4-39:暗闇の外へ
気がつくと、モノは明るさを感じた。
目を刺すような、きつい光ではない。ぼやけた視界で感じるのは、緩やかで、優しい光だった。
モノは慎重に、猫耳を動かした。
水の音がする。自分以外には、呼吸の音はしない。
念のため、そうっと猫耳を地面に押し付けてみた。足音はない。付近にいるのは、本当にモノだけのようだった。
(助かったの……?)
頭がずきりと痛んだ。
夢のような世界を彷徨っていた気がするが、今ははっきりと草の匂いがした。
(戻ってきたんだ)
だんだんと目が慣れてくる。様変わりした地下の様子に、モノは驚いた。
「遺跡が……壊れてる」
天井が至る所で裂けていた。落石が草木を押しつぶしている。
裂け目からは陽の光が差し、水が滝となって流れていた。
差し込む光に、地下本来の青白い光が混ざり、辺りは昼とも夜ともつかない色に染まっている。不思議な景色に、モノは息を呑んだ。
(どこからきた水だろう?)
高い天井を見上げて、首をひねった。
流れてきた水は、すでにモノの足下にまで迫っていた。裂け目の下では、陽光を照り返して、日だまりのようになっている。
辺りに散った落石の大きさに、モノはぶるりと震えた。
光の精霊が、天井を突き破ったに違いなかった。
(早く出ないと)
また光の精霊に捕らわれでもしたら、大変なことになってしまう。
ここは敵にとっても、重要な場だ。絶対に取り戻しに来る。モノが一人でこの場を占拠できるとも思えなかった。
「サンティ」
おそるおそる呼ぶと、溜まっていた水が逆巻いた。
盛り上がり、うねり、たちまち四本足の巨体を象る。
現れた水の虎は、モノに深く頭を垂れた。
「行くよ、乗せて」
立ち上がろうとして、腰が落ちてしまった。ひどく疲れている。
サンティが気を遣って、腹ばいになってくれた。
「いい子だね」
軽く頭をなでてから、モノは命じた。
「さぁ、出口を探そう!」
モノは、しばらくこの空間を見て回った。
地面の草木のせいで見通しはよくないが、広さはきっと宮廷の庭ほどもあるだろう。密林を歩く要領で、モノは木々に短剣で目印を付けながら進んだ。
やがて、モノは椅子が並んだ場所を見つけた。
「椅子だね……」
あちこちに椅子が遺されていた。数えてみると、十七あった。そこに、朽ち果てた亜人達が座っている。光の精霊を呼び出す前までは、微かに息を感じたものだが、今はどの人も死んでいた。
きっと光の精霊の出現に、願いの成就を感じたのだろう。彼らを現世につなぎ止めていた、最後の金具が外れたのだ。
モノは一つだけ、空席となった椅子を見つけた。
(もしかして、エゼノのもの?)
モノはほどなくして、席の主を見つけた。
マクシミリアンとエゼノが、それぞれ倒れている。
気を失う前には二人とも、モノの近くにいた。光の精霊となったモノは――ぞっとすることだが――意識のないまま、移動したのだろうか。
神官は天を仰いでいた。安らかな死に顔だ。エゼノも、かつての悪鬼のような形相が嘘のように鎮まっている。
(マクシミリアン……)
心にさざ波が立った。
サンティが唸る。モノだって、大陸も島も、荒らして回ったこの男に、憎しみを感じないではなかった。
それでも、モノは立ち止まって、安息を願うことにした。
島では、密林に埋めて葬られるのが一般的だ。大地に還るのが、亜人の作法。悪い人は、『悪霊の森』と呼ばれる罪人用の穢れた土地に葬られるか、木に吊されてしまう。
祖先を感じられるこの地で眠ることは、エゼノにとっては本望だろう。
「……お兄様」
近くには、オットーのネズミの遺骸もあった。
地面に降りる。くるぶしまで溜まった水が、靴の中に染み込んだ。
モノは手で、ネズミを撫でてやった。
「ありがとう、ごめんなさい、お兄様」
押し込めていて感情が、噴き出た。涙がにじむ。ぽろぽろと溢れて、口を結んで必死に耐えた。
サンティがなめてくれなければ、いつまでもそうして泣いていただろう。
「に。お兄様、また戻ります」
そう言って、無理にでも心を切り替える。気がかりなことは、他にもたくさんあった。
(島は、どうなったんだろう)
遠くの出来事は、もはや確かめる術はない。全世界の心を感じられたあの感覚は、とうに消えている。
信じるしかなかった。
オネがモノを信じたように。今は立ち止まっている時じゃない。
「行こう」
モノは空間の外周沿いを見て回ったが、外への道は分からなかった。天井に大穴が開いているせいか、うまく外へと逃げる風を感じられない。
残した目印を辿る内に、モノは最初にいた場所へ戻っていた。
天井にできた裂け目の下に来ると、微かに鐘の音がした。
(ここから、出れるかな)
水の精霊術師として、水の気配を感じてみる。すると、割れ目の先に、さらに大きな水たまりを感じた。流れはなく、溜まっている水だった。
(運河……? 違う、池だ)
水路の地図を思い出した。
確か、地下の遺構――祖先の穴の中心部は、宮廷の直下だったはずだ。
(この先って、ひょっとして、宮廷の池……?)
モノが皇帝と密会した、あの聖堂があった場所だった。
裂け目を一つ一つ検分すると、モノとサンティが通れそうなものが一つだけあった。
サンティが頭を振った。
「うん、そうだね。ここから、出よう!」
足下に水を集めた。地面から水の柱が伸びてきて、支えてくれるイメージだ。
脱出の間際、元いた場所を振り返ると、ゆらりと精霊の気配があった。薄闇に差し込む光は、マクシミリアンが言ったように、手ですくい取れそうなほど濃密である。
「……どうしたの?」
呼びかけても、彼らは反応を示さない。
光の精霊――光を媒介にして現れた堕精霊は、モノによって鎮められた。堕精霊として荒れ狂う心の力がある一方で、正反対の、温かい心の力も存在した。
あの薄桃色の空間で、ため込まれていた怒りや憎悪は、同じようにため込まれていた正反対の感情で溶かされた。
ちらちらと輝きが生まれ、一瞬だけ、いくつもの動物の影を映し出す。
(狼だ……)
見送るように、狼の魂は遠吠えを放った。
モノは、精霊をこの穴の中に残しておきたくはなかった。今なら、まだ新たなる精霊術師の元へ飛んでいけるかもしれない。
「いっしょに来る?」
問うてみたが、反応はない。今は諦めるしかなさそうだ。
「また帰ってくるから!」
水の柱は高さを増していく。視界が高くなる毎に、光と風の気配が増した。
鐘の音と、モノを呼ぶ声も高まってくる。
(この匂い)
宮廷の、バラの香りだ。
モノは気持ちを抑えきれなくなった。水の柱が勢いづく。
突き上げるような上昇で、岩盤の隙間を駆け抜けた。
視界に、夏の陽が満ちた。
帝都の池から、水の柱が吹き上がる。
モノは水に乗ったままさらに上昇し、帝都を見下ろした。外の風が耳を揺らす。モノは外へ帰ってきたのだ。
――グオオ。
虎の咆吼が轟いた時、微かに、大聖堂の鐘楼から炎が吹いて応えてくれた気がした。
ただいま、とモノは世界に向けて手を振った。
◆
「ここにいたか」
運河で、ラシャは声をかけられた。なまりのある言葉で、地下の亜人だと分かる。
振り返ると、ボロボロになったローブをまとった亜人がいた。ラシャ達のように運河に飛び込んだのだろう、服の端からは水がしたたっている。
男は口元を引きつらせた。亡者のような、陰惨な笑みだった。
「お互いやられたな、手ひどく」
「……ああ」
ラシャが応じると、亜人は辺りを見回した。
「お前の槍はどうした?」
地下の亜人は、もはやおざなりな礼儀も捨てたようだった。
ラシャは、目線で地面を指す。愛用の得物は、まだ転がったままだ。
「よし」
地下の亜人は、頷いた。
「ならば来い」
ラシャはうつろな目で、何の反応も示さなかった。白狼族の仲間も同様だ。
もはや大勢は決している。
神官も含めて、亜人達は負けたのだ。
黒いローブは苛立ちを見せた。
「聞こえぬか? 地下へ戻るぞ」
「行ってどうなる」
けだるく返したことも、後悔した。会話自体がおっくうだった。
「我ら亜人の、中心部だ。そこに神官殿もおられるはずなのだぞ」
神官。
その言葉が胸を突いた。ラシャを島から引き揚げ、大陸での戦いを経験させてくれた神官には、まだ恩のようなものを感じていた。
(地下。ならば、まだ、生きている目はあるか……)
思ったが、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
生きていて、どうなる。もはや敗北は決定的だ。
亜人学派は三千人という規模で始まり、数万の軍勢を擁する帝都に挑んだ。
作戦の要は、常に裏をかき続けることだ。聖ゲール帝国が巨人だとすれば、懐に入り込んだラシャ達は小さな魚だ。股の下をくぐり、指の間を抜けることで、生き延びて決定的な機会を作った。
全てを賭けて挑んだ以上、次はない。巨人は捕まえた小魚を、握り潰してしまうだろう。
「ラシャ。どうする?」
白狼族の仲間が尋ねた。
こんな有様でも、まだラシャを氏族の頭だとみてくれているようだった。
「減ったな」
思わず、呟いてしまった。
「うん?」
「白狼族よ、何人残った?」
仲間達は顔を見合わせた。
「……もう、この三人だ」
「大鷹族と一緒に、退いたやつらが生きていればいいが……」
震える声は、現実の厳しさだった。
そうだ。もうそんなに減ったのだ。
島から、二十余名の戦士を連れて揚々と参戦した。今は、仲間は二人にまで減っていた。
(それでも――二人は残ったか)
ラシャは息を吐いた。
俺は弱い。強い戦士ではなかった。
それでも、人を率いた者として、最後にやるべき仕事くらいは、残っているはずではないか。
「生きたいか?」
ラシャは訊ねた。
「生きて島に――故郷に、あの魔の島に帰りたいか?」
極彩色の仮面達が、揺らいだ。槍と剣がぶらりと下がる。
やがて、恐ろし気な仮面は外された。白狼族にとって、それは祖先を象るしるしだ。
「……ああ」
「帰りたいよ」
ラシャは頷いた。
「承知した」
連れて来た氏族を、生きて逃がす。
ラシャはそれを、己の最後の使命とした。神官の安否を確かめ、仲間を逃がす。そのためなら、この体でもう少し戦うのも悪くない。
「地下の同胞よ。この下には、帝都外へと通じる抜け道がある。そうだな?」
地下の亜人に、そう念押しした。
嘘は言わせないつもりだった。
ラシャ自身も、地下の亜人に手引きをされて、抜け道から帝都へ入った。同じ穴を使えば、外へも出れるはずだ。
「……ある。光の精霊が、落盤を起こしていなければ、だがな」
「ならば、互いに祖霊に誓おう」
ラシャは槍を拾った。
石突きを地面に当て、人差し指を地下の亜人へ向ける。
「俺は最後まで戦ってやる。が、退路も教えろ」
地下の亜人は表情を歪めた。逃げるつもりか、と目で罵っている。
ラシャは不思議な気分になった。
少し前の自分なら、地下の亜人と同じ考え方だろう。今はむしろ、この状況で諦めない地下の亜人達が不思議だった。
「その様子だと、お前も最後まで戦うのだな」
「当然だ!」
亜人は叫んだ。黒いローブを外す。
仲間の白狼族が、呻いた。
褐色の肌に、獣毛を持ってはいたが、地下の亜人は驚くほど皺だらけだ。声からして、もう少し若いと思っていた。
地下に長くいたせいか、体に変調をきたしているのかもしれない。
「五十年だぞ。父の代から、延々、延々と、地下の世界に隠れていた! もはや、待てん……!」
最後は泣き言に近かった。
「もう、待てんのだ……!」
ラシャは亜人を見詰めた。焼き付くような怨恨に当てられても、不思議と、心は落ち着いている。
「亜人がいるぞ!」
運河の岸から声が飛んだ。ゲール人の兵士がラシャ達を発見していた。じきに応援が来て、囲まれてしまうだろう。
地下の亜人は、歯を食いしばった。
「約束はのむ。とにかく来い」
ラシャ達は地下へ入った。
神官が無事かどうか。ラシャは再び師の声が聞けるよう、神に祈った。




