第2話 1年目「8月2日」(前編)
八月。とっくの昔に梅雨明けの発表があり、そんな雨なんてなかったかのように太陽はギラギラと照りつける。人々はその猛暑ぶりに鬱陶しさを感じていた。それは文芸部員の夏目恵美も例外ではなかった。彼女は夏休みだというのに、正午過ぎの教室の自分の机で突っ伏していた。
「暇が欲しい……」
この高校の夏休み前半には補習という名目の追加授業が存在する。
『全員受けろってそれもう補習じゃないだろ!』とか苦情を入れたいけど、面倒事には巻き込まれたくないな。ただでさえ鬱陶しい暑さなのに。
教室は冷房が効いているので、ひとたび中に入ると外には出たくなくなる。この補習は午前中で終わるが、午後は午前と比べ物にならないほど暑いことも相まって、すぐには帰らないで教室にたむろしている生徒も少なくない。
そんなわけで、文字通りの『休み』とは縁遠い生活となってしまった恵美は、そういう運命を自ら選んでしまったのだと諦めをつけると、鞄を持ち、のそのそと立ち上がる。そして、ある机まで行くと荷物を鞄に詰め込んでいる女子に話しかける。
「加藤さん、私、部室行くつもりだけど、加藤さんはどうする?」
「はい!私もそのつもりでしたので、一緒に行きましょうか」
彼女は加藤三咲といい、恵美と同じく文芸部員でもある。澄んだ声で返事をすると、優雅な所作で立ち上がる。
これで『あれ』さえなければ完璧なんだけどなぁ。
三咲の準備ができると、二人で教室を出た。
「うわ、やっぱ暑いねー。溶けそう……」
「そうですねぇ、部室が遠いのもネックですね……」
文芸部室のある棟は本校舎から歩いておよそ十分かかる。照りつける太陽の下で十分間歩くというのは文化部である二人にはつらいものがある。二人は下駄箱でスリッパから靴に変えると、会話で暑さを紛らわせて、歩いていく。
「加藤さんは今日は何する?」
「そうですね……部誌に投稿する短編のプロットの作製ですかね」
「あ、そうだった。そういや、部誌があるのか。私も作ろうかな」
文芸部は毎年九月に行われる文化祭で部誌を売っている。部員は全員それに投稿する決まりだ。例年はそこそこ売れる程度だが、部長の影響もあり、去年は売り切れるスピードがかなり早かった。恵美も去年の文化祭には学校見学も兼ねて訪れており、それをゲットしている。
今度は私の小説も載せるのかぁ。
恵美は恥ずかしいような、少し期待してしまう気分になる。
「私、プロットの書き方の本を持ってきたので、一緒に読みながら作りましょうか」
「おお、ありがたい!じゃあ、読ませてもらおうかな」
「いえいえ……ふふっ」
三咲の表情が少し緩む。
「こんなに暑いのに、よくそんな綺麗な姿勢を保って歩けるね……」
恵美はだらしない姿勢でとぼとぼと歩いているのに対し、三咲は背筋をピンとして恵美に歩幅を合わせながらも堂々と歩いている。この時期には熱源でしかない風も、彼女に向かって吹くとさわやかな風のように見えた。
「そんなに綺麗ですかね?自分ではこれが普通なので……ふへへっ」
三咲の表情がさらに緩んだ。恵美が選んだ話題にもかかわらず、どうしようもないほどの暑さにやられ、適当に返事をする。
「いやー、すごいなぁ……そういや、話は変わるけど加藤さんの今期のイチオシアニメはなに?」
「イチオシですかぁ……うーん、選び難いですけど、しいて言うなら『のーりつ!』ですかね。私も将来、あんなふうに可愛い女の子がいっぱいの職場で働いて、友達いっぱいになりたいですね」
三咲は緩みきった顔を保ったまま、自分なりに答えた。三咲から友達というワードが出た瞬間に、恵美はビクッと反応するが、それをごまかすかのように言葉を選んでいった。
「そ、それなら私も見てるよ。私はあんな職場では働きたくないなぁ。ネットではブラック企業で働いているおっさんの擬人化って言われてるくらいだし」
「えみりんは将来、どんな職業に就きたいとか決めているのですか?」
「えっと……特に決めている訳じゃないけど、つらいだけの仕事はいやかなー。つらくても、その分だけ自分に見返りがあるような職業に就きたいとは思ってるよ。まあ、理想だけどね」
『実はクリエイターになりたい』とか、恥ずかしすぎるでしょ。
小説や漫画、アニメからもらった元気は計り知れない。それに恩返ししたいわけではないが、少しでも多くの人にそういうコンテンツから元気をもらってほしいという思いと、何かを創り出したいという意思から、自然とそんな夢を持っていた。このコンテンツに触れた人ならば、だれしも一度は思い描く夢だろう。
でも、夢のまま終わりたくない。
「それでも、いろいろ考えてるのはすごいと思いますよ!私なんかまだ先のことだって先延ばしにしちゃってますから、ふひひ……あ、部室、見えてきましたね」
「ふう、あと半分か……」
まだ半分もこの灼熱の中で歩くのかぁ。
内心で不満を漏らしつつも、足は緩めず進んでいった。