エピローグ2:風が渡る場所
猫耳が、小鳥の声に揺れた。獣の感覚が、夜が明けたことを告げる。
モノはペンを置き、机で伸びをした。
窓に、向かう。
カーテンを開け、柔らかい日差しを部屋に入れた。
丘の屋敷からは、街全体を見下ろせる。
潮風は温かく、心地よい。緩やかに下っていく街並みの先で、海は穏やかに凪いでいた。ぎらぎらとした夏の気配も、肌を刺す冬の気配も、もう過去のものだ。
「朝か……」
呟くと、水差しから小さな虎が飛び出してきた。水の虎は窓枠に乗って、モノと一緒に外を見る。
「グウ」
春が近い。冬を乗り越えた、きらめく海が水平線まで渡っている。
帝都の戦いから、半年が経っていた。信じられないくらい、時を早く感じる。
大陸では、初めて体験することばかりだった。
生家があるサザンでは、雪も降った。空から冷たい氷が降ってくるというのは、目にするまでとても信じられなかったものだ。サンティを出したら、中に雪の塊や、眠っていた魚が入ったりして、家族みんなで笑った。
少し前も懐かしく思うのは、今日が大切な日だからだろうか。
「モノ、起きてるかい?」
兄の声が、扉の向こうから届いた。
「はい! ちょっと待っててください」
モノは鏡に顔を写した。
眠気の残る、褐色の顔。一度水で拭ってから、銀髪にちょっと手ぐしを入れる。
少し目立ってしまうのは、頬の傷だろう。帝都で槍を受けてから、そこに少し痕が残ってしまったのだ。
この傷をつけた相手は、まだ行方が分かっていない。
「まだかい?」
モノは慌てて、ガウンを羽織った。春が近いとはいえ、島育ちに、朝はまだまだ寒い。
「いいですよ、お兄様」
ドアを開くと、男性が立っていた。
かつてのネズミ――フリューゲル家次男、オットーだ。
色白で、線が細い。ダークグリーンの瞳を見なければ、ちょっとアクセルと兄弟とは思われないだろう。髪も、赤毛ではあるが、黒髪と見間違えてしまうほどくすんだ色なのだ。
(でも、カッコいいよね)
鼻筋がすっと通っている。なかなかである、とモノは評価していた。
(おっと)
兄の足下に、一匹のネズミがいる。緑色のトサカを持っている、ナナイロネズミだった。
オットーのことを懐かしく思うのか、このネズミはいつも兄といる。
「ずっと起きていたのかい?」
「に」
オットーは、入口から部屋を覗き込んだ。机に積み上げられた書面に気づくだろう。
「手紙?」
モノは困ったように頬をかいた。
「いやー。昨日も色々、届いてきて」
モノは手紙の山を指す。が、ナナイロネズミが机に這い上がり、積まれた山を崩してしまった。
「だ、だめっ」
慌てて駆け寄り、ネズミを机の上から追い払う。バラバラになった手紙を、モノはついでに読み上げた。
「もう……ええと。これは、マティアスから。これは、テオドールから。どっちも緊急で、送りたい物資があるようです。サザンの布屋さんからは」
「ぜ、全部に自分で返事を出す気かい?」
オットーは驚いた。
その間にも、ネズミは手紙を崩す。あわわ、とモノはネズミを摘み上げた。
「……そろそろ、代筆を頼むべきじゃないかな。それで、フランも君にサインの練習をさせたと思うんだ」
モノは唇に指を当てた。
フランとは、次女のフランシスカのことだ。帝都の戦いの後、オットーとフランシスカの二人が、モノと同じ屋敷に住んで支えてくれている。
「お姉様に、相談してみます」
「フランならさっき出たよ。大事な日だから、お祈りを済ませるらしい」
「そうですか」
その時、猫耳が新しい足音を拾った。
男性の足音だ。モノは集中して、音の主を推し量る。猫耳にかかれば、足音でその人の機嫌まで分かるほどなのだ。
「ヘルマン?」
部屋の中から、モノは言い当てた。
「これは、公女様。本日もお見事です」
部屋にやってきたのは、フリューゲル家家令、ヘルマンだった。
戦っていた時と比べて、いくらか痩せて、目つきが穏やかになった気がする。優雅に腰を折る様子は、戦士というよりも、執事だった。
負傷を機に、戦士の役目は他に任せることになったのだ。今は家令として、モノの補佐に集中している。
今日は黒い帽子を被り、鍔のところに赤い羽根を挿していた。
「先ほど、庁舎前を確認して参りました」
ヘルマンは背筋を正して、続ける。
「集まりは、大変よろしいかと存じます。式典を間近で見るため、勝手に整理券まで配られ、高値までついておりまして」
解散させて来ましたが、とヘルマンは苦笑した。
「すでに大鷹族、牙猪族、山猫族が見えています。停戦後の返礼という体ですが、協力のはじめという点では、申し分ない集まり方でしょう」
モノは嬉しくなった。連絡を取り合っていた友達とも、今日ならば会えるだろう。山猫族からは、大切な人も来るはずだ。
オットーがふと気づいたように顔を上げた。
「招待といえば。マティアス殿下の、今日への返事はどうだった?」
モノは首を傾げた。
「しばらくは、帝都で待つということでした」
「それだけ?」
「ですけど」
最近、フランシスカも含めて、家族の間で謎の連携が起こる時がある。
モノはこの時も見逃した。
「……ふむ。彼もたいがい口べたな方かもね。今日なんて、進展の大チャンスだと思うけど」
そこでようやく、探りを入れられていることに気づいた。
頬が赤くなる。季節が早く感じるのは、文通相手を持ったからかもしれない。
(そろそろ、会いたいかな……?)
ぼんやりと、思う。ごく自然に。
図書館で色々と教えてもらったが、帝都のことや、本のこと、そして彼自身のことを、もっと教えてもらってもいい。
向こうからは会いたいと言われているわけだし――。
「……モノ?」
「へ。に、にふふ」
笑って、お茶を濁しておく。
姉達になら言ったかも知れないが、これは女性の秘密ということにしておこう。ヘルマンが咳払いをした。
口を挟まなかった辺り、ヘルマンもまた共犯だ。
「失礼いたしました、公女様。出立前に、軽くお食事をなさいますか?」
「はい!」
いつもは抜くことも多いが、モノは軽く朝食を摂った。お茶とスープ、そしてガルムというしょっぱいソースにつけた魚である。
フランシスカの読んだ報告書が溜まっていた。感謝しながら、今日も難しい話を頭に押し込んでいく。
報告書の中には、銀盆に乗った来客希望者の通知もあり、モノはその中に何人もの懐かしい名前を見つけた。
「やっぱり。式典には、大鷹族からはギギが来るんですね」
モノは食器を練習しながら、帝都の戦いを思った。歴史の転換点となった、半年前の出来事だ。
「あの方しかおられないでしょう。好戦的な氏族ではありますが、公女様との絆であれば、第一の方です」
帝都が停戦となった後にも、いくつもの問題が残った。
間違いなく一番は、帝国に侵入した亜人達だ。
砦に籠城していたが、彼らにすでに希望はない。
追い詰められた亜人を救ったのが、大鷹族のギギだった。彼女はモノがラシャと結んだ約束を、グライダーで大鷹族へ伝えたのだ。
彼女がいなければ、退路を断った亜人達は、死ぬまで戦ったことだろう。
「氏族の中で、頭角を現しているようだね。鷹だから、角というより、トサカかな」
「んに。行軍の時も、助けてくれました」
結果、不思議な行軍が起こっていた。
亜人学派が帝国の外に退くのを、ゲール人達が護衛したのだ。
攻めた亜人を帰すことには議論があったが、フリューゲル家は押し通した。今後のため、共存のためには、降伏した者まで殺すことはない。
「南の島からは、誰か?」
モノは尋ねた。家令は、気づく。
「……申し訳ありません。私が見た中には、おりませんでした。お見掛け次第、お連れするように言ってはありますが」
モノは今日のため、各地から亜人の協力者を募っている。
故郷の島々からも、知恵者を招いている。こちらは農業や精霊術の実力もあるが、モノ自身の人脈というところだ。
「……船が遅れたんじゃ、仕方ないよね」
自分に言い聞かせて、モノは食事を終えた。
湯浴みをし、化粧をしてもらう。褐色の肌はそのままに、薄く唇に紅を乗せる。夕日色の装束は、すっかりモノのお気に入りだ。
鏡に映すと、そこには少女の姿はない。
亜人公女、シモーネ・モノリス・フォン・デア・フリューゲルがいる。島ならば猫耳を隠す所だが、今日はそのままだ。
「よしっ」
最後に、同じ色のブローチを胸に留めた。
「みんな、行きましょう!」
モノ達は外へ出た。
春の潮風が全身を包む。モノは丘から見える海と、色とりどりの煉瓦の町並みに、しばらく見とれた。
ここは、ウォレス自治区。
モノが初めて大陸へやってきた場所だ。ここには亜人も元々いたし、貿易の拠点でもある。モノは活動を、この海が見える街で始めたのだ。
ヘルマンが笛を吹くと、玄関にすぐに馬車がやってきた。
「どうぞ」
モノは馬車に飛び乗った。
「……公女たるもの、ステップをお使いください」
「要らないですよ。跳ねて届きますし」
ヘルマンがとろんとした目で、小さく息を吐いた。短く、御者に向けて言う。
「進発っ」
路地を通り、庁舎のある広場へと向かった。
ほとんどの道で、外灯を目にする。オットーは、聖教府の庇護を失った地下の亜人達と交渉し、この街で技術的な実験を行っていた。
まずは外灯からだというが、これだけで自治区の治安はずいぶん改善したらしい。人が集まる所以だった。
「モノ。そろそろ、意識しておいて欲しい」
馬車の中で、オットーが訊いた。窓からの光が、次兄の顔に影を落とす。
「君の、今後についてだ」
分割しました。次回で最終回になります。




