行事として子どもたちがわくわくするようなことを考えないといけないし、クラスとして楽しいレクレーションやイベントを考えないといけないし、面白いゲームやおもちゃを買って教えてあげたり、全てはそれらを通して子どもと子どもを繋いで、児童館に来る目的を作るのは、大事な私たちの仕事だ。

 いたずらを友達と考えて大人に思いっきり叱られたり。そんな経験も大事なのにな、と思いながらも、はみ出すことを許されずに窮屈な思いをさせている現実が歯がゆい。

 昔の子どもはもう少しやんちゃだったよな。

 それに比べて今はいわゆる良い子ちゃんが多い気がする。

 そんな中、昔ながらのガキ大将カミヤは輝きを放っている。

 カミヤは小学三年生。自分の中に芯があって、自分の中で正論だと、正義だと信じた時には暴力行使に走る。

「どんな理由があっても、暴力は絶対だめだよ」

 と最もらしく言ってみるが、彼には響かない。

「だって悪いのは向こうなんじゃけ」

 そんなとき私の脳内には、ある歌詞が流れる。大切な君を守るためなら僕は悪者にだってなれる。確かそんな内容の歌詞だ。

 彼は凡人ではない。才能とオーラを持った子どもだ。それを周りの友達は、

「あのガキ大将またイキッてるな」

 と冷静に傍観しているが、そんなガキ大将も次期才能人だ。

 だが、そんな次期才能人でも、この集団生活では常識をすり合わせてもらわなければ困る。ヘリコプターペアレントとはよく言ったもので、次期才能人が暴力を振るえば、我が子の非はそっちのけで、ギャンギャン吠える。

 あなたの子どもは自分を守るための手段が嘘をつくことであって、カミヤは暴力を振るうという違いなのだよ、と自分の中では冷静に受け止めている。

確かに暴力を振るうことの方がダメージはでかいし、迷惑をかけているが、私は友達になりたいと思うのはカミヤだ。

カミヤも今は暴力が相手に言うことを利かす有効な手段だと思っているが、暴力が通用しない世界で揉まれれば、こうして私がギャンギャン暴力はダメだというよりも、はたと気づくときがくるだろう。子どもは大人の心配をよそに、勝手に成長するものだ。

 カミヤのような暴力ではなく、泣くのが有効な手段だと思っている子どももいる。

 コヅカは、自分の思いや要望が通らないとすぐに号泣していた。一度泣き始めたら一時間でも二時間でも、お弁当やおやつが過ぎても泣いているような子だった。  

「お弁当食べないの?」

 と聞いても、

「いらーん」

 と言い、寝転んだりしていた。

 一度はぶてたらひっこみがつかなくなるようだ。コヅカには、泣いても要求が通らないことを経験させないといけない。良い行動をした時に思いっきりほめる。泣いている時にかまいすぎたら、コヅカの為にはならない。

「私だって泣きたいのを我慢しとるんじゃけ泣くのやめてや!」

 友達からそんな声も聞こえてくる。ずっと泣いていたら、他の子たちの心証はよくない。泣き続けたっていいことがないのだ。気持ちが高ぶって涙が出てしまうのは仕方がないが、切り替えが出来るように、こちらもコヅカの切り替えスイッチを探っていきたい。子どもたちは皆、取り乱すスイッチと、切り替えるスイッチを持っている。それは子どもによって違うから、探し当てて押してあげないといけない。特に、我慢が限界に来て感情が爆発してしまう前に、サインを見逃さずに、手前で対応するのが私たちの仕事の肝だ。

 必ずそうなる前にサインが出ているはずだから、その時だけの状況を分析するのではなく、その前にどういう状況だったか、何をして誰とどういう会話をしていたか。そこもしっかりと見ておかなくてはならない。繋がりが大事なのだ。

 最後のピースを手に取る。

 はつらつとした自分の表情に驚く。

 児童館に赴任して来た時には想像もつかなかった顔だ。アンチ子どもだった私が、子どものミカタになれたようだ。

 ダイヤの原石を磨くのか、曇らせるのか。

 責任ある仕事で大変なことは多いが、転職を繰り返してきた私も、ようやく天職を見つけた気がする。なんといっても、子どもは可愛いことを知った。そして自分のクラスの子どもはベラボウに可愛いことも。子どもたちに気づかされることもとても多い。

 私がダイエットをしていて、お弁当にサラダしか持って行かない時があった。私のダイエット事情を知ったチハルが、

「先生、命と見た目どっちが大事なん? もっとしっかり食べんさいよ」

 とまるでオカンのように言ってきた。

「そうだ、そりゃそうだ。しっかり食べて、皆とたくさん走り回って遊ばなきゃね」

 次の日からは、がっつりタンパク質中心のラインナップの弁当にがらりと変わった。

怪我をして節分会の豆まきに参加できず、友達の分まで拾ってあげたマサトに、

「優しいねえ」

 と声をかけると、

「だって友達だもん」

 とさらりと言い、中身が多い方の袋を友達に渡していた時には、じーんとした。

 大人でもなかなかできることじゃない。しかも中身は食べ物だ。譲るのは厳しい。いくら豊かな食に恵まれた時代だとはいえ、中身は豆の他にも、子どもが大好きであろう飴玉やチョコレートが詰まっているのだ。それを自分だってたらふく食べたいのに、友達に多い方を渡すことができるマサルは、それだけでパーフェクトヒューマンだ。

 私のクラスにパーフェクトヒューマンは一人じゃない。日頃のおやつタイムは、順番に班ごとに取りにいくのだが、好きなおやつが残っていないと良い、自分の席で亀のように丸くなっているトキオに、ミーコが、自分が取ったおやつを、「これあげようか?」と言ってあげていた。

 自分も食べたかったから取ったんだろうが、すぐにそう言える彼女は、私より人間のレベルが上だと思った。

 児童館に行く途中、グランドで遊んでいたレントが、私を見つけて、

「先生お仕事頑張ってね」

 と声をかけてくれた。

 それだけで無限のパワーが出る気がした。

 朝お味噌汁を飲み忘れたが、飲んだ以上のパワーが湧き出た。

 子どもが私に教えてくれることもある。

 切り替えが苦手な子どもは多い。その中で、楽しいことをしている時に、保護者が迎えに来ると、顔を般若のようにして抵抗するユタに向かって、私は保護者を待たせるまい、と急かすことしかできなかったが、一緒に遊んでいた三年生のタクヤが、

「ユタ、じゃあこれが終わったら帰るぞ?」

 と言い、きりの良い場面まで付き合う代わりに、終わったらきちんと帰る約束を取りつけて、ユタを納得させているのを見て、私は勉強になった。また、ユタの気持ちに折り合いをつけさせ、約束通りすぐに帰る支度を始めたユタを見て、急かすことしかしない自分を反省した。

 別の日には、喧嘩をしたカジとユウタが、もう一緒に遊ぶもんか、と二人がおもちゃを投げつけるように片付けていたので、私は注意をしに行こうと立ち上がったら、下の方から、

「えらいねぇ」

 と声がした。見ると、下であぐらを書いているリクだ。喧嘩中の二人を見て、

「りっぱだねぇ」

 と言い出した。

「何で?」

 思わずりくに聞いた。

「だって、あんなに怒っているのにちゃんと片付けてるんだよ?」

 私はハッとした。そんな温かい目線で子供のことを見てなどなかった。浮いていた腰が椅子に着く。どんな状況でも褒めるポイントはあるのだ。それを逐一伝えること。そうすれば、子どもには必ず伝わる。そしておのずと子どもは変わっていく。

 完成したパズルを眺める。皆、入所前よりも顔つきが凛々しくなっている。お兄さんん、お姉さんになったな。大きくなったな。でも笑顔は純真なまま。

 一人ひとりがこのクラスのアイドルであり私にとっては先生だ。

 パズルを、壊れないように大事にカバンに入れて児童館に持っていく。

 子どもが学校から帰ってくるまでは、事務室で事務作業をするのだが、事務室に入るや否や、アイ先生の大きなため息が聞こえてきた。

「どうかされたんですか?」

 また一つ、ため息をつかれる。

 もったいぶりやがって。

 ツッコミたい気持ちをこらえながら、アイ先生が話し始めるのを私は辛抱強く待った。トモ先生や、他の先生は、もう聞いたのか、アイ先生の言葉を待っているのは私だけのようだ。

「大変よ、先生」

「なんでしょう、怖いなぁ」

 心の準備は十分すぎるほどできている。

 それでも次のアイ先生の言葉は、私の顔から表情を奪った。

「ミツルくんが登校拒否になったみたい」

 手に持っていたカバンを落とした。いつもドラマでそんなシーンを見ては、ウソっぽいと思っていたが、こういう時、人は本当に落としてしまうらしい。

「どうしてですか? もしかして、イジメとか?」

 私の思考回路は単純で、すぐにイジメに結び付いた。

「仲良しの友達もいるし、そういうわけじゃないみたい」

 そりゃそうか。学童でも友達とベッタリだし、ミツルも楽しそうにしている。テンションが高すぎるほどだ。あまりにハメを外すので、最近は注意をすることが多かった。それを言うと、アイ先生は冷静に言った。

「それは何かのサインだったのね。いつものミツルくんじゃない。エスオーエスのサインだった。その時に、注意だけじゃなくて、もっと彼の変化に気づいてあげて、心の声に耳を傾けていれば、違った声掛けができたはずよね」

 その言い方にムカっときたが、アイ先生の言う通りだ。私には心当たりがあった。ミツルには持病があり、私と二人きりになった時に、彼はこう言っていた。

「あーあ。どうして自分だけ皆と違うんだろう」

 どうして僕だけ病気なんだ。

 そう言われて私が言ったのは、こうだ。

「それはね、ミツルくんなら病気を乗り越えられるから、神様がミツルくんを選んだんだよ」

 ミツルを勇気づけるには、この言葉だ、と慎重に吟味しながら選んだつもりだった。

 だけど、それを言ってもミツルは浮かない顔のままだった。

 あの時もっと心の声に耳を傾けていれば。

 あの時こうしていれば。ああしていれば。

という悩みはこの仕事をしているといつまでもつきない。

 カバンを持ちなおし、パズルをあける。

 落ちた衝撃で、パズルはバラバラになってしまった。

 完成したと思った時に壊れるんだな。

 私は腕まくりをした。

「ただいまー!」

 威勢の良い声が返ってきた。

「おかえりー!」

 私は事務室を出た。

 

 

 






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