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血塗れの聖母

作者: H20/Light

 足を止めてはいけない。

 走るの。

 とにかく逃げなくちゃダメ。少しでも遠くへ。

 ここにいてはいけない。

 夜を照らす星明かりも、枝葉の陰で森のなかまでは届かない。

 そもそも、この森にまともな道なんかありはしないのだ。

 これまでも、うねる木の根に何度も足を取られた。

 それでも、私は走る。

 一歩でも、二歩でも足を進めなければ。

 意識が朦朧としている。

 頭に霞がかかったみたいだ。

 息が苦しい。

 頭を振ると、私は再び駆け出した。

 父さまも、母さまも、もういない。

 お祖父(じい)さまも、召使いたちも、殺されてしまった。

 皆、あんなに優しかったのに。

 正直で、慎ましかった。

 時に厳しく叱られたけれど、今なら、それも私を思ってのことだったとわかる。

 神様の祝福を、真っ先に受けるべき人たちだった。

 何故、こんな事になってしまったのか。あの忌まわしい夜を思い出す。

 皆、最期はどんな顔をしていたのだったか。

 恐怖に表情を強ばらせて、小刻みに震えていた。

 驚きと絶望がないまぜの瞳で、こちらを見つめていた。

 思い出しただけで、息が詰まる。

 酸っぱい液体が口の奥まで昇ってくるのを感じた。

 思わず口を手で押さえて、吐き気に耐える。

 なぜ、私だけこんなに苦しまなくちゃいけないのか。

 顔を上げると、あの夜の化け物が目の前に立っていた。

 白い顔に青い瞳。ブロンドの長髪からは血が滴り、足下に池をつくっていた。

 化け物が私を見つめる。私も化け物から目が離せない。

 血が、沸騰しそうだ。

 無性にのどが渇く。

 化け物は、あの夜のままのおぞましい姿だった。

 そう、息を引き取る間際、父さまの瞳に映った私、そのものの姿だった。

「ああ、もっと、食べたかったなあ」




 カタリナはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

 全身がじっとりと湿っていた。

 荒くなった息を整えて、周りを見回す。月光の届かない森のなかで、小さな炎だけが薄ぼんやりとあたりを照らしていた。木々は不気味に枝葉を伸ばし、冷たい地面は苔と下草に覆われている。

 生ぬるい大気が身体にまとわりつき、かび臭くて鼻についた。

 だが、寝苦しいのは、環境の所為(せい)だけではなかった。

 あの夜以来、毎晩同じ悪夢を見る。満足に眠れた日など一夜もない。

 燠火(おきび)がパチパチと小さな破裂音を立てる。その向こう側で、男が木の幹を背にして座っていた。

 荒削りな彫刻を思わせる無骨な顔。深い眼窩(がんか)の奥で二つの目玉だけが爛々と光を放っている。マントの裾から筋張った太い腕がのぞく。カタリナの華奢な身体など、容易(たやす)く手折ってしまえそうだ。

「ねえ、ゲーブ。少し話をしてもいいかしら」

 自分でも驚くほど、か細い声だ。

 男は黙ってカタリナを一瞥しただけだった。

「貴方、領主の屋敷に行きたいのでしょう。何故あそこに行きたいの」

「様子を確かめてこいと依頼を受けた。それだけだ」

 低いくぐもった声は、人を拒むような響きがあった。

 声だけではない。男のまとう空気そのものが、どこか浮き世離れしていて、獣じみていた。

 口数の少ない男だった。彼がカタリナに教えたのは、自分の名前と、屋敷への案内をして欲しいという要望だけである。

「ゲーブ、貴方もう少し愛想よくした方が良いわよ。それから、明日以降、野宿はご免こうむりたいわね」

 ゲーブの態度に不満を当て付けると、カタリナは再び横になった。

 やはり、すぐには寝付けなかった。




 次の晩は、立ち寄った農村で宿を借りた。

 はじめは家畜小屋をあてがわれたが、カタリナが銀細工のブローチを渡すと、丁重に空き家を紹介してくれた。そのうえ、夕食までご馳走しになった。

 ほとんど白湯と変わらない薄いかゆと、干し肉が少し出た。

「これが私たちのお出しできる精一杯なのです」と、申し訳なさそうに頭を下げる村人に、カタリナは心からの感謝を伝えた。久方ぶりの人のぬくもりが、心の底からありがたかった。

 だが、同時に、カタリナのなかで暗い渇望が(うごめ)きだす。

 人の真心に触れて、心の表層が温かくなる一方で、心底は冷めていった。

 目の前の人々が善良であればあるほど、「喰いたい」という情動が押さえ難く込み上げる。村人の首元に伸びそうになる自分の腕を、カタリナの良心が必死に制していた。




 小屋に戻り、寝床にもぐり込んだ後も、眠る事は出来なかった。

 屋根と壁で夜風はしのげても、胸中の渇きは満たされない。

 どれだけ理性が抑止しても、本能が「喰らえ」と叫んでいる。

 カタリナは頭を抱えた。

 先程食べたかゆと肉が腹の中から遡ってくる。

 天地が動転し、立ち上がるのも辛い。

 身体の震えが止まらなかった。

 煩悶(はんもん)するカタリナの目に、居間で眠る男の姿が映る。

 

 ドクッ、


 心臓が大きく鼓動を打つ。

 あの男なら構わないのではないか。

 胸の奥の方から内なる獣がささやく。

 傭兵なんて、所詮ははぐれ者だ。

 いなくなっても、誰も困らない。

 誰も悲しまない。

 どうせ、どこかで野垂れ死ぬ運命だ。

 生きるために殺す、およそ人間らしからぬ者なのだ。

 震えはぴたりと止まった。

 視線の焦点は定まっている。

「それなら、私が食べても許されるよね」

 カタリナはたまった唾を飲み込んだ。



 目の前では、男が壁にもたれて眠っている。

 寝息こそ聞こえないが、まぶたを閉じて動かない。

 屈強な身体。

 薄汚れた肌をその下の筋肉が隆起させ、青い血管が幾本もはしっている。

 あらためて見ると、男の身体にはあちこちに傷跡が残っていた。

 切り傷や刺し傷、どうすればつくのか想像もできない禍々しい傷跡もあった。

 私は、この身体を喰うのだ。

 覚悟を決めてしまえば、何ということはない。

 まとわりついていた罪悪感は、ほの暗い高揚感に変わった。

 どこから食べようか。

 肉のついた脚か。

 柔らかな腹か。

 いや、目を覚ます前に、頭をひと呑みにしてしまおう。

 一瞬、大きな口を開けるのは淑女としてはしたないだろうか、という思いが浮かんだが、すぐに断ち消えた。

 音を立てないようにして、男ににじりよると、勢い良くかじりついた。

 想像とは違う感触が下顎に伝わる。

 それは、緊密に束ねられた肉の弾力。

 どれだけ力を込めても、文字通り歯が立たない。

 カタリナが食いついたのは、頭ではなく、男の屈強な右腕だった。

 男の瞳がはたと開く。顎を抜く間もなく、組み敷かれた。

 琥珀色の双眸がカタリナを見下ろしている。

「やっと正体を現したな、化け物」

 相変わらず、男の言葉には抑揚がない。

 代わりに、心臓を直接握られたような不気味な迫力がこもっていた。

 これを“殺意”と呼ぶのかもしれないと思った。

「領主の屋敷で人が消えると聞いた。全てお前の仕業だろう」

 語りかける無機質な瞳を、カタリナは睨み返す。

 腕も、胴も、信じ難い力で押さえつけられていて、身動きが取れない。

「自分では、どうしようもなかったの。本当はあんなことしたくなかった」

 男がかすかに笑ったようだった。

「何がおかしいの」

「化け物でも、弁解するんだな。少しは後ろめたいらしい」

 ゲーブの唇に皮肉めいた笑みが浮く。初めて見せる人間らしい感情表現だった。

「自分の意思ではないと言うがな、俺を襲う時、自分がどんな顔をしていたか、お前は知っているのか」

 これ以上、彼の言葉に耳を貸すな、と理性が警鐘を鳴らしている。

 だが、耳を閉じようにも両手は封じられて動けない。嫌な予感だけがぶくぶくと膨張していった。

「笑っていたよ。さも愉快そうにな」

 ゲーブの言葉が終わる前に、カタリナの口から獣声があがった。慟哭は、高く、遠く、空気を振るわせた。

 知りたくなかった。

 いや、どこかでわかっていても、認めたくなかった。

 自分はまだ人間なのだと信じていたかった。

 だが、気付かされてしまった。

 お前は人食いの化け物だと、本性を暴かれてしまった。

 涙で視界はかすみ、自分にまたがるゲーブの影が揺れている。

「そんなに認めたくないか。他人を食い物にするなんて、誰もがやっていることだろうに」

 ゲーブの表情があきれたように緩む。

 ちょうどその時、外から草木の葉擦れとは別の音が聞こえてきた。何人もの人間が集まっている気配がする。

「いい機会だ。お前に人間の本質ってものを拝ませてやる」

 ゲーブに抱えあげられたカタリナは、そのまま小屋の入口近くまで連れていかれた。



 外では松明を持った村人が集まっていた。皆、一様に思い詰めた面持ちである。暗い悲壮感がその場を満たしていた。

 小屋を囲む村人に対して、一人の青年が向かい合わせに立っている。

「皆、お客人を襲って、持ち物を奪おうなんてやめてくれ」

 青年は必死に説得しているが、村人たちの様子は変わらない。じりじりと小屋の囲いを狭めていく。

 一人の老人が青年に歩み寄った。

「ヨシュアよ、邪魔せんでくれ。お前も女の身なりを見ただろう。あれは、どこぞの領主の娘に違いない。あの子の持ち物を売れば、きっと、村はこの冬を越せるのだぞ」

 老人の目が血走っている。そこに青い狂気の火が灯っていた。

 周りからも悲痛な叫びが飛ぶ。

「薬を買わなけりゃ、うちの母ちゃんが死んじまう」

「もう人買いに子どもを渡すなんて、まっぴらだよ」

「どうせ、領民から搾り取ったものなんだ。おれらが奪って何が悪い」

 村人の決意は揺るがない。

 他者を食い物にしてでも、生きたいのだ。

 騙し、奪い、殺してでも、自分たちが生きたいのだ。

 叫び声はそう言っていた。

 小屋の入口から様子をうかがっていたカタリナの耳にも、そう聞こえた。



 人の本姓は善だと信じていた。

 善にあだなすものは悪だ。

 だから、人を殺して食べた自分を認めたくなかった。

 悪である自分を受け入れたくなかった。

 それなのに――

「思ったよりも数が多いな」

 頭の上からゲーブの言葉が落ちてきた。

「おい、化け物、提案がある。半分は俺が()る。残りはお前が相手をしろ」

 カタリナは耳を疑った。

 彼は今、何と言ったのか。

 村人を殺すと言ったように聞こえた。

「貴方、自分が何を言っているのか、わかっているの」

「奴らを手分けして殺すって言ったんだ。お前もこんな所で死にたくないだろう」

 さも、当たり前のように言い放った。朝の挨拶でもするような軽やかさで。

 ここでは人の生き死にが台所のごみくずのように扱われている。

「私はいや!」

「今更、何人殺そうが変わらんだろう。生きたいなら、他人を踏みつけ、食い物にするのが世の理だ。やられる前にやれ、だよ」

 その時、表で鈍い打撃音が響いた。

 壁の影からのぞくと、ヨシュアと呼ばれていた青年が倒れていた。

 近くに立つ男が鍬をかまえている。

「お、お前がいけないんだ」

 男の声は震えていた。青年の下に、赤い染みが広がっていく。

「おれたちが生きていくには、これしかないんだ。しょうがないじゃないか」

 男の足下で、善良な青年はぴくりとも動かなくなった。

 目の前の光景を見たくなかった。

 何も見たくない。

 視界は黒く塗りつぶされていき、鮮血の赤だけが残った。

「これが人間の本質だ」

 ゲーブの声がした。

「お前も同じだ。生きたければ殺すしかない」

 耳元の声と頭のなかの叫びが重なった。

「喰ってしまえ」




 東の峰の稜線が白みはじめ、木の葉を濡らす朝露が輝く頃、小屋の周りに人はいなくなっていた。

 あるのは、うずたかく積まれた人だった物の残滓(ざんし)

 青年の亡骸を膝に抱く恍惚の少女。

 陽の光が、無慈悲なまでに全てを美しく照らし出していた。

 死体の山の陰からマントの男が姿を現した。

「随分と派手にやったもんだな」

 ゲーブの声に、少女が頭を上げる。返り血にまみれた顔で、少女は虚ろな笑みを返した。

「私、決めたわ。これからも殺し続けるって」

 声に精気はなかったが、朝の空気を裂いてはっきりと響いた。

「貴方の言ったことはまだ納得できない。でも、善良な人を食い物にする、罪のない人を虐げる、そんな人の皮を被った禽獣たちを全て殺すことはできると思う」

 口をつく言葉にためらいがない。

「そんなことをしても、化け物は人間にはなれないぜ」

「わかっているわ。でも、そうやって神様に愛されるべき人たちのために生きていれば、化け物としての私の生涯にも、意味があるって思えるから」

 冗談とも、本気ともつかない薄笑いを貼りつかせて、少女は続ける。

「ゲーブ、私に名前をちょうだい。人としての私は昨日死んだの。新しい人生には新しい名前が必要でしょう」

 陽光に照らされて、少女の顔を伝う滴が眩しいくらいに煌めいた。

 血しぶきは、朝のさわやかな空気にとけて、霧散していく。

 ゲーブに何か考えがあったわけではない。

 もちろん、皮肉でもなかった。

 彼の脳裏に最初に浮かんだ名前。

「マリア。今からお前はマリアだ」

 新しい名前が気に入ったのか、少女はにこりと笑った。

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マリアとゲーヴのその後については、「ウィレム・ファン・フランデレンの最果て紀行~元許嫁と行くトラブル・トラベル~」に、13話以降に一部記載しております。
合わせてお読みいただければ、幸いです。
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