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血塗れの聖母

作者: H20/Light
掲載日:2017/04/22

 足を止めてはいけない。

 走るの。

 とにかく逃げなくちゃダメ。少しでも遠くへ。

 ここにいてはいけない。

 夜を照らす星明かりも、枝葉の陰で森のなかまでは届かない。

 そもそも、この森にまともな道なんかありはしないのだ。

 これまでも、うねる木の根に何度も足を取られた。

 それでも、私は走る。

 一歩でも、二歩でも足を進めなければ。

 意識が朦朧としている。

 頭に霞がかかったみたいだ。

 息が苦しい。

 頭を振ると、私は再び駆け出した。

 父さまも、母さまも、もういない。

 お祖父(じい)さまも、召使いたちも、殺されてしまった。

 皆、あんなに優しかったのに。

 正直で、慎ましかった。

 時に厳しく叱られたけれど、今なら、それも私を思ってのことだったとわかる。

 神様の祝福を、真っ先に受けるべき人たちだった。

 何故、こんな事になってしまったのか。あの忌まわしい夜を思い出す。

 皆、最期はどんな顔をしていたのだったか。

 恐怖に表情を強ばらせて、小刻みに震えていた。

 驚きと絶望がないまぜの瞳で、こちらを見つめていた。

 思い出しただけで、息が詰まる。

 酸っぱい液体が口の奥まで昇ってくるのを感じた。

 思わず口を手で押さえて、吐き気に耐える。

 なぜ、私だけこんなに苦しまなくちゃいけないのか。

 顔を上げると、あの夜の化け物が目の前に立っていた。

 白い顔に青い瞳。ブロンドの長髪からは血が滴り、足下に池をつくっていた。

 化け物が私を見つめる。私も化け物から目が離せない。

 血が、沸騰しそうだ。

 無性にのどが渇く。

 化け物は、あの夜のままのおぞましい姿だった。

 そう、息を引き取る間際、父さまの瞳に映った私、そのものの姿だった。

「ああ、もっと、食べたかったなあ」




 カタリナはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

 全身がじっとりと湿っていた。

 荒くなった息を整えて、周りを見回す。月光の届かない森のなかで、小さな炎だけが薄ぼんやりとあたりを照らしていた。木々は不気味に枝葉を伸ばし、冷たい地面は苔と下草に覆われている。

 生ぬるい大気が身体にまとわりつき、かび臭くて鼻についた。

 だが、寝苦しいのは、環境の所為(せい)だけではなかった。

 あの夜以来、毎晩同じ悪夢を見る。満足に眠れた日など一夜もない。

 燠火(おきび)がパチパチと小さな破裂音を立てる。その向こう側で、男が木の幹を背にして座っていた。

 荒削りな彫刻を思わせる無骨な顔。深い眼窩(がんか)の奥で二つの目玉だけが爛々と光を放っている。マントの裾から筋張った太い腕がのぞく。カタリナの華奢な身体など、容易(たやす)く手折ってしまえそうだ。

「ねえ、ゲーブ。少し話をしてもいいかしら」

 自分でも驚くほど、か細い声だ。

 男は黙ってカタリナを一瞥しただけだった。

「貴方、領主の屋敷に行きたいのでしょう。何故あそこに行きたいの」

「様子を確かめてこいと依頼を受けた。それだけだ」

 低いくぐもった声は、人を拒むような響きがあった。

 声だけではない。男のまとう空気そのものが、どこか浮き世離れしていて、獣じみていた。

 口数の少ない男だった。彼がカタリナに教えたのは、自分の名前と、屋敷への案内をして欲しいという要望だけである。

「ゲーブ、貴方もう少し愛想よくした方が良いわよ。それから、明日以降、野宿はご免こうむりたいわね」

 ゲーブの態度に不満を当て付けると、カタリナは再び横になった。

 やはり、すぐには寝付けなかった。




 次の晩は、立ち寄った農村で宿を借りた。

 はじめは家畜小屋をあてがわれたが、カタリナが銀細工のブローチを渡すと、丁重に空き家を紹介してくれた。そのうえ、夕食までご馳走しになった。

 ほとんど白湯と変わらない薄いかゆと、干し肉が少し出た。

「これが私たちのお出しできる精一杯なのです」と、申し訳なさそうに頭を下げる村人に、カタリナは心からの感謝を伝えた。久方ぶりの人のぬくもりが、心の底からありがたかった。

 だが、同時に、カタリナのなかで暗い渇望が(うごめ)きだす。

 人の真心に触れて、心の表層が温かくなる一方で、心底は冷めていった。

 目の前の人々が善良であればあるほど、「喰いたい」という情動が押さえ難く込み上げる。村人の首元に伸びそうになる自分の腕を、カタリナの良心が必死に制していた。




 小屋に戻り、寝床にもぐり込んだ後も、眠る事は出来なかった。

 屋根と壁で夜風はしのげても、胸中の渇きは満たされない。

 どれだけ理性が抑止しても、本能が「喰らえ」と叫んでいる。

 カタリナは頭を抱えた。

 先程食べたかゆと肉が腹の中から遡ってくる。

 天地が動転し、立ち上がるのも辛い。

 身体の震えが止まらなかった。

 煩悶(はんもん)するカタリナの目に、居間で眠る男の姿が映る。

 

 ドクッ、


 心臓が大きく鼓動を打つ。

 あの男なら構わないのではないか。

 胸の奥の方から内なる獣がささやく。

 傭兵なんて、所詮ははぐれ者だ。

 いなくなっても、誰も困らない。

 誰も悲しまない。

 どうせ、どこかで野垂れ死ぬ運命だ。

 生きるために殺す、およそ人間らしからぬ者なのだ。

 震えはぴたりと止まった。

 視線の焦点は定まっている。

「それなら、私が食べても許されるよね」

 カタリナはたまった唾を飲み込んだ。



 目の前では、男が壁にもたれて眠っている。

 寝息こそ聞こえないが、まぶたを閉じて動かない。

 屈強な身体。

 薄汚れた肌をその下の筋肉が隆起させ、青い血管が幾本もはしっている。

 あらためて見ると、男の身体にはあちこちに傷跡が残っていた。

 切り傷や刺し傷、どうすればつくのか想像もできない禍々しい傷跡もあった。

 私は、この身体を喰うのだ。

 覚悟を決めてしまえば、何ということはない。

 まとわりついていた罪悪感は、ほの暗い高揚感に変わった。

 どこから食べようか。

 肉のついた脚か。

 柔らかな腹か。

 いや、目を覚ます前に、頭をひと呑みにしてしまおう。

 一瞬、大きな口を開けるのは淑女としてはしたないだろうか、という思いが浮かんだが、すぐに断ち消えた。

 音を立てないようにして、男ににじりよると、勢い良くかじりついた。

 想像とは違う感触が下顎に伝わる。

 それは、緊密に束ねられた肉の弾力。

 どれだけ力を込めても、文字通り歯が立たない。

 カタリナが食いついたのは、頭ではなく、男の屈強な右腕だった。

 男の瞳がはたと開く。顎を抜く間もなく、組み敷かれた。

 琥珀色の双眸がカタリナを見下ろしている。

「やっと正体を現したな、化け物」

 相変わらず、男の言葉には抑揚がない。

 代わりに、心臓を直接握られたような不気味な迫力がこもっていた。

 これを“殺意”と呼ぶのかもしれないと思った。

「領主の屋敷で人が消えると聞いた。全てお前の仕業だろう」

 語りかける無機質な瞳を、カタリナは睨み返す。

 腕も、胴も、信じ難い力で押さえつけられていて、身動きが取れない。

「自分では、どうしようもなかったの。本当はあんなことしたくなかった」

 男がかすかに笑ったようだった。

「何がおかしいの」

「化け物でも、弁解するんだな。少しは後ろめたいらしい」

 ゲーブの唇に皮肉めいた笑みが浮く。初めて見せる人間らしい感情表現だった。

「自分の意思ではないと言うがな、俺を襲う時、自分がどんな顔をしていたか、お前は知っているのか」

 これ以上、彼の言葉に耳を貸すな、と理性が警鐘を鳴らしている。

 だが、耳を閉じようにも両手は封じられて動けない。嫌な予感だけがぶくぶくと膨張していった。

「笑っていたよ。さも愉快そうにな」

 ゲーブの言葉が終わる前に、カタリナの口から獣声があがった。慟哭は、高く、遠く、空気を振るわせた。

 知りたくなかった。

 いや、どこかでわかっていても、認めたくなかった。

 自分はまだ人間なのだと信じていたかった。

 だが、気付かされてしまった。

 お前は人食いの化け物だと、本性を暴かれてしまった。

 涙で視界はかすみ、自分にまたがるゲーブの影が揺れている。

「そんなに認めたくないか。他人を食い物にするなんて、誰もがやっていることだろうに」

 ゲーブの表情があきれたように緩む。

 ちょうどその時、外から草木の葉擦れとは別の音が聞こえてきた。何人もの人間が集まっている気配がする。

「いい機会だ。お前に人間の本質ってものを拝ませてやる」

 ゲーブに抱えあげられたカタリナは、そのまま小屋の入口近くまで連れていかれた。



 外では松明を持った村人が集まっていた。皆、一様に思い詰めた面持ちである。暗い悲壮感がその場を満たしていた。

 小屋を囲む村人に対して、一人の青年が向かい合わせに立っている。

「皆、お客人を襲って、持ち物を奪おうなんてやめてくれ」

 青年は必死に説得しているが、村人たちの様子は変わらない。じりじりと小屋の囲いを狭めていく。

 一人の老人が青年に歩み寄った。

「ヨシュアよ、邪魔せんでくれ。お前も女の身なりを見ただろう。あれは、どこぞの領主の娘に違いない。あの子の持ち物を売れば、きっと、村はこの冬を越せるのだぞ」

 老人の目が血走っている。そこに青い狂気の火が灯っていた。

 周りからも悲痛な叫びが飛ぶ。

「薬を買わなけりゃ、うちの母ちゃんが死んじまう」

「もう人買いに子どもを渡すなんて、まっぴらだよ」

「どうせ、領民から搾り取ったものなんだ。おれらが奪って何が悪い」

 村人の決意は揺るがない。

 他者を食い物にしてでも、生きたいのだ。

 騙し、奪い、殺してでも、自分たちが生きたいのだ。

 叫び声はそう言っていた。

 小屋の入口から様子をうかがっていたカタリナの耳にも、そう聞こえた。



 人の本姓は善だと信じていた。

 善にあだなすものは悪だ。

 だから、人を殺して食べた自分を認めたくなかった。

 悪である自分を受け入れたくなかった。

 それなのに――

「思ったよりも数が多いな」

 頭の上からゲーブの言葉が落ちてきた。

「おい、化け物、提案がある。半分は俺が()る。残りはお前が相手をしろ」

 カタリナは耳を疑った。

 彼は今、何と言ったのか。

 村人を殺すと言ったように聞こえた。

「貴方、自分が何を言っているのか、わかっているの」

「奴らを手分けして殺すって言ったんだ。お前もこんな所で死にたくないだろう」

 さも、当たり前のように言い放った。朝の挨拶でもするような軽やかさで。

 ここでは人の生き死にが台所のごみくずのように扱われている。

「私はいや!」

「今更、何人殺そうが変わらんだろう。生きたいなら、他人を踏みつけ、食い物にするのが世の理だ。やられる前にやれ、だよ」

 その時、表で鈍い打撃音が響いた。

 壁の影からのぞくと、ヨシュアと呼ばれていた青年が倒れていた。

 近くに立つ男が鍬をかまえている。

「お、お前がいけないんだ」

 男の声は震えていた。青年の下に、赤い染みが広がっていく。

「おれたちが生きていくには、これしかないんだ。しょうがないじゃないか」

 男の足下で、善良な青年はぴくりとも動かなくなった。

 目の前の光景を見たくなかった。

 何も見たくない。

 視界は黒く塗りつぶされていき、鮮血の赤だけが残った。

「これが人間の本質だ」

 ゲーブの声がした。

「お前も同じだ。生きたければ殺すしかない」

 耳元の声と頭のなかの叫びが重なった。

「喰ってしまえ」




 東の峰の稜線が白みはじめ、木の葉を濡らす朝露が輝く頃、小屋の周りに人はいなくなっていた。

 あるのは、うずたかく積まれた人だった物の残滓(ざんし)

 青年の亡骸を膝に抱く恍惚の少女。

 陽の光が、無慈悲なまでに全てを美しく照らし出していた。

 死体の山の陰からマントの男が姿を現した。

「随分と派手にやったもんだな」

 ゲーブの声に、少女が頭を上げる。返り血にまみれた顔で、少女は虚ろな笑みを返した。

「私、決めたわ。これからも殺し続けるって」

 声に精気はなかったが、朝の空気を裂いてはっきりと響いた。

「貴方の言ったことはまだ納得できない。でも、善良な人を食い物にする、罪のない人を虐げる、そんな人の皮を被った禽獣たちを全て殺すことはできると思う」

 口をつく言葉にためらいがない。

「そんなことをしても、化け物は人間にはなれないぜ」

「わかっているわ。でも、そうやって神様に愛されるべき人たちのために生きていれば、化け物としての私の生涯にも、意味があるって思えるから」

 冗談とも、本気ともつかない薄笑いを貼りつかせて、少女は続ける。

「ゲーブ、私に名前をちょうだい。人としての私は昨日死んだの。新しい人生には新しい名前が必要でしょう」

 陽光に照らされて、少女の顔を伝う滴が眩しいくらいに煌めいた。

 血しぶきは、朝のさわやかな空気にとけて、霧散していく。

 ゲーブに何か考えがあったわけではない。

 もちろん、皮肉でもなかった。

 彼の脳裏に最初に浮かんだ名前。

「マリア。今からお前はマリアだ」

 新しい名前が気に入ったのか、少女はにこりと笑った。

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マリアとゲーヴのその後については、「ウィレム・ファン・フランデレンの最果て紀行~元許嫁と行くトラブル・トラベル~」に、13話以降に一部記載しております。
合わせてお読みいただければ、幸いです。
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