1-8:水の虎(後編)
モノが目を覚ますと、辺りは池になっていた。ピチョン、と魚が跳ねる。どうやら川からやってきたらしい。
「派手にやったもんだ。ネボスケさん」
驚いた。半分以上水に沈んだ寝台の上に、オネが座っていた。
モノは目を瞬かせる。
一瞬、自分が外にいるのだと思った。けれど、壁や天井には見覚えがある。おまけに今いるのは、いつも使っている寝台だった。
家の中に水が流れ込んでいる、というのに気づくには、時間が必要だった。
「あの、これは」
「モノ、これがあんたの力だ」
え、と思った。猛獣の唸り声が、聞こえた気がした。でも姿は見えない。
「あんたは、もう私と同じさ。精霊を使う者。イファ・ルグエだ」
唖然とした。頭がぼんやりしている。サンティを目の前で殺されてから、全く記憶がなかった。
寝台のすぐ下は、水面だ。もう洪水と言っていい。
「……やれやれ。まだ夢か」
「起きな」
横になろうとするモノの耳を、オネが摘み上げた。
モノは恐る恐る、周囲を見回す。また魚が跳ねて、水音が起こった。
「……これ、私がやったんですか」
「ああ。あんたは水を自由自在にできるようだ。私が、火を操れるように。ただ、まぁ」
オネは苦笑した。
「ここまでとは思わなかったがね」
モノはへたり込んだままだ。
頭が現実についてこない。寝ている間に、全く知らないところへ迷い込んだ気分だった。
「君は、かなりの才能を持っていたようだ」
オットーの声がした。紫色のトサカのネズミが、木の板に乗って水面を漂っていた。
「魔術や奇跡と違って、精霊術の効果はかなり単純だ。水の精霊術師なら、水を操る。魔術師や神官のように水を氷に変えたり、水を生み出したりはできない。問題は、その操れる範囲だけど」
どこかで歓声があがった。モノは慌てて立ち上がり、窓の外を見る。
外は、もっとひどかった。大人の股の高さまで、水面がきている。戦どころではない。
でも、戦い合う音はあちこちから聞こえた。
「君は、ものすごく範囲が広い。村全体どころか、遠くの川からも水を引いてしまった。多分、小さい街なら、君一人いれば、治水担当者は失業するんじゃないかな」
「そんな」
目の前の惨状を、自分がやったと言われても、信じられない。
「あんたに向かって、水が流れ込んで来たんだよ。見張りを倒すには都合がよかったが、ありゃ、大変だったよ」
オネはモノを促した。
「試しに、操ってみな」
モノは言われた通りに、やってみた。精霊術師に憧れていた。オネのようになりたかったのだ。イメージは完璧だった。
ちょっと祈ると、水はその通りに動いた。一部分だけ盛り上がったり、へこんだり。水を取り出して、空中に漂わせることもできた。
(ええと)
ぎゅっと拳を握る。水球が小さくなった。力を込めていくと、水甕一杯分の水球が、拳大になった。
「えいっ」
力を抜くと、水球が弾けた。すごい音がして、水がそこら中に飛び散る。恐らく、人にぶつけたら昏倒するだろう。もしかしたら骨が折れるかもしれない。
「なんで、いきなり、こんな」
体が震えてきた。オネが応えた。
「サンティの死を、看取っただろう」
「はい」
「サンティが、あんたのために道を繋いでくれたんだ」
すぐには、意味が分からなかった。オネは懐から、パイプを取り出す。火をつけようとして、何もかもが湿気っていることに気づいたようだ。
「ああ、もう。……精霊術も魔術も、奇跡も、基本は同じさ。こことは別の世界の法則を、術者の周りに呼び出しているんだ。魔術や奇跡は、術者がそれをやるんだが。精霊術は、あんたのために尽くしてくれる精霊が、それをやってくれる」
モノは、段々と思い出してきた。
精霊とは、死んだ生き物の魂だ。一度死んで、別の世界へ行く。神様の家とも、もう一つの世界とも、解釈は神話によって様々。
けれど、結末は一つだけ。
特に力の強い魂、そしてこの世界との繋がりの強い魂は、死後の世界から帰ってくる。そして彼らを迎えた者に、特別な力をもたらすのだ。
(ということは)
モノは、さっき聞こえた猛獣の唸り声と、夢のことを思い出した。
「サンティ?」
答えは、すぐに来た。
水面が盛り上がる。ゆっくりと、巨大な虎の姿が形作られていく。ただし、それは透き通っていた。
月の明かりが、体を青々と照らす。水の虎なのだ。
「サンティの魂は、水と結びついた。モノ、あんたのマナが水に適していたんだろう」
オネは言った。
「今じゃ、サンティがお前の精霊だよ」
モノは、オネと同じ精霊術師になったのだ。水の虎を迎え、水を操る力を得た。
目の辺りがかっと熱くなった。堰を切ったように感情が流れ出す。もう一度会えた嬉しさもあった。だが、一番は違う。
「ごめん、サンティ」
合わせる顔がなくて、俯いてしまった。
「私、お前をほんとに殺しちゃったんだ」
冷たいものが、涙を拭った。サンティの舌だった。でかい口で腕を甘噛みされる。オットーが心底肝を冷やした声を出した。
「きっと怒っちゃいない」
「でも」
「モノ。起きちまったことは仕方がないよ」
ぐっと言葉に詰まった。
オネが帽子を取る。彼女の、猫の耳が露わになった。
「問題は、これからどうするかだ」
そのタイミングで、外から男が顔を出した。髭を生やした、屈強そうな男性だ。剣を持っていて、革の旅装をしている。
「フリューゲル公女シモーネ・モノリス様。改めて、ご挨拶を」
服が濡れるのも構わず、男性は膝を突いた。
「フリューゲル家、家令、パウル・フォン・ヘルマンと申します」
毒で倒れていた、大陸からの使者だった。すでに快復していたらしい。ヘルマンは、オットーのネズミを一瞥してから、話し出した。
「戦況をご説明します。あなたの水の力で、村の中に水が流れ込みました。そのため、敵は大砲を失い、混乱しています。また、捕らわれていた人々も、水で扉が壊されたことで、脱出し、再び戦いが始まっています」
モノは、慌てて頷いた。
「じゃ、まだ戦争が?」
「はい。敵戦力はそう多くないようです。敵も松明が消えて混乱しているでしょう。ただ、丘の上の本隊が、丘を捨てて降りてきています。少なくとも百名ほどの松明が、移動していました」
ふと、気になることがあった。
「確か、丘の上には大砲があったと思いますが。あれは、どうなったんです」
丘の上にまでは、恐らくは水は行っていないだろう。村を一望できるほどなのだ。
「そちらの大砲は、ご心配なく」
「え?」
「ハリボテだよ、モノリス」
オットーが説明してくれた。
「やられたよ。さっき、こっそり見てきた。白狼族にくっついてね。考えてみれば、密林で、あれだけ大きいものを短時間で山の上に展開できるはずもない。馬とか、牛とかで曳いて移動させるのが本当なんだ。昼間に見せられたあれは、ほとんどハリボテだったんだよ」
モノは、ほっとした。
「……ま、あの後、運んだのもあるだろうけどね。でも、あったとしても、一つか二つだ」
「おまけに夜です。村全体に水があります。連中の、延焼する弾も効果的とは言えないでしょう」
モノは頷いた。筋は通っている、と思う。大砲に感じた違和感も、これで解決する。
「オットー様、どうなされます」
「そうだな。僕としては、このままじっとしているか、騒ぎに乗じて村から逃げることを勧めたい。危険は避けてほしい」
恐らく、オットーの言葉は正しい。
二人へのわだかまりはあったが、彼らがいなければモノもオネも危なかったのだ。少しは信用する気になっていた。
(でも)
モノを求める敵は、そのままだ。水害を起したこともある。ここでずっと震えているべきではない。
モノ自身が、そんな自分は嫌だった。
「いいえ」
気づくと、モノは口を開いていた。頭はぐるぐる回っている。怖さもある。
だからこそ、モノは勇気を奮い起こした。
「お兄様」
モノは、オットーをそう呼んだ。
「このまま、何もしなくていいんでしょうか」
「……モノリス?」
「だって」
モノは言った。
猫の耳は、周囲の歓声を聞き取る。山猫族が逆襲に転じているのだ。
水害だというのに。不毛な殺し合いになっているのは、音と臭いで明らかだ。
「こんなの、嫌ですよ」
モノは泣きそうになりながら言う。ヘルマンとオットーが、顔を見合わせた。オネが苦笑した。
「だろうと思った。でも、そもそもの人口が、白狼族と山猫族じゃ、私らに分がある。大砲と、神官のおかげで相手に有利が付いたんだ。放っておいても、時間をかければ……」
「いいえ」
「なぜだい?」
モノは言葉に詰まった。決意はあっても、それを説明する理屈は、なかなかつかない。
オネが、思い出したように言ってくれた。
「……そう言えば、平和週間に入ったばかりだね」
「え? は、はい」
「この時期の平和週間には、理由がある」
モノは、はっとした。次に、青くなる。モノは歴史を教わった。こういう戦争が――混戦となり止め時を逸した戦争がいかに危険かは、十分すぎるほど知っていた。
「イモです」
モノはこの戦争が危険な理由を話した。最初は不思議そうに聞いていたオットーだが、やがて目を丸くした。
ヘルマンも驚いていた。だがやがて、小気味良さそうに口元を歪める。
「殺し合いが長引いたら、白狼族も山猫族も、もっともっと、たくさん死んでしまいます」
それも、戦争の後に。
モノは請うた。
「お願いです、知恵を、貸してください……!」
モノは自分の居場所は自分で作ってきた。乱の原因になったのなら、乱を鎮めればいい。
それこそが、モノのやるべきことだった。
オットーは天を仰いだ。ヘルマンが立ちあがり、数歩前に出る。
「本当に、よく似ておられる」
もう一度、跪いて、恐らくは心からの礼を送った。
「フリューゲル公女の御随意のままに」
公女と呼ばれた瞬間、モノは眩暈がしそうだった。
◆
モノはサンティに騎乗した。水の虎となったサンティは、水の上を走る。水位が上がったことで、サンティは地面よりも随分と高い位置を進むことができた。
だから、簡単に屋根に飛び乗れた。モノとサンティは、屋根から屋根へ飛び移って動く。
その後を、ヘルマンが走って着いてきていた。病み上がりのせいか、息は荒い。聞けば、彼はモノを監視していた白狼族と戦っていたということだ。だから最初、外にいたのだろう。
「敵の本隊は、あれでしょう」
ヘルマンが、丘から降りてくる松明の群れを指した。
密林の中を、火を持って通過することを避けたのだろう。別方向の岩場から、まばらに降りてきていた。
「あんなに」
二百名はいるだろう。どうやら丘の上を維持するのではなくて、あくまで村を占拠したいようだ。
「整理しましょう」
「は、はい!」
「緊張せずに。まず目的は、停戦させること。それも、できるだけ早く」
「はい」
「では、狙うべきは頭です」
ヘルマンは自分のこめかみを指さした。
「長を捕えてしまうのが、最も確実かと思われます。長が戦いの命令を下す限り、戦争は終わりません」
ヘルマンの助言である。オットーが慌てた。
「ら、乱暴だな」
「……遠くから、事情を話して、停戦を呼び掛けてはだめですか?」
「おそらく無駄でしょう」
ヘルマンは首を振った。
「戦う気があるから、降りてきているのです。具体的な動揺がなければ、退くことはない。亜人の戦士とは、そういうものです」
モノは言葉を飲み込んだ。ヘルマンが信頼に足る武人だというのは、短い時間でも察せられた。これは、戦争なのだ。
(戦わないために、戦わなくちゃいけないってことか)
モノはぎゅっと脇に吊った短剣を握る。
「やめますか?」
「いえ、続けてください」
「課題はまだあります。すでに混戦となっています。長を捕え、首尾よく混乱に持って行っても、停戦を伝達することは容易ではありません。なにか、具体的な連絡の用意はありますか?」
モノは言葉に詰まった。幸い、思い浮かぶものはある。
「た、太鼓はどうでしょう」
「太鼓、ですか?」
「はい。停戦のためのリズムが、氏族で決まってます。敵の長なら、それを知っているでしょう。長から停戦のリズムを聞き出せば、争いを止められます」
山猫族の停戦のリズムは、オネが知っているはずだ。彼女は村の有力者なのだ。
白狼族と山猫族、双方が停戦の太鼓を叩き合えば、慣習に従って戦士達は戦いを止めるだろう。モノのような獣の耳にとって、太鼓の音はどうしたって聞き逃しようがない。
「しかし、敵の長が素直に教えるかな」
「そ、それは……説得してみせます」
ヘルマンが目を細めた。潮目を読む老練な漁師のような顔だった。
「どうだい、ヘルマン?」
「オットー様。若干の不確実性はありますが、止むを得ませんな。最後の問題は、手段。どうやって敵の長を捕えるかを、考えなければなりません」
モノは腕を組んだ。
村の地形。モノの力。オットーやヘルマンの助力も含めて、考えてみる。
猫の耳がぴくぴくと動き、夜の風の動きをできるだけ感じ取ろうとした。
(こんなこと、初めてだけど)
それでも考えた。
屋根の上から見渡す、慣れ親しんだ風景。
魚を買った市場。隠れた友達を探した裏路地。お気に入りだった店。広場の日時計の塔は、登ると海まで見渡せたものだ。
島で過ごしてきた十年は、モノの中に逆境へ立ち向かう強さを育んでいた。
「これは、動物のための罠でもそうなんですが」
モノは、提案してみた。
転がっていた白墨の石で、屋根の上に図を書いていく。
「この辺りの路地が広いですよね? 村の中心でもあります。だからですね、一時的にこうして。ここまでおびき出して」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
オットーが慌てた。
「君はそこまで精密に、水位を操れるのか?」
え、と思った。だが言われてみれば、その通りだ。
いつの間にか、自分の体の一部のように水を感じていた。ごく当たり前に、『そうできる』と思えたのだ。自分の指を動かせることを、疑わないように。
自分がまったく違う存在になったみたいだ。
「た、試してみます」
人がいない路地に向かって、祈ってみる。潮の満ち引きのように、水位が上下した。もう少し時間をかけて念じれば、完全に水が引くだろう。
「大丈夫そうですね。もっとやれそうです」
思えば、モノは昔から水には強かった。
ヘルマンを滝つぼから救出した時も、そうである。雨の気配に敏感だったし、モノが入水すると流れはいつも緩やかになる。無意識の内に、今の力の先触れを使いこなしていたのかもしれない。
オットーのネズミが、人間顔負けの仕草で天を仰いでいた。
「……君は、あれだな。後で学院の教科書に載るぞ。目覚めてから僅かな時間で、すでに二桁近い数の記録を塗り替えてる。いや、でも、まぁ、できるならいい。このまま限界に挑戦するとしよう」
「しかし、目くらましが必要ですな。夜討ち朝駆けといいますように、相手の混乱に拍車をかけるには、視界を奪うのが最も効果的です」
目くらまし。モノにすぐ考え付く方法は、二つあった。
「水を空中で拡散させてはどうでしょう。滝つぼには霧が生まれます。水を細かくして、まき散らせば、濃霧のようになると思うんです」
「できるかい? 精密な操作は、得手不得手があるんだ」
オットーに問われて、モノは試してみた。水を空中に漂わせることは、さっきできたのだ。
(細かく、細かく……あれ?)
問題は範囲だった。大きな部屋くらいの広さだったら、かろうじて『霧』と呼べるものは作れそうだった。けれど、これでは白狼族を混乱させるには遠い。試行錯誤や練習ができるゆとりはなかった。
「も、もう一つ、方法があります。こっちはオネの力を借りましょう」
「オネの?」
「はい。火の蝶と、私の水を、組合わせればいいんです」
オットーが感心した。
「蒸気か、なるほどね」
かくして、作戦は決まった。
猫とネズミと老戦士で、育った村を救うのだ。