4-41:亜人の証明
水路から地下へと潜る時、ラシャは驚いた。
黒いローブの亜人が手を当てると、壁が奥に向かって開き、入り口となる。隠し道は最初はごつごつとした岩壁だったが、長い階段を降りる内に、なめらかなものへと変じた。
亜人は、松明の代わりに青く光る石を持っていた。
ラシャ達は技術に舌を巻いたが、石も長くは使わなかった。地下深くでは、周囲の柱や天井がうっすらと光ることで、灯り自体を不要としていた。
「こんな場所が、あったのか」
ラシャも地下は初めてではないが、その中枢部は知っている道と大きく異なっていた。
左右には建物がある。窓や内装を供えた、明らかに暮らしのための場所だ。
見上げれば、建物と建物をつなぐ橋まで設けられていた。構造は、ゆうに三階層はあるだろうか。
数百名が暮らしていけそうな空間だ。
「見ろ」
仲間の白狼族が、地面から何かを拾った。
「ククの実だぞ」
島でも、儀礼で用いられる実だった。そう古いものではない。
「植物まで、この空間で作っていたということか」
水と光があれば、不可能ではない。こんな場所が十数年も地下に埋もれ、亜人達にさえ忘れられていた事実に、ラシャは空恐ろしいものを感じた。
亜人達が大陸から閉め出される前から、ここは秘められた場所だったのではないか。
「……どうした、ラシャ」
「いや」
ラシャは己が苦笑していることに気づいた。白狼族は仮面を外したので、表情が見えるようになっている。
皮肉なものだ。
亜人の誇りを諦めた時に、こんな秘密を目にするとは。
さらに進むと、風の音がし始めた。足を進めるにつれ、空気の流れは強くなっていく。先導者する亜人の、黒いローブがはためいていた。
「……妙だな」
亜人の足が速まった。動揺と、焦りが見える。
ラシャは問うた。
「どうした」
「風が強い。あり得ぬぞ。地下で、ここまでの風が起こるなど」
長い通路を抜けると、急に視界が開けた。
ラシャ達は巨大な空間に辿り着いていた。
天井には青い光が満ち、まるで地下の中に空ができたようだ。歩くと、草や木の根が足を取る。密林のようにうっそうとした気配だ。
ローブを揺らし、地下の亜人は膝をついた。ぱしゃり、と水が跳ねる。
「そんな……」
風の原因は、はっきりした。
天井の至る所に、亀裂が走っている。風はそこから吹き込んでいるようだ。床に溜まった水も、地上から流れ込んだものだろう。亀裂の一部は、未だに滝を作っていた。
差し込む陽光が水を照り返し、神秘的な光景だった。
「まさか、祖先の穴が……」
黒いローブは、言葉を失っていた。
どれほどの精霊が暴れたのかは想像もできない。天井の岩盤が打ち破られたとすれば、中にいた者も無事では済むまい。
「おい」
ラシャは仲間に合図をした。
「探すぞ。まずは、神官殿だ」
「モノリスは?」
問われて、ラシャは自分でも意外に思った。確かにマクシミリアン神官がいるなら、同じ場所にモノリスもいたはずだ。
が、ラシャの答えは首を振ることだった。
「警戒はするが……恐らくこの場にはいないだろう」
そんな気がした。
ほどなく、神官が倒れているのが分かった。近くに、見知らぬ亜人が倒れている。どこか見覚えのあるネズミも、その場で死んでいた。
「……神官殿」
意外にも、死体を見つけても心は揺れなかった。
分かり切っていた事実を確かめた。そんな作業に似ている。
「……ラシャ」
仲間の白狼族に、ラシャは首を振った。
「ああ。死んでいるな」
ラシャは神官の遺体を眺めた。安らかな死に顔だ。見よう見まねだが、神官に向けて臨終の秘蹟を執り行う。
(安らかに)
祈りながら、大きな体を仰向けにし、手を組み合わせた。幸い、まだ体の筋が硬直していなかった。秘蹟は神官にしか授けられないはずだったが、他に適切なやり方をラシャは知らない。
静けさは長くは続かなかった。
続々と、聖堂で敗れた亜人達が参集し始めた。
地下の住人――亜人学派の残党は、広間の破壊と、神官の死に動揺していた。
戦に例えれば、本陣と大将を同時に喪ったようなものだろう。亜人学派は頼るべき全ての柱を粉砕されたのだ。
「なんということだ!」
早速、議論が始まった。
ラシャは参加せず、乾いた目で観察した。
(いや)
もはや、議論ではない。単なる、狼狽と、罵り合いだった。亜人の言葉が飛び交うが、せいぜいがことわざを使った責任のなすり合いだった。
寒々しい気分になる。
(こんなものなのだ)
神官は、光の精霊を生み出すことで、もっと世界がよくなると思ったに違いない。
光の精霊は、祈りを集めて、力に変える。
ラシャもあの場にいたものとして、大勢の祈りがあの光に集まったのを感じていた。だから、おぼろげながら神官の意図を察することができた。
弱者の祈りが光によって報われる世界なら、本当の意味で弱いものなど存在しない。誰もが報復の権利を持つのだから。
神官が、それが永久に続くことを望んだのかは分からない。少なくとも、一度はそんな世界が必要だと考えたのだろう。
土地を求める亜人達は、いわばそのおこぼれに預かろうとしていたわけだ。
(そううまくいくものか)
ラシャは、現実を嫌というほど見てきた。
神官にも、亜人にも、もちろんゲール人にも、理想郷などやってこない。
素晴らしい力は、みんな独り占めしたいのだから。
「……馬鹿野郎」
マクシミリアン。
俺でも分かることに気づかなかったのか。
お前ほどの男が。
「くそ」
視界が滲んだ。悲しくて、悔しかった。
不思議な男だった。
白狼族の集落で、ラシャを見いだしたのもマクシミリアンだ。獣の耳を持たず、迫害されていたラシャを、神官は認めてくれた。
ラシャの父親は、白狼族の長だった。
息子など他に何人もいた。ゆえに、競争がある。耳なしに向けられる目は過酷だった。神官に槍の腕を見いだされて、初めて誰かに認められた。
「ラシャ?」
仲間が問うた。
恩人は、もう死んでしまった。ラシャは槍をぎゅっと握りしめた。
土地を取り返したかった? 亜人として認められたかった?
勝利も夢も手放した今、ラシャは本当の気持ちを悟っていた。
涼しげな錫杖の音を思い出す。
あの音と共に村で見いだされた時、ラシャは初めて救われた。だから――
「お前に報いたかったんだ」
ラシャは物言わぬ神官に呟いた。
やりきれない。
何もかも取り返しがつかなくなってから、本当の姿に気づく。
(俺は……)
悔いを抱いたまま振り返れば、見苦しい口論が見える。
薄暗い洞窟は、軍勢の縮図だった。
終始、計画の全容は謎に包まれていた。地下の亜人は、ラシャ達を利用するつもりだった。大鷹族といった亜人にしたところで、どこまで深く神官と話していたか。
それは互いに利用しようとし合い、瓦解した軍勢だった。
光の精霊という比類なき力が手に入る。神官はその先を望んでいるようだ。が、なに、精霊は我々で独占してやればいい――その程度の理解だったのではないか。
地下の亜人が聖堂の鐘に固執したのは、あれが心の力を集める装置だからだ。
公女と共に一つになった、ゲール人とは対照的だ。
――サビシイ?
そんな声が聞こえた。
ラシャは慌てて周りに目を向ける。
「大丈夫か?」
仲間が心配していた。頷き、目元を拭う。声は途絶えない。
――クルシイ?
視界の端に、光を見つけた。光はラシャに見つけられたことが分かると、嬉しそうに跳ねた。
瞬間、ごうと音がした。
耳に凄まじい量の声が流れ込んでくる。
にじむ視界に、ラシャは確かに生き物の姿を捉えた。
狼だった。光で象られた狼が、遠吠えでラシャを呼んだ。
(こんな、馬鹿な話が……)
皮肉の連続だ。なにもかも要らないと思った時に、手に入る。
「……同志よ。お前達は、もう行け」
ラシャは呻いた。白狼族は動揺する。
「何を言っている」
「逃げよう。連中を見ろ。もう、だめだ」
地下の亜人達は、完全に冷静さを失っていた。取っ組み合いさえ始めそうだ。
人間のものではない声を聞きながら、ラシャは言った。
「じきに追撃戦が始まる。誰かが、敵を食い止めねば全滅する。大陸で戦った白狼族が、全滅する」
「だからって」
「黙れ」
ラシャは吠えた。
自分の喉から出たとは信じられないほどの声量だった。空間全体が揺れたようだ。
地下の亜人達の口論も、鎮まっている。
「逃げたい者は、逃げるといい。いるのだろう、他にも」
黒いローブの何人かが狼狽した。優位を確信していた者ほど、命は惜しいものだった。
「止めはしない。代わりに、俺の仲間を頼む。聖壁の、外までだ」
耳が痛い。頭もだ。
自分のものでない思いが、心に入り込んでくる。そのくせ一緒に戦おうと、戦意だけは同じなのだ。
「……俺は残る」
ラシャは自分に言い聞かせた。
「この男は英雄だった」
マクシミリアンの死体に背を向ける。
「一人くらい、共に死ぬ男が必要だ」
そうすれば、あの世でも『友だった』くらいは言えるだろう。
亜人の聴覚が、ゲール人の声を捉え出す。いずれここにも敵が来よう。
追撃は悲惨だ。島でも何度も聞いてきた。亜人も、ゲール人も関係がない。逃げる背中を追う時こそ、獣の本性が現れる。
「さぁ、逃げろ!」
視界に光が満ちた。
ラシャは笑っていた。
精霊術師になる。
精霊と心を通わせることこそ、亜人の特性。あれほど望んでいた、紛れもない亜人の証明だ。だがそれを褒めてくれる男は、もういない。
(モノリス……)
この苦しさから帰ってきたのか。やはり、すごいやつだ。
ラシャは湧き上がる戦意に身を委ねた。




